>>219
定義できないものは議論できない。それは定義したくないという力が働いているため。

定義するということは、その存在を認めることであり、
定義せよというは、その存在が自分にとって不都合である、ということにほかならない。

よってかりに、反日の定義をするなら、その定義自体を認めたくないところにある、といえよう。

純文学を否定するは、日本人の中に眠る伝統的な、情緒的で、繊細な、日本人の感性、を、否定することである。

ではなぜそれを否定したいか?

それは対象物の特徴が「日本」または「日本人」であるからである。

小林秀雄の発言「純文学などは日本でしか通用しない方言」は言い得て妙である。
まさに「方言」なのである。方言であるからこそ、この国の民族性に属しているのである。

だが純文学を愛する者に国籍は問わない。誰であろうと構わない。

ここでは「誰」が問題でなく、「どこぞの誰か」が問題なのである。
日本を否定したがる者、また日本を否定する教育を受けてきた者、
そういった者に日本の純文学や日本の大衆文学を語ることは不可能である。

彼らの劣等意識が日本の文学を語る場合、それは憧れの裏返し、つまり恨みである。

「反日」とはずばり「恨み」であり、日本に恨みをもつ者が「反日」なのでR。