結局「文学」そのものを分かってない奴が大半だよな [転載禁止]©2ch.net
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本来ならまず「文学」とはどんな試みをすることでどんな趣があるのか、理解しているのが前提のはず
そこをスタートラインとして、じゃあ「あの作家はどうなのか」とか「あの作品は〜」という風に語るべきなのに、そもそも文学を理解するところから始めなきゃいけないような奴が多すぎる
結局のところ理解がないが故に「これはつまらない」と批判してるようなもので、まったくもって話にならない
村上春樹を例にとってみても、村上春樹が文学的にどんな立ち位置にいてどんな評価を受けているのかを知ろうとせず
作品の構造やその「意味」を考えることもせずに
ただ「一部のお洒落読者に人気の作家」としてしか捉えていない人間ばかり
そういう人間がオナニーだのセックスばかりだのと批判するからただガヤガヤうるさいだけになる
そもそも何も考えていないくせに、どうやって「これは無価値なもの」と判断しているのか不思議でしかたがない
とにかく、そういう層こそが昨今の文学界隈じゃ一番の癌だと思う
だから先ずはそこらの評論なり巻末の解説なりを読んで深く考えてみることが重要だと思う
そういうステップを端折っておいて無帽にも通を気取ろうとするから良くないんだよ
そう思わんか 勉強熱心と言うか、いわゆる「意識高い系」であって本質的には
ろくに勉強してないと思う。 バカなのは成長すればいいことだからかまわないが、
バカとかアホって言われた時に「レッテル押し付けられた」
としか思わない感性がけっこう怖い 何というか、中身のない言葉ほどある種の暴力的な強さがあるもんだな
思慮の足りなさから来る「遠慮のなさ」というのか…
それははたから見れば愚かではあっても、本人にとっては「全能感」にも近い何かがあるのかもしれん
もちろん論理的に敗北している以上それはただの錯覚に過ぎないわけなんだけど
そのスタンスが文学や映画の批評にも通用すると思っているからイヤなんだよなー
まあそんな風に強がりつつも、若干の「後ろめたさ」を感じてくれているならまだ救いはあると思う
流石にここまでの内容を踏まえてもなお、全く自覚できないなんてことは無いはずだからな お前、自分のレスが仮にも世に出てる本や映画並みに
相手にきちんと語られる価値があるものだと思ってるのか? 何かをなぞったようなことしか言えてないから失笑を買うんだろうね まだ若いのか?
今時文学とか言ってるやつが一番わかってないのは自覚してるのかね
とうの昔に死んだジャンルだよ
ゾンビでもあるけどな
ロメロ系の 文学の理解について思うのは難しいってこと
例えば作家や評論家は理解してるのだろうか
ってくらいというか作家や評論家も紋切型が
多くないかとかそもそも理解してる人なんて
いるのかな >>74
形而上学であり唯物的でもあるというジャンルだからなあ 読解の試行錯誤の回数と、一回ごとの充実度が文学理解への道ではないか?
例えば、若い内は自分の一番好きだが、世間では難解とされてる評論文を
何度も繰り返し読むとか。
乱読は25才過ぎくらいからで良い。
以上が欧米での考え方では? つまらない小説読みまくるより良質な批評読んだほうがいいよ
蓮實重彦曰く批評は小説にもっとも近いジャンルとかなんとか つまらない批評読みまくるより良質な小説読んだほうがいいよ
良質な小説はそのへんの似非批評より全然まともに批評だから
というのも同じように言える 批評もいいんだけど、言いっぱなしなのが気に入らない
「一体なぜそう主張するのか?」「その根拠は何か?」
「それは単に貴方がそう思う、というだけでないのか?」
とか聞きたいことが山ほどあるのに、こちらからの主張は絶対に受け付けない 本に何か聞いたり主張を受け付けてもらうっていう状況が
どういうことを指すのかよくわからない
しかしまあそういう不満が残るのは、それが良質じゃないからなんじゃないの? シラミ。ディケンズは批評家をそう呼んだ。豚。D・Hロレンスはこの呼び方を好んだ。 文学ってのは大きく分けて2系統の道がある。
ひとつは学問的に文芸作品を扱う方向。言語や思想、レトリックなどなど、いろいろな
切り口で作品をとらえ考え、分析と統合作業のデータとするもの。
無論面白さも学問的にとらえようとする試みもありだろう。
もうひとつは単なる娯楽。言語が理解できれば、ちょっと読んでみて面白ければ
読み進めばいいし、つまらなければやめればいい。すべては読み手の勝手で、
名作だと言おうが、駄作だと言おうがどうでもええ。
単なる娯楽で読書しているやつに、学問的な姿勢を取れってのはお門違いの馬鹿
でしかない。
たとえば、川端の雪国を読んで、つまらんと表明しても、それが娯楽読みならば無問題。
しかし、学問的に俎上にのぼして、評価ができなければ、それは未熟の烙印を押される。
問題なのは、どういう姿勢で読むかってこと。
姿勢と言っても全裸で待機とかの意味にあらず。 近代思想では当たり前だけど
批評は小説を脱構築する
脱構築すると同時に構築もする
言葉を紡ぐわけだからね
坊ちゃんの批評を過不足なくしていくと坊ちゃんとは違うものと不意に出会う
批評家も読み手も
批評とはそういうもの
とても小説に似ている
ヌーベルバーグの父親的存在アンドレバザンが批評で映画を撮っていたようなものだ なるほど〜不意に出会ったものが大事だな
結局書き手の有り様が出る >>85
そう
小説を小説たらしめているものは不意に出会う何かだ 西鶴のやうな天才は別格としても、散文とも詩とも云ひ切れない小説といふジャンルをどのやうに生かすかは、小説家が本来背負つた課題といへます。
散文の特色は、日常生活と同じ意識で辿れることです。
同時にそれはそれ自身の美に読者をひきこむ力を持たないのです。
理智だけに訴へることを建前とする以上、それが当然です。
むろん、自分を飾る気持などまったくなくとも、ある散文の文章が、素材の丹念な蒐集、簡潔な表現によって読む者に興味を感じさせる場合があります。
美を目的としない散文が独自な美を持つ場合も、長い文章の歴史の上では、決して乏しくないかも知れません。
しかし、それらの美は少なくも意図されたり、故意の努力によって得られたものではない筈です。
さうでなければそれは本来の散文とは云へません。
小説の詩と美は文章の形の上に出るわけに行かなければ、その内面、すなはち筋と人物の性格によつて現はれるほかはないのですが、筋は、つきつめれば、人物の言動によつて作られるのですから、小説を文学たらしめるものは、人物の行動と性格だといへます。
(中村光夫「小説とはなにか」より) ところで行動は性格の現はれと見られますから、小説の面白味は、結局人物の、とくに主人公の性格の魅力に存することになります。
人をひきつける力を他より際立つて持つことは凡人にできることではありません。
だから小説の主人公になる者は、必ず何らかの点で、英雄でなければならないので、どんなに凡人らしく見える男、たとへばオブローモフでも、彼は凡人に徹するところで並の人間には到底及ばない卓越性を持つているのです。
「小説は叙事詩の子孫だ」といふ言葉はこの点を道破したものと思はれます。
叙事詩の主人公がみな英雄であるやうに、小説の主人公もその血をひいているので、彼らが他の凡人たちと同じでは小説の世界は成り立たないのです。
しかし現代の小説の読者は古代の叙事詩の聴衆と違つて、英雄たちを神々と人間の間の存在としてうけ入れ、それより低い序列に自らは甘んじることはしなくなつているので、彼らは英雄にも一面において人間であることを要求し、彼らの仲間と見なければ、承知しないのです。
(中村光夫「小説とはなにか」より) 散文といふ小説の表現手段がここでもものを云ふので、それによつて表現された英雄は人間としての実在性を持たなければ、空疎な想像の所産としか見られないのです。
近代小説の主人公(これがヒーローの訳語であることは云ふまでもありません)がしばしば反英雄とも呼ぶべき存在であるのは、オブローモフの例にも見る通りです。
ーーーーー中略ーーーーーー
英雄であれ、反英雄であれ、小説の主人公が、その表現の散文性を内部の詩によつて生かすことに成功するためには、一面においてその時代の生んだ人間として現実性を持つとともに、他面、同時代の凡人に見られぬ、或る秀抜な資性を持つことを必要とするので、
このやうに、周囲の凡庸の同化力に苦しみ、自己の特質にみづから気付かぬ、英雄をつくりだすことは、小説にとつて、本質的な必要事であり、ある時代に小説が文学として生きるか否かは、これに成功するかどうかで決せられるのです。
(中村光夫「小説とはなにか」より) 「文学というものは普通文学者が考えるよりも遥かに文学的なものではない。(中略)この考え方は文学的ではないか」という小林秀雄の有名な台詞があるけど、これについて誰か解説して下さい。 小林秀雄はカフカをあまり評価してなかったんだよね。でもカフカは小林が尊敬してやまないドストエフスキーを愛読してたみたい。 「でも」なしで、カフカ「は」を「も」にして、文末を「みたいだけど」かな 最終的にはできないと思うけど、あえて無理矢理するとしたら、ですね。 期待しすぎってのもわからんな
結局個人差があるが世の中心の底から読めてよかったと思える作品があるわけだし
いつの時代もそんな作家がどこかにいることを期待している ばか、人と書いたモノが≒でつながるわけないだろ。ホントアタマ悪いな >>1
これに近いことを西加奈子が語ってたが本人じゃないよな? 作家が「読者が不勉強だから自分の文学は理解されない」とか嘆いて見せるような芸風は端的にダサいんじゃないかと思うけどな。撃つなら批評家を撃った方がいいよ。 どこかのスレであったけど、露伴が読めないから駄作だ、ってのと同じだな。
ターゲット層に入りたければ、読者も努力しなければならないのは当然、
なのは考えりゃわかるだろ。
努力せずに読めるモノなら春樹にしろ!(笑 Bエントランスのチンピラ一家に悩まされていましす。親子4人ですが、
親父は見るからにハゲベブな輩、嫁もそれなりの豚。
会っても勿論、挨拶なんて一言も無し、
臭すぎ!頼むから風呂入ってくれと思う
中学生のガキも夜遅くまで外で万引き仲間とモノを取り合いギャーギャー騒いでました。
アトラス調布でも評判のバカ一家ですが、先日タバコでボヤ騒ぎ!
娘は犯罪者?桐光学園中学校周辺の女子生徒(しまnざき結子)で友人
Mさんの後頭部を鈍器で殴り首を絞めて転害した後、首と手を切り音した件 別に読んでおもしろければいい。
文学なんて考えたい人が考えればいいだけのこと。
音楽が何たるかなんて考えて普通の奴はきいてねーだろ?おめーら
物事なんてすべて自分にとって有益か無益かで判断すればいいこと。
みんな死ぬんだから いや、それじゃよくないよ。僕はなるべく多くの人がよりよい生き方をして欲しいと思っている。 ↑おせっかいは迷惑ってことしらねーのか?
馬鹿ガキ 「私は文学をわかってます感」出すやつの寒さ
そもそも実態のない自由なものだろ
傲慢な言いがかり勝負に勝とうとしてるだけ
だから作家は嫌われる 他人との関係性の構築を諦めるのが大人になる事だというような考え方は厳しく否定されるべき。 >>1は分かってない奴が多過ぎることが癌だと言ったけれど
下を見れば馬鹿が多いという印象が起るのは当然のことで
それが現在の最悪の現象ということはないんじゃないかな
例えば英雄と反英雄を可能にするようなイデオロギーが成立しないとか
だから価値判断を示して読者を指導するような批評も成立しないとか
いかがわしくないものが存在しないところでいかがわしく振舞っても
ただの凡庸な俗悪さにしかならないとかそういうことの方が悪性が
強いし文学自体に対する影響も大きいと思うんだけどどうなのかな 文学を構えて分析的に読む必要性は感じないけどなあ。何か感じて、いいなってなれば、繰り返して読むけど。 批評家みたいに読むのが正しいとは限らないよね。むしろ批評家は読者が読むように読むべき。 提灯持ちみたいな批評やってるような批評家は無視すべきですね。 レイシストほんと目障り。社会に悪影響を与えるビョーニンを公衆の面前に出すのやめろって。 批評家は本当にどうでもいい。文学わかってる?なんてかっこつけ。わからなくてもいい。図書館で数ページ立ち読みして、なんかいいなって感じたら、それが読書の入り口。 結局>>1の動機は、分かってない奴が自分が凄いと思う物を否定するのが嫌だってことだね
そして発言権を学問的な読みをする人だけに制限して、そういう人たちを入ってこれないようにしようとしてる
けれども、分からん奴は分からん、別にそれでいいじゃないか
そのために教養主義で普通に楽しむ人の権利を侵す方が、よっぽど傲慢だね 一般社会の中で文学を解っていないなんてな会話ってあるか?
全くないといっても過言ではあるまい。
いざとなったらそれだけ文学なんて芸術は糞の役にもならねーってことだ。
絵画や彫刻も同様全くの無価値。
その中で唯一、音楽は人の心を和やかにするので、これは立派な芸術だといえる。
文学なん考えてる方が愚かなんだってことだな。 ↑飢饉のときに本読んで腹が膨れるのか?
歌は慰み物にはなるだろが。 読書に救われる事だってあるよ。鑑賞によって救われる人が多いという事は芸術の条件ではないけど。 哲学は戦場での議論指示だから一番かっこいい。行動性も
ピカイチ。 思考、策略、奸計とかが文学の役目だろうな。戦地では。 神学が何をおいてもトップ。東洋でも神将とかいわれるけど。
宗教学は不思議な軍人になれるでしょう。 >>132
飢餓の状態で読書をするって相当の余裕だな。
物事は最悪を想定してコメントすべきじゃねーの >>138
飢餓の状態で本を読んで飢餓が解消されると絶対に言わないけど、例えば死刑囚が本を読んで心の平安を得るということは実際あるしあり得るでしょう。そういう意味ですよ。 文学ではないけど、原始時代にその日の食事にありつくのがやっとの時代から芸術家的なものはいたからな 文学ってのは、要するに文字で書かれた、虚実を含んだ森羅万象、
多くは人間のいきざまなどでしょう。
文学には、書き手、読み手、研究者、って切り口とビジネスって側面もあるか。
学問的に文学を素材にしている読み手以外は、多くが娯楽だろうから、
文学そのものをわかってない、と言うのはまともな状況なのかも。
わかる、ってのは単なる主観だろう。
書き手と同感できたらそれがわかったことなのか?
ってのも書き手が単なるあふぉの場合もありうるからちょっとあやしい。
それに、人間を描くと言っても、それは書き手の人生で得られた知見と言える
かもしれないけれど、実際に他人の思考を見られるわけではないから、どうしても
自分の思考と類推、と限界は見えている。他人の思考は類推するしかないから。
さらに、自分のことをどう書くかは別にすると、本当に自分のことが、書き手はわかって
いるのか、ってところも疑問がわいてくるところ。
まあ、単なる娯楽として小説を読むときには、文学にはあんまり期待していない。
面白ければそれでいい。 >>129
文学云々の前にきちんとした国語で書いてくれ
別に美文とは言わん そうね。
評論家は論じればいい。
だけど一般人の私たちにとって、芸術は感じるものだ。 『文学とは何か』というようなタイトルの本は、どのくらいあるのだろうか。
例、T・イーグルトン『文学とは何か』 夏目漱石の「こころ」
と
奈須きのこの「空の境界」
の
根本的違いが分からない 後者はラノベ扱いを受けるんだよ
その理由が不明
根本とは、ようはジャンル分けだな
同じ尺度での評価ではなく、評価自体が間違っていて、
後者が低級とする見解の根拠が分からん >>151
このレスの後半二行の文を読む限り、
君があまり日本語能力が高くないため両者の違いが
わからないんじゃないかと思う >>151
ライトノベルのことをよく知らないけど、ライトノベルとして売り出したからライトノベルとして扱われているのではないですか。ビジネス的に純文学として売るよりライトノベルとして売った方が有利だからそうしただけなのでは。 ラノベとかの区別は別にどうでもいいよ。面白いなって思えればいいんじゃない?そもそも、大衆文学と純文学の間に中間小説だってあるし。 俺の中での文学の定義
自分の意思によって、主体的に読み進めなければ面白くないもの
そこが映像との違いだな
また、ノベルゲーは文学に属する 文学板って言う割には国語が崩壊している奴が多すぎだししようがないだろ
所詮ネラーはネラー 日本語がどう崩壊しているか、どのように崩壊させられるかというのが文学の歴史でもあるからね。 作者の意図を読み取るとか、作品に潜む政治的社会的背景とか、そんな批評の仕方は一時代古いでしょう。作者や政治からは切り離されたテクストを読者がどう読むかだと思うけどなぁ。 それは二昔前で、158みたいな素直なのが言ってるようなやつが一昔前じゃないか? なんでもアリだよ
極端に目立つ欠点があってなおかつほかの部分が魅力的な作品もある 文学批評や文学理論というものは文学じゃない
こういうことを言っている本を始末しよう 土日だけで文学批評3冊読んで捨てた。この調子で3月は10冊目標に読み捨てるぞ!
目指せ究極のミニマリスト! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています