浅田 ともあれ、『私小説論』は措くとしても、小林には相対的他者との偶然的関係の絶対性
という問題意識があった。『私小説論』でも、ジッドを論じながら、本当はドストエフスキー
を考えているのかもしれず、その水準では同じことが言えるかもしれない。ただ、その水準で
も、小林は最初から最後まで良かったとも言えるし悪かったとも言えると思うんです。という
のは、それを「宿命」という言葉で呼んでしまうでしょう。もちろん『様々なる意匠』で言う
通り、宿命というのは、AでもBでもCでもありえたのになぜか他ならぬAであるという相対
的な事実の絶対性ということで、その意味において他者性や社会性の認識を含んでいる。とこ
ろが次の段階で批評の話になると、作品をさまざまな角度から体系的に解析しようとした果て
に、「作者の宿命の主調低音」が響いてきて、この響きを聞いたときに自分が批評を書きだせ
る、という浪花節的な話になる。つまり、意識を超えたところで作者=作品=批評家のイマジ
ネールな同一化が生じるというわけですね。だから「宿命」というのは他者性や社会性にさら
された差異の意識でもあるけれど、同時にそれがもっとも内面的な同一性に転化できるように
なっている。