純文学と大衆文学(通俗小説)の違いって何? [転載禁止]©2ch.net
>>311 ここに書いたのは文学史上の経緯で客観的な真実といっているわけじゃないよ 詳しく知りたければ長山靖生「奇異譚とユートピア」とか読むといいよ 逍遥は「小説神髄」で文学の変遷を進化で説明しようとした 漱石は「文学論」で別のタ−ムを示した(そのキイワ−ドは知ってるよね?)。 >>311 ここに書いたのは文学史上の経緯で客観的な真実といっているわけじゃないよ 詳しく知りたければ長山靖生「奇異譚とユートピア」とか読むといいよ 逍遥は「小説神髄」で文学の変遷を進化で説明しようとした 漱石は「文学論」で別のタ−ムを示した(そのキイワ−ドは知ってるよね?)。 純文学って広義の意味と狭義があると思う 広義は芸術的な小説 狭義は日本の日本自然主義の流れをくむ小説 例えば村上春樹は前者だけど後者ではない 芸術的=コンセプトがあるって事ちゃうかな 例えば百田尚樹は読者を泣かせるというのを目的にしてる=読者の生理的反応、情緒を目的にしてるから芸術ではない(悪口ではない 違う違う。 簡単にいえば、芸術とは信仰の対象となるものだ。 和歌や俳句の芸術性は、和歌や俳句という表現方法自体に思い入れをもつ人間がいるから、存在する。 下世話な言い方をすると、信者がいるから存在する。そこで信者同士、芸術性を語り合うことができる。 私小説という形が純文学として成り立つのも、私小説書く人間がいて、それが自身の魂の救済となるからだ。 書き手の魂の救済として書かれたものを、読者は自分の生き方と重ね合わせたりしながら読んで、自分の魂を救済する。 純文学を好む人間は、面白可笑しくしたストーリーには興味はない。 むろん波瀾万丈な生涯であってもいいが、じつはそれを目的として読むのではない。 自身の投影だ。肉体を離れた、意識の投影といってもいい。だから、こだわりが強くなる。芸術性を問いたくもなる。 こうでなければならない、こうすべきだ、といっぱしの主張をする人間が出てくる。研究をし、系統やなんやかんや分析して、学問として成立させる。 そこで「文学論」なるものが書かれ、今度はそれを読んで、文学論の信者になる者まで出てくる。 すべて信仰のなせるワザ。 大衆文学つまりエンタメ小説は、自分の人生を投影させた信仰の域にまでは達しない。まさに面白可笑しく読んで、ハイ終わり、だ。 たとえば、アニメを見て人生が変わったり、アニメのキャラを信仰の対象とする人間もいる。 そういう人間が増えてくれば、アニメの芸術性が認められ、いずれ世界的な芸術として認められる日が来るかもしれない。ようは信者の数だな。 そして何の信者にもなれない者には、芸術は一生理解できない。が、そいつには芸術は権威の象徴にしかすぎないのだから理解する必要もない。 漱石の門下生の森田草平は、夏目漱石の中で、 純文学を「本格的」な小説って言っていた。 彼的には大衆小説は本格的ではないってことなんだろう。 >>292 完全に同意。文学って何? それが理解できなくて漱石は苦悩したらしいぜ。 誰か、む文学って何? 定義してみろよ。それを誰かが定義したところで 恐らく別の誰かが反論するに決まっているのは目にみえている。 つまり定義不能なんだな、というより定義なんか出来っこない。 このスレの書き込みを、ざっと見ていると、むなしくなるな。 要するに暇人の戯言だな。「純」だの「大衆」だの、どうでもいい。 だからオレは文学部だの哲学科だのを軽蔑している。 ここの住人は工学部系の人間から見たら、アホに見える。バカバカしくてね。 注:此のスレ立てさん、失礼しました。 >>321 無粋な書き込みですな。 まぁ、学校の先生達用たち用のスレですから、せいぜい遊ばせてやって 下さいな。 純文学はあなたの心のなかにある、か あると思ってる人がいるなら、きっとあるんだろう >>323 そうなんだよ。結局、各人の心のなかでのみのテーゼなんです。 この世の事象は全て各人の「心の中でのみ存在する」。 現代物理学も其のような見解もあるそうで。 尤も、こういうとミもフタもなくなるが・・・ (お遊びの邪魔してゴメンネ) このスレを全部流し読みしたら、同じような内容の繰り返し。 もう、そろそろ、The Endだね。 純文学=たいてい忍耐力が試される 大衆小説=忍耐力は必要とされない 自然科学が対象にしている自然界に存在している事物の解明とは違って 文学や哲学の対象は人間の創作物や精神活動(生物学的医学的なものにも関わるけど) だから純粋客観的に定義付は出来ない。そもそも人間が作ってきたものなんだから どのようにして生まれ、どのように発展してきたのか、先人がどういう意味で用いてきたのかを 歴史的に押さえないと独りよがりな解釈になってしまって議論の基礎が成立しないんだよ 法文みたいに国家権力が定義を規定するものでもないしね 純文学はその文章自体に価値を持たせる小説 文自体に価値があるから大衆に受けなくてもいい 大衆小説は多くの人を楽しませる為の小説 楽しんでもらわないと意味がない 逆に言えばパクリだろうがリアリティがなかろうが読んだ人が楽しめればいい また始まったよ。まぁ、いいけどな。 ただ、327の言明は、自然科学にも、そのまま、あてはまるんだよ。(笑) >>328 文章自体ではないよ。「文章表現」に価値があり、その文章表現されたものこそが、人々の脳に新しい概念を植え付ける。 たとえば、日本語には「愛する」という文章表現はなかった。翻訳語だが、日本人に新しい概念を植え付け、現代日本人の精神構造をつくっている。 それはたんに「LOVE」を翻訳したからというものではない。 言葉や文章という素材を使って、どれだけ創意工夫し、表現するか。純文学はまさに文章による芸術であり芸術作品だ。 わかりやすくいうと、彫刻に芸術的な価値があるのであって、素材の木や石に価値があるのではない。 そして純文学こそ日本語による芸術作品。 それはつまり日本語でしか表現できないものがあることを意味している。 具体的に言うと、ある登竜門的な賞を受賞する か否かはひとつのポイントとなりますよね。 そしてその賞の選考委員たちは名の通った作家 たちである訳です。そのような賞はひとつの 権威であるとは言えるでしょうね。また、賞 を取らない場合でも有名出版社の雑誌の編集 者の眼にとまる、という事もある訳ですね。 このような具体的な場面でパスするか、スルー されるか、が文学の定義に関係して来ると 思うんですけど。 >>331 芥川賞とったら文学と言いたいの?ずいぶん時代遅れのレスに感じるけど いえ、でも作家として世に出るためには、具体 的な関門のようなものがあり、そこを通ればま た次回作を書くようにと出版社から頼まれると いう事がある訳で、実際、出版された本が売れ れば、と言うか大ヒットするかしないかという ような具体的な幾つかの分岐点がある訳です。 そうして具体的に選別された作者が、純文学な り、大衆小説なりの作家として認められて行く というプロセスをもっと検証してみたほうが、 よいのでは? というひとつの提案をしている 訳です。 つまりみなさんのご意見がかなり、観念論的に 感じられ、もう少し即物的な視点もあり得るのではないか、と思ったものですから。 すみません。今日はこれ以後、発言はしません。 >>330 表現と感覚の問題ですか 言いたいことはわかるけど、それを特権的に扱うからなんか変なことになるような 変わった表現で変わった感覚を書くのが純文学だ、というのは良くも悪くも狭すぎる えーと、最近、森鴎外の『阿部一族』『護持院原の敵打』『安井夫人』 『雁』等等を読んだんですが、とても面白かった。特に『雁』は鴎外特有 の晦渋さがなく、すらすらと読めて特に面白かったです。 で、鴎外のこれらの作品は純文学でしょうか。大衆小説でしょうか? 私としては、どうでもよいと思ってるんですが、まぁ鴎外、漱石と言えば 純文学のイメージがあると思われますがねぇ。 ちなみに、私の最も好きな鴎外の作品は『百物語』と『空車』。 スレ違いでしたら、お許しください。尤も、ご回答は、ある程度、予想は してるんですけど。 336ですが、先走って書くと、『「面白い」だけの感想しか書けないのか、 おまえは、その程度か』っという趣旨のレスが飛んできそうなので追記しておきます。 まぁ、「その程度」の人間と私が評されても、私は一向にかまいませんが、 「高尚な感想」なら、いくらでも私は書ける自信はありますがね、 ただ、それを此処に書く趣味もスペースも無い、ということを言っておきます。 やっばり、スレチかな。 ジュンク堂に電話かけて在庫あるかどうか聞いたがないってさ。こりゃ書店の在庫は見込み薄だな。 そうだ、ピースはもってるんだから、ピースに貸してもらうという手があるじゃないか!今頃こんなことを思いつくとは。 純文学。といってもいい。というのは、当時は、そういった文章表現が当たり前ではなかった。 いま我々がこうして何気なく書いている日本語の文章は、鴎外や漱石が創りあげてきた。 擬古文体や美文調などの段階を経て、現代の平易な日本語の文章に辿りついたにすぎない。 つまり、昔は文章を書くこと自体、特別なこと。芸術活動をするようなものだった。 いまは、書けて当たり前という時代なので、昔の作家たちの労苦、つまり文章表現による芸術活動というものがわからないだけ。 >>340 司馬遼太郎の「ひとびとの跫音」によると、『我々がこうして何気なく書いて いる日本語の文章』は正岡子規なんだそうで。まぁ、鴎外、漱石も、そうなんでしょうな。 だからと言って、それが「純文学だ大衆ぶんがくだ」と「議論」のは、失礼ながら、 あまりににも幼稚ですな。 ちなみに「ひとびとの跫音」では、『いま我々がこうして何気なく書いている日本語の文章』 については鴎外の「お」の「お」の字も出てきません。それは司馬遼太郎が 正岡子規が大好きだったからでしょう。 たぶん、司馬遼太郎が本スレのテーゼを聞いたら嗤うでょう。 悪い意味での素人の問題意識だとね。実は、私自身も、そう思う。 所詮、文学なるものも含めて芸術にとって、「純」も「不純」も、「大衆云々」 も虚しい言葉遊び。芸術とは何の縁のない言葉。 そう思いませんか? 芸術の評価は歴史によってコロコロ変わるじゃぁないですか。 このスレのテーゼは虚しいんですよ。スレ立てさんには申し訳ないですけど。 でも、2chらしいテーゼであることは私は勿論認めますよ。お遊びなんですから。 楽しみましょう。 341の文章で、だいぶ脱字等がありますが、補って読んでください。 流し書きしましたので。 なぜ新聞の投稿に、俳句や和歌があるのか考えてみるといい。 純も不純も現実として存在する。日本人の言葉にたいする繊細な感覚は世界一。 それを否定したがるのは、日本にそういった文化があること自体が気に入らない連中。 >>300 精神的に高貴な人間が「支那人と朝鮮人が純文学をダメにした」とか言うわけねーじゃん(笑) 純文学と大衆文学を学術的に分類するのは最終的に不可能だと思う。どちらも文学だとして、具体例を挙げるなら、「火花」が芥川賞を獲った際に「流」が直木賞を獲ったでしょ。僕はどちらもよんだけど、「流」の方が断然優れていると思った。 >>344 高貴なお方の怒りは尋常じゃない。逆鱗に触れぬよう自分を律しろ。 >>345 自分の考えと一緒じゃない、という話にすぎない。 確信は持てないけど、漱石は「大衆文学」として受容されていたんじゃないの? テレビもラジオもない、娯楽らしいものがない時代。 漱石の小説が朝日新聞に連載されることによって、朝日新聞の部数が飛躍的に伸びた時代。 それをイメージしてから語れ。 大江健三郎は「現代文学研究者になにを望むか」という講演でハンス・ローベルト・ヤウスの「挑発としての文学史」を引用して、通俗小説を「期待の地平にそっていてそれをこえないものである」と定義しているらしい。 70年代の話だよ。柄谷行人いわく、「私は"ピンチランナー調書"を読んで、この定義がそっくりあてはまると思った」と(笑) 少々ぶっちゃけると、文芸誌と文学賞とその周辺の人物がこれは純文学だと言えば純文学になるんじゃないのかな 村上隆が、アメリカ現代美術はよくわからない扱いされるけどあれはアメリカの美術界の特定の人間が求めているものに沿った 作品を発表する一種のゲームで、自由な表現でもなんでもない だが、世界最大の大国アメリカには美術界の最高の才能が集まるから、素晴らしい作品が出現するんだ といったことを語っていたけど、 純文学もちょっと似てるのか 純文学のルールみたいなものがあって、そのルールを決めてる人がいる、感じはするな ただ、純文学の大原則として、歴史的文脈は踏まえないとダメ、というのがあって たとえば漱石や鴎外を純文学ではない、と否定するのはNG、と >>355 >少々ぶっちゃけると、文芸誌と文学賞とその周辺の人物がこれは純文学だと言えば純文学になるんじゃないのかな これについては「そんな事はない」って言えないんだよね。その通りなんだよ。「文芸雑誌に載ってるわけわかんない小説の事を純文学って言うんでしょ」って言われたら、「まあ、そうだね」と言うしかない(笑) >>343 貴殿の書き込みについての疑問を下記するぜ。 疑問1.『純も不純も現実として存在する』 だからさ、何を基準として「純」不純」と選者は判断してるの? 結局、選者の手前勝手な主観なんでしょ。何か判定マニュアルでもあるの? それがオカシイとオイラは言ってるのよ。 疑問2.『日本人の言葉にたいする繊細な感覚は世界一。』 オイラに言わせれば、これも貴殿の独断と偏見だな。 そう決めつける客観的な事実(or証明)はあるの? 疑問3. 『それを否定したがるのは、日本にそういった文化があること自体が気に入らない連中。』 これも貴殿の勝手な独断と偏見だな。勝手に決めつけている。 どういう道順で、そう結論づけるのかサッパリ分からないよ、オイラにはね。 以上より、343の貴殿の言明は、少なくともオイラには何の説得力をもたない。 >>357 >だからさ、何を基準として「純」不純」と選者は判断してるの? 美醜の概念。 たとえば音痴は、歌に上手い下手はない、そんな判断は主観だ、オイラはスマップの歌は上手いと思っている! その証拠にだから売れているんだろ! 中居クンの歌が下手だというのはオカシイよ!と主張する。 音の美しさの概念がないため、売上でしか判断できない。売上は明確な客観的な基準だからそれを拠り所にする悪癖がついている。 言葉の純、不純の基準を学びたかったら、短歌教室や俳句教室に通うといいだろう。 >そう決めつける客観的な事実(or証明)はあるの? 当然ある。翻訳機。日本語の表現は多岐にわたるため翻訳が複雑になる。 たとえば「私は天才です。」という言い方は「オイラ、天才。」「俺は天才だぜ。」「僕は天才だもん。」「おれ、天才っす。」「あたしゃ、天才だよ。」「わしは天才じゃ。」 といくらでもつくれる。これは人称主語から書き手の性格がわかるという日本語の特性であり、ここに日本人の言葉にたいする繊細な感覚が発揮される。どれを使うか? もちろん主語自体を省くこともできる。つまり主語だけが特徴ではなく、助詞の変化、その言葉の組み合わせが多種多様にあること。 なので、一つの英文でも、日本語訳にするとき、いくらで表情をつけることができる。この表情をどうつけるかが訳者の腕の見せ所である。 そして英文を翻訳機にかけると、汚いつまり不純な日本語の文章が出来上がる。 >『それを否定したがるのは、日本にそういった文化があること自体が気に入らない連中。』 日本語を扱うにはセンスが必要。だから英語、英語と喚く奴がいる。英語なら頭からっぽ考えなくてもいい。たとえば「I」という主語を使っていればいいだけだから。 日本の文化自体を知らないで否定しているとしたらよっぽど始末に負えない輩だ。死ね。 >>358 1.貴殿の言う『美醜の概念』『音の美しさの概念がないため云々』について。 要するに美醜も相対的なものだぜ。絶対的基準など有り得ない、というのが オイラの考えさ。貴殿は、よほど短歌・俳句が好きらしいな。しかし、所詮、そんなものも、 相対的基準しか有り得ない。 『教室へ行け』とは嗤わせる。貴殿の職業は教師か。 まぁ、そんなところだろう。いかにも教師らしい発言だからな。 2.貴殿の回答『翻訳機云々』には正直、あきれたぜ。そんな程度の根拠か! 器械の進歩というものも、まるで分かっていないな。べき乗の進歩たぜ。 べき乗も何のことか分からないだろう。文系は、たから駄目だな。 さて、例えばショークスヒアなりゲーテなり、誰でもよいが、日本人より彼らが繊細さに 劣ると言えるのか。バカバカしくて話にならないぜ。 貴殿の回答『英語なら頭からっぽ考えなくてもいい。たとえば「I」という主語を使っていればいいだけだから。』 なんという単純というより幼稚な回答だな。これにもオイラは、あきれてしまった。 3.貴殿は、日本文化、日本文化と喚いているが、どの国にも文化があって、それを理解する には貴殿の言う『センスが必要』のは今更ここで書くまでもない。何も日本文化だけではない。 こんなアタリマエのことも分からんのか!! ともかく貴殿の言明の程度の低さには、あきれるぜ。 顔を洗って出直してこい。 4.ついでに言うが『死ね』というもの言いは止めろ。小学生の小僧でもあるまいし。 この一言で貴殿の程度が分かるぜ。 >>356 現状だと基本的には文芸誌デビューだと純文学作家だね 最初にデビューした媒体で決まる 神林長平が文芸誌に書いてたら純文学作家と言われてたりして >>359 >要するに美醜も相対的なものだぜ。絶対的基準など有り得ない、というのが >オイラの考えさ。 当たり前だ。だから人間は絶対的なものを求めようとするんだろ。真実とは何かを探すんだろ。それが文化の基本だ。 >貴殿は、よほど短歌・俳句が好きらしいな。しかし、所詮、そんなものも、 相対的基準しか有り得ない。 短歌・俳句がわかりやすいから出しているんだろ。バカか。 >『教室へ行け』とは嗤わせる。貴殿の職業は教師か。 まぁ、そんなところだろう。いかにも教師らしい発言だからな。 バカか。そこは、教室ではどんなことをしているのだろう、と想起させ、相手に考えさせる文章表現テクニックの基本だろ。字面通りしか読めないおまえはバカか。 この「バカか」というのもの同じだ。おまえがバカかどうかを聞いているのではない。 >さて、例えばショークスヒアなりゲーテなり、誰でもよいが、日本人より彼らが繊細さに劣ると言えるのか。 バカか。日本語に見られる日本人の繊細さだ。日本語がどれだけ繊細かを教え諭しているんだろ。だから短歌や俳句を出したり、翻訳におけるその差異を明示して説明しているんだろ。バカかおまえは。 おまえも「貴殿」と書いているが、それはなぜだ? おまえが、気の小さい、臆病な人間だからだろ? 日本人の繊細さとは裏を返せばそういうことでもある。 「あなた」と書くか「君」と書くか「おまえ」と書くか。それとも書かずにそれとなくわかる表現をするか。おちゃらけて「おぬし」と書くか「ユー」と書くか。 これが日本人の繊細な感覚であり、センスだ。そこから日本語が他の言語に競べ、曖昧で非論理的なものとして発達してきた。 それゆえに、純文学というものが日本には存在する。日本語だからこそ育まれた世界であり、日本人のセンスが生み出した文学だ。理解したら死ね。 >>361 あ〜言えば、こう言う。ばかばかしい。貴殿など相手にしてられん。 勝手にほざいておれ。貴殿は小学生だな。 別スレだが、大学に文学部が無くなる傾向があるようだ。 確か、昔、女子大生亡国論がはやったが(その女子大というのは大半は 文学部だろうが)、このスレでやっている議論・・・なんて高尚なものでは ないが・・・しているようじゃぁ文学部なんて無用だ。 文学部が不要なわけじゃなくて、日本の大学そのものが危機的な状況なんだよ。少子化で子供の数が減って、全入時代。 大学の数を減らしたいが、いっぱしの矜恃をそなえた教授たちの雇用問題もあり、反対されて思うようにできない。 だから、学部を減らしていこう、ということになって、文学部に白羽の矢が立った。それだけのことで、文学の重要度をはかるものではない。しかしバカにはそれがわからない。 こういったことがすぐわかる、つまり、人の心理というか、その社会の行動の裏に隠された人間の思惑、心情などを見抜くには、まさに文学作品を読むことによって培うしかない。 理系の人間はできない。 といっても、理系文系は関係ない。純文学作品に触れているかどうかによる。数学のできる人間は意外と他人の行動が読める。原因を探るセンスがある。 教授らの職を守るためにも、大学までの教育費を無料にし、一度卒業した大人であっても、本当の知識と教養を身につけるために、入り直せる、勉強し直せるようにしたほうがいいだろう。 そのためにも老人扱いをするのは80歳をすぎてから。60や65で定年退職してブラブラしてたら病気になるか、せいぜいクレーマーになるだけだろう。こんな社会システムは無駄以外のなにものでもない。 老害、お荷物となったそいつらにももう一度学校で学んでもらい、資産運用なり、社会に役立つような仕事をしたり、リーダーになったり、起業したりして、もっと人生を十分にまっとうしてもらいたい。 そのためにもまずは純文学と大衆文学の違いくらい理解しような? ↑正論だろうが、面白くない「文章」だな。ここの住人はマジメ過ぎるよ。 もっと短く書けよ。それと此のスレ、もうスレ落ちろ。 正論じゃなくて暴論として書くけど、正論が嫌いってのは単なるクソサブカルなんだよな。今、何が正論かなんて本当はわからないでしょう、とか声高に主張してるのが最果タヒという作家なんだけど、ほんと下らない意見だと思う。そんな事わざわざ言葉にする必要ないよ。 浅田彰や中原昌也がそれを言うならわかるけどさ。最果タヒみたいな人がニヒリズムを隠そうとしないのは、僕にはものすごく幼稚に見える。 >>365 は違うかも知れないけど、最果さんには「あなた本当は文化になんて興味ないでしょ」とか言いたいな。 ↑そりゃぁそうだろうよ。吾輩は名無しであるって書いてるんじゃぁないか。ハハハハ それでも、村上春樹のノーベル賞受賞が厳しい理由は、作品そのものにもあると小谷野はいう。 たとえば井上靖、遠藤周作、芹沢光治良などペンクラブ会長を務めながらノーベル賞受賞に至っていない作家もいる。 これについて、彼らの作品が通俗小説とみなされていたからではないか、と小谷野は推察している。 100年以上の歴史をもつノーベル賞なのでその受賞傾向を一概に語ることはできないが、 ひとつだけハッキリしていると小谷野がいうのが「通俗小説には与えられない」ということなのだ。 そして「春樹の作品は、ノーベル賞委員会が嫌う通俗小説なのではないかという気が私にはしている」。 とくに日本でミリオンセラーとなり海外でもヒットした『1Q84』の内容は、通俗恋愛冒険小説である、と。 純文学と通俗小説(エンタメ作品)との境界に意味があるのかというのは日本の文壇でよく議論されることだが、 海外でも純文学と通俗小説の区別はあると小谷野は断言する。 世界的に人気のあったフランソワーズ・サガンやグレアム・グリーンが受賞できなかったこと。 アメリカの作家で、フィリップ・ロスやドン・デリーロは候補になっても、ジョン・アーヴィングがノーベル賞候補として名が挙がらないこと。 それも純文学ではなく通俗小説あるいは中間小説とみなされているから。 そういう意味で、日本でも「春樹を飛ばして」多和田葉子や津島佑子、堀江敏幸のほうが可能性があるのではないかとも予測している。 http://news.livedoor.com/article/detail/9344101/ ____ / \ / / \ \ / (・) (・) \ | (__●__) | \ ` ⌒´ ,/ ポストモダンのフランスの批評家にかぶれている日本の批評家を揶揄する言葉ですね。「ポモ」って言えば自分が彼らの言説を理解しているような気になれるから便利なのでしょう。そうじゃない人もいるのかも知れないけど。 ごめん、詳しくは知らないのにイメージで書きました(笑) 2月25日(木) 平成の「中間小説」 http://www.webdoku.jp/column/meguro_n/2016/02/25/100538.html いやはや、驚いた。「中間小説の定義が変わってきているのを知っていましたか?」とある編集者に言われたのである。え、どういうこと? 中間小説とその時代、と副題のついた大村彦次郎『文壇栄華物語』には、 「中間小説はその発足時においては、純文学と大衆文学の中間にあって、 小説本来の面白さを追求する、というのが建前であった」と書かれている。 『新潮社100年』にはもっとひらたく、「中間小説とは純文学の作家が書く娯楽小説」という記述もある。 昭和二十年代から三十年代の前半にかけて小説新潮が部数を飛躍的に伸ばしたのは その「中間小説」が当時の読者に圧倒的に支持されたからで、 それが昭和四十年代初頭、五木寛之、野坂昭如などの登場によって若者たちの支持まで集め、 小説新潮、オール読物、小説現代などの中間小説誌の全盛期を迎え、 やがて現代のエンターテインメントに繋がっていく──というのが私たちの共通認識だ。 今年古希を迎える私も、先日四十九歳になったばかりのその編集者も、同じように考えている。 ところが、最近の若い人にとっての「中間小説」とは全然異なるというのである。 彼らにとっての「中間小説」とは、ライトノベルとエンターテインメントの中間に位置する小説だというのだ。 その場にいた編集者諸君が全員、「嘘ーっ」と言った。「ほら、ここにも書いてあります」。 来年五十歳を迎える編集者が見せてくれたのは昨年の新聞記事で、それを見ると「平成の中間小説」という見出しのもとに、 ライトノベルとエンターテインメントの中間に位置する小説が現代の若者たちに支持されていると書かれていた。 具体的に言えば、新潮文庫nex、集英社オレンジ文庫、講談社文庫タイガなどの作品群である。 あれらはてっきりラノベを入れる叢書だとばかり思っていたが、ラノベではなく「平成の中間小説」だというのだ。 「受けるから各社が競って出しているんですよ」と言った。 小説を読んで「すっきりしない」とか「もやもやする」とかいうBBA 阿刀田高氏「純文学」という言葉が日本文学の発展阻害と指摘 http://www.news-postseven.com/archives/20110309_14329.html 阿刀田高氏は1935年東京生まれ。早稲田大学文学部卒業後、国立国会図書館に勤務。 『冷蔵庫より愛をこめて』でデビュー。短編集『ナポレオン狂』で直木賞、『新トロイア物語』で吉川英治文学賞を受賞。日本ペンクラブ会長を務める。 * * * 多くの人が知るように、芥川賞は純文学、直木賞はエンターテインメントから選考される。 かつてはこうした分類が存在する意味もあったのだろう。しかし、近年は二つのジャンルの垣根が低くなり、分類する意味を持たなくなっている。 にもかかわらず二つの賞は厳然と存在している。極論すれば、ある種のセクト主義があるような気さえする。 これこそが日本の文学界が抱える大きな問題点の一つであろう。 私自身、意図的にエンターテインメントの書き手であることを選んで来たし、直木賞の選考委員という立場にもある。 したがって私の考えは一方的かもしれない。それでもなお、純文学という言葉は、日本の文学が広く親しまれることを阻害する要因だと思う。 純文学という言葉を使わなくなれば、日本の文学は世界に向かって大きく発展するはずだ。 ※週刊ポスト2011年3月18日号 書店で平積みされてて気になったので図書館で予約。 やっと順番回ってきたのでワクワクと読んでみたけど ナンジャコレ… とにかく文章がつまらないし、取って付けたようなどんでん返し、それ必要だったの?というエピソードや登場人物… 作中に厨二病だと揶揄される登場人物も出てくるけど、この作者自身が厨二病なんだなと思わせる出来でした 批評家気取りの日本の負け犬マニアがジャンルをダメにしていく課程がよくわかるスレ。ロックも同じだし、たぶんこれから日本で生まれるジャンルもそうなっていく。ほんとにお前ら、バーゲン品みたいな大卒のダメな感じを出すのがうまいね 太宰治という大衆人気の純文学があるくらいだから、すでにもう区分け自体が無意味だよ。 純文的な読みと大衆的な読みがあるのでは。なんて考えてた時期もあるけど、活字はすべからく価値や思想の普及と固定のためにあるから、純文学だろうが大衆文学だろうが、大衆的な読みに収束する流れには逆らえない。 暴言混じりに引用で殴りあうような、読み手同士の議論なんて、10年前から猿のマウンティングとかわらなかったし、高校生のオモチャにもならないよ。 うちの近所の公民館にある図書館コーナー、小さいんだけど結構面白い本がおいてある。 お金払わずに済んだから節約したご褒美にへそくり増やす。主婦 純文学は作家自身のため、大衆文学は読者のために書かれる、以上。 >>399 ある奴のために書かれたら他の奴にはつまらなくもなる。だから面白いかどうかが基準になる。 _. -─‐- / ⌒ \ / ⌒ (● ) \ / ( ● ) 、_) ヽ | (__ノ / | ヽ  ̄ _ノ >  ̄ \ >>402 納得するな。文学はすべて作家自身のために書かれている。 ただし、純文学は個性の強い作家。大衆文学は没個性だが型破りなキャラやストーリーを追求している作家。 「純文学」対「大衆文学」の違いなんて、もはや何の意味ももたないのに、ダラダラ続く空疎な「議論」の阿保くささ。 こんなバカなスレのスレオチを待ってるのだが、こんな書き込みすると、また生き返るか。矛盾だな。 何の意味もないというい奴には、何の区別もついていないのだろう。 日本人と朝鮮人の区別をするな、そこに何の意味もないのだから、みたいな。 史上最高傑作といわれるドン・キホーテは大衆文学? シェークスピアも当時は大衆娯楽作品だったんだよね? >>404 その没個性がまさしく大衆に媚びているということでは? 読者のために書くとはそういうこと 大丈夫か? 庶民つーか大衆のほとんどが没個性だよ。 個性的な人間は100人に1人いるかいないか。だから純文学は売れない。 没個性の作家が自分の好むストーリー展開を考えて書けばそれが大衆に受ける。 だから自分が面白いと思うものを書け。てかそれしか書けないだろ。 読者に媚びて読者が面白いと思うものを書く? そんなことできるわけない。 もしそんなことが意図的にできたらそいつは神だ。まさに奇跡の人。この世界を乗っ取ることができる。 編集部が下手にそういうことをさせようとして全滅するw その没個性とやらとはなんだ? 仮に大衆が没個性として、どうして純文学を読まないことになるのか >>410 大衆文学が読者の娯楽の道具になってるのは現実にそうでしょ。手軽に感動できたり笑えたりするのを大方の読者は好む。そんな本が本当に読者の方を全く向いてないとでも思ってるの? >>412 >その没個性とやらとはなんだ? 価値観がほぼ同じということだ。 たとえば性欲があってそれに衝き動かされる。 金銭欲、物欲があってそれに目がくらみ考えや主張が変わることさえある。 >仮に大衆が没個性として、どうして純文学を読まないことになるのか 花より団子。純文学が花で団子が大衆文学。花を愛でるより団子を食いたい輩が多いってことだ。 またそういう輩が没個性の大衆の価値観だということだ。 大衆文学にラノベも入るよな?あれ見れば如何に読者に媚びてるかわかる >>415 読者の花より団子というのは、作家にも当てはまるだろ。生活のために売れる本書いてるやつは沢山いる >>414 それは作家自身が一番の読者だということだ。 作家といえど100パーセント他人を理解することはできない。 だから自分が読み手として面白いものを書く。作家にできるのはそれだけ。 「読者を意識しろ」というのはマヌケな編集者の方便。つまり読者ではなく、俺の言うことを聞いてくれ、みたいなところから来ている発言。 または、マヌケな作家志望者が、他の作家志望者に講釈を垂れるときの決り文句か。ようは、考えが浅い。 >>416 >大衆文学にラノベも入るよな?あれ見れば如何に読者に媚びてるかわかる 逆だろ。いかにラノベ作家の性癖、性的嗜好のためだけに書かれているかわかるものだ。 そこに担当編集者のそれも合わさる。つまり作家と編集者のオナニーごっこ。 >>417 >生活のために売れる本書いてるやつは沢山いる いや、いないだろ。むしろ売れる本を書いてる作家こそ自分の好きにやれる。 >>416 おかげでラノベも衰退してきたね 一般文芸もそんな感じで、衰退し始めているところかな >>418 作家が一番の読者であって、ただ自分のために書かれた小説がある事は別に否定しないぞ。 ただ、自分自身を癒すために切羽詰まった動機で書かれた作品は面白いとか面白くないとかの次元ではないだろう。それが純文学だ。 自分が面白いから相手も面白いとか考える時点で大衆に媚びてるんだよ。それが大衆文学だ。 >>422 >ただ、自分自身を癒すために切羽詰まった動機で書かれた作品は面白いとか面白くないとかの次元ではないだろう。それが純文学だ。 純文学は癒しが目的ではない。作家の自己肯定のために書かれている。 だからどんな最低な人間でも書くことで癒やされる。肯定されるから。 つまり、純文学とは、自己肯定。 そしてその作家の自己肯定に賛同できる人間は、それを読むことで癒やされる。 >>423 いや、それはまさにおまえ自身のことだよ。 自覚、あるだろ? >>424 それはお前の願望だろ。作家の苦しみは人それぞれ。 俺が癒しというは、初期の大江健三郎が衰弱して病んでその快復を目指して書いたことや、堀田善衛の何かわからないけども書かねばならぬのだという欲求、さらには北杜夫の躁鬱病からの救済のことを言ってる。 >>426 >それはお前の願望だろ。作家の苦しみは人それぞれ。 いや、人それぞれであってほしいというのが願望。 >>427 働いてみればわかる。仕事と奴隷の違いが。 老人たちはみな寿命を迎えた臥所で「もっとちゃんと自分と向き合えばよかった」と後悔して死んでいく。そうなるまえに向きになれ。 >>428 具体的な名前が出てもみな同じ方向に動いているのがわかる。つまり「生」とは自己肯定にすぎない。真実はシンプル。 >>429 402だが、俺は426の意見の方が説得力感じるわ。お前の「自己肯定」論は独断的でしっくりこない >>430 それは>>426 程度に頭が弱いからだ。少しおまえのレベルを上げてやろう。 そのまえにアンカーを振るときは「>>」を番号の前に打て。それが読者を意識するということだ。 大抵の人間は「自己満足」のために生きている。まさにそれが大衆というものだ。 しかし自己満足だけでは高度な自己実現はできない。だから優れた人間は成長とともに我慢を覚える。その過程で、自分を見つめることになる。 何のために、我慢しているんだろう、何のために、こんなことをしているのだろう、何のために、生きているのだろう、と。 そういった自分に対する疑問はいずれ自己否定へとつながる。高すぎる理想ゆえに、最悪の場合、生きていてもしょうがないと思うようになり、自殺する。 自殺しなかった人間は「自己肯定」つまり生きる力を得て生きながらえている。 むろんただ薄ぼんやりと「自己満足」のみで生きているその他大勢には無縁のことだ。彼らは辛いことがあっても満足させるものを探し一時の快楽でストレスを解消する。 何をするにしても、どんな苦難にぶち当たろうと、抗いながら「自己肯定」することで、乗り切れる。逆にそれを失ったら、濁流に呑まれ、もう死んでもいい、となる。 論ずるまでもなく、これは高潔な精神世界での出来事だ。 「自己肯定」の「自己」とはまさに「個性」だ。他人に認められるものだけが、また他人に賞賛されるものだけが、個性ではない。 ときに個性は人々から忌み嫌われ、神からも見放され、全否定される。多くの天才たちの苦悩はそこにある。 どうせ理解できないだろうから、まとめておくと、 大衆とは自己満足で生きる者。それが大衆文学。 個性的な人間とは己肯定で生きている者。それが純文学。 と、まずはそういう括りで、自分の思索を深めていけ。他人に説得力を求めているうちはおまえはまだ自分の哲学をもっていない。お話しにならないレベルだ。 >>431 救えないぐらいのウルトラエゴイズムだな。僕は他人とは違う!と手放しに認めてほしいってことだろ。お前のコンプレックスに満ちた人生が透けてみえるわ。 ただ、そうやって大衆を見下せば見下すほど、お前の凡庸さ、没個性とやらが証明されるんじゃないのか? なぜならお前は 天才でも純文学作家でもないからだ お前のエセ哲学には決定的な矛盾がある。もっとよく考えてみろ頭でっかち。 >>431 細かいことを言えば、自己肯定は結果論だ。作家がペンをとっているまさにその瞬間は、自身の苦悩をなんとか癒そうとする過程だ。後々、それで救われるかもしれない。しかし、幾度となく訪れる自己否定の連続と戦うことこそ文学なんだよ。 むしろニーチェの言う超人のような奴は、そもそも文学など必要としない。お前の言葉を借りれば、純文学とは自己否定を否定する試み。それこそ癒しだ。 どいつもこいつも唯我独尊。恥ずかしくないのかねぇ。だから文学屋と俺は性が合わないんだな。 ./ \Yノヽ / ( )( )ヽ / ⌒`´⌒ \ | , -) (-、.| l ヽ__ ノ l | \ / 何が純文学か?なんて、時代によって変わるだろ 作品内容で純文学を定義するのは不毛だ 前にも書いたけど、文芸誌に載ってるのが純文学 文芸誌の新人賞で出てきた人が純文学作家 こんな感じの大雑把な括りで純文学ムラがあって ムラの住人が書いてるものが純文学、でいいと思う 内容じゃなくて周辺事情で決まる いや純文学は日本だけの文学だから。 情感つまり情操が表現された小説。 純文学と大衆小説は神話と民話の違いと同じだ 前者は現実にあったことあり得ることとして語られ、 後者は現実とは別の世界の話として語られる 基本両端がこれで、中央あたりでは分けにくくなる ↑ と、自分の意見も言わず説得力なんてことを申しておるバカがおりますwww シェンロン 今日の上方講談、面白かったなあ。「〜とは申しません」という話運び、完全に後の司馬遼太郎が引き継いでるやつやなあ 純文学と大衆文学という区別が何でつくか、というのはよく言われるけど純文学が三遊亭圓朝の速記から産まれたのにたいし、 大衆文学が講談の速記というルーツをもつという比較はできると思う 2016年5月27日 >>440 カフカ、マルケス、ボルヘス、バロウズ、ベケット、ピンチョン、ヴォネガット、ディック、ブルガーコフ、グラス、安部公房、残雪、ロス、大江健三郎、村上春樹 非現実を描いた純文学なんて文学歴半年の俺でもこんだけ挙げられるんだが wake up TV君宣伝やめーや 芸術性か面白さ、どちらを優先するか、あと載る媒体 夏目漱石の『こころ』なんか純文学でも有名だけど、構造的にはミステリーで どんどん読み進めたくなるよね? でも大衆じゃないのは、重点を置いてんのが「謎」ではないから どの小説にも、内容、表現、技法、構成、構造とかに双方の要素が混ざってるけど、重点を置いてる方はあるだろ そうでなければ、ただの迷作 例えば『こころ』をミステリーにしたいなら、主人公の私がKの死の真相を求めようとするシーンをたくさん作ればいいし、ホラーにしたいなら、先生が幻のKの亡霊に怯えていればいい どこに重点を置いて書いたかってこと 皆が惑わされてるのは迷作があるから 治癒しない心の傷に関わるのが純文学? という意味のことを北原武夫が言ってたような。 これは純文学の一面に過ぎないが。 江戸時代の娯楽文学の伝統を継ぐのが大衆文学? 両者を区別して必要以上に純文学を高みに置く悪習はいい加減で止めなければ。 新潮社がたまに発作のように売り出す芥川賞(候補含む)作家の主観文学も十分大衆文学だと思うけどな この点に関しては大宰治や宮沢賢治の時代から続く伝統と言えるかもしれない 作家を含めたキャラクター商売でなまじっか芸術として語れる分エンタメよりたちが悪い 定着しすぎた区分けだからどうしようもないけど 個人的には大衆文学純文学と区分けしてさらに位置してるジャンルだけで価値の優劣をつけてファン同士が争うのは関心しないな 推理小説だって近代的な人間悪の創造として語ることができるし ラノベがマンガの小説版として売れてるならそれはそれで活字のスピード感という視点に立てば立派な研究対象じゃない? 活字というのは普及を担っているから純文学の批評を読んで名作だから名作と通俗的な読みに収束するのは自然な流れだけど 報われずに動物化したインテリとまでは言わないけど、純文的な読みを放棄したまま純文優位だと言ってる人を見てるとなんだかなあと思うときがある >>447 おれは440じゃないけど 440は、現実に即したものを純文学と定義してるのに あなた現実に即してないものを純文学としてる時点で 既に議論になってないのでは? おれとしては純文学だとなエンタメだとか、そんな分類はどうでもいいし興味ないんだけど 明らかなコミュニケーションの軋轢を感じたので気になりました 説明するのも嫌になりそうなやつに絡まれてるなw 土台がないと響くものも響かないし ドナルド・トランプ「プーチン、らめえええええええ!ひぎぃ!アナルが裂けちゃううううううっ!」 むかしは私小説=純文学、時代小説=大衆文学で、読者層も違っていたのだろう >>408 そのへんは純/大衆というカテゴリーではなく、古典になってると思う 俺個人はその2つは正しくエンターテイメントだと思ってるが でも真面目な話、純文学って何? 日本の日常生活を書くだけというなら純文学とは実につまらんものだけど 純文学:作家の身辺を書く。 大衆文学:チャンバラ。 スレタイの疑問があったからスレの1から読んできた。 >>388 の、この部分で疑問が解消できた、というか疑問自体が消失した。 >多くの人が知るように、芥川賞は純文学、直木賞はエンターテインメントから選考される。 >かつてはこうした分類が存在する意味もあったのだろう。しかし、近年は二つのジャンルの垣根が低くなり、分類する意味を持たなくなっている。 文学とエンタメは違うよ リアル鬼ごっこが文学だというやつは殺されるからね 大衆文学も読まれ続けて古典になると、後世の評論家により、作者も考えてなかったような意味深い解釈が付け加えられて純文学と化す 例えば何? ちなみにドンキホーテは当時から立派な作品だと思われてたからなしな >>467 横からだけど ギリシア喜劇 シェイクスピア 「トリストラム・シャンディ」 「パミラ」 あたりは後代への影響を考えて芸術的な文学としての意義を獲得したと言えるんじゃないの SFとかは? あとゴシックロマンス、パルプフィクションも最近は研究・再評価が進んでる印象 蛇足だけど東一派が良く言及してるしラノベが再評価される可能性も充分あると思う てかもうジャンル分け自体が無意味なんじゃないの? サブカルに言及していて、キャラクターが非現実的で、文体が軽快 現代文学の最前衛筆頭のピンチョン「重力の虹」だって箇条書きにすればここまでラノベらしくなるしね >>469 東一派とやらが文芸の世界でまったく評価されてないので難しいね 少なくとも東一派とやらの文脈では無理無理 過去にヨーロッパやシナではやりまくったエンタメのジャナンルで生き残ったのは その形式を借りてインテリが書いたもの 「妖精の女王」とか そういう作品が出てくればラノベの中からも後生に残り評価されるものが可能かもしれない でも基本的な文章力をガン無視してマンガやアニメやゲームのイメージに頼り切ってるラノベには無理 >でも基本的な文章力をガン無視してマンガやアニメやゲームのイメージに頼り切ってるラノベには無理 パルプマガジンは? そもそもパルプマガジンも大衆文学てやつになり得てない 局所的なもの 純文学の定義は難しいだろうが新堂冬樹の「無限地獄」なんかは大衆文学の見本みたいな小説と言える。 パルプマガジンも局所的ならラノベも局所的じゃね? そもそも現時点で舞城や筒井康隆(時かけもラノベみたいなもん)産み出してるのに無理と断言出来る理由が分からん でも今の純文学でラノベに勝るのって保坂と松浦理恵子だよね 阿部も町田も才能枯れたし フィリップ・k・ディックはジジェクやボードリヤールやに引用されたり、ホルヘ・ルイス・ボルヘスと比較して絶賛されたりしてるけど ポストモダニズム以降、ディックより影響与えた主流文学ってあるの? ピンチョンやバロウズもSFとも言えるし、マジックリアリズムは内輪で受けただけだしフォークナー1人のがよっぽど大きな功績残してるし 文学は剣より強いのか?? いじめ殺しを許さない社会にしようぜ!!!! ↓ 上松煌(うえまつあきら) 作 ★「九月の葬奏」(1作目「友だちを〜」と共に、作者の出生の本懐です)★ https://slib.net/71188 『作品紹介から』 初作の『友だちを殺した』と共に、作者の出生の本懐といえるものです。 世間を震撼させた「多摩川・中学生虐殺事件」に衝撃を受け、日本社会に警鐘を鳴らし たくて書きました。 時間のないかたは、後半〜末尾にかけての主人公の「独白」をごらんください。 社会のあり方、人間の人間たる倫理正義・矜持襟度・慈悲情愛の大切さを、死をもって 訴える場面です。 問題提起の性格上、過激・苛烈な表現があります。 2015年。 作順では5番目。 プロフィール ←作品けっこう意識高いぜ。命は大事にしろ。 http://slib.net/a/21610/ 社会が傍観者ばかりになったら、コワイでぇ! >>468 俺も横だけど「パミラ」は逆パターンだ 最初、神のごとく絶賛されたけど今は正気じゃ読みきれない奇書 アンナ・カレーニナは今で言うNetflixのメロドラマくらいのものだと思う わざわざアンナ・カレーニナを大衆文学と言い張るつもりはないけど、そこからの連想として言えるのは 大衆文学でも当時を知る資料になりさえすれば個人的かつ陳腐な美学の発露程度の純文学くらいなら軽く通りこして古典と称される可能性があるってことなんだよね 一方で現代の純文学や大衆文学と呼ばれるものに妙な垣根のなさを感じることがある それを支える要素のひとつに通信機器の普及や変遷があると思う 「既読無視マヂムカつく」というセリフのある小説があったとして それが世代、時代、時間のどれに強く属しているか計る術がなく、現代人が現代作品を古典に認定できない以上、この現象は後世の学者の選別眼の中にしかない 国会図書館って偉大だね >>480 典型になる作風と真似すると火傷する作風の違いじゃないかな 二元論や比較まではできてもそれを価値の上下にされても困る >>484 団塊じゃないし世代とキーワードだけってのはいただけない なんか現実でイヤなことでもあったの? 団塊にしては文体若いかw でも君500年前くらいの陳腐な当時の人気だった作品ちゃんと読んだことある? 陳腐なものはずっと陳腐だよ 「既読無視マヂムカつく」からなにか感じるものはあるかな? 名人芸や深い洞察がないとわざわざ人は手に取らないんじゃない >>487 が言ってる手に取る基準こそが団塊ぽいと言うか現代人かつ純文読みに近い人が手に取る基準でしかないんだよ 大衆文学が古典や歴史的資料になる基準、どんな純文学がかえって陳腐化するかなんて現代人の常識の範囲をはるかに超えているってはなしをしてるんだ 芸で手に取る後世の研究者もいれば、そうじゃない研究者もいる 大衆文学は逆説的に純文より上って言いたいんじゃなくて、芸や人気だけが手に取る基準じゃなくなってしまう時間の残酷さを想像してほしいだけなんだよ >>487 ちょっと意地悪な事実だと バッハがその当時三流作曲家だったことなら知ってる ボルヘス誕生以前のメタフィクション作品が見つかったらそれがどんな駄文でもポストモダン文学の定義すらかえる 陳腐と呼ばれているものの中に陳腐じゃないものが混ざっている例もある ちがうなあ ジャンルこだわってるのは君じゃない? 俺は素材なんてなんでも良くてそれをどう展開するかにかかってると言いたいわけ >当時を知る資料になりさえすれば これだけじゃ弱いんじゃねということ あと研究者次元の話ならむしろ大概のものは読み継がれるだろうね 俺はアンナ・カレーニナの例でもうちょっと一般人に近い感覚を想像したけど >>489 バッハが三流扱いってロマンチックな伝説に過ぎないよ >>490 古典認定の話だから当時を知る資料ってだけじゃ重要度が弱いってことならそうかもな しかも可能性の話だしね 自分の感覚だとここ10年前後の文学作品が古典になりうる可能性ってそうそうない気がするんだけどそこはどう思う? >>491 それはわかった そしたら二段目についてはどう? >>493 文学に新しいものなんてないっていう文学研究者の言葉をどこかで見かけた カフカの不条理な設定をエッダやトルストイの短編で見かけた もちろん俺の勝手な読みかもしれんが ボルヘス以前にポストモダンな記述を見つけたとしても それはそれで価値あることだがボルヘスの功績は薄れないというのが俺の意見 >>494 いま噛み合わなかった理由がわかった どのみち新しいものなんてないが前提だからどう運ぶかって芸での選択重視がすぐ出たんだ 人間そうは変わらないってことがわかってたら今後の文学作品なんて読む必要ない気もしないじゃないけど、この人よくニヒリズムに陥らないなって今ちょっと感心してる それはね大好きな作品があるからだよ あと作品は結局いろんな要素が絡んだものだから目新しい技法ひとつで全てを塗り替えることはないんじゃないかな >>496 一番いい読者だ 俺さ自分の評価が時の洗礼だと思ってる人が大嫌いなんだよ だからてめーらの価値づけなんざ意味ねえぞって釘を刺したくて>>483 を書いたんだよね そしたら素朴なお前が来て散々だわw でも駄作が古典になる可能性だけは否定したくないんだよな ボルヘス以前にメタフィクション的な小説って『ドン・キホーテ』ってそうじゃねえの >>495 >人間そうは変わらないってことがわかってたら今後の文学作品なんて読む必要ない気もしないじゃないけど こういう意見はたまに批評家なんかが言うけど、目的はきちがえてないか? 本を読むのは面白いから読むのであって、別に人間について知りたいとか副次的なものだろ >>498 ルキアノス「本当の話」 もメタっぽい >>501 面白さと人間理解の両方かな だからこそ純文大衆の区分けが無意味だと思ってるし好きなものは好きって世界を尊重してる どうも、ビートルズを聴くようにサルトルをじゃないけれど 道徳の議論やら言語で統一理論が果たせると思ってるおじさんたちに耳を傾けすぎたかもしれない やっぱり90年代の文藝春秋なんか小説目的以外で読むもんじゃないね あんなものBLOGOSと変わらないストレス反応の墓場だ 横光利一曰わく 「いったい純文学と通俗小説との相違については、今までさまざまな人が考えたが、結局のところ、意見は二つである。 純文学とは偶然を廃すること、今一つは、純文学とは通俗小説のように感傷性のないこと、とこれ以外に私はまだ見ていない。 しかし、偶然とは何か、感傷とは何か、となると、その言葉の内容は簡単に説明されるものではなく、従ってその説明も、私はまだ一つも見たことも聞いたこともないのであるが、 しかし、事がこの最初で面倒になると、必ず、そんなことは勘かんで分るではないかと人々はいう。 少し難しい言葉を使う人は、偶然のことを、一時性といい、偶然の反対の必然性のことを、日常性といっているが、感傷となると、これこそ勘で分らなければ、分り難い。 先まずあるなら、一般妥当と認められる理智の批判に耐え得られぬもの、とでも解するより今のところ仕方もない」 因みに純文学=私小説って大きな流れがあるなかでプロレタリア文学が台頭してきた時代だから横光もそれを前提に書いてる 「ドストエフスキイの罪と罰という小説を、今私は読みつつあるところだが、この小説には、通俗小説の概念の根柢こんていをなすところの、偶然(一時性)ということが、実に最初から多いのである。 思わぬ人物がその小説の中で、どうしても是非その場合に出現しなければ、役に立たぬと思うときあつらえ向きに、ひょっこり現れ、 しかも、不意に唐突なことばかりをやるという風の、一見世人の妥当な理智の批判に耐え得ぬような、いわゆる感傷性を備えた現れ方をして、われわれ読者を喜ばす。 先ずどこから云っても、通俗小説の二大要素である偶然と感傷性とを多分に含んでいる。そうであるにもかかわらず、これこそ純文学よりも一層高級な、純粋小説の範とも云わるべき優れた作品であると、何人なんぴとにも思わせるのである。 また同じ作者の悪霊にしてもそうであり、トルストイの戦争と平和にしても、スタンダール、バルザック、これらの大作家の作品にも、偶然性がなかなかに多い。 それなら、これらはみな通俗小説ではないかと云えば、実はその通り私は通俗小説だと思う。 しかし、それが単に通俗小説であるばかりではなく、純文学にして、しかも純粋小説であるという定評のある原因は、それらの作品に一般妥当とされる理智の批判に耐え得て来た思想性と、それに適当したリアリティがあるからだ」 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と 生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの 導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。 ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ もともと純文学なんてジャンル分けは日本しか通用しないしね 南が丘文庫 http://www.minamigaoka.info/BOOKS/ Official Homepage 横浜市立南が丘中学校の母体である、平成研究会、通称、経世会とは、自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤栄作派)・木曜クラブ(田中角栄派)の流れを汲む、鉄の軍団と呼ばれた保守本流集団である。 横浜市立南が丘中学校OB会 歳くってきてからというもの、まどろむように物語に浸って読むのが好きになってきた どきどきわくわくするようなストーリー展開がなくても 読後感がよければ満足感が強い>純文学 エンタメ小説や大衆小説はストーリー展開が激しくて読んでいてワクワクするような作品 純文学はストーリーは激しくないが、人間の感情や情緒に焦点を当てている ような気がする 純文学ってなんで人気ないの? 大衆小説に客取られてるだけじゃないと思う >>516 ポプラ社なんちゃらよりははるかにマシだと思う 読んで作者の哲学や世界観を感じるのが純文学。退屈どころか、胸を掻き毟られる、 あるいは頭を抱えてしまう、なにかに心を打ち抜かれてしまう、そんな読後感。心を とらえて離さない作品。それが純文学 だと勝手に思ってるんだけど違ってますか? 対する大衆文学は単におもしろいというだけの娯楽小説。司馬遼太郎など。 良くできていて読者の負担にならない作りをしている。 大衆文学は一つの決められた読み方しか出来ない 純文学は色んな観点から読むことができる 言語化以前の感覚をどう文字に置き換えて表現するかっていう作者の営みが高尚なものは純文学と言えると思う 純文学ってのは歴史的な産物に過ぎないんじゃないかな 18世紀の前半にはすでにノベル(純文学)とロマンス(英雄譚、魔法、超自然的物語)の対立があって、ロマンスの「荒唐無稽な想像力」を批判する サミュエル・ジョンソンみたいな人もいるかと思えば、それを批判したジョン・ホークスワースみたいな人がいた。 ジョン・ホークスワースは叙事詩や古いロマンスに比べて最近のノベル(純文学)は現実に類似しているものの、狭い範囲の現実にとらわれて読者を楽しませる 力が弱いと指摘している。 「あらゆる文学作品のうちで、最も法外な、しかしおそらくは一般的に言って最も人を喜ばせるのは、超自然的な出来事が絶えず魔神や妖精によって 引き起こされる類のものである」 こうしてノベルにロマンスの要素が入った文学が流行し始めるつまりゴシックノベル。 人文学全般の方が純文学よりいいのに。 純文学たって日本の賞は異国外人移民が賞を取ることもまれな閉鎖性で、 僕は文学賞は選考推薦をたまにするけど、これからは前述それ以上の存在に 能えればいいのでは。 直木賞は個人の賞でないけれど、だいぶ進んでいると思うな。 賞金印税でくえない世界がおかしいな。日本で虚勢を張って 赤字など、残すべきじゃないよ。 文化人類学とか神話学における神話と民話の定義と一致しているので 伝統的なそれらのほぼ20世紀的なバリエーションと言えるのではないか 文学理論話だと思うので質問 吉岡実は自分の作品を古典主義と言ってたけど これってどういう意味合いなの? 純文学とかの「純粋」を否定してる? このタイトルを考える場合、社会において芸術家とは何かというのがヒントになる。で、芸術家とは何かというのは、石川淳のエッセイ「芸術家の人間的条件」に明らかである。 語彙とテーマと言語空間の違いだよ。 申告制だからね基本的に。 黙ってると松本清張のように原稿が直木賞から芥川賞に回される事だってある 俺の感覚で言えば、不如帰や金色夜叉は大衆文学だな 当世書生気質も文学史上では大変意義あると認めるが、 内容は、森見の腐れ大学生を描いた話と変わらん 大衆文学と純文学って分ける意味あんの? 芥川賞か直木賞か区別しないといけないから? 小説は名作か駄文かの2種類ね。 または面白いかつまらんかの2種類。 話に明確なオチがあるのが大衆文学。 オチが曖昧でも許されるのが純文学...ていうか時にはそういう手法も取り入れるということか。 >>537 わりと明確なオチや、劇的な結末がないと納得しないのがエンタメファンだけど 泣く笑う怒る喜ぶというハッキリとした感情ばかりが人間の心ではなくて 本来人間は、もっと微妙な心の動きや葛藤があるとういうことまで表現するのが純文だと思う 書くための動機が違う。 大衆小説はよく売りたいという「希望」があるのにたいして、近代文学の傑作は「絶望」から出発している。 一見同じようだが、天と地くらい違う。 >>539 じゃ純文学は売るなよ ブログにでも書いてればいいのであって ある物語に主人公がいて極悪非道の大ボスがいるとする 勧善懲悪的に主人公が悪党を倒すのが大衆文学、主人公が普通に悪に敗北するのが純文学 ご都合主義的に読者のウケを狙って通俗的な俗情に媚びず、 ネットミームで言うフラグみたいなあるあるな展開文脈を無視する 時には露悪的、胸糞的なリアリズムを活写する 大衆の評価や売れ行きを期待しない芸術のための芸術、文学のための文学、 それこそがピュアな文学、純文学じゃないかといえばそんなところ >>7 川端の小説って退屈だから純文学 っぽく見えるだけの通俗小説じゃん 古都は特にそう その理由とは どこを見て通俗小説としたのか そこが肝要なスレ 明治から戦後まで小説を通じて人生を考えざるを得なかった日本独特の概念なんだろう 世界中どこでも小説に芸術性や思想的要素を求める少数派とエンタメとしての物語を求める多数派はいるだろうから 普遍的分類と思われがちだが 日本の純文学と大衆文学の違いは選考委員のメンツによって規定されていると言って間違いない 彼らをリスペクトした作品で有ればリスペクトした作家が選考委員している賞に与する文学 彼らを無視した作品は無視されるというね >>14 そうだと思う 古典に通じた人が書くと純文学 中国などでいう文人が書いたもの そうでないのが大衆文学 だからと言って、純文学が優れているわけではないけど 問題提起をしても回答しない、読み手に任せる、伏線をはっても回収しない、読み手に委ねるのが純文学。答えは出ない、ドラマチックじゃない、完璧な人間はいない、それが現実だから。 問題提起に回答して伏線を回収するのがエンタメ。偶然の要素やご都合主義やチート設定や不幸てんこもりが多い。 支離滅裂なことを並べ立ててもそれが美的鑑賞に優れてるなら文学(芸術)として成り立つ 純文学はたしかに天性の才能がいるだろうけど、エンタメのほうが作業量は多くなりそう 人間は本質的に神話と民話という2種類のタイプの物語を求める生き物だ。 世界中、あらゆる時代にこれは当てはまる。 これが現代の日本においては純文学と大衆文学として展開されている。 それだけのこと。 両者の違いはリアリティーがあることと、フィクションを前提としていること。 >>549 神話にリアリティがあって、民話がフィクションだと あんまり説得力ないですね >>550 チョット言い方が不味かったけど 神話は事実として語られるということ 大衆文学と純文学を対置させるなんてまだそんな古い価値観もってんのか >>553 民話は違うだろ 昔々あるところにって感じで ストーリーの面白さが主眼になってる ウィキペディアで純文学を調べたら 英語版がない これが実態 日本語にしかない概念 海外だとジャンル小説と普通小説が便宜上区別される感じかな SFがカバーにサイエンス・フィクションとかかれ、普通小説がノベルとだけかかれるみたいな ストーリーを書けないやつが文章は上手いでしょと自慢したがるのが純文学 というイメージだな。 物語とは関係ない文字の並びから垣間見える美しさが文学の本質だからね >>554 世界大百科事典だとこうなってて、オイラも同様の認識: 〈民話〉には口伝えという前提があるので,創作民話という表現は,自己矛盾である。民話が含む範囲を具体的にいえば,昔話のほかに世間話,実話が多少口伝えされた伝聞実話,神話・伝説・昔話の一体となった話(沖縄などに多い),歴史的事実のようだが確認できない話などである。 小沢 俊夫 >>558 小沢健二の父親なんだな 民話が専門らしから、全部入るように見えるんじゃないの でもそれだと神話との違いが出てこない >>560 神話には権威があるんじゃね 王家の起源とか、世界、国の起源とか 一方、民話はもっと周辺とか身近な出来事が基になってるかんじで、権威なく民間の伝承ってかんじ どちらも何らかのもとねたはあると思う 神話は世界観・宇宙観を叙述する神聖なもの 民話は主に話の面白さを目的とする俗的なもの 神話民話 そんなものなんの関係もない なにトンチンカンなこと言ってるんだ 神話的なもの民話的なものを人間は普遍的に求めるものであり それが現代日本では純文学大衆文学に対応するのではという仮説 小説のセリフはどこか乾いた感じがする ただの口述記録のような印象を受ける それに比べて、ドラマは小説よりセリフに凄みがでるから感情移入しやすい気がする 文字の限界か 純文学=文學界新潮群像すばる文藝に載るもの 大衆文学=それ以外 で問題ない 例えば、三島由紀夫が週刊新潮で連載した作品は大衆文学、新潮に載せた作品は純文学、 松本清張も新潮に載せた作品は純文学、小説新潮や週刊新潮に載せた作品は大衆文学、とすればそれで良い。 純文学は売れなくても賞がとれればいい。 大衆小説は売れないと賞がとれない。 サリンジャーのナインズストーリーと スティーブンキングの刑務所のリタヘイワースをどちらも原文で読んだけど、サリンジャーの独特の雰囲気のほうが勝ってる気がした あくまでも個人的な意見 純ゲームとかはないし大衆ゲームとかもない でも純文学と大衆文学の区別はある 時代による でも文章の芸術性を破棄してしまったら、 別に小説なんか読まずに漫画とか映画見てればいいんじゃねとは思う 今は境界は曖昧になりつつあるけど 60年代くらいの混ざりぐあいはすごいな 三島由紀夫の春の雪みたいのがある一方で、 松本清張の黒い画集なんかもあるんだからな 同時代にあったというのがすごい 昔は帝大出が書く西洋化されたものが純文学 江戸からの流れのものが大衆文学だったろうから 日本は西洋的近代文明を知識として取り入れたから 明治以降小説家や文芸評論家が知識人のトップランナーの位置づけだった 純文学をありがたがるのはその時の風習 >>575 だよね、オイラ的には漱石は知識も詩心も傑出してるけど、鴎外は知識だけの優等生に感じる 露伴、湖南あたりの西洋にあまり強くない人は評価されないのも残念 純文学という言葉を最初に用いたのは北村透谷だっけ 西洋の影響は否定できないね 西洋と漢籍の両方の教養を備えていたがゆえにかえって、鷗外漱石は西洋崇拝の終わった現代でもなお読むに耐えるのは皮肉 松本清張は娯楽小説のなかに純文学的な要素をとりいれた最初の作家って書いてあったけどなるほどなと思った 人は小説のなかに物語性を求めるのと同時に、人生に関わる重いテーマや文章の芸術性も求めるという強欲ぶり >>578 清張は松本文学と言ったりする人もいるが 完全なエンターテイメントだと思う 江戸川乱歩も最近岩波文庫に入ったりするけど、微妙だよね たしかに初期作品は耽美派の意味で意欲的なのもあるけど、蜘蛛男以降は完全なエンターテイメントだし >>579 どっちもあればいいじゃない 物語の中に人間も社会的テーマも入っていて面白ければいいんじゃないの? つまらないものを純文学だと保護する意味がわからない 夏目漱石はやはりA型か 理想主義なところが彼を破滅させた そもそも神話的な物ってどんな物なのか一ミリもわからん なんかすごい物って感じで適当に言ってね? >>585 漱石先生はおっしゃいました 文学の基礎は「善」「美」「真」「荘厳」「知的好奇心」の五つでてきてる このうち善や知が強くなればエンタメ寄りとなり 美や真が強なれば文学寄りとなる どんな三文小説でもその作者のものの見方を内包した文学作品であり どんな一流文学でも読者を楽しませるために書いたエンターテイメントである 今はたとえば古事記などの神話でも事実と思うやつはいないから 逆に神話という言葉の意味自体が不明確になっているのだろうが もともとは世界の始まりとか人間の誕生とか、人間とはなんなのかとかを シリアスに伝えるみたいなものだった というようなことはウィキでも分かると思う 大衆文学は短期投資。今売れなくては話にならない。 純文学と言われるものは超長期投資。100年後に長く売れることが目的。 短期での利益回収を目的に投資するなら大衆文学で、 超長期での利益を目的に投資するならそれは純文学となる。 ちなみに文章の芸術性やら云々というのは、超長期での利益を狙うための手段にすぎないが、これを錯覚すると本質が見えなくなる。 ちなみに短期であれ超長期であれ、利益(ベネフィット)を全く考慮に入れない「文学」が存在した例はない。 そういう「文学」が存在すると信じているのは、得てしてロマン派の錯覚であり、転倒の産物である。 大衆文学は何が書かれているかが大事 純文学はどう書かれているかが大事 大衆文学は一回読んだら二度読もうと思わない 純文学はスルメのように何回でも読める だからやはり純文学は教育に向いてるし学問に近いと思う >>591 そりゃ単にあんたの好みだ 俺は大衆だろうが純文だろうが一回しか読まない >>591 むしろ話は逆で 純文学こそ何が書かれているかが大事、大衆小説はどう書かれているかが大事ではないかと思う 大衆文学はSF・歴史・ロマンス・ミステリ・ホラー等のジャンルの枠の中に収まる題材しか書くことができない あくまでその枠内のバリエーションでしかないから何を書くかよりどう書くかが重要になってくる New Century New Cinema ひとはイメージという病にかかった 2009/01/15 ロッセリーニの『不安』は女を操って浮気をした妻を脅迫する夫という話で、 この「操作する」という点が共通していて面白いんですが、 後に出てきたファスビンダーやジーバーベルクらニュージャーマン・シネマの人々は ヒトラー時代に人々を操っていたメディアの作り出したイメージを 批判するための映像を発明しなければならなかったということがあります。 フランスはもちろんヌーヴェル・ヴァーグがそれ以前の老人の映画を攻撃して出てきたわけですが、 今のフランスの映画批評がなお芸術という領域にとどまり続けている(笑)というところに問題があると思います。 問題なのは映像を見る側がいまだに芸術とか娯楽とかの古い枠内にとどまってしまって、 映像イメージを日常のツールとして誰もが使用する時代に我々がかかった 「イメージの病」について考えることから背を向けていることです。 それは映像イメージが意図的または非意図的に人を操る能力を仮にそう呼んでみたんですが、 かつての映画が持っていて今のテレビが行使している機能のように、 イメージが世界を覆ってその外側がないかのように思わせる操作や、 あるいはカップルの間、人と人との間にも過剰なイメージというものが介在していて、 互いの見方を固定しにかかったり孤独にさせたりするということがあります。 そういった諸々の操作から、見る側がイメージ自身の成り立ちを考えることによって 解き放たれることができるようにする現代映画は、 イメージの病に対する一種の処方箋とも呼べるものなんです。 ©Akasaka Daisuke 公募ガイド 書くために学ぶ文学史4:近代文学の潮流 大正・昭和編(鈴木信一先 生インタビュー) 2024/02/22 明治維新とともに印刷技術が普及し、世は新聞創刊ラッシュを迎えます。当時、新聞には二種類あり、 大新聞は政論中心のインテリ向け、小こ新聞は大衆紙で、食いっぱぐれた読本作家や戯作者は小新聞で 活躍しました。最初は雑報を書いていましたが、のちにこれが新聞連載に発展、明治10年代の人気は毒 婦物と白浪物、つまり悪女と怪盗でした。 明治20年代は黒岩涙香の海外探偵小説翻案物が流行。尾崎紅葉の硯友社は小説大衆文学の台頭に娯楽性 を求めていましたが、涙香のせいで本が売れなくなり、探偵小説人気にあやかって『探偵小説叢書』を 出版、しかし、結果は惨敗だったそうです。 また、三遊亭円朝などの速記講談、立川文庫などの書き講談、講談倶楽部の新講談など庶民の娯楽が人 気を博し、なかでも明治44年創刊の講談倶楽部(現「小説現代」)は昭和10年当時、発行部数50万部と いう怪物に成長します。 文学史で言う上の文学は、それまではこれら下の文学を別種のものとし、自分たちに対抗するものとは 見なしていませんでしたが、大正時代には純文学×大衆文学という構図ができ始めます。 大正15年、芥川龍之介は中央公論誌上で、「大衆文芸家ももっと大きい顔をして小説家の領分へ切り込 んで来るが好い。さもないと却って小説家が大衆文芸家の領分へ切り込むかもしれぬ」と言い、昭和10 年、横光利一は『純粋小説論』の中で「純文学にして通俗小説」の実現以外に文芸復興はないと説きま す。 戦後は通俗性やストーリー性のない純文学はますます売れなくなり、各出版社は危機感を覚えます。 昭和22年、林房雄は「日本の小説を発展させる道は純文学と大衆小説の中央にある」と発言、久米正雄 はこれを中間小説と言い、日本初の中間小説誌『小説新潮』が創刊。『オール讀物』『講談倶楽部』も 中間小説誌になり、活況を呈します。 現在、中間小説という言葉はほとんど使われません。それは中間小説がなくなったからではなく、市販 されている小説の大半を占めているからかもしれません。 そして、中間小説の中には、今では純文学より遥かに重いテーマを扱ったものがあると言われていま す。 現代ビジネス 2023.12.21 芥川賞作家・市川沙央さんが語った「結婚観」「大学へのコンプレックス」「日本の 教育」「理想の作家像」 市川 沙央 , 村嶋 章紀 市川:いわゆるキャラクター文芸というジャンルのものですが、 ・世紀転換期ウィーン。建築家志望の伯爵令嬢が失踪した姉を探すうち、恩師の遺し たオカルティックな設計図に絡み、昔マイヤーリングで死んだルドルフ皇太子を生き 返らせようとする諸民族独立連邦化構想カルト集団の企みに巻き込まれていく話。 ・戦間期イギリス。かつてMI5に両親を殺されて拉致された公爵令嬢が正体不明の男 に救出されてスパイ教育を受け、嘘を判別できる共感覚を武器にドイツ諜報機関アプ ヴェーアのスパイとなって母国に赴き過去の真相を探る話。 ・ある日突然お前は天才人形師が作った文楽人形の生まれ変わりだと祖父から告げら れた帰国子女の主人公(女子高生)。人形師の生まれ変わりらしい無口なくろごの少年 とともに各地に散らばって呪具化している人形のパーツを回収せよと命じられ……。 ラブコメ。 市川:怒りの作家のままでいてほしいというお声はちらほらいただいています。私、 もともとエンタメではハッピーエンドのラブストーリー専門だったんですけどね。 (笑)あれはスピーチに恨み節で起伏をつけてからのポジティブな〆はやっぱりラヴだ ろうと思いまして……。ただ「愛の作家」は難易度が高いんですよ。芸術性と愛は両 立が難しく、通俗の烙印を押されがちなので。だから将来的にはその難しいことをや るんだという、向上心が込められています。 市川:作風はオールラウンダーを目指したいです。また、難病・障害者というと命を 削ってとか燃やしてとか大袈裟な形容がつくイメージもありますが、削らず燃やさず 普通にやっていきたいです。 「直観を磨くもの ―小林秀雄対談集―」[小林秀雄ほか著, 新潮文庫] 「例えばフランスですと、近代になっても文学運動の先端を切るとか、革新的なことをやる とか、そういう事は詩人がやった事が多いのです。二十世紀になってもそうなのですが、日 本では外国文学が入って来て詩人の権威というものが近代文学の中になくなって了ったので す」 「だから文学の先端を切るのは小説家という事になった。ところが小説という形式は、もと もと社会的な大衆的な形式なのだから、そこにいろいろ日本独特な動きが現れたわけです。 純文学と大衆文学との異常な対立という事も日本でなければ考えられぬ現象です。日本で は、文学の指導性というものを小説家が握っているという事になったから、そうならざるを 得んのです」 「純文学なんていう言葉も妙な言葉です。純文学運動は小説の運動というより、寧ろ西洋流 に言えば詩の運動なのです。小説の形式で詩を書いているのです。それが日本の純文学」 >>直観を磨くもの ―小林秀雄対談集― 純文学では詩の直感的な部分の比重が大きいことは確かで、それだけに分かりにくい面はある。 それを大衆にも分りやすく書けば大衆文学になるではないかと思われるかもしれないが、 現実的には難しい。 詩がある程度分るというのは一般読者の間での一つのステータスになってる面もあるから、 「純文学は難しいから良いのだ」という読者も多い。 オレが読むのが純文学 おまえら底辺が読むのが大衆文学 私も以前は純文学こそが「真の文学」だと思ってたけど、実際に色々な作品を読んでみると、大衆文学にも奥深い作品がたくさんあることに気づいた。それに、エンターテイメント性のある作品だって、人を感動させたり考えさせたりする力があると思う。だから、私は今はジャンルにとらわれずに、面白いと思った作品を読むようにしてる。 純文学は、芸術性を追求し、人間の深層心理や社会の複雑さを描き出す作品と言えます。まるで静寂の森の奥深くにある泉のように、読者を思索の世界へと誘い、深い味わいを提供します。代表的な作品としては、太宰治の『人間失格』や芥川龍之介の『羅生門』などが挙げられます。 一方、大衆文学は、娯楽性を重視し、ストーリー展開やキャラクターの魅力で読者を魅了する作品と言えます。まるで都会のネオン街を流れる川のように、軽快なテンポで読者を物語へと引き込み、爽快な読後感を与えてくれます。代表的な作品としては、東野圭吾の『容疑者Xの献身』や湊かなえの『告白』などが挙げられます。 read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる