純文学と大衆文学(通俗小説)の違いって何? [転載禁止]©2ch.net
芥川賞・・・純文学
直木賞・・・大衆文学
らしいけど、
純文学と大衆文学(通俗小説)の明確な境界線ってあるの?
「純文学」対「大衆文学」の違いなんて、もはや何の意味ももたないのに、ダラダラ続く空疎な「議論」の阿保くささ。
こんなバカなスレのスレオチを待ってるのだが、こんな書き込みすると、また生き返るか。矛盾だな。 何の意味もないというい奴には、何の区別もついていないのだろう。
日本人と朝鮮人の区別をするな、そこに何の意味もないのだから、みたいな。 史上最高傑作といわれるドン・キホーテは大衆文学?
シェークスピアも当時は大衆娯楽作品だったんだよね? >>404
その没個性がまさしく大衆に媚びているということでは?
読者のために書くとはそういうこと 大丈夫か?
庶民つーか大衆のほとんどが没個性だよ。
個性的な人間は100人に1人いるかいないか。だから純文学は売れない。
没個性の作家が自分の好むストーリー展開を考えて書けばそれが大衆に受ける。
だから自分が面白いと思うものを書け。てかそれしか書けないだろ。
読者に媚びて読者が面白いと思うものを書く? そんなことできるわけない。
もしそんなことが意図的にできたらそいつは神だ。まさに奇跡の人。この世界を乗っ取ることができる。 編集部が下手にそういうことをさせようとして全滅するw その没個性とやらとはなんだ?
仮に大衆が没個性として、どうして純文学を読まないことになるのか >>410
大衆文学が読者の娯楽の道具になってるのは現実にそうでしょ。手軽に感動できたり笑えたりするのを大方の読者は好む。そんな本が本当に読者の方を全く向いてないとでも思ってるの? >>412
>その没個性とやらとはなんだ?
価値観がほぼ同じということだ。
たとえば性欲があってそれに衝き動かされる。
金銭欲、物欲があってそれに目がくらみ考えや主張が変わることさえある。
>仮に大衆が没個性として、どうして純文学を読まないことになるのか
花より団子。純文学が花で団子が大衆文学。花を愛でるより団子を食いたい輩が多いってことだ。
またそういう輩が没個性の大衆の価値観だということだ。 大衆文学にラノベも入るよな?あれ見れば如何に読者に媚びてるかわかる >>415
読者の花より団子というのは、作家にも当てはまるだろ。生活のために売れる本書いてるやつは沢山いる >>414
それは作家自身が一番の読者だということだ。
作家といえど100パーセント他人を理解することはできない。
だから自分が読み手として面白いものを書く。作家にできるのはそれだけ。
「読者を意識しろ」というのはマヌケな編集者の方便。つまり読者ではなく、俺の言うことを聞いてくれ、みたいなところから来ている発言。
または、マヌケな作家志望者が、他の作家志望者に講釈を垂れるときの決り文句か。ようは、考えが浅い。 >>416
>大衆文学にラノベも入るよな?あれ見れば如何に読者に媚びてるかわかる
逆だろ。いかにラノベ作家の性癖、性的嗜好のためだけに書かれているかわかるものだ。
そこに担当編集者のそれも合わさる。つまり作家と編集者のオナニーごっこ。 >>417
>生活のために売れる本書いてるやつは沢山いる
いや、いないだろ。むしろ売れる本を書いてる作家こそ自分の好きにやれる。 >>416
おかげでラノベも衰退してきたね
一般文芸もそんな感じで、衰退し始めているところかな >>418
作家が一番の読者であって、ただ自分のために書かれた小説がある事は別に否定しないぞ。
ただ、自分自身を癒すために切羽詰まった動機で書かれた作品は面白いとか面白くないとかの次元ではないだろう。それが純文学だ。
自分が面白いから相手も面白いとか考える時点で大衆に媚びてるんだよ。それが大衆文学だ。 >>422
>ただ、自分自身を癒すために切羽詰まった動機で書かれた作品は面白いとか面白くないとかの次元ではないだろう。それが純文学だ。
純文学は癒しが目的ではない。作家の自己肯定のために書かれている。
だからどんな最低な人間でも書くことで癒やされる。肯定されるから。
つまり、純文学とは、自己肯定。
そしてその作家の自己肯定に賛同できる人間は、それを読むことで癒やされる。 >>423
いや、それはまさにおまえ自身のことだよ。
自覚、あるだろ? >>424
それはお前の願望だろ。作家の苦しみは人それぞれ。
俺が癒しというは、初期の大江健三郎が衰弱して病んでその快復を目指して書いたことや、堀田善衛の何かわからないけども書かねばならぬのだという欲求、さらには北杜夫の躁鬱病からの救済のことを言ってる。 >>426
>それはお前の願望だろ。作家の苦しみは人それぞれ。
いや、人それぞれであってほしいというのが願望。
>>427
働いてみればわかる。仕事と奴隷の違いが。
老人たちはみな寿命を迎えた臥所で「もっとちゃんと自分と向き合えばよかった」と後悔して死んでいく。そうなるまえに向きになれ。
>>428
具体的な名前が出てもみな同じ方向に動いているのがわかる。つまり「生」とは自己肯定にすぎない。真実はシンプル。 >>429
402だが、俺は426の意見の方が説得力感じるわ。お前の「自己肯定」論は独断的でしっくりこない >>430
それは>>426程度に頭が弱いからだ。少しおまえのレベルを上げてやろう。
そのまえにアンカーを振るときは「>>」を番号の前に打て。それが読者を意識するということだ。
大抵の人間は「自己満足」のために生きている。まさにそれが大衆というものだ。
しかし自己満足だけでは高度な自己実現はできない。だから優れた人間は成長とともに我慢を覚える。その過程で、自分を見つめることになる。
何のために、我慢しているんだろう、何のために、こんなことをしているのだろう、何のために、生きているのだろう、と。
そういった自分に対する疑問はいずれ自己否定へとつながる。高すぎる理想ゆえに、最悪の場合、生きていてもしょうがないと思うようになり、自殺する。
自殺しなかった人間は「自己肯定」つまり生きる力を得て生きながらえている。
むろんただ薄ぼんやりと「自己満足」のみで生きているその他大勢には無縁のことだ。彼らは辛いことがあっても満足させるものを探し一時の快楽でストレスを解消する。
何をするにしても、どんな苦難にぶち当たろうと、抗いながら「自己肯定」することで、乗り切れる。逆にそれを失ったら、濁流に呑まれ、もう死んでもいい、となる。
論ずるまでもなく、これは高潔な精神世界での出来事だ。
「自己肯定」の「自己」とはまさに「個性」だ。他人に認められるものだけが、また他人に賞賛されるものだけが、個性ではない。
ときに個性は人々から忌み嫌われ、神からも見放され、全否定される。多くの天才たちの苦悩はそこにある。
どうせ理解できないだろうから、まとめておくと、
大衆とは自己満足で生きる者。それが大衆文学。
個性的な人間とは己肯定で生きている者。それが純文学。
と、まずはそういう括りで、自分の思索を深めていけ。他人に説得力を求めているうちはおまえはまだ自分の哲学をもっていない。お話しにならないレベルだ。 >>431
救えないぐらいのウルトラエゴイズムだな。僕は他人とは違う!と手放しに認めてほしいってことだろ。お前のコンプレックスに満ちた人生が透けてみえるわ。
ただ、そうやって大衆を見下せば見下すほど、お前の凡庸さ、没個性とやらが証明されるんじゃないのか?
なぜならお前は
天才でも純文学作家でもないからだ
お前のエセ哲学には決定的な矛盾がある。もっとよく考えてみろ頭でっかち。 >>431
細かいことを言えば、自己肯定は結果論だ。作家がペンをとっているまさにその瞬間は、自身の苦悩をなんとか癒そうとする過程だ。後々、それで救われるかもしれない。しかし、幾度となく訪れる自己否定の連続と戦うことこそ文学なんだよ。
むしろニーチェの言う超人のような奴は、そもそも文学など必要としない。お前の言葉を借りれば、純文学とは自己否定を否定する試み。それこそ癒しだ。 どいつもこいつも唯我独尊。恥ずかしくないのかねぇ。だから文学屋と俺は性が合わないんだな。 ./ \Yノヽ
/ ( )( )ヽ
/ ⌒`´⌒ \
| , -) (-、.|
l ヽ__ ノ l |
\ / 何が純文学か?なんて、時代によって変わるだろ
作品内容で純文学を定義するのは不毛だ
前にも書いたけど、文芸誌に載ってるのが純文学
文芸誌の新人賞で出てきた人が純文学作家
こんな感じの大雑把な括りで純文学ムラがあって
ムラの住人が書いてるものが純文学、でいいと思う
内容じゃなくて周辺事情で決まる いや純文学は日本だけの文学だから。
情感つまり情操が表現された小説。 純文学と大衆小説は神話と民話の違いと同じだ
前者は現実にあったことあり得ることとして語られ、
後者は現実とは別の世界の話として語られる
基本両端がこれで、中央あたりでは分けにくくなる ↑
と、自分の意見も言わず説得力なんてことを申しておるバカがおりますwww シェンロン
今日の上方講談、面白かったなあ。「〜とは申しません」という話運び、完全に後の司馬遼太郎が引き継いでるやつやなあ
純文学と大衆文学という区別が何でつくか、というのはよく言われるけど純文学が三遊亭圓朝の速記から産まれたのにたいし、
大衆文学が講談の速記というルーツをもつという比較はできると思う
2016年5月27日 >>440
カフカ、マルケス、ボルヘス、バロウズ、ベケット、ピンチョン、ヴォネガット、ディック、ブルガーコフ、グラス、安部公房、残雪、ロス、大江健三郎、村上春樹
非現実を描いた純文学なんて文学歴半年の俺でもこんだけ挙げられるんだが wake up TV君宣伝やめーや
芸術性か面白さ、どちらを優先するか、あと載る媒体 夏目漱石の『こころ』なんか純文学でも有名だけど、構造的にはミステリーで
どんどん読み進めたくなるよね?
でも大衆じゃないのは、重点を置いてんのが「謎」ではないから
どの小説にも、内容、表現、技法、構成、構造とかに双方の要素が混ざってるけど、重点を置いてる方はあるだろ
そうでなければ、ただの迷作
例えば『こころ』をミステリーにしたいなら、主人公の私がKの死の真相を求めようとするシーンをたくさん作ればいいし、ホラーにしたいなら、先生が幻のKの亡霊に怯えていればいい
どこに重点を置いて書いたかってこと
皆が惑わされてるのは迷作があるから 治癒しない心の傷に関わるのが純文学?
という意味のことを北原武夫が言ってたような。
これは純文学の一面に過ぎないが。
江戸時代の娯楽文学の伝統を継ぐのが大衆文学? 両者を区別して必要以上に純文学を高みに置く悪習はいい加減で止めなければ。 新潮社がたまに発作のように売り出す芥川賞(候補含む)作家の主観文学も十分大衆文学だと思うけどな
この点に関しては大宰治や宮沢賢治の時代から続く伝統と言えるかもしれない
作家を含めたキャラクター商売でなまじっか芸術として語れる分エンタメよりたちが悪い
定着しすぎた区分けだからどうしようもないけど
個人的には大衆文学純文学と区分けしてさらに位置してるジャンルだけで価値の優劣をつけてファン同士が争うのは関心しないな
推理小説だって近代的な人間悪の創造として語ることができるし
ラノベがマンガの小説版として売れてるならそれはそれで活字のスピード感という視点に立てば立派な研究対象じゃない?
活字というのは普及を担っているから純文学の批評を読んで名作だから名作と通俗的な読みに収束するのは自然な流れだけど
報われずに動物化したインテリとまでは言わないけど、純文的な読みを放棄したまま純文優位だと言ってる人を見てるとなんだかなあと思うときがある >>447
おれは440じゃないけど
440は、現実に即したものを純文学と定義してるのに
あなた現実に即してないものを純文学としてる時点で
既に議論になってないのでは?
おれとしては純文学だとなエンタメだとか、そんな分類はどうでもいいし興味ないんだけど
明らかなコミュニケーションの軋轢を感じたので気になりました 説明するのも嫌になりそうなやつに絡まれてるなw
土台がないと響くものも響かないし ドナルド・トランプ「プーチン、らめえええええええ!ひぎぃ!アナルが裂けちゃううううううっ!」 むかしは私小説=純文学、時代小説=大衆文学で、読者層も違っていたのだろう >>408
そのへんは純/大衆というカテゴリーではなく、古典になってると思う
俺個人はその2つは正しくエンターテイメントだと思ってるが でも真面目な話、純文学って何?
日本の日常生活を書くだけというなら純文学とは実につまらんものだけど 純文学:作家の身辺を書く。
大衆文学:チャンバラ。 スレタイの疑問があったからスレの1から読んできた。
>>388の、この部分で疑問が解消できた、というか疑問自体が消失した。
>多くの人が知るように、芥川賞は純文学、直木賞はエンターテインメントから選考される。
>かつてはこうした分類が存在する意味もあったのだろう。しかし、近年は二つのジャンルの垣根が低くなり、分類する意味を持たなくなっている。 文学とエンタメは違うよ
リアル鬼ごっこが文学だというやつは殺されるからね 大衆文学も読まれ続けて古典になると、後世の評論家により、作者も考えてなかったような意味深い解釈が付け加えられて純文学と化す 例えば何?
ちなみにドンキホーテは当時から立派な作品だと思われてたからなしな >>467
横からだけど
ギリシア喜劇
シェイクスピア
「トリストラム・シャンディ」
「パミラ」
あたりは後代への影響を考えて芸術的な文学としての意義を獲得したと言えるんじゃないの SFとかは?
あとゴシックロマンス、パルプフィクションも最近は研究・再評価が進んでる印象
蛇足だけど東一派が良く言及してるしラノベが再評価される可能性も充分あると思う てかもうジャンル分け自体が無意味なんじゃないの?
サブカルに言及していて、キャラクターが非現実的で、文体が軽快
現代文学の最前衛筆頭のピンチョン「重力の虹」だって箇条書きにすればここまでラノベらしくなるしね >>469
東一派とやらが文芸の世界でまったく評価されてないので難しいね
少なくとも東一派とやらの文脈では無理無理
過去にヨーロッパやシナではやりまくったエンタメのジャナンルで生き残ったのは
その形式を借りてインテリが書いたもの
「妖精の女王」とか
そういう作品が出てくればラノベの中からも後生に残り評価されるものが可能かもしれない
でも基本的な文章力をガン無視してマンガやアニメやゲームのイメージに頼り切ってるラノベには無理 >でも基本的な文章力をガン無視してマンガやアニメやゲームのイメージに頼り切ってるラノベには無理
パルプマガジンは? そもそもパルプマガジンも大衆文学てやつになり得てない
局所的なもの 純文学の定義は難しいだろうが新堂冬樹の「無限地獄」なんかは大衆文学の見本みたいな小説と言える。 パルプマガジンも局所的ならラノベも局所的じゃね?
そもそも現時点で舞城や筒井康隆(時かけもラノベみたいなもん)産み出してるのに無理と断言出来る理由が分からん でも今の純文学でラノベに勝るのって保坂と松浦理恵子だよね
阿部も町田も才能枯れたし フィリップ・k・ディックはジジェクやボードリヤールやに引用されたり、ホルヘ・ルイス・ボルヘスと比較して絶賛されたりしてるけど
ポストモダニズム以降、ディックより影響与えた主流文学ってあるの?
ピンチョンやバロウズもSFとも言えるし、マジックリアリズムは内輪で受けただけだしフォークナー1人のがよっぽど大きな功績残してるし 文学は剣より強いのか??
いじめ殺しを許さない社会にしようぜ!!!!
↓
上松煌(うえまつあきら) 作
★「九月の葬奏」(1作目「友だちを〜」と共に、作者の出生の本懐です)★
https://slib.net/71188
『作品紹介から』
初作の『友だちを殺した』と共に、作者の出生の本懐といえるものです。
世間を震撼させた「多摩川・中学生虐殺事件」に衝撃を受け、日本社会に警鐘を鳴らし
たくて書きました。
時間のないかたは、後半〜末尾にかけての主人公の「独白」をごらんください。
社会のあり方、人間の人間たる倫理正義・矜持襟度・慈悲情愛の大切さを、死をもって
訴える場面です。 問題提起の性格上、過激・苛烈な表現があります。 2015年。
作順では5番目。
プロフィール ←作品けっこう意識高いぜ。命は大事にしろ。
http://slib.net/a/21610/
社会が傍観者ばかりになったら、コワイでぇ! >>468
俺も横だけど「パミラ」は逆パターンだ
最初、神のごとく絶賛されたけど今は正気じゃ読みきれない奇書 アンナ・カレーニナは今で言うNetflixのメロドラマくらいのものだと思う
わざわざアンナ・カレーニナを大衆文学と言い張るつもりはないけど、そこからの連想として言えるのは
大衆文学でも当時を知る資料になりさえすれば個人的かつ陳腐な美学の発露程度の純文学くらいなら軽く通りこして古典と称される可能性があるってことなんだよね
一方で現代の純文学や大衆文学と呼ばれるものに妙な垣根のなさを感じることがある
それを支える要素のひとつに通信機器の普及や変遷があると思う
「既読無視マヂムカつく」というセリフのある小説があったとして
それが世代、時代、時間のどれに強く属しているか計る術がなく、現代人が現代作品を古典に認定できない以上、この現象は後世の学者の選別眼の中にしかない
国会図書館って偉大だね >>480
典型になる作風と真似すると火傷する作風の違いじゃないかな
二元論や比較まではできてもそれを価値の上下にされても困る >>484
団塊じゃないし世代とキーワードだけってのはいただけない
なんか現実でイヤなことでもあったの? 団塊にしては文体若いかw
でも君500年前くらいの陳腐な当時の人気だった作品ちゃんと読んだことある?
陳腐なものはずっと陳腐だよ
「既読無視マヂムカつく」からなにか感じるものはあるかな?
名人芸や深い洞察がないとわざわざ人は手に取らないんじゃない >>487が言ってる手に取る基準こそが団塊ぽいと言うか現代人かつ純文読みに近い人が手に取る基準でしかないんだよ
大衆文学が古典や歴史的資料になる基準、どんな純文学がかえって陳腐化するかなんて現代人の常識の範囲をはるかに超えているってはなしをしてるんだ
芸で手に取る後世の研究者もいれば、そうじゃない研究者もいる
大衆文学は逆説的に純文より上って言いたいんじゃなくて、芸や人気だけが手に取る基準じゃなくなってしまう時間の残酷さを想像してほしいだけなんだよ >>487
ちょっと意地悪な事実だと
バッハがその当時三流作曲家だったことなら知ってる
ボルヘス誕生以前のメタフィクション作品が見つかったらそれがどんな駄文でもポストモダン文学の定義すらかえる
陳腐と呼ばれているものの中に陳腐じゃないものが混ざっている例もある ちがうなあ
ジャンルこだわってるのは君じゃない?
俺は素材なんてなんでも良くてそれをどう展開するかにかかってると言いたいわけ
>当時を知る資料になりさえすれば
これだけじゃ弱いんじゃねということ
あと研究者次元の話ならむしろ大概のものは読み継がれるだろうね
俺はアンナ・カレーニナの例でもうちょっと一般人に近い感覚を想像したけど >>489
バッハが三流扱いってロマンチックな伝説に過ぎないよ >>490
古典認定の話だから当時を知る資料ってだけじゃ重要度が弱いってことならそうかもな
しかも可能性の話だしね
自分の感覚だとここ10年前後の文学作品が古典になりうる可能性ってそうそうない気がするんだけどそこはどう思う? >>491
それはわかった
そしたら二段目についてはどう? >>493
文学に新しいものなんてないっていう文学研究者の言葉をどこかで見かけた
カフカの不条理な設定をエッダやトルストイの短編で見かけた
もちろん俺の勝手な読みかもしれんが
ボルヘス以前にポストモダンな記述を見つけたとしても
それはそれで価値あることだがボルヘスの功績は薄れないというのが俺の意見 >>494
いま噛み合わなかった理由がわかった
どのみち新しいものなんてないが前提だからどう運ぶかって芸での選択重視がすぐ出たんだ
人間そうは変わらないってことがわかってたら今後の文学作品なんて読む必要ない気もしないじゃないけど、この人よくニヒリズムに陥らないなって今ちょっと感心してる それはね大好きな作品があるからだよ
あと作品は結局いろんな要素が絡んだものだから目新しい技法ひとつで全てを塗り替えることはないんじゃないかな >>496
一番いい読者だ
俺さ自分の評価が時の洗礼だと思ってる人が大嫌いなんだよ
だからてめーらの価値づけなんざ意味ねえぞって釘を刺したくて>>483を書いたんだよね
そしたら素朴なお前が来て散々だわw
でも駄作が古典になる可能性だけは否定したくないんだよな ボルヘス以前にメタフィクション的な小説って『ドン・キホーテ』ってそうじゃねえの >>495
>人間そうは変わらないってことがわかってたら今後の文学作品なんて読む必要ない気もしないじゃないけど
こういう意見はたまに批評家なんかが言うけど、目的はきちがえてないか?
本を読むのは面白いから読むのであって、別に人間について知りたいとか副次的なものだろ
>>498
ルキアノス「本当の話」
もメタっぽい >>501
面白さと人間理解の両方かな
だからこそ純文大衆の区分けが無意味だと思ってるし好きなものは好きって世界を尊重してる
どうも、ビートルズを聴くようにサルトルをじゃないけれど
道徳の議論やら言語で統一理論が果たせると思ってるおじさんたちに耳を傾けすぎたかもしれない
やっぱり90年代の文藝春秋なんか小説目的以外で読むもんじゃないね
あんなものBLOGOSと変わらないストレス反応の墓場だ 横光利一曰わく
「いったい純文学と通俗小説との相違については、今までさまざまな人が考えたが、結局のところ、意見は二つである。
純文学とは偶然を廃すること、今一つは、純文学とは通俗小説のように感傷性のないこと、とこれ以外に私はまだ見ていない。
しかし、偶然とは何か、感傷とは何か、となると、その言葉の内容は簡単に説明されるものではなく、従ってその説明も、私はまだ一つも見たことも聞いたこともないのであるが、
しかし、事がこの最初で面倒になると、必ず、そんなことは勘かんで分るではないかと人々はいう。
少し難しい言葉を使う人は、偶然のことを、一時性といい、偶然の反対の必然性のことを、日常性といっているが、感傷となると、これこそ勘で分らなければ、分り難い。
先まずあるなら、一般妥当と認められる理智の批判に耐え得られぬもの、とでも解するより今のところ仕方もない」
因みに純文学=私小説って大きな流れがあるなかでプロレタリア文学が台頭してきた時代だから横光もそれを前提に書いてる