純文学と大衆文学(通俗小説)の違いって何? [転載禁止]©2ch.net
芥川賞・・・純文学
直木賞・・・大衆文学
らしいけど、
純文学と大衆文学(通俗小説)の明確な境界線ってあるの?
確信は持てないけど、漱石は「大衆文学」として受容されていたんじゃないの? テレビもラジオもない、娯楽らしいものがない時代。
漱石の小説が朝日新聞に連載されることによって、朝日新聞の部数が飛躍的に伸びた時代。
それをイメージしてから語れ。 大江健三郎は「現代文学研究者になにを望むか」という講演でハンス・ローベルト・ヤウスの「挑発としての文学史」を引用して、通俗小説を「期待の地平にそっていてそれをこえないものである」と定義しているらしい。 70年代の話だよ。柄谷行人いわく、「私は"ピンチランナー調書"を読んで、この定義がそっくりあてはまると思った」と(笑) 少々ぶっちゃけると、文芸誌と文学賞とその周辺の人物がこれは純文学だと言えば純文学になるんじゃないのかな
村上隆が、アメリカ現代美術はよくわからない扱いされるけどあれはアメリカの美術界の特定の人間が求めているものに沿った
作品を発表する一種のゲームで、自由な表現でもなんでもない
だが、世界最大の大国アメリカには美術界の最高の才能が集まるから、素晴らしい作品が出現するんだ
といったことを語っていたけど、
純文学もちょっと似てるのか
純文学のルールみたいなものがあって、そのルールを決めてる人がいる、感じはするな
ただ、純文学の大原則として、歴史的文脈は踏まえないとダメ、というのがあって
たとえば漱石や鴎外を純文学ではない、と否定するのはNG、と >>355
>少々ぶっちゃけると、文芸誌と文学賞とその周辺の人物がこれは純文学だと言えば純文学になるんじゃないのかな
これについては「そんな事はない」って言えないんだよね。その通りなんだよ。「文芸雑誌に載ってるわけわかんない小説の事を純文学って言うんでしょ」って言われたら、「まあ、そうだね」と言うしかない(笑) >>343
貴殿の書き込みについての疑問を下記するぜ。
疑問1.『純も不純も現実として存在する』
だからさ、何を基準として「純」不純」と選者は判断してるの?
結局、選者の手前勝手な主観なんでしょ。何か判定マニュアルでもあるの?
それがオカシイとオイラは言ってるのよ。
疑問2.『日本人の言葉にたいする繊細な感覚は世界一。』
オイラに言わせれば、これも貴殿の独断と偏見だな。
そう決めつける客観的な事実(or証明)はあるの?
疑問3. 『それを否定したがるのは、日本にそういった文化があること自体が気に入らない連中。』
これも貴殿の勝手な独断と偏見だな。勝手に決めつけている。
どういう道順で、そう結論づけるのかサッパリ分からないよ、オイラにはね。
以上より、343の貴殿の言明は、少なくともオイラには何の説得力をもたない。 >>357
>だからさ、何を基準として「純」不純」と選者は判断してるの?
美醜の概念。
たとえば音痴は、歌に上手い下手はない、そんな判断は主観だ、オイラはスマップの歌は上手いと思っている! その証拠にだから売れているんだろ! 中居クンの歌が下手だというのはオカシイよ!と主張する。
音の美しさの概念がないため、売上でしか判断できない。売上は明確な客観的な基準だからそれを拠り所にする悪癖がついている。
言葉の純、不純の基準を学びたかったら、短歌教室や俳句教室に通うといいだろう。
>そう決めつける客観的な事実(or証明)はあるの?
当然ある。翻訳機。日本語の表現は多岐にわたるため翻訳が複雑になる。
たとえば「私は天才です。」という言い方は「オイラ、天才。」「俺は天才だぜ。」「僕は天才だもん。」「おれ、天才っす。」「あたしゃ、天才だよ。」「わしは天才じゃ。」
といくらでもつくれる。これは人称主語から書き手の性格がわかるという日本語の特性であり、ここに日本人の言葉にたいする繊細な感覚が発揮される。どれを使うか?
もちろん主語自体を省くこともできる。つまり主語だけが特徴ではなく、助詞の変化、その言葉の組み合わせが多種多様にあること。
なので、一つの英文でも、日本語訳にするとき、いくらで表情をつけることができる。この表情をどうつけるかが訳者の腕の見せ所である。
そして英文を翻訳機にかけると、汚いつまり不純な日本語の文章が出来上がる。
>『それを否定したがるのは、日本にそういった文化があること自体が気に入らない連中。』
日本語を扱うにはセンスが必要。だから英語、英語と喚く奴がいる。英語なら頭からっぽ考えなくてもいい。たとえば「I」という主語を使っていればいいだけだから。
日本の文化自体を知らないで否定しているとしたらよっぽど始末に負えない輩だ。死ね。 >>358
1.貴殿の言う『美醜の概念』『音の美しさの概念がないため云々』について。
要するに美醜も相対的なものだぜ。絶対的基準など有り得ない、というのが
オイラの考えさ。貴殿は、よほど短歌・俳句が好きらしいな。しかし、所詮、そんなものも、 相対的基準しか有り得ない。
『教室へ行け』とは嗤わせる。貴殿の職業は教師か。 まぁ、そんなところだろう。いかにも教師らしい発言だからな。
2.貴殿の回答『翻訳機云々』には正直、あきれたぜ。そんな程度の根拠か!
器械の進歩というものも、まるで分かっていないな。べき乗の進歩たぜ。
べき乗も何のことか分からないだろう。文系は、たから駄目だな。
さて、例えばショークスヒアなりゲーテなり、誰でもよいが、日本人より彼らが繊細さに
劣ると言えるのか。バカバカしくて話にならないぜ。
貴殿の回答『英語なら頭からっぽ考えなくてもいい。たとえば「I」という主語を使っていればいいだけだから。』
なんという単純というより幼稚な回答だな。これにもオイラは、あきれてしまった。
3.貴殿は、日本文化、日本文化と喚いているが、どの国にも文化があって、それを理解する には貴殿の言う『センスが必要』のは今更ここで書くまでもない。何も日本文化だけではない。
こんなアタリマエのことも分からんのか!!
ともかく貴殿の言明の程度の低さには、あきれるぜ。 顔を洗って出直してこい。
4.ついでに言うが『死ね』というもの言いは止めろ。小学生の小僧でもあるまいし。 この一言で貴殿の程度が分かるぜ。 >>356
現状だと基本的には文芸誌デビューだと純文学作家だね
最初にデビューした媒体で決まる
神林長平が文芸誌に書いてたら純文学作家と言われてたりして >>359
>要するに美醜も相対的なものだぜ。絶対的基準など有り得ない、というのが
>オイラの考えさ。
当たり前だ。だから人間は絶対的なものを求めようとするんだろ。真実とは何かを探すんだろ。それが文化の基本だ。
>貴殿は、よほど短歌・俳句が好きらしいな。しかし、所詮、そんなものも、 相対的基準しか有り得ない。
短歌・俳句がわかりやすいから出しているんだろ。バカか。
>『教室へ行け』とは嗤わせる。貴殿の職業は教師か。 まぁ、そんなところだろう。いかにも教師らしい発言だからな。
バカか。そこは、教室ではどんなことをしているのだろう、と想起させ、相手に考えさせる文章表現テクニックの基本だろ。字面通りしか読めないおまえはバカか。
この「バカか」というのもの同じだ。おまえがバカかどうかを聞いているのではない。
>さて、例えばショークスヒアなりゲーテなり、誰でもよいが、日本人より彼らが繊細さに劣ると言えるのか。
バカか。日本語に見られる日本人の繊細さだ。日本語がどれだけ繊細かを教え諭しているんだろ。だから短歌や俳句を出したり、翻訳におけるその差異を明示して説明しているんだろ。バカかおまえは。
おまえも「貴殿」と書いているが、それはなぜだ? おまえが、気の小さい、臆病な人間だからだろ? 日本人の繊細さとは裏を返せばそういうことでもある。
「あなた」と書くか「君」と書くか「おまえ」と書くか。それとも書かずにそれとなくわかる表現をするか。おちゃらけて「おぬし」と書くか「ユー」と書くか。
これが日本人の繊細な感覚であり、センスだ。そこから日本語が他の言語に競べ、曖昧で非論理的なものとして発達してきた。
それゆえに、純文学というものが日本には存在する。日本語だからこそ育まれた世界であり、日本人のセンスが生み出した文学だ。理解したら死ね。 >>361
あ〜言えば、こう言う。ばかばかしい。貴殿など相手にしてられん。
勝手にほざいておれ。貴殿は小学生だな。 別スレだが、大学に文学部が無くなる傾向があるようだ。
確か、昔、女子大生亡国論がはやったが(その女子大というのは大半は
文学部だろうが)、このスレでやっている議論・・・なんて高尚なものでは
ないが・・・しているようじゃぁ文学部なんて無用だ。 文学部が不要なわけじゃなくて、日本の大学そのものが危機的な状況なんだよ。少子化で子供の数が減って、全入時代。
大学の数を減らしたいが、いっぱしの矜恃をそなえた教授たちの雇用問題もあり、反対されて思うようにできない。
だから、学部を減らしていこう、ということになって、文学部に白羽の矢が立った。それだけのことで、文学の重要度をはかるものではない。しかしバカにはそれがわからない。
こういったことがすぐわかる、つまり、人の心理というか、その社会の行動の裏に隠された人間の思惑、心情などを見抜くには、まさに文学作品を読むことによって培うしかない。
理系の人間はできない。
といっても、理系文系は関係ない。純文学作品に触れているかどうかによる。数学のできる人間は意外と他人の行動が読める。原因を探るセンスがある。
教授らの職を守るためにも、大学までの教育費を無料にし、一度卒業した大人であっても、本当の知識と教養を身につけるために、入り直せる、勉強し直せるようにしたほうがいいだろう。
そのためにも老人扱いをするのは80歳をすぎてから。60や65で定年退職してブラブラしてたら病気になるか、せいぜいクレーマーになるだけだろう。こんな社会システムは無駄以外のなにものでもない。
老害、お荷物となったそいつらにももう一度学校で学んでもらい、資産運用なり、社会に役立つような仕事をしたり、リーダーになったり、起業したりして、もっと人生を十分にまっとうしてもらいたい。
そのためにもまずは純文学と大衆文学の違いくらい理解しような? ↑正論だろうが、面白くない「文章」だな。ここの住人はマジメ過ぎるよ。
もっと短く書けよ。それと此のスレ、もうスレ落ちろ。 正論じゃなくて暴論として書くけど、正論が嫌いってのは単なるクソサブカルなんだよな。今、何が正論かなんて本当はわからないでしょう、とか声高に主張してるのが最果タヒという作家なんだけど、ほんと下らない意見だと思う。そんな事わざわざ言葉にする必要ないよ。 浅田彰や中原昌也がそれを言うならわかるけどさ。最果タヒみたいな人がニヒリズムを隠そうとしないのは、僕にはものすごく幼稚に見える。 >>365は違うかも知れないけど、最果さんには「あなた本当は文化になんて興味ないでしょ」とか言いたいな。 ↑そりゃぁそうだろうよ。吾輩は名無しであるって書いてるんじゃぁないか。ハハハハ それでも、村上春樹のノーベル賞受賞が厳しい理由は、作品そのものにもあると小谷野はいう。
たとえば井上靖、遠藤周作、芹沢光治良などペンクラブ会長を務めながらノーベル賞受賞に至っていない作家もいる。
これについて、彼らの作品が通俗小説とみなされていたからではないか、と小谷野は推察している。
100年以上の歴史をもつノーベル賞なのでその受賞傾向を一概に語ることはできないが、
ひとつだけハッキリしていると小谷野がいうのが「通俗小説には与えられない」ということなのだ。
そして「春樹の作品は、ノーベル賞委員会が嫌う通俗小説なのではないかという気が私にはしている」。
とくに日本でミリオンセラーとなり海外でもヒットした『1Q84』の内容は、通俗恋愛冒険小説である、と。
純文学と通俗小説(エンタメ作品)との境界に意味があるのかというのは日本の文壇でよく議論されることだが、
海外でも純文学と通俗小説の区別はあると小谷野は断言する。
世界的に人気のあったフランソワーズ・サガンやグレアム・グリーンが受賞できなかったこと。
アメリカの作家で、フィリップ・ロスやドン・デリーロは候補になっても、ジョン・アーヴィングがノーベル賞候補として名が挙がらないこと。
それも純文学ではなく通俗小説あるいは中間小説とみなされているから。
そういう意味で、日本でも「春樹を飛ばして」多和田葉子や津島佑子、堀江敏幸のほうが可能性があるのではないかとも予測している。
http://news.livedoor.com/article/detail/9344101/ ____
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\ ` ⌒´ ,/ ポストモダンのフランスの批評家にかぶれている日本の批評家を揶揄する言葉ですね。「ポモ」って言えば自分が彼らの言説を理解しているような気になれるから便利なのでしょう。そうじゃない人もいるのかも知れないけど。 ごめん、詳しくは知らないのにイメージで書きました(笑) 2月25日(木) 平成の「中間小説」
http://www.webdoku.jp/column/meguro_n/2016/02/25/100538.html
いやはや、驚いた。「中間小説の定義が変わってきているのを知っていましたか?」とある編集者に言われたのである。え、どういうこと?
中間小説とその時代、と副題のついた大村彦次郎『文壇栄華物語』には、
「中間小説はその発足時においては、純文学と大衆文学の中間にあって、
小説本来の面白さを追求する、というのが建前であった」と書かれている。
『新潮社100年』にはもっとひらたく、「中間小説とは純文学の作家が書く娯楽小説」という記述もある。
昭和二十年代から三十年代の前半にかけて小説新潮が部数を飛躍的に伸ばしたのは
その「中間小説」が当時の読者に圧倒的に支持されたからで、
それが昭和四十年代初頭、五木寛之、野坂昭如などの登場によって若者たちの支持まで集め、
小説新潮、オール読物、小説現代などの中間小説誌の全盛期を迎え、
やがて現代のエンターテインメントに繋がっていく──というのが私たちの共通認識だ。
今年古希を迎える私も、先日四十九歳になったばかりのその編集者も、同じように考えている。
ところが、最近の若い人にとっての「中間小説」とは全然異なるというのである。
彼らにとっての「中間小説」とは、ライトノベルとエンターテインメントの中間に位置する小説だというのだ。
その場にいた編集者諸君が全員、「嘘ーっ」と言った。「ほら、ここにも書いてあります」。
来年五十歳を迎える編集者が見せてくれたのは昨年の新聞記事で、それを見ると「平成の中間小説」という見出しのもとに、
ライトノベルとエンターテインメントの中間に位置する小説が現代の若者たちに支持されていると書かれていた。
具体的に言えば、新潮文庫nex、集英社オレンジ文庫、講談社文庫タイガなどの作品群である。
あれらはてっきりラノベを入れる叢書だとばかり思っていたが、ラノベではなく「平成の中間小説」だというのだ。
「受けるから各社が競って出しているんですよ」と言った。 小説を読んで「すっきりしない」とか「もやもやする」とかいうBBA 阿刀田高氏「純文学」という言葉が日本文学の発展阻害と指摘
http://www.news-postseven.com/archives/20110309_14329.html
阿刀田高氏は1935年東京生まれ。早稲田大学文学部卒業後、国立国会図書館に勤務。
『冷蔵庫より愛をこめて』でデビュー。短編集『ナポレオン狂』で直木賞、『新トロイア物語』で吉川英治文学賞を受賞。日本ペンクラブ会長を務める。
* * *
多くの人が知るように、芥川賞は純文学、直木賞はエンターテインメントから選考される。
かつてはこうした分類が存在する意味もあったのだろう。しかし、近年は二つのジャンルの垣根が低くなり、分類する意味を持たなくなっている。
にもかかわらず二つの賞は厳然と存在している。極論すれば、ある種のセクト主義があるような気さえする。
これこそが日本の文学界が抱える大きな問題点の一つであろう。
私自身、意図的にエンターテインメントの書き手であることを選んで来たし、直木賞の選考委員という立場にもある。
したがって私の考えは一方的かもしれない。それでもなお、純文学という言葉は、日本の文学が広く親しまれることを阻害する要因だと思う。
純文学という言葉を使わなくなれば、日本の文学は世界に向かって大きく発展するはずだ。
※週刊ポスト2011年3月18日号 書店で平積みされてて気になったので図書館で予約。
やっと順番回ってきたのでワクワクと読んでみたけど
ナンジャコレ…
とにかく文章がつまらないし、取って付けたようなどんでん返し、それ必要だったの?というエピソードや登場人物…
作中に厨二病だと揶揄される登場人物も出てくるけど、この作者自身が厨二病なんだなと思わせる出来でした 批評家気取りの日本の負け犬マニアがジャンルをダメにしていく課程がよくわかるスレ。ロックも同じだし、たぶんこれから日本で生まれるジャンルもそうなっていく。ほんとにお前ら、バーゲン品みたいな大卒のダメな感じを出すのがうまいね 太宰治という大衆人気の純文学があるくらいだから、すでにもう区分け自体が無意味だよ。
純文的な読みと大衆的な読みがあるのでは。なんて考えてた時期もあるけど、活字はすべからく価値や思想の普及と固定のためにあるから、純文学だろうが大衆文学だろうが、大衆的な読みに収束する流れには逆らえない。
暴言混じりに引用で殴りあうような、読み手同士の議論なんて、10年前から猿のマウンティングとかわらなかったし、高校生のオモチャにもならないよ。 うちの近所の公民館にある図書館コーナー、小さいんだけど結構面白い本がおいてある。
お金払わずに済んだから節約したご褒美にへそくり増やす。主婦 純文学は作家自身のため、大衆文学は読者のために書かれる、以上。 >>399
ある奴のために書かれたら他の奴にはつまらなくもなる。だから面白いかどうかが基準になる。 _. -─‐-
/ ⌒ \
/ ⌒ (● ) \
/ ( ● ) 、_) ヽ
| (__ノ / |
ヽ  ̄ _ノ
>  ̄ \ >>402
納得するな。文学はすべて作家自身のために書かれている。
ただし、純文学は個性の強い作家。大衆文学は没個性だが型破りなキャラやストーリーを追求している作家。 「純文学」対「大衆文学」の違いなんて、もはや何の意味ももたないのに、ダラダラ続く空疎な「議論」の阿保くささ。
こんなバカなスレのスレオチを待ってるのだが、こんな書き込みすると、また生き返るか。矛盾だな。 何の意味もないというい奴には、何の区別もついていないのだろう。
日本人と朝鮮人の区別をするな、そこに何の意味もないのだから、みたいな。 史上最高傑作といわれるドン・キホーテは大衆文学?
シェークスピアも当時は大衆娯楽作品だったんだよね? >>404
その没個性がまさしく大衆に媚びているということでは?
読者のために書くとはそういうこと 大丈夫か?
庶民つーか大衆のほとんどが没個性だよ。
個性的な人間は100人に1人いるかいないか。だから純文学は売れない。
没個性の作家が自分の好むストーリー展開を考えて書けばそれが大衆に受ける。
だから自分が面白いと思うものを書け。てかそれしか書けないだろ。
読者に媚びて読者が面白いと思うものを書く? そんなことできるわけない。
もしそんなことが意図的にできたらそいつは神だ。まさに奇跡の人。この世界を乗っ取ることができる。 編集部が下手にそういうことをさせようとして全滅するw その没個性とやらとはなんだ?
仮に大衆が没個性として、どうして純文学を読まないことになるのか >>410
大衆文学が読者の娯楽の道具になってるのは現実にそうでしょ。手軽に感動できたり笑えたりするのを大方の読者は好む。そんな本が本当に読者の方を全く向いてないとでも思ってるの? >>412
>その没個性とやらとはなんだ?
価値観がほぼ同じということだ。
たとえば性欲があってそれに衝き動かされる。
金銭欲、物欲があってそれに目がくらみ考えや主張が変わることさえある。
>仮に大衆が没個性として、どうして純文学を読まないことになるのか
花より団子。純文学が花で団子が大衆文学。花を愛でるより団子を食いたい輩が多いってことだ。
またそういう輩が没個性の大衆の価値観だということだ。 大衆文学にラノベも入るよな?あれ見れば如何に読者に媚びてるかわかる >>415
読者の花より団子というのは、作家にも当てはまるだろ。生活のために売れる本書いてるやつは沢山いる >>414
それは作家自身が一番の読者だということだ。
作家といえど100パーセント他人を理解することはできない。
だから自分が読み手として面白いものを書く。作家にできるのはそれだけ。
「読者を意識しろ」というのはマヌケな編集者の方便。つまり読者ではなく、俺の言うことを聞いてくれ、みたいなところから来ている発言。
または、マヌケな作家志望者が、他の作家志望者に講釈を垂れるときの決り文句か。ようは、考えが浅い。 >>416
>大衆文学にラノベも入るよな?あれ見れば如何に読者に媚びてるかわかる
逆だろ。いかにラノベ作家の性癖、性的嗜好のためだけに書かれているかわかるものだ。
そこに担当編集者のそれも合わさる。つまり作家と編集者のオナニーごっこ。 >>417
>生活のために売れる本書いてるやつは沢山いる
いや、いないだろ。むしろ売れる本を書いてる作家こそ自分の好きにやれる。 >>416
おかげでラノベも衰退してきたね
一般文芸もそんな感じで、衰退し始めているところかな >>418
作家が一番の読者であって、ただ自分のために書かれた小説がある事は別に否定しないぞ。
ただ、自分自身を癒すために切羽詰まった動機で書かれた作品は面白いとか面白くないとかの次元ではないだろう。それが純文学だ。
自分が面白いから相手も面白いとか考える時点で大衆に媚びてるんだよ。それが大衆文学だ。 >>422
>ただ、自分自身を癒すために切羽詰まった動機で書かれた作品は面白いとか面白くないとかの次元ではないだろう。それが純文学だ。
純文学は癒しが目的ではない。作家の自己肯定のために書かれている。
だからどんな最低な人間でも書くことで癒やされる。肯定されるから。
つまり、純文学とは、自己肯定。
そしてその作家の自己肯定に賛同できる人間は、それを読むことで癒やされる。 >>423
いや、それはまさにおまえ自身のことだよ。
自覚、あるだろ? >>424
それはお前の願望だろ。作家の苦しみは人それぞれ。
俺が癒しというは、初期の大江健三郎が衰弱して病んでその快復を目指して書いたことや、堀田善衛の何かわからないけども書かねばならぬのだという欲求、さらには北杜夫の躁鬱病からの救済のことを言ってる。 >>426
>それはお前の願望だろ。作家の苦しみは人それぞれ。
いや、人それぞれであってほしいというのが願望。
>>427
働いてみればわかる。仕事と奴隷の違いが。
老人たちはみな寿命を迎えた臥所で「もっとちゃんと自分と向き合えばよかった」と後悔して死んでいく。そうなるまえに向きになれ。
>>428
具体的な名前が出てもみな同じ方向に動いているのがわかる。つまり「生」とは自己肯定にすぎない。真実はシンプル。 >>429
402だが、俺は426の意見の方が説得力感じるわ。お前の「自己肯定」論は独断的でしっくりこない >>430
それは>>426程度に頭が弱いからだ。少しおまえのレベルを上げてやろう。
そのまえにアンカーを振るときは「>>」を番号の前に打て。それが読者を意識するということだ。
大抵の人間は「自己満足」のために生きている。まさにそれが大衆というものだ。
しかし自己満足だけでは高度な自己実現はできない。だから優れた人間は成長とともに我慢を覚える。その過程で、自分を見つめることになる。
何のために、我慢しているんだろう、何のために、こんなことをしているのだろう、何のために、生きているのだろう、と。
そういった自分に対する疑問はいずれ自己否定へとつながる。高すぎる理想ゆえに、最悪の場合、生きていてもしょうがないと思うようになり、自殺する。
自殺しなかった人間は「自己肯定」つまり生きる力を得て生きながらえている。
むろんただ薄ぼんやりと「自己満足」のみで生きているその他大勢には無縁のことだ。彼らは辛いことがあっても満足させるものを探し一時の快楽でストレスを解消する。
何をするにしても、どんな苦難にぶち当たろうと、抗いながら「自己肯定」することで、乗り切れる。逆にそれを失ったら、濁流に呑まれ、もう死んでもいい、となる。
論ずるまでもなく、これは高潔な精神世界での出来事だ。
「自己肯定」の「自己」とはまさに「個性」だ。他人に認められるものだけが、また他人に賞賛されるものだけが、個性ではない。
ときに個性は人々から忌み嫌われ、神からも見放され、全否定される。多くの天才たちの苦悩はそこにある。
どうせ理解できないだろうから、まとめておくと、
大衆とは自己満足で生きる者。それが大衆文学。
個性的な人間とは己肯定で生きている者。それが純文学。
と、まずはそういう括りで、自分の思索を深めていけ。他人に説得力を求めているうちはおまえはまだ自分の哲学をもっていない。お話しにならないレベルだ。 >>431
救えないぐらいのウルトラエゴイズムだな。僕は他人とは違う!と手放しに認めてほしいってことだろ。お前のコンプレックスに満ちた人生が透けてみえるわ。
ただ、そうやって大衆を見下せば見下すほど、お前の凡庸さ、没個性とやらが証明されるんじゃないのか?
なぜならお前は
天才でも純文学作家でもないからだ
お前のエセ哲学には決定的な矛盾がある。もっとよく考えてみろ頭でっかち。 >>431
細かいことを言えば、自己肯定は結果論だ。作家がペンをとっているまさにその瞬間は、自身の苦悩をなんとか癒そうとする過程だ。後々、それで救われるかもしれない。しかし、幾度となく訪れる自己否定の連続と戦うことこそ文学なんだよ。
むしろニーチェの言う超人のような奴は、そもそも文学など必要としない。お前の言葉を借りれば、純文学とは自己否定を否定する試み。それこそ癒しだ。 どいつもこいつも唯我独尊。恥ずかしくないのかねぇ。だから文学屋と俺は性が合わないんだな。 ./ \Yノヽ
/ ( )( )ヽ
/ ⌒`´⌒ \
| , -) (-、.|
l ヽ__ ノ l |
\ / 何が純文学か?なんて、時代によって変わるだろ
作品内容で純文学を定義するのは不毛だ
前にも書いたけど、文芸誌に載ってるのが純文学
文芸誌の新人賞で出てきた人が純文学作家
こんな感じの大雑把な括りで純文学ムラがあって
ムラの住人が書いてるものが純文学、でいいと思う
内容じゃなくて周辺事情で決まる いや純文学は日本だけの文学だから。
情感つまり情操が表現された小説。 純文学と大衆小説は神話と民話の違いと同じだ
前者は現実にあったことあり得ることとして語られ、
後者は現実とは別の世界の話として語られる
基本両端がこれで、中央あたりでは分けにくくなる ↑
と、自分の意見も言わず説得力なんてことを申しておるバカがおりますwww シェンロン
今日の上方講談、面白かったなあ。「〜とは申しません」という話運び、完全に後の司馬遼太郎が引き継いでるやつやなあ
純文学と大衆文学という区別が何でつくか、というのはよく言われるけど純文学が三遊亭圓朝の速記から産まれたのにたいし、
大衆文学が講談の速記というルーツをもつという比較はできると思う
2016年5月27日 >>440
カフカ、マルケス、ボルヘス、バロウズ、ベケット、ピンチョン、ヴォネガット、ディック、ブルガーコフ、グラス、安部公房、残雪、ロス、大江健三郎、村上春樹
非現実を描いた純文学なんて文学歴半年の俺でもこんだけ挙げられるんだが wake up TV君宣伝やめーや
芸術性か面白さ、どちらを優先するか、あと載る媒体