>>41
http://www.yomiuri.co.jp/life/book/news/20160126-OYT8T50089.html?from=tw

この記事にあるように前回の直木賞で選考委員が、司馬を引き合いに出して
自分について書けば芥川賞だって言ったからそれを皮肉って司馬は馬鹿って言っただけ
よく通俗文学側から「これは純文学でも通用する」っていわれる小説は純文学のフィールドに立つとどうしようもないのが多い
(逆に芥川賞作家が売れるためにエンタメ寄りに書いたものだってひどいのがわんさかあるはず、というか総じてひどいはず)
よくあるのは太宰治を浅薄に解したような自己語りだけの小説とか
単に長ったらしい直喩だけをしつこくたくさん入れてあったりするだけのものとか

芸術としての文学っていうのは
音楽にも絵画にも彫刻にも演劇にも映画にも(たぶん)漫画にも、芸術(的な)作品というものが一般にはあるとされているわけで
文学とか小説という表現においては純文学がそれだろってこと
じゃあどうやって芸術かそうでないかを分けるのかっていうと、それは批評の仕事なんだろうけど
批評家であろうが一般読者であろうが、現代の作品を鑑賞するときに古典をぜんぜん知らないでは芸術性は読み取れないと思うよ

その上で、ただし現状の文壇(つまり大手を中心とした出版業界、ということは編集者の趣味ってことになるしかないわけだが)では
>>44が指摘している通りに媒体によって純文学としてあつかわれるか通俗文学としてあつかわれるかが決まる
朝井リョウが文学界に書いた作品は純文学としてあつかわれる
もちろん見るべきところがなくてほぼ無視されて消えていくわけだが

とはいえ現状、文芸批評なんて機能してるとは言いがたいわけで
佐々木敦なんていう音楽畑のいっちょ噛みが重宝されて書き散らしてるくらいだし
今純文学としてともかく世に出ている作品のほぼすべてが消えていくだろうね

ということはつまり、われわれ大衆は芸術それ自体を尊重するとしても
芸術としての評価の定まっていない、おそらく99.9%以上の確率で消えて行くであろう
現代の純文学作家を読むよりもエンタメを面白がる方が得だと考える
芸術としての文学に触れたいなら古典を読むよてなもんだ

こんな感じでどうでしょうか