純文学と大衆文学(通俗小説)の違いって何? [転載禁止]©2ch.net
芥川賞・・・純文学
直木賞・・・大衆文学
らしいけど、
純文学と大衆文学(通俗小説)の明確な境界線ってあるの?
>>231
お前みたいな国賊がそんな事を言う必要はないだろ。お前が田舎に帰れ。 日本の国際的評価を貶めてるお前みたいな人間は日本に必要ないの。お前は日本に全く必要ないから、どこか遠い所に消えろよ。 スレの趣旨にそむく話題をどうどうと続けるのは
人の畑を踏み荒らすも同然 まとめて失せてください 在日がどうこうとか言ってる人は>>222で続きをやろう。 無理無理。在日に朝鮮に帰れといっても無意味なのといっしょ。 「在日に朝鮮帰れと言っても無意味」って、具体的にあなたは何が言いたいの?意味があるのは在日が朝鮮に帰るという結果だというのがあなたの立場なの? 要するに在日は半島に帰るべきだというのがあなたの主張なの? 横だが、レイシズムだなんだと喚いているうちは正しい評価は下せないよ。
日本人に人種差別の意識は皆無。日本人ならわかるはず。
逆をいえば日本人じゃないからそれがわからない。
純文学は日本特有のもの。それを権威主義だなんだと喚くのもお門違い。日本人ならわかるはず。
歌詠みに権威などないし、日本人が歌を詠んだり俳句を嗜むのは、日本人の心がそうさせているだけ。
純文学も同じ。権威ではないし、あえて難しいことを書きたいわけでもない。
在日作家の純文学はどうも意識の根底にある被差別意識が感じられる。
在日は帰化するか、帰化しないのなら他の外国人と同じ扱いにすべきだろう。
たとえば「保育園落ちた日本死ね!」は在日らしいが、この発言は許される。
しかし、この発言をするなら、
東京都が保育園をつくらずに韓国人学校をつくるというのにも反対の声をあげるべき。
でなかったら「保育園落ちた日本死ね!」が、たんなる日本にたいする誹謗中傷にすぎない。
こういったことこそが在日問題のいちばん厄介なところ。
ようするに純文学を語る場合にもバイアスが入ることを意味している。 >>242
他のスレでも書いたと思うけど、「差別意識がない」ことは「人種差別をしていない」ことにはならないんだよ。スレ違いなので続きはここ↓で。
文学板でレイシズムについて議論しよう vol.1 [無断転載禁止]©2ch.net
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1457108480/ >>243
>他のスレでも書いたと思うけど、「差別意識がない」ことは「人種差別をしていない」ことにはならないんだよ。スレ違いなので続きはここ↓で。
他のスレでも書いたと思うけど、人種差別していなくても、「人種差別している」とゴリ押しができるんだよ。
人種が違えば、人種差別を受けた、と言えてしまう。まずここ。在日の問題はまさにこれ。
もし人種が同じなら、差別的な扱いを受けても、これが現実の厳しさだ、と当たり前のこととしてスルーされる。ここの認識も大事。
そして、人種差別の被害者を演じることでお金が入ると思っている者たちがいる。だから、人種差別はなくならない。
わかりやすくいうと、人種差別のあるなしなど最初から問題じゃないんだよ。
金儲けのネタに使われている事実があるってこと。
金がもらえるから、特別扱いされるから、特権が与えられるから、ということで、
人種差別がある、酷いことをされた、強制労働された、謝罪しろ、賠償しろ、となる。
同じように戦時中に酷い目にあった日本人はどうなんだ?
人種差別だ、レイシズムだ、と叫ぶことがいかに汚いか、もっと自覚したほうがいいだろう。 >>244
ここでその話を続けるのは確実に荒らしでしかないんだけど。 大衆文学は娯楽性とかメッセージ性重視
純文学は文芸技法 幼稚園に付属の保育施設、クラスを作って待機児童を受け入れたらどうか。 思いやり予算は米軍に払わずに、全額日本人の子供のために使うべき。 そうすると米軍は日本から撤退する。
フィリピンから米軍が撤退したら国土の一部が中国に侵略された現実を鑑みると、
日本も沖縄の一部は中国に侵略されるだろう。
現実的には尖閣諸島は中国軍が実効支配し、
その付近では盛大に中国の海洋資源の開発が行われるだろう。
また今以上に中国船による乱獲漁業が始まる。
以前、日本の領土から大量の高価な赤珊瑚が中国船によって奪われたように、
日本の漁民はまたぞろ莫大な被害を被るだろう。
そして、国際的な批判をかわすために中国による歴史修正が行われ、
話し合いで紛争を解決するためにと、互いの歴史認識の議論が交わされるのみで、
中国の実効支配が続くであろう。
日本の子供たちはそんな日本国を受け継ぐことになるであろう。 自衛隊は優秀だが、法律がザルなので、行動を起こすことができない。
紛争地帯に派遣された自衛官が制服を脱ぎ、個人的に一般人として作業に当たることがある。
なぜなら日本の法律に認められていないから。
安保法案によっていくぶん緩和されたが、それでも日本の自衛隊は手足を縛られている。
自衛隊がふがいないとしたら、国民がそうさせているのである。 北朝鮮による拉致の現場らしきものを見て、
もしかしたらあの船の中にさらわれた日本人がいるのではないか、
というのが過去にあったらしいが、
日本の領海から出ていく船を見守ることしかできなかった。
法に縛られて何もできない自分たちの不甲斐なさを知る。
竹島に朝鮮人がやってきて占領したときも、日本の漁師たちは死傷したが、
日本の自衛隊は何もできなかった。
今まで平和だったから安保法案など要らないという者たちは、
そういった現実から目を背けている。
自分たちが平和を享受していれば、少数の犠牲者はどうでもいいのだろうか。
無知は罪である。 >>252
>無知は罪である。
「個別的自衛権」って知ってる? 自衛隊が武器を持たぬ限り行動は素軽い。
竹島はいらない。中国に譲ればよい。
北朝鮮は中国からはいれる。何なら国交復帰させよう。 僕はそれでもいいけど、中国に竹島を譲る必要はないし、北朝鮮と国交を結ぶべきでないという意見は理解できる。共産党ですら「竹島は日本固有の領土」と言っているし、少なくとも金正恩政権は打倒すべき。北朝鮮の人民のために。 >>254
例えばさ、北野武は「俺は映画観てない」とか言ってるけど、実際はめちゃくちゃ観てるんだよ。 勝てませんよ。キム将軍の息子会ったけど無敵。極東の
辺境の弱小国が夢を見るべきではない。 日本と他国の戦争の勝率の差知ってる?正確に換算すると日本は一割未満。 でも「金正恩死ね」とか思うよね。北朝鮮の人民の人権を守れ!! 僕は北朝鮮から密かに持ち帰られた映像の中に、幼い子供が道に落ちたものを拾って食べているシーンを見つけた。僕は絶対にそんな光景を許容しない。 >道に落ちたものを拾って食べているシーンを見つけた
懐かしいかつ進んだ文化だ。
相手が死ぬと思うことはカッコ悪いよ。 北朝鮮のすべての子どもたちが食卓でご飯を食べられる事を願っている。 マンコのことを
きれいなぼかした表現で表すのが純文学。
はっきり「オマンコ」とか「蜜壺」なんて書くのが大衆文学 純文学ではそんな語彙は必要ない。
和歌にそんな一首があるか? ないだろボケ。朝鮮人が日本の文化を語るな。 >>269
お前、日本の文化について、何か語れるほど知らないだろ? >>269
>268の例えも下品だが民族差別主義者はネトウヨ板にでも行って帰ってくるな。 >>271
横だが逆だ。おまえ自身が朝鮮人にたいする差別意識をもっているから、>>269を民族差別と感じる。もし
「日本人が朝鮮の文化を語るな!」
というレスがあった場合、日本人にたいする差別となるだろうか? いや、ならない。つまり、
このレイシストめ。失せろ。
おまえみたいな恥さらしが日本語を使うな! 日本語が穢れる。 >>272
横だが、「朝鮮人が日本の文化を語るな」とか言い出すのは、後で何をほざこうが差別的発言でしかないだろ。ネトウヨ星に帰れドアホが。 >>273
横だがそれは朝鮮の文学を知らないセリフだな。この無学無教養め。
日本の純文学と違って朝鮮の文学は性器の羅列だバカ。 文学板にもネトウヨがいるとは知らなかった。
こんな奴らは無職のくせにヘイトスピーチだけは一人前なんだろな。
もう二度と来るな。 「ネトウヨ」発言をするのは在日男か韓国人と結婚した女らしいが?
そもそも日本にネトウヨなんて存在しないよ。存在意義がない。 >>274
性器が出てこないと高尚なの?文学を知らない限り決して言えない台詞だな。 >>277
純文学は純粋な文学を意味し、いわゆる美的情操。美に反するものは純文学にあらず。
文学と純文学をゴッチャにするな。 >>278
純文学ほどチンコマンコがダメだということ? >>279
芸術と同じ。裸体の美しさそのエロティシズムは純文学に値するも、扇情的なチンコマンコは純文学を騙る不逞の輩のエセ文学いや糞学。 「山手線内回り」
柳美里
女は便器に腰をおろすと、タイトスカートを臍の上までまくりあげ、パンツをふとももまでずりおろした。緊張が内に籠っているようなおまんこを右手におさめ、右手の上に左手を重ね、最初はそっと、徐々にこねるように、
そしてなか指をクリトリスに押しつけて左右に強く――、快感がせり出し、おまんこがじんわりと熱くなってくる。おまんこっていってみな、いわないとちんちんしゃぶらせてやんないよ、とかいうヤツがけっこういたけど、ザーッツ・オーライ!
何度だっていってやる。おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこ、
歯を立てて根もとから食い千切ってやる! ごっくん、ちんちんはのどちんこをするっと抜けて、勃起したままのたうつように食道の奥へとすべり落ちて……おまんこ! フラッシュを焚いたようにぱっと飛び散った光が急速に萎えて真っ暗……
かぶと虫の終齢幼虫の死骸みたいに黒ずんでぶよぶよになったちんちんがフラッシュバックして……吸ってぇ、すぅ、吐いてぇ、はぁ、吸ってぇ、すぅ、吐いてぇ、はぁ、痺れた脳に酸素が戻ってくる。
背中を丸めて股間を覗いてみると、おまんこはぐちょぐちょ。もっとからだが柔らかかったら、擦り剥いて赤チンを塗った膝をふうふうやるみたいに、濡れたおまんこをふうふう乾かしてあげられるのに……
女はゆらりと立ちあがった。センサーが作動して水が流れた。ねばついている指をグーにして〈開〉の青ボタンをパぁンチ! >>284
朝鮮文化というのがなぜバカにしたことになるんだ? >>286
当然、日本の純文学をリスペクトしている。 >>1
芥川賞→作家として活動しているが世間に埋もれて日の目を見ていない無冠におくる賞
直木賞→作家として世間に認知されている売れっ子だがベストセラーまでには届かない中堅におくる賞 >>281
これはどういう意図で引用したの?純文学の表現例として? そもそも文学って何よ? なんだか知らないがソレが純も不純もあるものか。
阿保な区別だな(冷笑) ふと思ったんだけど笑いの温度を書き分けることじゃないかな。 文学なるものが仮にあったとて、オレにとって、それは面白いか面白くないか
のどちらかさ。「純」だと! 「大衆」だと! バカじゃないか。 どちらが上とか下とか言うのはアレだけど読者が受け取る感動の質にも差はあるでしょ
大衆文芸は既知の情感を刺激し感動を与えてくれる
純文学は未知の何ものかを示して読者を揺さぶる
その未知なるものが人々に認知されて浸透すると次代のスタンダードになって
大衆文芸でもその手法が広まり読みやすく完成度の高い作品が書かれる >>295
何だか、よく理解できない理屈だな。
貴殿の理屈は、そもそも初めから『純文学』と『大衆文学』の存在を
前提にしている理屈で、オレは、其れを所詮認めないのだよ。
しかし、一歩ゆずって、『大衆文学』なるモノが初めからあった
として、その『文学』が、貴殿の言う『未知の何ものかを示して読者を
揺さぶる 』ことがあるのは現実に有りえるコトではないか?
(ここで、いわゆる「大衆」についても、これも厳密な定義が必要だが)
もし、そうだとすれば、その「大衆」にとって、そのとき読んだ「文学」
は貴殿の定義によれば『純文学』となるのではないか。
従って貴殿の理屈は破綻しているように見えるぞ。 /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
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https://www.youtube.com/watch?v=dFj6B-dIKY8 横だが、
小説のみで考えるからアホぬかすんだよ。
日本の純文学とはそもそも和歌だ。百人一首くらい知っているだろ。
歌の世界には人間の情操つまり高いレベルの複雑な感情が表現されている。それが純文学。
そういったものを小説で表現したのが純文学の小説。
で、支那人朝鮮人を芥川賞作家にするもんだから日本の純文学が廃れてきた。
下品なエロは大衆小説、大衆文学という位置づけでいいのにな。 和歌が宮廷人のお遊びだったように、純文学は精神的に高貴な人間の世界。
純文学が上で大衆文学が下というのは感覚的に理解できる。
しかし、貧乏人でも精神が尊いならそいつには純文学はふさわしい。ま、いわゆる清貧というやつ。 >>299
これも分からん理屈だな。要するに定義だけの問題だな。
貴殿の言う『人間の情操つまり高いレベルの複雑な感情が表現されている』
ものは何も百人一首に限るまい。「大衆」の文章にも、その「人間の情操」
とやらが無いとは言えまい。してみれば、その文章は「純文学」となる
ではないか。貴殿の理屈も破綻している。
要するにオレの言いたいことはこうだ。
ここにAとBなる2つ「文学」があったとして、お偉いさんたちが、勝手に、Aは
「純文学」だ、Bは「大衆文学」だと、のたまっているだけのことさ。
お偉いさんとは何を指すか言わなくも分かるだろう。蛇足すれば
つまり「権威者」さ。
少なくともオレには、AとBの区別は、面白いか、面白くないか、
そのいずれかさ。「純」も「不純」も、へったくれもない。お偉いさんが
どう評価しようが、オレの知ったことじゃぁない。
貴殿が、それは違うと言うなら、つまりは見解の相違だな。
ついでに言えばノーベル賞とやらもオレは大嫌い。こんなもん、ただの
お祭りさ。いわんや芥川賞。つまらん世俗のお遊びよ。 >>300
『純文学は精神的に高貴な人間の世界』。『清貧』
さようでございますか。こちとらにとっては莫迦莫迦しい戯言でござんすよ。
まぁ、これも見解の相違だな。 以上の此の話題は下らないからやめるぜ。 >>301
いや、限っているよ。
ようは何がメインかで決まるんだよ。
ここ重要だから、反芻してしっかり理解しろよ。
たとえば、人間の社会では、どんなものにも人間が出てくる。
だからといってみんな同じジャンルかといえば違うだろ?
人間が出てくる。それは百人一首に限るまい。
だからAVも百人一首も同じだ。
というのが、おまえの理屈。おまえの理屈が破綻しているんだよ。まずそのことに気づけ。
それに気づけないようなオツムレベルならそもそも話にならん。
気づけたら、気づけた、とレスを入れとけ。話はそれから。 >>302
見解の相違ではない。住む世界が違うんだよ。
まあだからこそ、純文学と大衆文学はぜんぜん違うってことの証明になる。
同じ景色を見ていても、感じ方が違う。
平たくいえば、花より団子。それが大衆文学。 モダニズムは必死に道徳と文学を切り離したけれどね
夏目漱石まで戻ると美とは関心を放り投げてなお残る没関心の美学
「現実生活にあいはかるとはいずくんぞ」論争が純文学論争の最初くらいか
そこから作品がそれだけで屹立する「何も語っていない小説」というフローベール的純芸術が成立する
容易にコンセプチュアルアートに堕落する芸術ではなく、そのコンセプトを作り出すところのみに芸術を見出す
これがフォルム批評であり、「方法」の芸術論
政治的に参加する180度展開した文学はこれらの延長にもあり、現実への「態度」こそを重視する
この批判もまた「倫理的態度」を重視した小説になるし、ポストコロニアリズムもこの「他者への倫理的自己省察」を要求する
独創から離れ、模倣から離れ、セリーヌの罵倒を模倣するのでなく彼の精神性を取り出す
言語への倫理的対峙は言葉遊びに堕落する危険を残しながら言語の分解、言語の創造的過負荷を連ね続ける翻訳困難な言語作品を提出する
そういう作家ばっかり好きだな、結局 >>297
そうだね。大衆文学として発表されたものが純文学として評価されることもあるし
逆もある。例えば花村満月はエンタメ出身だけど芥川賞、車谷は純文出身で直木賞
そもそも純文と大衆文学が分けられるようになったのは明治23年の
浮城物語論争の頃からで大正期には明確に制度化された
でも便宜的だし一人の作家が両方書いてる場合も多い。北杜夫とか井上靖とか
あと内容によらず出版社の方針でずれた扱われ方をする場合もある あと295で時間差のことを問題にしたけど、谷崎も芥川も今ならエンタメ的な
面白さが感じられるけど、当時は「新しい」世界だったんだと思う 違う違う。
当時は書き言葉ができたばっかり。
「〜である」という書き方さえ斬新だったというくらいだ。
ようするに、いまの日本語の文章をつくったのが、夏目漱石や芥川龍之介ら作家たちだ。
内容がどうこういう問題以前の話。
そういう時代のをもってきて、中身に言及し語ってもあまり参考にならない。
芥川賞か直木賞かどっちかわからないというのも、レベルが低くてどっちつかずってやつだ。
極めようとすればその区別ははっきりしてくる。
たとえば、アイドルを見てみろ。歌って踊ってドラマにも出てお笑いタレントみたいなこともする。
しかし、本物のミュージシャン、ダンスのプロフェッショナル、本格派俳優女優と競べてどうだ? 違うだろ。
本物は格が違うんだよ。その格をみて権威だ何だというのはお門違い。
日本の文学はまだまだ熟していない。マンガのせいであまり発展してこなかったし、
出版の既得権、新人賞という閉鎖的なシステムのせいで、才能ある作家が見出されなかった。育たなかった。
が、これからは違うだろうよ。 「である」は四迷、「です」は美妙ね。漱石より20年ほど前
言文一致は表記の問題であると共に思考法の問題でもあったから
内容にも関わっていたんだよ。漢文調だと儒学的価値観に引っ張られて
文学が自立できないと考えた逍遥は馬琴やロマンスなど波乱万丈の物語を
「古い」とし、人情を写す=内面を描くノベルを「文学」だとした
浮城物語論争では、魯庵は面白さを目指すのは文学ではない、人間を描け
と主張下。今日に至る「人間が描けていない」ってやつね >>309
その思考レベルがまだ低いってことだ。
1:00くらいから見てみろ。漱石を持ち上げているから。
https://www.youtube.com/watch?v=CcrtyPfLvCw >>311
ここに書いたのは文学史上の経緯で客観的な真実といっているわけじゃないよ
詳しく知りたければ長山靖生「奇異譚とユートピア」とか読むといいよ
逍遥は「小説神髄」で文学の変遷を進化で説明しようとした
漱石は「文学論」で別のタ−ムを示した(そのキイワ−ドは知ってるよね?)。 >>311
ここに書いたのは文学史上の経緯で客観的な真実といっているわけじゃないよ
詳しく知りたければ長山靖生「奇異譚とユートピア」とか読むといいよ
逍遥は「小説神髄」で文学の変遷を進化で説明しようとした
漱石は「文学論」で別のタ−ムを示した(そのキイワ−ドは知ってるよね?)。 純文学って広義の意味と狭義があると思う
広義は芸術的な小説
狭義は日本の日本自然主義の流れをくむ小説
例えば村上春樹は前者だけど後者ではない 芸術的=コンセプトがあるって事ちゃうかな
例えば百田尚樹は読者を泣かせるというのを目的にしてる=読者の生理的反応、情緒を目的にしてるから芸術ではない(悪口ではない 違う違う。
簡単にいえば、芸術とは信仰の対象となるものだ。
和歌や俳句の芸術性は、和歌や俳句という表現方法自体に思い入れをもつ人間がいるから、存在する。
下世話な言い方をすると、信者がいるから存在する。そこで信者同士、芸術性を語り合うことができる。
私小説という形が純文学として成り立つのも、私小説書く人間がいて、それが自身の魂の救済となるからだ。
書き手の魂の救済として書かれたものを、読者は自分の生き方と重ね合わせたりしながら読んで、自分の魂を救済する。
純文学を好む人間は、面白可笑しくしたストーリーには興味はない。
むろん波瀾万丈な生涯であってもいいが、じつはそれを目的として読むのではない。
自身の投影だ。肉体を離れた、意識の投影といってもいい。だから、こだわりが強くなる。芸術性を問いたくもなる。
こうでなければならない、こうすべきだ、といっぱしの主張をする人間が出てくる。研究をし、系統やなんやかんや分析して、学問として成立させる。
そこで「文学論」なるものが書かれ、今度はそれを読んで、文学論の信者になる者まで出てくる。
すべて信仰のなせるワザ。
大衆文学つまりエンタメ小説は、自分の人生を投影させた信仰の域にまでは達しない。まさに面白可笑しく読んで、ハイ終わり、だ。
たとえば、アニメを見て人生が変わったり、アニメのキャラを信仰の対象とする人間もいる。
そういう人間が増えてくれば、アニメの芸術性が認められ、いずれ世界的な芸術として認められる日が来るかもしれない。ようは信者の数だな。
そして何の信者にもなれない者には、芸術は一生理解できない。が、そいつには芸術は権威の象徴にしかすぎないのだから理解する必要もない。 漱石の門下生の森田草平は、夏目漱石の中で、
純文学を「本格的」な小説って言っていた。
彼的には大衆小説は本格的ではないってことなんだろう。 >>292
完全に同意。文学って何? それが理解できなくて漱石は苦悩したらしいぜ。
誰か、む文学って何? 定義してみろよ。それを誰かが定義したところで
恐らく別の誰かが反論するに決まっているのは目にみえている。
つまり定義不能なんだな、というより定義なんか出来っこない。
このスレの書き込みを、ざっと見ていると、むなしくなるな。
要するに暇人の戯言だな。「純」だの「大衆」だの、どうでもいい。
だからオレは文学部だの哲学科だのを軽蔑している。
ここの住人は工学部系の人間から見たら、アホに見える。バカバカしくてね。
注:此のスレ立てさん、失礼しました。 >>321
無粋な書き込みですな。
まぁ、学校の先生達用たち用のスレですから、せいぜい遊ばせてやって
下さいな。 純文学はあなたの心のなかにある、か
あると思ってる人がいるなら、きっとあるんだろう >>323
そうなんだよ。結局、各人の心のなかでのみのテーゼなんです。
この世の事象は全て各人の「心の中でのみ存在する」。
現代物理学も其のような見解もあるそうで。
尤も、こういうとミもフタもなくなるが・・・
(お遊びの邪魔してゴメンネ) このスレを全部流し読みしたら、同じような内容の繰り返し。
もう、そろそろ、The Endだね。 純文学=たいてい忍耐力が試される
大衆小説=忍耐力は必要とされない 自然科学が対象にしている自然界に存在している事物の解明とは違って
文学や哲学の対象は人間の創作物や精神活動(生物学的医学的なものにも関わるけど)
だから純粋客観的に定義付は出来ない。そもそも人間が作ってきたものなんだから
どのようにして生まれ、どのように発展してきたのか、先人がどういう意味で用いてきたのかを
歴史的に押さえないと独りよがりな解釈になってしまって議論の基礎が成立しないんだよ
法文みたいに国家権力が定義を規定するものでもないしね 純文学はその文章自体に価値を持たせる小説
文自体に価値があるから大衆に受けなくてもいい
大衆小説は多くの人を楽しませる為の小説
楽しんでもらわないと意味がない
逆に言えばパクリだろうがリアリティがなかろうが読んだ人が楽しめればいい また始まったよ。まぁ、いいけどな。
ただ、327の言明は、自然科学にも、そのまま、あてはまるんだよ。(笑) >>328
文章自体ではないよ。「文章表現」に価値があり、その文章表現されたものこそが、人々の脳に新しい概念を植え付ける。
たとえば、日本語には「愛する」という文章表現はなかった。翻訳語だが、日本人に新しい概念を植え付け、現代日本人の精神構造をつくっている。
それはたんに「LOVE」を翻訳したからというものではない。
言葉や文章という素材を使って、どれだけ創意工夫し、表現するか。純文学はまさに文章による芸術であり芸術作品だ。
わかりやすくいうと、彫刻に芸術的な価値があるのであって、素材の木や石に価値があるのではない。
そして純文学こそ日本語による芸術作品。
それはつまり日本語でしか表現できないものがあることを意味している。 具体的に言うと、ある登竜門的な賞を受賞する
か否かはひとつのポイントとなりますよね。
そしてその賞の選考委員たちは名の通った作家
たちである訳です。そのような賞はひとつの
権威であるとは言えるでしょうね。また、賞
を取らない場合でも有名出版社の雑誌の編集
者の眼にとまる、という事もある訳ですね。
このような具体的な場面でパスするか、スルー
されるか、が文学の定義に関係して来ると
思うんですけど。