渡部直己による又吉直樹「火花」評価 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
http://www.asagei.com/excerpt/40581
この、「お笑い芸人初の芥川賞作家」の受賞作について、文芸批評家でもある早稲田大学教授・渡部直己氏は「1920年代の中の下くらいの小説」と、バッサリこう切り捨てる。
「現代では古びて陳腐とも評される擬人法で物語を始めている。これを今、大真面目で書いているなら『私は何も知らないです』と言っているようなもの。彼の純文学への思い入れの強さが、文章からにじみ出ているだけで可能性は感じません。
学生の作文にちょっと毛が生えた程度です。ここ数年、受賞作に簡単には読めない難しいものが相次いだので、今回はわかりやすい彼の作品が選ばれたのではないでしょうか」 東浩紀@友の会第6期入会よろしく @hazuma 2015-07-21 10:16:49
渡部直巳氏は「又吉は文学っぽいものを書いているにすぎないから2年で消えるね」
とゲンロンカフェで断言していたが、あたるかあたらないかはともかく、批評家がある見識をもってそのように判断していた時代が、じつに懐かしい。
とともに、渡部氏のような態度がいまは一周まわって貴重なように思う。 君の尾 @your_tale_ 1月8日
文壇バーに又吉が来て、その場にいた渡部直己がマジギレした話すごい好き >又吉は文学っぽいものを書いているにすぎないから2年で消えるね
評論っぽいもを書いているにすぎない渡部直己がいまだに消えてないんだから大丈夫さw 又吉からしたら渡辺直美の意見の方がまだしも聞くに値するだろう 1920年代というのは新感覚派、プロ芸、第六次新思潮派の時代じゃないの?
その「中の下」?
芥川、谷崎、横光、川端、乱歩、正宗、久生、多喜二、葉山らの時代で
いわば小説の黄金時代の「中の下」? 満州事変が昭和6年(1931年)で日本文学報国会設立が昭和17年(1942年)だから
1920年代というのは戦時下言論統制前夜の文芸隆盛期なのね。
渡部はそれを全部把握したうえで「中の下」と言ってるわけ?
私小説からモダニズムまでなんでもありの時代なのに。
あいかわらずだね。 年代がどうのは深い考えはない、まあこんなでしょだけで、単に古いスタイルだって言っただけでしょ、あの早稲田文創の脳無しポモバカは(笑 擬人法なんてどこにもないのにね。そういえば「擬人法」「擬人法」って言ってたバカがいたな。あれ直己か?(笑 谷崎や花田を持ち上げている批評家が1920年代を「古い」と切って捨てるわけね。
ところで
>ここ数年、受賞作に簡単には読めない難しいものが相次いだので
とあるのだけど、前回受賞作の小野や西村、円城あたりは文章が難しいの?
まあ、渡部先生には難しいのかもしれないけれど。
でも、円城の受賞作が「文章」的に難しかったら、大学には通りませんよ。 大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。
熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残りを夜気で溶かし、
浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。
これの「〜に面した沿道は〜〜夜気で溶かし、〜〜草履に踏ませながら〜〜」
の部分を渡辺は擬人法って言ってるんだよ。
道に意志があるかのように擬さないと、主語である道が何かを溶かしたり、自らを踏ませたりはできないからね。
なんにせよ、ほんとに拙い下手くそな文章をこぞって「うまい、うまい」なんていうバカばっかりだったから
ともかく文章が水準レベルにない下手くそだってはっきり言ってくれた評者がいたことにはスッキリしたわ 英語なんかは非生物を主語にするなんか当たり前だ。
日本語にだってあっていいしあるわ。
まあね、受身形を擬人法だと言ってるんだよオメーらは、ば〜か。 雨が降る。冷気を溶かして冷たい雨が降る。
どこが擬人法だよ(笑 川は流れる。川が流れるわけねーだろ水が流れるんだ。
もうその手のバカバカしい文章論はやめろよ、小谷野。 冷気が夜気を溶かしてるだけじゃない
沿道が夜気をつかって冷気を溶かしてるんだろうが
川は流れるかもしれないが、
「道が川の流れを早くする」といったら、はっきりと意志のないものを意志があるように扱ってるだろ
又吉の文章でいえば、「道が、夜の空気で、昼の暖かさの名残を溶かしてる」となってる
「夜の冷たい空気が、日中の暖かさの名残を失わせていく」だったら普通なんだよ
あくまで主語は道で、夜気はその主語に使役される対象でしかない
それを渡辺は擬人法っていってるんだよ
お分かりですか?
別に擬人法でもなんでも書きたいように書けばいいが
とにかく下手なんだよ
この冒頭のぎこちない文章で能力値のギリギリまでつかってアップアップしてるからバカにされるわけ 上の二つの文章変だな
「夜気が暖気を溶かしてるんじゃない
沿道が夜気をつかって暖気をとかしてるんだろうが」こうだ
あとね、「道は(が)踏まれている」は受け身形だけど
「道は(が)踏ませている」は受け身形じゃないから 同じ様な印象受けたなあ、模造品の模造品って感じで気持ち悪かった
始めの、和太鼓の律動〜からもういいやってなった ☆ 日本の核武装は早急に必須ですわ。☆
総務省の『憲法改正国民投票法』、でググってみてください。
日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、日本人の悲願である
改憲の成就が決まります。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。お願い致します。 >>12
>ともかく文章が水準レベルにない下手くそだってはっきり言ってくれた評者がいたことにはスッキリしたわ
すいじゅん 水準
1〈水平面〉 a water level.
2〈標準〉 a level; a standard アマゾン火花レビュー
星5つ 325
星4つ 254
星3つ 186
星2つ 114
星1つ 227 『秋』は、芥川龍之介の短編小説。
1920年、雑誌『中央公論』4月号に掲載され、翌年1921年3月14日に新潮社より刊行の『夜来の花』に収録された。
『影』は、芥川龍之介の短編小説。1920年に書かれ、『改造』に掲載された。
「小僧の神様」は、志賀直哉の短編小説。1920年に雑誌「白樺」にて発表された作品。
『真珠夫人』は、菊池寛の小説。1920年の6月9日から12月22日まで大阪毎日新聞、東京日日新聞に連載された。
『杜子春』は、芥川龍之介の短編小説。1920年に雑誌『赤い鳥』にて発表された。
『南京の基督』は、芥川龍之介の短編小説。
1920年、雑誌『中央公論』7月号に掲載され、翌年1921年3月14日に新潮社より刊行の『夜来の花』に収録された。
「一房の葡萄」は、有島武郎による小説(童話)。雑誌『赤い鳥』1920年8月号に掲載された。
『舞踏会』は、芥川龍之介の短編小説。
1920年、雑誌『新潮』1月号に掲載され、翌年1921年3月14日に新潮社より刊行の『夜来の花』に収録された。
『魔術』(まじゅつ)は、芥川龍之介の短編小説。1920年1月に雑誌『赤い鳥』にて発表された児童向け文学作品である。
『アグニの神』は、芥川龍之介の短編小説。1921年に雑誌『赤い鳥』にて発表された。
『暗夜行路』は、志賀直哉の小説である。雑誌「改造」に1921年1月号から8月号まで前編、
1922年1月号から1937年4月号まで断続的に後編を発表した。
『恐ろしき四月馬鹿』(おそろしきエイプリル・フール)は1921年に横溝正史が発表した短編小説であり、彼の処女作である。
雑誌「新青年」に懸賞小説として応募し、一等に当選した。
『感傷的の事』は、1921年1月1日発行「人間」第3巻第1号に掲載された徳田秋声の短編小説。
小説『白蓮紅蓮』の初出は、菊池幽芳の勤務先が発行する『大阪毎日新聞』、および『東京日日新聞』紙上で、1921年に掲載された。
「雪渡り」は、宮沢賢治の創作童話。狐の幻燈会に招待された子供たちと子狐たちの交流を描いた物語。
1921年の12月と翌年の1月に『愛国婦人』誌(賢治の母が会員であった愛国婦人会が発行していた)に掲載された賢治のデビュー作である。 こんな奴が早稲田の教授なのか〜
又吉をどうこう言うのは良いとしてその又吉に芥川賞をやらなければならなかった今の日本文学の惨状をどう考えてるんだろうな?
危機感ゼロ、まさに平和ボケ文化人の典型だな、なんて書くとまた誤解するぐらい度し難いんだろうな
自分も「そっち側の人間」なら少しは本気見せろやバカ! 大した小説じゃなくても今わざわざ新人又吉(とその200万以上の読み手)にケチつけるやつってただのバカだろ
プロレスも下手くそ、面白みもない
渡部みたいなロートルはもういらんだろ 中森明夫
@a_i_jp
「文學界」掲載、又吉直樹の「火花」読了。傑作! この小説はすごいよ!? 人気芸人だから雑誌が売れて話題になってる…なんてレベルじゃない。
近年、文芸誌で読んでもっとも心を動かれた小説だ。芥川賞を取って全然おかしくない水準。この小説は何かを変えるんじゃないかな? 冒頭部がおかしいってのは散々言われてきたことだし、今更偉そうに指摘することじゃないけどな
ただ渡部が指摘するみたいにいちいち技術的に粗が無いような文章にしたからって、内容が面白くなきゃ意味ないからなあ >冒頭部がおかしいってのは散々言われてきた
オマエ一人が「散々」言ってるだけだば〜かw
うまいとは言わないがここ十年の芥川賞受賞作と比べればずっとマシだ。 オレに言わせれば文学のコスプレに過ぎないな
褒めてる人間もコスプレ好きって感じ 浅田彰が平野啓一郎の芥川賞受賞を抑圧したのとはえらい違いだな。この人の場合はポジショントークにしか聞こえないんだよね。 >>31
まったくだな
なんだかんだでサボりまくりの浅田の方がまだ信用できる
冒頭部だけなんちゃって初期の古井みたいな文体なのは解せんが
逆に文学プロパーにはあれが入口としてはとっつきやすかったんでないの? おれの評価に似ている
ちなみに渡部直己には影響を受けている 芥川賞やら直木賞とった作品よかラノベのほうが面白いだろ いかにもな文学的表現を嫌うのが渡部直己
昔、中上健二や村上龍を評価し
辻仁成を攻撃していたのもその辺が原因 >>36
別に渡部直己だけの話じゃない
蓮実柄谷の時代からだし2人に影響受けてる渡部直己がそうなのも当たり前 マンガ学部でも問題ないと思うが
今更それが嘲笑に使えるという発想が頭悪い >>12
この陳腐な文章を本人は文学的と思ってんだろうな。
小説の読書家ってのが信じらんないw 「小説の読書家」とかいう汚い文章を書く輩が文学に関心があるのが信じらんないw 「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。」横光利一『頭ならびに腹』 渡部のような一面的post modernistのiconoclasmとか、分かりやすすぎる。 1920年代だと川端康成が文芸時評書いてた頃かな
渡辺は20年代なら評論家の下の下にもカウントされないだろうな 批評の神様とか近代批評の創始者とか呼ばれてただろうなぁ 又吉のネットエッセー読んでその拙さに驚いたことがある
頑張って背伸びして、さらにから回っているかんじ まったく同じ小説を素人が新人賞に応募してたら
どうなってたんだろう。
下読み経験者の人いたら教えてください。 >>48
純文系ではどうかな、と正直思う。しかし出来は悪くない
やはり読ませるだけの力はあるよ。僕はエンタメ系の予選委員(下読み)と
エンタメ系の某賞選考委員しかしたことがないが直木賞なら全く文句はない
(別に芥川賞でも文句は左程ないが、僕は第一作に新人賞以外の賞を
出すべきではないと思っているので。その方が本人のためだと思っている。
芥川賞は新人賞ではなく新鋭賞だからね) >>46
分かっているんだろうけど渡辺の手法はバルトに学んだものだから
20年代に生きていたらロマン・ロランに影響されるかプロ文に向かうかだろうね 渡部はビックリするくらい影響受けやすいタイプなんだろうね 1920年代の日本モダニズム文学における「東洋」・「伝統」言説の形成
仁平 政人
https://kaken.nii.ac.jp/d/p/25770073.ja.html
研究概要(最新報告)
・『川端康成への視界』第28集(2013年6月)に、論文「「ダダ主義」と「新感覚派」のあいだ―川端康成「新進作家の新傾向解説」再考―」を発表した。
この論文では、川端の「新感覚派」理論と呼ばれる評論を分析することを通して、
1920年代におけるアヴァンギャルド文学言説の論理を、翻訳学の視点を交えながら捉え直した。
同論文で提示した日本モダニズム/アヴァンギャルド文学言説に関する視点は、本研究全体にとっても、理論的な前提となるものである。
・『昭和文学研究』第68集(2014年3月)に、論文「「チエホフ」という地下室―尾崎翠「地下室アントンの一夜」をめぐって―」を発表した。
この論文では、尾崎翠の最後の小説「地下室アントンの一夜」を分析するにあたり、日本におけるチェーホフの翻訳・受容の状況を整理し、
尾崎が、1920年代までの日本のチェーホフ言説をモダニズム的に書き換えることによって、自らの文学を生み出していることを明らかにした。
現在までの達成度(最新報告)
日本近代文学館での二度にわたる調査を中心として、これまでに1920年代のモダニズム文学に関わる文芸雑誌・同人誌のうち、
『文芸時代』『文党』『葡萄園』『新興文学』『ダムダム』『ゲエ・ゲムギゲム・プルルル・ギムゲム』『近代超克』『虚無思想研究』の調査を行い、
「東洋」「伝統」に関連する言説の散在を確認し、その傾向について分析を進めている。
今後の研究の推進方策等(最新報告)
今後の推進方策
平成25年度の作業を継続して、1920年代のモダニズム文学に関わる雑誌の言説を調査し、
それらの中で「東洋」・「伝統」に関わる文脈が価値化されている事例を収集する。
特に今年度は、主要な文芸雑誌・同人誌のほかに、地方で刊行されていたモダニズム関連の同人誌も調査対象とする。
なお、これまでの調査で、モダニズム的な「東洋」「伝統」言説が特に集中的に現れる文脈も確認できつつある
(例えばダダイズムや、生田長江を中心とした「超近代主義」など)。 渡辺の筒井康隆に対する評価を見ると20年代にいたらダダやモダニズムには
向かわなかったと思う。やっぱ不敬文学のプロ文派かな 火花が文芸関係者にスンナリ受け入れられたのは本人の本好きとしての知名度もあったけど
作中の芸人の悩みが作家のそれとまるまる被るからだよね。純粋なお笑いと分かるお笑いって
純文学とエンタメのことだし 火花が文芸関係者にスンナリ受け入れられたのは本人の本好きとしての知名度もあったけど
作中の芸人の悩みが作家のそれとまるまる被るからだよね。純粋なお笑いと分かるお笑いって
純文学とエンタメのことだし 没後の日本画家のリスト(マイナー画家)
http://togetter.com/li/966488
榎本千花俊(1898〜1973)
佐伯春虹(1909〜1942)
佐藤多持(1919〜2004)
粥川伸二(1896〜1949)
岡本神草(1894〜1933)
落合朗風(1896〜1937)
太田聴雨(1896〜1958)
星野眞吾(1923〜1997)
石崎光瑤(1884〜1947)
岩崎巴人(1917〜2010)
不二木阿古(1896〜1943)
片山牧羊(1900〜1937)
谷角日沙春(1893〜1971)
柿内青葉(1892〜1982)
田中青坪(1903〜1994)
広島晃甫(1889〜1951) 野上 弥生子(1885年5月6日 - 1985年3月30日)
葉山 嘉樹(1894年3月12日 - 1945年10月18日)
小林 多喜二(1903年12月1日 - 1933年2月20日)
徳永 直 (1899年1月20日 - 1958年2月15日)
中野 重治(1902年1月25日 - 1979年8月24日)
佐多 稲子(1904年6月1日 - 1998年10月12日)
横光 利一(1898年3月17日 - 1947年12月30日)
川端 康成(1899年6月14日 - 1972年4月16日)
梶井 基次郎(1901年2月17日 - 1932年3月24日)
井伏 鱒二(1898年2月15日 - 1993年7月10日) >>54
又吉が取り上げた本がむちゃくちゃ売れまくってたからだよ
だから編集者は自分の社の本をとりあげてほしかった
そういう状況を批判すればどんな作家でも冷や飯を食う おもしろければ何でもいいよ 審査してる人の作品自体よく知らないから、あんま文句は言えない つまらんなら楽しいの見ればいいんだよ 『火花』の成功は渡部ら、ポストモダニスト達への世間からの当てつけというふうに、渡部は感じたんだろうが、その感覚は間違ってない。 アンチ・ポストモダンとかそういう話だったっけ?火花 ずっと「危機感」って言い続けてる人だからなあ。渡部直己。「メルトダウン」もそうだけど、彼はあの時点で原発に対する危機感とか全く持ってなかったわけじゃん。柄谷行人だってそうだけど。でも、例えば中原昌也は96年の時点で原発問題に言及してるんだよ。 64で言ったのは渡部自身の自己保身の観点からの危機感のつもりだったんだが。 中原が引きずるポストモダンの残影は高橋源一郎にとっては好ましいものなんだろが、もうそういう世界は終わっちゃってんですよ。
同様に宝島もね。
必死でこういうのを支えようとしてる人達は無駄な努力は止めるべき。
中原昌也の追随者レツダンも良く考えた方が良い。 >>68
誰も無条件で持ち上げてなくない?
>>69
れつだんの小説に中原昌也の影響あると思うの?(笑) >>70
小説は知らんが、レツダンのレス見てると中原昌也本人かと思うぐらいだな。 >>36
山田詠美もそういうところあるよね。
いかにも…な感じの表現をめっちゃバカにする。 渡部や山田は三島の文章はどう思ってるんだろうな?
三島の文章なんかコテコテの「文学」しちゃってんじゃん。
又吉の冒頭(>>12)なんかの100倍は臭い文章書いちゃってるぜ。 >>73 無理して捻り出している感じが、気に食わないだけだと思う。火花の冒頭なんかも、なんとなく自然さに欠ける文章だし、純文学らしさを具えさせようと、必死だったのじゃないか、と。
誰でも、それなりの読書数をこなせば、それっぽい文章は書けるけど、それっぽい文章でしかないからね。 >>71
彼は中原昌也作品をそんなに沢山は読んでないのではないかと想像している。 又吉の作品の火花という題名からして、イメージを喚起する傾向の強い作風なのかな?と推測するが、イメージを全く喚起しない文章も少ないだろろうということを前提にしたうえで。
やはり一方でイメージを余り喚起しない文章を書く作家として中上、古井、金井などが挙げられるのではないかな?
イメージ喚起を卑しむのはここ、40年くらいの傾向だろ。
たいした根拠は無いはず。 古井・金井はほとんど知らないから言えないけど、中上健次の文章はイメージ喚起しまくると思うのですが。 中上は大江の文体をまねようとしたんだが、できないのであんな即物的な文体になった 好き嫌いからそれらしい用語を選んでそれらしく組み立てれば、それらしい批判ができてしまうって意味では渡部も似たようなもんじゃない?
wikiで卒論書いてるか教授レベルの知識をつぎはぎするかの違いで、実名と著述で2ちゃんやってるのとなんら変わらないよ
大卒者が多い国の、文学が大学図書館というインフラ依存から少しばかり解放された時代の、なんでも研究対象になってなんとでも全否定できてしまう現代にちっとも向き合ってない 『火花』は、芥川賞に値する?あるいは出版会の策動?後者だなあ。こんなのが芥川賞では先が思いやられる。出版会の自殺行為だ。物書きは弱いから銓衡委員も、出版界の意向を汲んで選んだ?出版界の没落は物書きの没落を意味するから? 渡部が特に『火花』に対して反応してることが問題なんじゃないか。
芥川賞がなんぼのもんか知らないが、ここ10回くらいの芥川賞受賞作品の中では『火花』はトップと言って良い。
『火花』が芥川賞に値しないなら、芥川賞を廃止も検討するべきだろぅ。
渡部の直己の狭い視野で文学を騙られたら、皆が迷惑する。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています