純文学と大衆文学(通俗小説)の違いって何? [転載禁止]©2ch.net
芥川賞・・・純文学 直木賞・・・大衆文学 らしいけど、 純文学と大衆文学(通俗小説)の明確な境界線ってあるの? ____ / \ / / \ \ / (・) (・) \ | (__●__) | \ ` ⌒´ ,/ ポストモダンのフランスの批評家にかぶれている日本の批評家を揶揄する言葉ですね。「ポモ」って言えば自分が彼らの言説を理解しているような気になれるから便利なのでしょう。そうじゃない人もいるのかも知れないけど。 ごめん、詳しくは知らないのにイメージで書きました(笑) 2月25日(木) 平成の「中間小説」 http://www.webdoku.jp/column/meguro_n/2016/02/25/100538.html いやはや、驚いた。「中間小説の定義が変わってきているのを知っていましたか?」とある編集者に言われたのである。え、どういうこと? 中間小説とその時代、と副題のついた大村彦次郎『文壇栄華物語』には、 「中間小説はその発足時においては、純文学と大衆文学の中間にあって、 小説本来の面白さを追求する、というのが建前であった」と書かれている。 『新潮社100年』にはもっとひらたく、「中間小説とは純文学の作家が書く娯楽小説」という記述もある。 昭和二十年代から三十年代の前半にかけて小説新潮が部数を飛躍的に伸ばしたのは その「中間小説」が当時の読者に圧倒的に支持されたからで、 それが昭和四十年代初頭、五木寛之、野坂昭如などの登場によって若者たちの支持まで集め、 小説新潮、オール読物、小説現代などの中間小説誌の全盛期を迎え、 やがて現代のエンターテインメントに繋がっていく──というのが私たちの共通認識だ。 今年古希を迎える私も、先日四十九歳になったばかりのその編集者も、同じように考えている。 ところが、最近の若い人にとっての「中間小説」とは全然異なるというのである。 彼らにとっての「中間小説」とは、ライトノベルとエンターテインメントの中間に位置する小説だというのだ。 その場にいた編集者諸君が全員、「嘘ーっ」と言った。「ほら、ここにも書いてあります」。 来年五十歳を迎える編集者が見せてくれたのは昨年の新聞記事で、それを見ると「平成の中間小説」という見出しのもとに、 ライトノベルとエンターテインメントの中間に位置する小説が現代の若者たちに支持されていると書かれていた。 具体的に言えば、新潮文庫nex、集英社オレンジ文庫、講談社文庫タイガなどの作品群である。 あれらはてっきりラノベを入れる叢書だとばかり思っていたが、ラノベではなく「平成の中間小説」だというのだ。 「受けるから各社が競って出しているんですよ」と言った。 小説を読んで「すっきりしない」とか「もやもやする」とかいうBBA 阿刀田高氏「純文学」という言葉が日本文学の発展阻害と指摘 http://www.news-postseven.com/archives/20110309_14329.html 阿刀田高氏は1935年東京生まれ。早稲田大学文学部卒業後、国立国会図書館に勤務。 『冷蔵庫より愛をこめて』でデビュー。短編集『ナポレオン狂』で直木賞、『新トロイア物語』で吉川英治文学賞を受賞。日本ペンクラブ会長を務める。 * * * 多くの人が知るように、芥川賞は純文学、直木賞はエンターテインメントから選考される。 かつてはこうした分類が存在する意味もあったのだろう。しかし、近年は二つのジャンルの垣根が低くなり、分類する意味を持たなくなっている。 にもかかわらず二つの賞は厳然と存在している。極論すれば、ある種のセクト主義があるような気さえする。 これこそが日本の文学界が抱える大きな問題点の一つであろう。 私自身、意図的にエンターテインメントの書き手であることを選んで来たし、直木賞の選考委員という立場にもある。 したがって私の考えは一方的かもしれない。それでもなお、純文学という言葉は、日本の文学が広く親しまれることを阻害する要因だと思う。 純文学という言葉を使わなくなれば、日本の文学は世界に向かって大きく発展するはずだ。 ※週刊ポスト2011年3月18日号 書店で平積みされてて気になったので図書館で予約。 やっと順番回ってきたのでワクワクと読んでみたけど ナンジャコレ… とにかく文章がつまらないし、取って付けたようなどんでん返し、それ必要だったの?というエピソードや登場人物… 作中に厨二病だと揶揄される登場人物も出てくるけど、この作者自身が厨二病なんだなと思わせる出来でした 批評家気取りの日本の負け犬マニアがジャンルをダメにしていく課程がよくわかるスレ。ロックも同じだし、たぶんこれから日本で生まれるジャンルもそうなっていく。ほんとにお前ら、バーゲン品みたいな大卒のダメな感じを出すのがうまいね 太宰治という大衆人気の純文学があるくらいだから、すでにもう区分け自体が無意味だよ。 純文的な読みと大衆的な読みがあるのでは。なんて考えてた時期もあるけど、活字はすべからく価値や思想の普及と固定のためにあるから、純文学だろうが大衆文学だろうが、大衆的な読みに収束する流れには逆らえない。 暴言混じりに引用で殴りあうような、読み手同士の議論なんて、10年前から猿のマウンティングとかわらなかったし、高校生のオモチャにもならないよ。 うちの近所の公民館にある図書館コーナー、小さいんだけど結構面白い本がおいてある。 お金払わずに済んだから節約したご褒美にへそくり増やす。主婦 純文学は作家自身のため、大衆文学は読者のために書かれる、以上。 >>399 ある奴のために書かれたら他の奴にはつまらなくもなる。だから面白いかどうかが基準になる。 _. -─‐- / ⌒ \ / ⌒ (● ) \ / ( ● ) 、_) ヽ | (__ノ / | ヽ  ̄ _ノ >  ̄ \ >>402 納得するな。文学はすべて作家自身のために書かれている。 ただし、純文学は個性の強い作家。大衆文学は没個性だが型破りなキャラやストーリーを追求している作家。 「純文学」対「大衆文学」の違いなんて、もはや何の意味ももたないのに、ダラダラ続く空疎な「議論」の阿保くささ。 こんなバカなスレのスレオチを待ってるのだが、こんな書き込みすると、また生き返るか。矛盾だな。 何の意味もないというい奴には、何の区別もついていないのだろう。 日本人と朝鮮人の区別をするな、そこに何の意味もないのだから、みたいな。 史上最高傑作といわれるドン・キホーテは大衆文学? シェークスピアも当時は大衆娯楽作品だったんだよね? >>404 その没個性がまさしく大衆に媚びているということでは? 読者のために書くとはそういうこと 大丈夫か? 庶民つーか大衆のほとんどが没個性だよ。 個性的な人間は100人に1人いるかいないか。だから純文学は売れない。 没個性の作家が自分の好むストーリー展開を考えて書けばそれが大衆に受ける。 だから自分が面白いと思うものを書け。てかそれしか書けないだろ。 読者に媚びて読者が面白いと思うものを書く? そんなことできるわけない。 もしそんなことが意図的にできたらそいつは神だ。まさに奇跡の人。この世界を乗っ取ることができる。 編集部が下手にそういうことをさせようとして全滅するw その没個性とやらとはなんだ? 仮に大衆が没個性として、どうして純文学を読まないことになるのか >>410 大衆文学が読者の娯楽の道具になってるのは現実にそうでしょ。手軽に感動できたり笑えたりするのを大方の読者は好む。そんな本が本当に読者の方を全く向いてないとでも思ってるの? >>412 >その没個性とやらとはなんだ? 価値観がほぼ同じということだ。 たとえば性欲があってそれに衝き動かされる。 金銭欲、物欲があってそれに目がくらみ考えや主張が変わることさえある。 >仮に大衆が没個性として、どうして純文学を読まないことになるのか 花より団子。純文学が花で団子が大衆文学。花を愛でるより団子を食いたい輩が多いってことだ。 またそういう輩が没個性の大衆の価値観だということだ。 大衆文学にラノベも入るよな?あれ見れば如何に読者に媚びてるかわかる >>415 読者の花より団子というのは、作家にも当てはまるだろ。生活のために売れる本書いてるやつは沢山いる >>414 それは作家自身が一番の読者だということだ。 作家といえど100パーセント他人を理解することはできない。 だから自分が読み手として面白いものを書く。作家にできるのはそれだけ。 「読者を意識しろ」というのはマヌケな編集者の方便。つまり読者ではなく、俺の言うことを聞いてくれ、みたいなところから来ている発言。 または、マヌケな作家志望者が、他の作家志望者に講釈を垂れるときの決り文句か。ようは、考えが浅い。 >>416 >大衆文学にラノベも入るよな?あれ見れば如何に読者に媚びてるかわかる 逆だろ。いかにラノベ作家の性癖、性的嗜好のためだけに書かれているかわかるものだ。 そこに担当編集者のそれも合わさる。つまり作家と編集者のオナニーごっこ。 >>417 >生活のために売れる本書いてるやつは沢山いる いや、いないだろ。むしろ売れる本を書いてる作家こそ自分の好きにやれる。 >>416 おかげでラノベも衰退してきたね 一般文芸もそんな感じで、衰退し始めているところかな >>418 作家が一番の読者であって、ただ自分のために書かれた小説がある事は別に否定しないぞ。 ただ、自分自身を癒すために切羽詰まった動機で書かれた作品は面白いとか面白くないとかの次元ではないだろう。それが純文学だ。 自分が面白いから相手も面白いとか考える時点で大衆に媚びてるんだよ。それが大衆文学だ。 >>422 >ただ、自分自身を癒すために切羽詰まった動機で書かれた作品は面白いとか面白くないとかの次元ではないだろう。それが純文学だ。 純文学は癒しが目的ではない。作家の自己肯定のために書かれている。 だからどんな最低な人間でも書くことで癒やされる。肯定されるから。 つまり、純文学とは、自己肯定。 そしてその作家の自己肯定に賛同できる人間は、それを読むことで癒やされる。 >>423 いや、それはまさにおまえ自身のことだよ。 自覚、あるだろ? >>424 それはお前の願望だろ。作家の苦しみは人それぞれ。 俺が癒しというは、初期の大江健三郎が衰弱して病んでその快復を目指して書いたことや、堀田善衛の何かわからないけども書かねばならぬのだという欲求、さらには北杜夫の躁鬱病からの救済のことを言ってる。 >>426 >それはお前の願望だろ。作家の苦しみは人それぞれ。 いや、人それぞれであってほしいというのが願望。 >>427 働いてみればわかる。仕事と奴隷の違いが。 老人たちはみな寿命を迎えた臥所で「もっとちゃんと自分と向き合えばよかった」と後悔して死んでいく。そうなるまえに向きになれ。 >>428 具体的な名前が出てもみな同じ方向に動いているのがわかる。つまり「生」とは自己肯定にすぎない。真実はシンプル。 >>429 402だが、俺は426の意見の方が説得力感じるわ。お前の「自己肯定」論は独断的でしっくりこない >>430 それは>>426 程度に頭が弱いからだ。少しおまえのレベルを上げてやろう。 そのまえにアンカーを振るときは「>>」を番号の前に打て。それが読者を意識するということだ。 大抵の人間は「自己満足」のために生きている。まさにそれが大衆というものだ。 しかし自己満足だけでは高度な自己実現はできない。だから優れた人間は成長とともに我慢を覚える。その過程で、自分を見つめることになる。 何のために、我慢しているんだろう、何のために、こんなことをしているのだろう、何のために、生きているのだろう、と。 そういった自分に対する疑問はいずれ自己否定へとつながる。高すぎる理想ゆえに、最悪の場合、生きていてもしょうがないと思うようになり、自殺する。 自殺しなかった人間は「自己肯定」つまり生きる力を得て生きながらえている。 むろんただ薄ぼんやりと「自己満足」のみで生きているその他大勢には無縁のことだ。彼らは辛いことがあっても満足させるものを探し一時の快楽でストレスを解消する。 何をするにしても、どんな苦難にぶち当たろうと、抗いながら「自己肯定」することで、乗り切れる。逆にそれを失ったら、濁流に呑まれ、もう死んでもいい、となる。 論ずるまでもなく、これは高潔な精神世界での出来事だ。 「自己肯定」の「自己」とはまさに「個性」だ。他人に認められるものだけが、また他人に賞賛されるものだけが、個性ではない。 ときに個性は人々から忌み嫌われ、神からも見放され、全否定される。多くの天才たちの苦悩はそこにある。 どうせ理解できないだろうから、まとめておくと、 大衆とは自己満足で生きる者。それが大衆文学。 個性的な人間とは己肯定で生きている者。それが純文学。 と、まずはそういう括りで、自分の思索を深めていけ。他人に説得力を求めているうちはおまえはまだ自分の哲学をもっていない。お話しにならないレベルだ。 >>431 救えないぐらいのウルトラエゴイズムだな。僕は他人とは違う!と手放しに認めてほしいってことだろ。お前のコンプレックスに満ちた人生が透けてみえるわ。 ただ、そうやって大衆を見下せば見下すほど、お前の凡庸さ、没個性とやらが証明されるんじゃないのか? なぜならお前は 天才でも純文学作家でもないからだ お前のエセ哲学には決定的な矛盾がある。もっとよく考えてみろ頭でっかち。 >>431 細かいことを言えば、自己肯定は結果論だ。作家がペンをとっているまさにその瞬間は、自身の苦悩をなんとか癒そうとする過程だ。後々、それで救われるかもしれない。しかし、幾度となく訪れる自己否定の連続と戦うことこそ文学なんだよ。 むしろニーチェの言う超人のような奴は、そもそも文学など必要としない。お前の言葉を借りれば、純文学とは自己否定を否定する試み。それこそ癒しだ。 どいつもこいつも唯我独尊。恥ずかしくないのかねぇ。だから文学屋と俺は性が合わないんだな。 ./ \Yノヽ / ( )( )ヽ / ⌒`´⌒ \ | , -) (-、.| l ヽ__ ノ l | \ / 何が純文学か?なんて、時代によって変わるだろ 作品内容で純文学を定義するのは不毛だ 前にも書いたけど、文芸誌に載ってるのが純文学 文芸誌の新人賞で出てきた人が純文学作家 こんな感じの大雑把な括りで純文学ムラがあって ムラの住人が書いてるものが純文学、でいいと思う 内容じゃなくて周辺事情で決まる いや純文学は日本だけの文学だから。 情感つまり情操が表現された小説。 純文学と大衆小説は神話と民話の違いと同じだ 前者は現実にあったことあり得ることとして語られ、 後者は現実とは別の世界の話として語られる 基本両端がこれで、中央あたりでは分けにくくなる ↑ と、自分の意見も言わず説得力なんてことを申しておるバカがおりますwww シェンロン 今日の上方講談、面白かったなあ。「〜とは申しません」という話運び、完全に後の司馬遼太郎が引き継いでるやつやなあ 純文学と大衆文学という区別が何でつくか、というのはよく言われるけど純文学が三遊亭圓朝の速記から産まれたのにたいし、 大衆文学が講談の速記というルーツをもつという比較はできると思う 2016年5月27日 >>440 カフカ、マルケス、ボルヘス、バロウズ、ベケット、ピンチョン、ヴォネガット、ディック、ブルガーコフ、グラス、安部公房、残雪、ロス、大江健三郎、村上春樹 非現実を描いた純文学なんて文学歴半年の俺でもこんだけ挙げられるんだが wake up TV君宣伝やめーや 芸術性か面白さ、どちらを優先するか、あと載る媒体 夏目漱石の『こころ』なんか純文学でも有名だけど、構造的にはミステリーで どんどん読み進めたくなるよね? でも大衆じゃないのは、重点を置いてんのが「謎」ではないから どの小説にも、内容、表現、技法、構成、構造とかに双方の要素が混ざってるけど、重点を置いてる方はあるだろ そうでなければ、ただの迷作 例えば『こころ』をミステリーにしたいなら、主人公の私がKの死の真相を求めようとするシーンをたくさん作ればいいし、ホラーにしたいなら、先生が幻のKの亡霊に怯えていればいい どこに重点を置いて書いたかってこと 皆が惑わされてるのは迷作があるから 治癒しない心の傷に関わるのが純文学? という意味のことを北原武夫が言ってたような。 これは純文学の一面に過ぎないが。 江戸時代の娯楽文学の伝統を継ぐのが大衆文学? 両者を区別して必要以上に純文学を高みに置く悪習はいい加減で止めなければ。 新潮社がたまに発作のように売り出す芥川賞(候補含む)作家の主観文学も十分大衆文学だと思うけどな この点に関しては大宰治や宮沢賢治の時代から続く伝統と言えるかもしれない 作家を含めたキャラクター商売でなまじっか芸術として語れる分エンタメよりたちが悪い 定着しすぎた区分けだからどうしようもないけど 個人的には大衆文学純文学と区分けしてさらに位置してるジャンルだけで価値の優劣をつけてファン同士が争うのは関心しないな 推理小説だって近代的な人間悪の創造として語ることができるし ラノベがマンガの小説版として売れてるならそれはそれで活字のスピード感という視点に立てば立派な研究対象じゃない? 活字というのは普及を担っているから純文学の批評を読んで名作だから名作と通俗的な読みに収束するのは自然な流れだけど 報われずに動物化したインテリとまでは言わないけど、純文的な読みを放棄したまま純文優位だと言ってる人を見てるとなんだかなあと思うときがある >>447 おれは440じゃないけど 440は、現実に即したものを純文学と定義してるのに あなた現実に即してないものを純文学としてる時点で 既に議論になってないのでは? おれとしては純文学だとなエンタメだとか、そんな分類はどうでもいいし興味ないんだけど 明らかなコミュニケーションの軋轢を感じたので気になりました 説明するのも嫌になりそうなやつに絡まれてるなw 土台がないと響くものも響かないし ドナルド・トランプ「プーチン、らめえええええええ!ひぎぃ!アナルが裂けちゃううううううっ!」 むかしは私小説=純文学、時代小説=大衆文学で、読者層も違っていたのだろう >>408 そのへんは純/大衆というカテゴリーではなく、古典になってると思う 俺個人はその2つは正しくエンターテイメントだと思ってるが でも真面目な話、純文学って何? 日本の日常生活を書くだけというなら純文学とは実につまらんものだけど 純文学:作家の身辺を書く。 大衆文学:チャンバラ。 スレタイの疑問があったからスレの1から読んできた。 >>388 の、この部分で疑問が解消できた、というか疑問自体が消失した。 >多くの人が知るように、芥川賞は純文学、直木賞はエンターテインメントから選考される。 >かつてはこうした分類が存在する意味もあったのだろう。しかし、近年は二つのジャンルの垣根が低くなり、分類する意味を持たなくなっている。 文学とエンタメは違うよ リアル鬼ごっこが文学だというやつは殺されるからね 大衆文学も読まれ続けて古典になると、後世の評論家により、作者も考えてなかったような意味深い解釈が付け加えられて純文学と化す 例えば何? ちなみにドンキホーテは当時から立派な作品だと思われてたからなしな >>467 横からだけど ギリシア喜劇 シェイクスピア 「トリストラム・シャンディ」 「パミラ」 あたりは後代への影響を考えて芸術的な文学としての意義を獲得したと言えるんじゃないの SFとかは? あとゴシックロマンス、パルプフィクションも最近は研究・再評価が進んでる印象 蛇足だけど東一派が良く言及してるしラノベが再評価される可能性も充分あると思う てかもうジャンル分け自体が無意味なんじゃないの? サブカルに言及していて、キャラクターが非現実的で、文体が軽快 現代文学の最前衛筆頭のピンチョン「重力の虹」だって箇条書きにすればここまでラノベらしくなるしね >>469 東一派とやらが文芸の世界でまったく評価されてないので難しいね 少なくとも東一派とやらの文脈では無理無理 過去にヨーロッパやシナではやりまくったエンタメのジャナンルで生き残ったのは その形式を借りてインテリが書いたもの 「妖精の女王」とか そういう作品が出てくればラノベの中からも後生に残り評価されるものが可能かもしれない でも基本的な文章力をガン無視してマンガやアニメやゲームのイメージに頼り切ってるラノベには無理 >でも基本的な文章力をガン無視してマンガやアニメやゲームのイメージに頼り切ってるラノベには無理 パルプマガジンは? そもそもパルプマガジンも大衆文学てやつになり得てない 局所的なもの 純文学の定義は難しいだろうが新堂冬樹の「無限地獄」なんかは大衆文学の見本みたいな小説と言える。 パルプマガジンも局所的ならラノベも局所的じゃね? そもそも現時点で舞城や筒井康隆(時かけもラノベみたいなもん)産み出してるのに無理と断言出来る理由が分からん read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる