結局「文学」そのものを分かってない奴が大半だよな [転載禁止]©2ch.net
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本来ならまず「文学」とはどんな試みをすることでどんな趣があるのか、理解しているのが前提のはず
そこをスタートラインとして、じゃあ「あの作家はどうなのか」とか「あの作品は〜」という風に語るべきなのに、そもそも文学を理解するところから始めなきゃいけないような奴が多すぎる
結局のところ理解がないが故に「これはつまらない」と批判してるようなもので、まったくもって話にならない
村上春樹を例にとってみても、村上春樹が文学的にどんな立ち位置にいてどんな評価を受けているのかを知ろうとせず
作品の構造やその「意味」を考えることもせずに
ただ「一部のお洒落読者に人気の作家」としてしか捉えていない人間ばかり
そういう人間がオナニーだのセックスばかりだのと批判するからただガヤガヤうるさいだけになる
そもそも何も考えていないくせに、どうやって「これは無価値なもの」と判断しているのか不思議でしかたがない
とにかく、そういう層こそが昨今の文学界隈じゃ一番の癌だと思う
だから先ずはそこらの評論なり巻末の解説なりを読んで深く考えてみることが重要だと思う
そういうステップを端折っておいて無帽にも通を気取ろうとするから良くないんだよ
そう思わんか >>2
根本的な問題を提起してみた
だからそれなりの意義はあると思う
>>3
作家によってそれぞれの文学があるから一概には言えないが、二次的にはその試みを読み解こうとすることを総じて読者にとっての「文学」と言えるだろうな
つまりは構造、描写、比喩等あらゆる観点から作家の意図やものの関連性を見出していくこと
国語の授業でやってきたことを思い出してみれば分かりやすい
文学の研究は大抵それと同じ延長線上にある 旧約、新約を含めた聖書他、多数の世界の古文書の中にも、嘘が意図的
に混ぜられており(意図的なテキストの部分的欠落も含まれる)、文学
とは一切のテキストに対する、ある種の懐疑のことを言うのではないか?
特にその内容の真贋や価値が主に懐疑の対象となるだろうが。
現代の、宗教から大体は自由になった現代の創作者達においても、それは
変わらないと思う。
今、世界で問われてるのは、旧約やギリシャを含めた近東の古文書を
中心としたテキストとイメージの対応関係の吟味だろう。 >>1
>とにかく、そういう層こそが昨今の文学界隈じゃ一番の癌だと思う
その「文学界隈」という通俗的な存在自体が、そもそも純然たる学問性
としての文学からは乖離しているのでは? 526 吾輩は名無しである 2015/11/29(日) 15:17:52.40
文芸誌関係者諸氏ってのはホンマにマーケティングやってないんだな。
たとえば、公務員系だと
官僚・地方公務員は、政治家に新しい政策アイデアを求められてる。
地方創生なら、田舎町がひっくり返るような近未来小説で世間の耳目を集めれば
地方も中央も公務員はいちおう眠い目をこすって読むしかなくなる。
新しい経済システムで人々の暮らしがどうなるかの近未来小説でもよい。
戦前の金融緩和策の時代の文学について評論することで、その時代の人と暮らしを伝える。
他にもいくらでもあるよな?
日経225系統なら
海外と取引のある企業が多いので、世界と日本の関係をデフォルメしてでも生々しくに伝える
物語や評論でもいいし、新しい消費社会のニーズの変化が読み取れるような思想書風の物語とかな。
いくらでもあるだろうが。
こういうのって、話題になると一応目を通さないわけにはいかないのよ。
文学界新人賞受賞の城山三郎の官僚小説が出れば、公務員は気になって見ておこうかとなるよな?
わかる?
この手のマーケットプルの小説や評論の横に滝口やら保坂みたいな小説を載せると
読み手はほんわかするわけだ。宗教系のお話をセットにするもよし。
少しは考えろ(怒)!!!!!!!!
こういう大バカのことね 個人的には飾り気のない日本語特有さを生かしたものが文学だと思うけど最近のラノベとか見るとそういう考えも廃れて成るべく難しい言葉使うのが良いっていう風潮を感じる >>8
待て待てw、元々ラノベはわざと小難しい言い回しをする芸風の最たるものだろw 現代文学のくどい文章が苦手
又吉とか最悪
かといって羽田のような詰まらんニュースのような駄文
も最悪
やっぱり漱石とか谷崎・鴎外のようなすっきりした文章
が好きだなぁ僕は >>6
「界隈」という表現にはネガティヴな響きがあるかもね
趣味として文学に勤しむ人や文学研究をしている人達のことを総括してそう呼んだだけだから他意はない
もちろん全ての文学が>>1で言うように理詰めで考察されるべき対象とは言えないよね
それこそ谷崎や宮沢賢治なんかはちょっと違う
そういうものについては単純な好き嫌いだけで話がつくのも仕方ないとは思う >>11
床屋政談レベルの自称「文学通」が、生半可に粋がって「自分ら以外は文学をわかってない」
みたいに言いたがるのは、客観的に見ると最も痛々しいのですが。 >>12
「分かってない」というより、分かろうとしていないし
積極的な考察としての文学という領域に一歩踏み込もうという気概がほとんど感じられない
上辺をなぞって紋切り型の文句を並べているだけで、文学についてのコミュニケーションとして単純に「面白み」がないのな
それに、そんな風に冷笑的な考えを持つのもある意味「文学」そのものに対する消極的な態度の表れだと思うな
それを心から楽しんでる人ならわざわざ他人をそんな風に言おうとしないからね
はっきり言って、無意味に足を引っ張ってるだけとしか思えない 文学をコミュニケーションツールにしてるがそもそも意味不明
殆どが個人的な精神活動のために文学を楽しんでるんだと思うんだけど、別に文学理論を知らなくても文学は楽しめるわけだし、文学理論を知らないと楽しめないような文学に落ち度があるのも間違いないだろう
「文学を知らない奴が文学を語るな」ならわかるが「文学を読むなら文学理論の考察にも積極的になるべき」なら意味不明
で、どっちなの? >>14
前者だよ
コミュニケーションツールというほど軽んじたつもりはないが、現に文学作品について意見交換をする場があったり素人が批評するような機会も増えているわけだから、そこから否定してしまってはあまり現実に則してないんじゃない
それじゃあこの板も何のためにあるのかわからないし
何より俺が個人的にイヤなのは、「よく知らない」人達による無責任な発言がそのまま一般的な評価として影響を及ぼしてしまうこと
「とにかく語ってみたい」「批判してやりたい」という意識ばかりが先行して底の浅い印象批評を繰り返す人があまりにも多いから一言言っておきたくなった >>13
>積極的な考察としての文学という領域に一歩踏み込もうという気概がほとんど感じられない
>上辺をなぞって紋切り型の文句を並べているだけで、文学についてのコミュニケーションとして単純に「面白み」がないのな
「積極的な考察としての文学」という文言自体が、いかにも上辺をなぞった「紋切り型」
にしか見えないのは気のせいでしょうか?
だいたい文学についての考察においての「積極」「消極」という概念からして意味不明で
あり、一体何を主張したいのかすらわかりません。
>それを心から楽しんでる人ならわざわざ他人をそんな風に言おうとしないからね
それを言うなら、わざわざ他人を指して「文学をわかってない」などと言い出した>>1
自体がそもそも無意味な態度なのでは?
ご自身に「文学を楽しめなくて消極的になって面白くない事しか言えない」という自覚
があって、それを吐露しているという事なのでしょうか?
人それぞれに意見を持つ事は構わないのですが、主張内容の「矛盾」は、見解の相違と
いう以前に、絶対的に「間違い」でしかありません。 >>15
>何より俺が個人的にイヤなのは、「よく知らない」人達による無責任な発言がそのまま一般的な評価として影響を及ぼしてしまうこと
君自身の発言も、まさにその
“「よく知らない」人達による無責任な発言”
のうちの一つでしかないのでは? >>16-17
そういうのってよくある論法だけど、漠然としたオウム返しは伝わりづらいから出来るだけやめてくれ
俺の発言が矛盾してるというならもう少し詳しく自分の言葉を付け加えてもらえれば助かる
こちらとしても読解力の限界があるから、どうしてもただの詭弁に見えてしまう
「積極的な考察としての文学」というのは確かに抽象的な言い分だったかもしれないけど別に「紋切り型」ではないんじゃない
積極的な態度と消極的な態度の差っていうのは確かに存在してると思う
印象批評だけで作品そのものの内容に切り込もうとしない姿勢はやっぱり消極的に見えるし、逆にテクストに対して一つ一つ真摯に自分の考えを持てる人は積極的であると言いたい
自分から進んである対象について「語る」ってことが少なくなった反面、なぜか「主張」だけは強くなる一方なんだよな
「語り」の伴わない「主張」が溢れかえって、無視しようにも出来ないレベルにまで来てる
個人の感情としては、ウンザリしてる >>18
>こちらとしても読解力の限界があるから、どうしてもただの詭弁に見えてしまう
喧嘩腰で文学を語ろうとした奴が、そんな泣き言とは情けないw
君自身が"one of them"でしかない集団に対して批判的に語るのは
矛盾しているでしょ。
君の主張は「自分と違う意見言ってる奴が目立つからムカつく」と
いうのと大差無い内容しか言ってない。君が他人を批判する時には
主張に根拠を強く求める割に、君自身の発言はろくに根拠も無くて
物事を表層的に決め付けて語っているに過ぎない。 >>20
単に「本を読んでない奴が無理に語ったり批判したりするな」くらいの主張
をしたいだけだったら、唐突に>>1みたいな
「自分は文学をわかっているが、わかってない奴らが多くて困る」
みたいな大言壮語を放ってしまうのは、かなりアホ臭い。
君が言う「積極的な考察としての文学」という虚飾に満ちた語彙の実態も
せいぜい
「じっくり真剣に読んで、読書感想文を書きました。」
というより以上に踏み込んだものでもなさそうだし、君の批判の矛先と
されている対象と君自身とが大差無いよ。 >>21
オブラートに包んだつもりだったんだけどな
はっきり言ってしまえば、さっきのは安易なオウム返しで何となく「言ってやった」感を演出しているだけの実にくだらん内容だよ
なぜ読者を”them”と一括りにしてるのかは本当にわけがわからんけど
お前の中じゃそういうことになってるのかしらんが
根拠ならあえて示さなくても、他のスレで作家や作品に対するレスを見てみればわかることじゃない
そういう広く行き渡った問題について話してたつもりなんだが
ちなみに俺は誰かの発言に対して反論する際に
「相手の発言を自分の尺度で勝手に要約してレベルが低いものに見せかける」「相手の発言から引用した言葉をそのまま突き付けて何となく上手く切り返したかのように見せかける」
の二つはなるべくやらないようにしてるんだけどね
コレあんま説得力ないし
自分の考えが入り込む余地を狭めるだけだからね 言っておくが「現実問題」なんだよな
俺の意見の粗がどうのこうのと言う以前に、実際に明らかな傾向として今まで語ったような人達が増えてるんだよな
なんでそれに気づかない?見て見ぬ振りをしてるのか?って言いたいくらいなんだけども >>24
だからさ、他人には「好き勝手に言うな」みたいに言いつつ、
実は君自身も好き勝手言ってるだけなんだよ。
そもそも君が主張している
「自分は文学をわかっているが、わかってない奴が大半」
というは、一体どういう根拠で何について言ってるの?
勝手に「文学」の「わかってるorわかってない」を生半可に
決め付けて、他人を批判しているのが君自身なんだよ?
そこんとこわかってる? とりあえず>>1が「分かってる奴」と「分かってない奴」の、小説に対する評価の例えを対比させればええやん
多分読んでるだろうからノルウェイの森について
「文学を知ってる奴の評価」と「知らん奴の評価」で >>18の、
「語ることが少なくなってる反面、主張だけが強くなる」
っていうのは同意。主張を語りだと思ってる層が多い気がする
本来、主張なんて語りの表面張力程度なのにな
>>27のように「評価」に短絡させるのも同じ 付け加えれば、主張型の人って語る人に対してけんか腰なんだよな
で「おれは主張してるわけじゃない。楽しみとして読んでるだけだ」
って言うの。あれ、なんでかね でも>>1には悪いが、村上春樹は全然文学ではないと思っているけどなw
そういう理由はここで書くようなものでもないからな 言っちまえばおよそ相対比較だからな。
19世紀欧米文学で「文学が分かる」って言ってる人には春樹を読んで文学だって人は「文学が分からない人」。
春樹のようなものをもっぱらに読んで「文学が分かる」って言ってる人には19世紀欧米文学を読んで文学だって人は「文学が分からない人」。
ベートーベンで「音楽だ」って人はビートルズ愛好家は「音楽の分からない人」。
ビートルズで「音楽だ」って人はベートーベン愛好家は「音楽の分からない人」。
どっちも同じ土俵で話をしてないからな。言いあいはバカバカしいだけ。
更に言っちまえば、「分かる」「分からない」なんてことを言えるのは一家をなしているスーパーエリートだけで、あんたたちじゃないんだよ。 「文学への理解」ってのは大きな表現に見えるかもしれないけど、それが作家ごとに異なる形態で存在するものだと考えてみればそう難しい話じゃない
まあ俺はそういう風に考えてる
太宰には太宰の文学があって、カフカにはカフカの文学がある
そのそれぞれがどんな考察を受けて、どんな発展があったのか、それを個々に分かっていさえすればつまらない文句を垂れるような事態にはならないだろうというわけ
ここで言うところの「差」はつまり、単純にその理解の有無で生まれてるだけ
別に「文学を分かってる」と「文学を分かってない」の間に天と地ほどの違いがあるとかそんな大層なことは言ってない
そうじゃなくて俺が言っておきたいのは、「作家や作品に対して自分なりの考えを持てているのかどうか」という簡単な一点に尽きる
それがない人はいくら口を開けても主張主張で建設的な意見というものがまるでない
それは批判の場合も賞賛の場合も同じ
そんなゴミゴミした輩のことを「アンチ」とか「信者」とかって呼び方をしてるんだろ 「自分なりの考え」や「相対主義に見える」が、実はそうじゃない
ところに価値や意義は発生する >>34
だからさ、それで「分ってる」「分っていない」を言えるのは絶対価値を提出できてるスーパーエリートだけなんだよ、ってこと。
そうじゃない人が「分っている」「分ってない」と言ったって、ただの読者のオマエがなんだよ、ばーか、でおしまいさ(笑 そういう価値を書くのは難しいが読んでそれと分かる人は全人類の中で
思っているより多くいる、ってのが分からないまま文学読んでて何が面白いのか謎 「これが絶対の価値だ!」とゆー価値は読者の数だけある。
それを「相対価値」ってゆーんだよ、ばーか(笑 >>23の中で述べた「下手な反論によくあるクセ」は、下手な批評文にも通じるものがあるよね
「身勝手な要約」についてはまさにそう
ある作品に対して「コレは結局〜〜と言っているだけの陳腐な代物ですよ」とかいった論調を使って、自分自身の安易な解釈に作品の方を無理やり近づけようとする
まさにこのスレで展開されたみたいにね
批判の失敗例としては実に色んなところで見かける 浅田彰が好んで使う、批判的表現にkitch(キッチュ)というのがあるけど、
現代において、「キッチュ」が中産エリート階級が、芸術の鑑賞者として
も エリートの一員であるとの自己満足を与えるための物であるとするなら
ば、まさに そのキッチュだったのが、浅田や柄谷、蓮實、中沢、大澤、東
ら、ニューアカ デミズムの一連の批評家達の生産するエッセイ群だったと
いうことはイロ ニーでも何でもなくて、それはキッチュの本質そのものだっ
た。 >>38
そういうのが全部、君自身にブーメランになってないか?
もう一度>>25も読め。
そして>>1を客観的に読んで、>>1自身が「下手な批判」を
している事に気付くべき。 >>1
ドスト、ゲーテ、ダンテが好き。
文学作品にも色々あるでしょうよ。 >>42
もし「コミュニケーションツールとしての文学」に重点を置くならば、
一流かどうかよりも「大衆的な認知度の高さ」のみが重要になるはず。 そもそもスレの主旨って何だろ?
>>1がアホなせいで話の要領を得ない。 坂口安吾は思想性と戯作性を兼ね備えたものって言ってたな
思想性に重きを置きすぎているという点で日本文学全般を批判している >>45
1が書いているのは要するに
春樹を悪く言う人がいるが許せない!
けどそういう人が多いから、もしかして自分には分からない根拠があるのかな(ドキドキ)
でもそんなの素直に聞けないし、上から煽ってみたら誰かが語ってくれるかも
ってことのような気がする おい…ここって仮にも文学板だろ
「アホ」の一言で済むのは小学生までだろ
もちろん今までずっと続けてきた短絡的思考をすぐにやめて思慮深くなれるような奴はいないだろうけど、もう少し「話の中身」にこだわってみる努力をしたらどうなの
例えば>>47のような「要約」がまったく見当違いなことくらい、今までのレスを読めば容易に分かることだろ
そういう「読みの浅さ」がちょうど俺が挙げてる文学の評価態度と被るんだよな
これだけまとめて噛み砕いて言ったんだから主旨が分からないはずないじゃん
現に>>28なんかは要点を押さえてるし
わざわざ>>33でも「俺が言っておきたいのは」と前置きしたのにさ
それで分からないならもう、致命的な読解能力の欠如でしかないでしょ 本物に出会えるまで地道にいろいろ読んでくしかないよ 例えば、>>40みたいに周りだけを取り繕ったような「曖昧な批判」がどうして起こってしまうのか考えてみる
恐らく彼は「こいつの意見は間違っている」と本気で思っているんだろうけど、それがあくまでも「感覚」の域を出ていないのな
感覚的に「何だかこいつの発言は腑に落ちないぞ」という意識を持っていたとしても、それを論理的に説明する術を持たないせいで、反論としてはあまりに不十分な代物に出来上がってしまってる
この現象を俺が言っているところの「上辺をなぞっただけの批評」に照らし合わせてみれば分かりやすい
感覚的に「何だかこの作品、作家は悪い(あるいは素晴らしい)気がするぞ」という意識があっても、その対象を一つ一つ分解して自分なりの考えを述べることが出来ないのなら全くもって意味がない
もちろん「私は嫌い」「私は好き」などと純粋な感想を述べるぶんには何も問題はない
だけど先にも言ったように、そんな主観的評価を対象そのものの絶対的価値として「主張」したがる人間が多すぎる
つまり「語り」を伴わない「主張」だね
それが本当に、目に余るほど多くなっている @主観を交えない機械的な評価
A@をやってるふりしても主観が混じってる評論
B何から何まで自分の好き嫌いだけで決めてる評論
評論としては@が最も望ましい、でも人間がやる以上難しい
世の中のほとんどの評論はA
Bも単なる感想なら文句はない、しかし「俺が嫌いだから価値がない」と言い出すと最悪
こういうことだろ >>49
「今までのレスを見れば分かる」って何だよw
1って名乗ったレスが1以外にあったか? 1は人のレスに乗ってるだけ
細かいことを言うようだが、そういう細かいごまかしに敏感じゃない人間が
何読んでも文学から永遠に遠いと思うよ >>49
ちなみに自分は>>47だが、>>28でもあるんだよ
バカバカしくて脱力するわ >>52
そんな分類の仕方があったかww
確かに概ねそんなところだね
若干訂正するとすれば、ほとんどの場合Aは「混じってる」どころか主観だけで構成されてることが多いな
少しでもテクストから読み取れる根拠を挙げていれば多少は説得力があると思う(もちろん「勝手な要約」は根拠にならないが)
それが全くないというのがつまらないところなんだよな >>54
それはまた変な話だな
なんで>>47みたいなレスをしたのか不思議 >>53
>>1,4,11,13,15,18,23,24,33,38,49,51,55かな(全部安価つけると規制食らうっぽい)
こうして見ると割とグダグダはあったものの、言いたいことは大体言ったかな
まあ完璧な持論を展開して悦に入ろうというわけじゃないよ
現実に起こってるレベルの低下を「指摘」した程度に思ってくれればいい
その悲惨さだけは確実に存在してるからね
あわよくばそれが一ミリでもマシになればいいんだけどな >>58
モーパッサンの『ピエールとジャン』を読め
150年前からすでに低レベル >>58
>あわよくばそれが一ミリでもマシになればいいんだけどな
君の存在は「世間の平均」の足を引っ張る側にしか見えない。
まず君が自省するだけでもマシになるよ。 >>56
変でも不思議でもない。お前がバカということ。 >>61
いや、少なくとも>>28ではそこまでの要点を押さえた発言をしているだろ
村上春樹の例なんて「例」以外の何物でもないし、俺が個人的に村上春樹への悪評をどう思ってるかなんてその後一言も触れていないことくらい分かってるはずなのに一体どうしたんだろうと
おかしくないというなら、>>47みたいな解釈がどんな根拠から生まれたのか説明してほしい
それにしても「バカ」とか「アホ」とか、その場凌ぎで間に合わせたようにレッテルを押しつける人が多いな
そうやって吠えるだけなら誰でもできるんだよ
だからこそその手の批判態度は無意味だって再三言ってるのに >>62
どうみてもアホな奴を何と呼べばよいのか?
やはり「アホ」と言うしかないw >>64
それにしても「バカ」とか「アホ」とか、その場凌ぎで間に合わせたようにレッテルを押しつける人が多いな
そうやって吠えるだけなら誰でもできるんだよ
だからこそその手の批判態度は無意味だって再三言ってるのに ここのバカは勉強熱心な大学生かなんかだろ
言うこと成すこといちいち独自の文学的スタンスにおいて定義していかないと気が済まないなんて全くばかげてるわ 勉強熱心と言うか、いわゆる「意識高い系」であって本質的には
ろくに勉強してないと思う。 バカなのは成長すればいいことだからかまわないが、
バカとかアホって言われた時に「レッテル押し付けられた」
としか思わない感性がけっこう怖い 何というか、中身のない言葉ほどある種の暴力的な強さがあるもんだな
思慮の足りなさから来る「遠慮のなさ」というのか…
それははたから見れば愚かではあっても、本人にとっては「全能感」にも近い何かがあるのかもしれん
もちろん論理的に敗北している以上それはただの錯覚に過ぎないわけなんだけど
そのスタンスが文学や映画の批評にも通用すると思っているからイヤなんだよなー
まあそんな風に強がりつつも、若干の「後ろめたさ」を感じてくれているならまだ救いはあると思う
流石にここまでの内容を踏まえてもなお、全く自覚できないなんてことは無いはずだからな お前、自分のレスが仮にも世に出てる本や映画並みに
相手にきちんと語られる価値があるものだと思ってるのか? 何かをなぞったようなことしか言えてないから失笑を買うんだろうね まだ若いのか?
今時文学とか言ってるやつが一番わかってないのは自覚してるのかね
とうの昔に死んだジャンルだよ
ゾンビでもあるけどな
ロメロ系の 文学の理解について思うのは難しいってこと
例えば作家や評論家は理解してるのだろうか
ってくらいというか作家や評論家も紋切型が
多くないかとかそもそも理解してる人なんて
いるのかな >>74
形而上学であり唯物的でもあるというジャンルだからなあ 読解の試行錯誤の回数と、一回ごとの充実度が文学理解への道ではないか?
例えば、若い内は自分の一番好きだが、世間では難解とされてる評論文を
何度も繰り返し読むとか。
乱読は25才過ぎくらいからで良い。
以上が欧米での考え方では? つまらない小説読みまくるより良質な批評読んだほうがいいよ
蓮實重彦曰く批評は小説にもっとも近いジャンルとかなんとか つまらない批評読みまくるより良質な小説読んだほうがいいよ
良質な小説はそのへんの似非批評より全然まともに批評だから
というのも同じように言える 批評もいいんだけど、言いっぱなしなのが気に入らない
「一体なぜそう主張するのか?」「その根拠は何か?」
「それは単に貴方がそう思う、というだけでないのか?」
とか聞きたいことが山ほどあるのに、こちらからの主張は絶対に受け付けない 本に何か聞いたり主張を受け付けてもらうっていう状況が
どういうことを指すのかよくわからない
しかしまあそういう不満が残るのは、それが良質じゃないからなんじゃないの? シラミ。ディケンズは批評家をそう呼んだ。豚。D・Hロレンスはこの呼び方を好んだ。 文学ってのは大きく分けて2系統の道がある。
ひとつは学問的に文芸作品を扱う方向。言語や思想、レトリックなどなど、いろいろな
切り口で作品をとらえ考え、分析と統合作業のデータとするもの。
無論面白さも学問的にとらえようとする試みもありだろう。
もうひとつは単なる娯楽。言語が理解できれば、ちょっと読んでみて面白ければ
読み進めばいいし、つまらなければやめればいい。すべては読み手の勝手で、
名作だと言おうが、駄作だと言おうがどうでもええ。
単なる娯楽で読書しているやつに、学問的な姿勢を取れってのはお門違いの馬鹿
でしかない。
たとえば、川端の雪国を読んで、つまらんと表明しても、それが娯楽読みならば無問題。
しかし、学問的に俎上にのぼして、評価ができなければ、それは未熟の烙印を押される。
問題なのは、どういう姿勢で読むかってこと。
姿勢と言っても全裸で待機とかの意味にあらず。 近代思想では当たり前だけど
批評は小説を脱構築する
脱構築すると同時に構築もする
言葉を紡ぐわけだからね
坊ちゃんの批評を過不足なくしていくと坊ちゃんとは違うものと不意に出会う
批評家も読み手も
批評とはそういうもの
とても小説に似ている
ヌーベルバーグの父親的存在アンドレバザンが批評で映画を撮っていたようなものだ なるほど〜不意に出会ったものが大事だな
結局書き手の有り様が出る >>85
そう
小説を小説たらしめているものは不意に出会う何かだ 西鶴のやうな天才は別格としても、散文とも詩とも云ひ切れない小説といふジャンルをどのやうに生かすかは、小説家が本来背負つた課題といへます。
散文の特色は、日常生活と同じ意識で辿れることです。
同時にそれはそれ自身の美に読者をひきこむ力を持たないのです。
理智だけに訴へることを建前とする以上、それが当然です。
むろん、自分を飾る気持などまったくなくとも、ある散文の文章が、素材の丹念な蒐集、簡潔な表現によって読む者に興味を感じさせる場合があります。
美を目的としない散文が独自な美を持つ場合も、長い文章の歴史の上では、決して乏しくないかも知れません。
しかし、それらの美は少なくも意図されたり、故意の努力によって得られたものではない筈です。
さうでなければそれは本来の散文とは云へません。
小説の詩と美は文章の形の上に出るわけに行かなければ、その内面、すなはち筋と人物の性格によつて現はれるほかはないのですが、筋は、つきつめれば、人物の言動によつて作られるのですから、小説を文学たらしめるものは、人物の行動と性格だといへます。
(中村光夫「小説とはなにか」より) ところで行動は性格の現はれと見られますから、小説の面白味は、結局人物の、とくに主人公の性格の魅力に存することになります。
人をひきつける力を他より際立つて持つことは凡人にできることではありません。
だから小説の主人公になる者は、必ず何らかの点で、英雄でなければならないので、どんなに凡人らしく見える男、たとへばオブローモフでも、彼は凡人に徹するところで並の人間には到底及ばない卓越性を持つているのです。
「小説は叙事詩の子孫だ」といふ言葉はこの点を道破したものと思はれます。
叙事詩の主人公がみな英雄であるやうに、小説の主人公もその血をひいているので、彼らが他の凡人たちと同じでは小説の世界は成り立たないのです。
しかし現代の小説の読者は古代の叙事詩の聴衆と違つて、英雄たちを神々と人間の間の存在としてうけ入れ、それより低い序列に自らは甘んじることはしなくなつているので、彼らは英雄にも一面において人間であることを要求し、彼らの仲間と見なければ、承知しないのです。
(中村光夫「小説とはなにか」より) 散文といふ小説の表現手段がここでもものを云ふので、それによつて表現された英雄は人間としての実在性を持たなければ、空疎な想像の所産としか見られないのです。
近代小説の主人公(これがヒーローの訳語であることは云ふまでもありません)がしばしば反英雄とも呼ぶべき存在であるのは、オブローモフの例にも見る通りです。
ーーーーー中略ーーーーーー
英雄であれ、反英雄であれ、小説の主人公が、その表現の散文性を内部の詩によつて生かすことに成功するためには、一面においてその時代の生んだ人間として現実性を持つとともに、他面、同時代の凡人に見られぬ、或る秀抜な資性を持つことを必要とするので、
このやうに、周囲の凡庸の同化力に苦しみ、自己の特質にみづから気付かぬ、英雄をつくりだすことは、小説にとつて、本質的な必要事であり、ある時代に小説が文学として生きるか否かは、これに成功するかどうかで決せられるのです。
(中村光夫「小説とはなにか」より) 「文学というものは普通文学者が考えるよりも遥かに文学的なものではない。(中略)この考え方は文学的ではないか」という小林秀雄の有名な台詞があるけど、これについて誰か解説して下さい。 小林秀雄はカフカをあまり評価してなかったんだよね。でもカフカは小林が尊敬してやまないドストエフスキーを愛読してたみたい。 「でも」なしで、カフカ「は」を「も」にして、文末を「みたいだけど」かな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています