小林秀雄 その九 [無断転載禁止]©2ch.net
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小林は福本和夫のまねしてやたら意味不の文章書いてたら受けたんで その線で邁進してたのはいいけど、自分でも以前書いた物をどういうつもりで 書いたのかわからなくなって往生しまくってた。 その代表が「私小説論」の末尾で 本人も懺悔のつもりか後年、娘まで持ち出して私の文章は意味不明と書いてたな。 それでやたら昔の文章に手入れるんだけど、元々わからないんだからますます意味不明になるという。 小林が「政治と文学」論争を児戯に類する論戦と言ったはいいけど 自分が大真面目にやった思想と実生活論戦なんてものが 今や噴飯物のそれこそ昔の夢となってテーマそのものが淡雪の如く消え去った その意味で時代に踊らされたと言える。それは勿論小林だけじゃないが。 >>227 まあ意味不明なこといってるのは、この板にもキチガイ病院にも 大勢いるので、意味不明なこといえさえすれば特権が得られるかと いうとそんなことはないよねw >>232 まあ「文学の神様」って評は他がいいだしたので、小林自身は神様って 呼ばれるの非常に嫌がってたそうだねw 小林秀雄を「文学の神様」と呼んだのは、ものの本によれば草柳大蔵だそうで ”神様”は本人が望んでなるものはなく、社会の方が”神様”を感じて、仕立てて しまう存在であると草柳は述べているねw つまり小林が文学の神様になった として、それは社会が本人の意思とは無関係に勝手にやったことなわけだねw 草柳によれば「神様」の条件は四つあり 第一 神秘性が感じられること 第二 御託宣に威力があり、それを触れるものに対して活殺の効力をもっていること 第三 神主や氏子がおおいこと 第四 仕事や行動はそれほど目立たないのに、いつまでも影響力をもちうること。 この四つの条件が神様の条件なわけで、酔っ払ってクダを巻くだけなら、小林秀雄で なくても、その辺のアル中でもやってるわけだねw >>233 志賀の夢殿観音について、自分は先輩作家がたどり着いたそのような境地を軽蔑しない 自分はそのような境地を羨望しないだけであると述べていたね。これも確か初期文芸論集に 載ってたね。 >>235 本当に? どこで聞いたのそれ。 小林の酒席のからみったら、当時の文壇における名物だったってね。 中村光夫も さんざんにやられたそうだが、中村本人は小林に罵倒されつくしているように見えても そこから一年仕事やれるための凄いエネルギーもらってた、などと述べていたねw >>248 小林は枕草子や徒然草や方丈記についても一家言もってたからねw 池田亀鑑など 当時の一流古典学者ともつきあいがあったわけで、そのあたりは現代の批評家とは 雲泥の違いがあるねw >>250 小林と河上は友人であったが、小林のやらないことを河上がやって、河上の やらないことを小林がやり、文学的には互いに補う関係だったってね。 河上のほうがNRFにはより関心があったかもしれん。 まあNRFの編集長 だったジャック・リヴィエールにも一時期小林は夢中になったそうだが、後から 全然つまらないという風にいってるね。このあたりは小林のジイドへの関心と 通じるものがあるね。 >>252 小林が福本の真似したとか初耳なんだけど、なんら根拠ない話だろうそれはw >>252 小林本人が自分の文章読み返しても意味わからないといってたのは事実だな。 当時の近代文学界というのは、いろんな新語が次々に登場して、その新語の 意味も非常に曖昧であり、言語的環境はとても悪かったので、そのような悪条件の もとで悪戦苦闘した小林の記録というのは、やはり面白いわけだねw >>255 まあ小林の時代の文壇では、プロ文、社会主義リアリズムが勢力を のばして、既存の近代文学派、芸術派がそれに抵抗するというのが おおまかな図式だったねw プロ文というのはやがて弾圧されて壊滅 するわけだが、戦後の文学界の歴史みても、プロ文、社会主義文芸が 主流とはとてもいえないわけで、現在プロ文が主流とはいえず、むしろ ほとんど忘れられた存在になってるわけだね。そうなると社会主義 リアリズムが常に主流だったとはいえないわけだねw 小林は福本読んでたかすら怪しいね。初期文芸時評には大森義太郎とか平林初之輔とか 三木清など当時マルクス主義に関心があった知識人の名前はいくつもでてくるが 福本の名前があがったのは見たことがないからねえ。 小林は当時マルクス主義には 相応の関心をもっていたので、戸坂潤に誘われて、唯物論研究会のメンバーにもなっていたね。 >>256 そのテキストと「教祖の文学」はどちらが先に出たの? NRFとは何かわからないひとのために解説をひいておくと >『新フランス評論』(しんフランスひょうろん、La Nouvelle Revue Francaise)は、フランスの文芸雑誌。 >1908年創刊。2度の大戦時の休刊を経て、今に続く。初期は同人誌だったが、現在は総合出版の >大手ガリマール出版社が発行している。多くの作家を育てた。N.R.F.、NRF、nrf、とも書かれる。 >その片仮名は、エヌエルエフである 初期の小林は「私小説論」においてジイドをフランスの代表的小説家としてひいていることから わかるとおり、ジイドに大きな関心をもっていたね。ジイドはNRFとは深い関係があった作家と いえるね。 >>257 >本当に? どこで聞いたのそれ。 文学板だった気がする。小林に大江が「渡辺一夫はキチガイだった」みたいな事を言われて、大江が後年「そして僕は号泣するに至ったのだ」みたいな事を書いていた、と。真偽は不明です。 >>261 草柳の評がいつでたのかは書いてないが、安吾の「教祖の文学」のほうが 先にでたのは、ほぼ間違いないだろうね。 >>263 大江の師匠は渡辺一夫だからねえ。大江が書いた「小林秀雄『本居宣長』を読む」の なかに、渡辺一夫が亡くなったとき、新潮社のパーティーで小林から渡辺一夫について いろいろ話を聞いてるうちに涕泣したと、大江は書いてるので、その話のことだろう。 小林が何を話したのか大江は具体的には書いてないね。 >>266 つまり>>263 の話は脚色されたデマなのかな(笑)江藤淳の「小林秀雄」を図書館で借りた事は書きましたっけ。Nさんは読みましたか? >>259 もう少し社会主義リアリズムを勉強しておこうね。 売れる売れないが主流の基準なら、文学の主流は推理小説だ。 僕がこのスレで「社会主義リアリズム」と聞いた時にその言葉を知らなくて、プロレタリア文学の事なのかな?と思ったんだけど、「社会主義リアリズム」は世界的な潮流だったの? Nさんの言う還元主義とは要素還元主義のことですかね? あれ? 小林秀雄スレが復活してる。このあいだの板落ちのあと、このスレだけ 復活しなくて、なんでだろ〜?って思ってたんだが。ツールか何か使って落としたような 形跡もあったね。このスレが見られないときに専ブラでこのスレみたら、このスレ なぜか1000まで埋まってて。 >>263 まあ小林が大江との話で「大江はキチガイだ」といった可能性はあるが、それだけで 大江が泣くかねえ? 追悼パーティーでの会話なんだから、小林が大江にむかって 故人の渡辺を罵倒しつくしたなんて考えにくいんだが。つまりもうちょっとしみじみした 逸話を語られて、大江は泣いたのではないか。「渡辺はキチガイ」と小林がいったという 話もどっかで聞いたことあるが、それは渡辺の追悼パーティーとは別の場所での話で ふたつの話がひとつになってゴッチャになったとも考えられるね。 >>270 売れる売れないだけを基準にしなくたって、戦後の主要な文学賞の 歴史を概括すれば、プロ文が戦後の主流だったとはとても思えないよね。 >>274 ありがとうございます。具体的な出典が判明するまでは、>>263 は疑わしい情報だと考えておく事にします。 >>271 俺もプロレタリア文学と社会主義リアリズムの区別はよくわからなくて だいたい両者は似たようなものだと思ってるねw 詳しいひとがいたら 解説をお願いしたいところだねw 荒俣宏の「プロレタリア文学はものすごい」を読んでも、プロレタリア文学という ジャンルは過去形で語るしかない、それが証拠に現存してる数々の作家のうち 自分はプロレタリア作家だと主張してるひとはほとんどいないようにみえる、と 述べているね。作家の主流がプロレタリア作家でないなら、文学の主流も プロレタリア文学とはいえないのは自明の理といえるね。 >>273 まあそう思ってくれて結構だね。小林は科学的分析を要素還元主義とみなして それにたいして芸術的直観、芸術の鑑賞や受容というのは、要素還元主義では 説明できないと考えたわけだねw これはベルクソン直伝の思考といえるね。 そもそもプロレタリア文学って当時の世界的な潮流ではあったの? まあプロレタリア文学が日本では一時期一大勢力をもっていたことは間違いないね。 世界的にプロレタリア文学が一世を風靡したかといえると、これはどうなのかと疑問符が つくね。ロシア革命後のソ連では、ソビエト共産党が文学をも完全支配して、社会主義 リアリズムこそが唯一の正当な文学形式であるとされ、ロシアの多くの作家が沈黙したり 亡命したりせざるえなくなったわけだね。マヤコフスキーなんかは自殺したりしたわけだね。 しかしスターリン批判のあとは、ソ連の文学界も多少雪解けムードがでて、性の問題が 扱われるようになったりした、などと小林秀雄は英国の雑誌の批評をひいて語っていたね。 まあヨーロッパでは、ジイドやロマン・ロランがソ連シンパになったりしたが、思想上の シンパシーであって、ジイドやロマン・ロランが社会主義リアリズム作家であったとは いえないよね。 >>274 のレスの上から五行目 大江はキチガイだ」というのは、「渡辺はキチガイだ」の間違いね。 要するにプロ文というのは、あらゆる芸術は階級の解放に奉仕すべきものであって そうでない文学は暇文学だという当然といえば当然な論理的帰結の産物なのだ。 「だが、我々はいかなる時も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない。 『敗北』の文学を――そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて往かなければならない ↑ 今読むと基地外だよね。 それで小林は及び腰ながら「マルクスの悟達」なんか書いたわけだが、別にプロ文否定したわけじゃない。 土壌といえばこういう土壌だからこそ「芸術と実生活」論争なんてものも成立した ネットで見つけた一節だけど、さすがだと思ったから貼っておこう。 「(本質の解明への道という)この点については、人間学の達人である小林秀雄といえども、もっとも貧弱なプロレタリア文学者のひとりにさえ、一歩をゆずらざるをえないのである。」 (吉本隆明『擬制の終焉』) 吉本のそれ、小林を褒めてるようにしか見えないw 人間学の達人なんて 評してるし。小林のプロ文学者に対する批評とは比べものにならんね。 >>282 褒めてないよw 吉本は小林のことを、鋭いけど無意味な批評といってるんだから。 吉本隆明の言ってる事も大概意味わかんない僕は特殊なのかな? >>284 特殊かもしれない。 どこがわからないの? 論理展開がわからない事が多い。「転向論」とかはわかるけど。 >>283 吉本の>>281 は、「一歩譲らざるえない」といってるので、これは相対的な比較に すぎず、プロレタリア文学者の文学に絶対的価値があり、小林秀雄は無価値という デジタル的価値判断やってるわけではなく、相対的な価値判断であるね。 つまり小林は無価値という評価は、どう逆立ちしたって>>281 からは出てこないと いえるねw 「本質の解明への道」というのは、これまたどうとでも取れる言葉であって、その 本質なるものが人間知の領域に属するとして、小林は相対的にプロレタリア文学者に 及ばないところがあるならば、一応インテリには属するプロレタリア文学者といえど 文学についてまったく無知なその辺のうら若き女性に人間知において及ばないと いうことがあるわけで、つまり人間知なる曖昧な評価基準のもとでは、ピラミッド的 絶対評価はなりたたず、小林より相対的に優れているはずのプロレタリア文学者も また相対的には劣等という話になって、全体の構造はクラインの壺的形態へと 収束していき、小林はプロ文より劣等という発言もピラミッドの頂点にたつ真理では なくなってしまうといえるねw >>287 「一歩をゆずらざるをえない」の前に、「もっとも貧弱なプロレタリア文学者のひとりにさえ」とあるのは無視? 長くなるけど、その前も引用しとく。 「人間を唯一の真実を所有するさまざまな人間にばらまいているのは、ただひとつのおなじ現実だということに驚かなかったため、現実の解析へ、その本質の解明への道はうまれなかった。この点については、」 人間学の・・・ とつづく。 小林は現実を見ようとしていない、と指摘している。 つまり、相対評価ではなく、絶対評価なんだ。 >>288 無視してないよ〜? >小林は相対的にプロレタリア文学者に及ばないところがあるならば、一応インテリには >属するプロレタリア文学者といえど文学についてまったく無知なその辺のうら若き女性に >人間知において及ばないということがあるわけで これ読めた? >>288 現実の本質の解明なんて吉本ですら出来たかどうかあやしいのに、それを小林には 要求できんでしょw 小林を「人間学の達人」と認めてしまってる以上、評価はどうしたって 相対的評価になるね。「人間学の達人」というのが無価値でない限りはね。 >>289 もっとも貧弱なプロレタリア文学者のひとりでも、「その辺のうら若き女性に人間知において及ばないということ」はない、ということなんだよ。 現実を見る力という意味でね。 逆にいえば、現実を解析するためには、「人間学」(人間知?)に意味はないと吉本はいってるんだ。 その意味で吉本は、小林の「人間学」が「うら若き女性」の「人間知」に及ばないと指摘しているともいえる。 吉本の志向する批評にとっては、「人間学の達人」は無価値なんだ。 批評は個人の感想や相対評価であってはいけない、絶対評価を可能とする基準が必要だ、というのが、吉本の考え方なんだよ。 >>290 そりゃ芸術や文学の絶対的評価が必要というのは、吉本のみならず プロレタリア文学全盛期のプロレタリア文学者、プロレタリア文学の 理論家もみんないってたけどね。 しかしまあみんな理論倒れだったわけで、絶対的に現実を照明する理論は プロ文の理論もつくれなかったわけだねw 吉本だって、プロ文の理論家同様 絶対的現実を解明することを希望していたろうが、彼の理論が現実を解明する 唯一絶対の理論とはいえないので、吉本と君の希望は別にして、小林に くらべて理論的に絶対的に優れているとはいえないわけだねw 絶対的現実の 解明に吉本が成功して、唯一正しい文学理論として吉本の理論が認められた ということがない限りはね。 >>291 社会主義リアリズムも、『言語にとって美とはなにか』も立派な文学理論だよ。 小林には文学理論そのものがない、ということなんだよ。 文学に基準は要らないというなら、それはそれだけのこと。 あとは好みの問題になるだけだけど、自分が好む根拠を考えたければ理論を追及する。 >>291 小林に芸術理論ないなんてことはないよw 小林の芸術理論はもっぱらベルクソンの 芸術理論にもとづいているんで、小林に理論がないなんて、大いなる誤解といえるねw 他にもいろんな哲学者や文学者の芸術理論を吸収して、自らの著作に反映させて いるので、そのあたりは吉本と変わらないね。 まあ理論的貢献という面でいえば 小林が独自の芸術理論をうちたてたかというと、そういうことはないといえるねw >>293 感情をイメージへ発展させ、言葉へと生育させて、感情を読み取れるようにする。 『時間と自由』の一節を要約してみたけど、こんなところが、ベルクソンの芸術論になるのかな? 小林はどうなんだろう? なかなか思いつかないな。 >>294 「私の人生観」という講演のなかで、小林はベルクソンの芸術理論について最も 詳しく述べているので、それ読まないと小林の芸術理論はわからないね。 >>296 活字になってるよ。俺はそれを読んだわけ。 >>295 小林の場合は芸術理論というより、強烈な自己肯定の理由づけだね。 >>298 んなことないよ、芸術の目的は「知覚の拡大」にあるというベルクソンの芸術理論は メルロ=ポンティにも影響を与えていたね。ベルクソンの芸術理論への影響は 小林にとどまらず、フランスにおいてはかなりの影響があったわけで、ドゥルーズに までその影響は及んでいるといえるね。 >>300 君の最大の欠点は、シッタカするところ。 それがなければ、君の知識が少しは生きる。 >>301 メルロポンティにベルクソンの影響が大きいのは一般常識だろうよw ドゥルーズだって 「ベルクソンの哲学」って本書いてるからね。俺はごく一般的な紋切り型の説明してる だけであるねw >メルロ=ポンティは、ベルクソンが純粋記憶と純粋知覚、即ち空間的ひろがりのない「心」の在り方と >時間的持続のない「物」の在り方とを二者択一的に対比して、その両項の問を動揺しながら、両者の >交差点として身体を捉える考え方を批判しているのである。彼によれば、身体は、主体(心)としての >意識存在性と客体(物)としての物質存在性という両義的存在性格を分割しがたい形で受肉化したものである。 >メルロ=ポンティはベルクソンを批判するが、しかし湯浅泰雄が適切に指摘するように、彼の考え方には >ベルクソンの影響が大きいと言わざるをえない。ベルクソンは、「知覚と行動の統一性」の故に、身体を >「感覚一運動過程」(processus sensori-moteurs)として捉えて、身体のメカニズムを習慣化させる >「運動的図式」(le scheme moteur)を想定した。メルロ=ポンティは、これに対して表層的な身体即ち >「現勢的身体」(1e corps actuel)を「感覚一運動回路」(un circuitsensori-moteur)として捉えて、その >基底に深層的な身体即ち「習慣的身体」(le corps habituel)を想定し、その「習慣的身体」は身体の >メカニズムを習慣化させる「身体的図式」(schema corporel)によって可能になるものとする。 ドゥルーズと小林については、ドゥルーズのベルクソン論を小林が読んで、「こいつは優秀」といったという その方面ではそれなりに知られた逸話があるねw >>303 それを、シッタカというんだよw 他人の意見を理解もせずに受け売り。 メルロ=ポンティやドゥルーズの主著を1冊でも読んでから書かないとね。 >>304 じゃあ、俺のいってることは間違いで、メルロポンティにもドゥルーズにも ベルクソンの影響はないって論証してみろよw 知ったかだろうと何だろうと 1+1=2と考えたら、俺はそれを口にするわけでねw まあ知ったかだろうと何だろうと、相手が反証できなけりゃ勝ちですなw >>305 メルロ=ポンティやドゥルーズにベルクソンの影響があるかないかが問題なんじゃないだろ? 小林に芸術理論があるかないかを話題にしてる。 言い換えれば、小林が批評の客観的な基準を考えようとしたかしないか、ということだ。 シッタカしてないで、自分で確かめながら考えないといけないよ。 >>306 勝ちとか負けとか、そんなことが気になるなら、散歩でもして頭を冷やしておいで。 >>307 >>300 について知ったかだという意見がついたので、>>300 はベルクソン哲学の 影響についての話なんだから、俺のいうことがただの知ったかかどうかは >>300 の内容について検討すべきといえるねw 小林の「私の人生観」に ついては俺はきっちり読んでるわけで、明らかに知ったかとは非難できない わけだねw >>308 いややれない言い訳だろうそれはw >>309 頭を冷やした方がいいのは君の方だろうw まあ君の頭が 熱くなってるのが、こっちにも伝わってくるよw >>310 >>311 君のは、人の意見の受け売りなんだから、シッタカそのものだよw 君は、自分がシッタカじゃないのは、「私の人生観」についてだけ、と自分で言ってるんだよ? ベルクソンが誰にどういう影響を与えたかなんてことは、「私の人生観」とは無関係だしね。 おまけで指摘しとくと、君が1冊も読んでないベルクソンやメルロ=ポンティやドゥルーズについて、なにをどう書けば君が理解できると思うんだ? >>312 ベルクソンもメルロポンティもドゥルーズも俺が一冊も読んだことないというのは間違いだねw 少なくとも各著者の著作一冊は読んでるからね。 一冊も該当著者の本読んだないなら何もいえないというなら、一冊読めば何かいえるということに、論理的帰結としてなるねw 他に哲学者による解説本も読んだことあるし、それらの知識に基づいて>>300 の判断したわけで、それが間違いというなら、根拠に基づき反証すればいいわけだねw >>312 ベルクソンは「創造的進化」と「道徳と宗教の二源泉」、メルロポンティは「ヒューマニズムとテロル」 ドゥルーズは「ベルグソンの哲学」「ニーチェ」「哲学とは何か」あたりだね。 >>315 ベルクソンは主著読んでるよ。 ドゥルーズも主著読むったら、それだけ非常に 手間かかるからねえ。とりあえずベルクソンに関係あるものを読んだのさ。 メルロポンティも手をだすの大変だし、そっちはもっぱら解説書頼みだね。 >>317 では、あらためて「小林の芸術理論」がどういうものかを説明してみてね。 ベルクソンの芸術理論についてでもいいよ。 社会主義リアリズムや吉本の文学理論に対して、小林の理論がひけを取らないというところを説明して欲しいな。 >>318 とりあえず「私の人生観」読めとしかいいようがないんだが。今日はもう時間ないし また今度な。 それとさあ、吉本の文学理論がそんなに優れてるなら、その優れてる ところの所以を簡潔明快に説明してほしいものだね。そっちが小林の理論について 説明を要求するならば、こっちも要求はだすからね。 まあ柄谷などはさすがに小林の拠ってたつところを理解していたので 小林はベルクソン=デカルト主義であるといってるね。「私の人生観」で 論じられている西欧の哲学者はもっぱらベルクソンで、1 あ、途中でうっかり書き込んじゃった。続きね。「常識について」では デカルトが中心的に論じられるわけであるね。 >>319 ああ、吉本の理論を知らずに「小林にくらべて理論的に絶対的に優れているとはいえない」なんて書いたの? それなら、シッタカといわれてもしょうがないんじゃないか? 君がほんとうに吉本の理論を知らずにそう書いてたんなら、ちゃんと説明してあげるけど? ちなみに、僕が小林に理論がないと書いたのはこんな一節に不満を持ったからなんだ。 「言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。」 (「美を求める心」) 美は美しいものに宿っているというプラトンを飾り付けただけに見えるんだよね。 >>322 そっちだって、小林に芸術理論あるのしらずに、「小林に理論はない」なんて書いてたんだから 似たようなもんだよねw まあ「近代日本の批評」って本のなかで、浅田彰などは、吉本の いってることはまったく意味不明っていってたわけで、そういう批判が仮に正しいとすれば 吉本の文学理論は無価値って話になるわけだねw 浅田は当代最高のインテリとして評価 されてるから、浅田の評価の影響ってかなり大きいわけで、吉本も浅田のこと罵倒してたが 罵倒だけじゃあまり説得力がないよね。そういう評価があるなら、吉本の文学理論しらないのは 非常識という話には必ずしもならないよねw まあ柄谷蓮實浅田のなかじゃ、蓮實が吉本の事 一番評価してたが、その評価も理論家としてのものというよりは、もっぱら詩人としての評価で あったね。 世界的知識人として名が知られていたフーコーと吉本の対談で通訳をつとめたのも 蓮實だそうであるが、フーコーは吉本の文章よんで、この文章は何言ってるか意味わからないって いったんだってね。そういう噂の影響力を打ち消すためには、やはり吉本の文学理論の意義に ついて語るのが有益ではないかと思うわけだねw >>324 知らないんじゃなくて、小林のは「芸術理論」じゃない、と言ってるんだよ。 理論というのは基準を設定するものだが、小林は個人の主観が大切だと言ってるだけだ。 それは理論としての基準にはならない。 君はいつも他人の評価を自分の評価にしてる。 解説や評論は、評価を鵜呑みにするんじゃなくて、内容を理解するための参考にしないといけない。 ちなみに、手紙の噂に事実が含まれていたとしても、フーコーは日本語が読めないから、蓮實(あるいは他の人)が訳した文章が理解できなかったということになることぐらいには気がつくべきだと思う。 蓮實は吉本から新3バカの一人とまで罵倒されていたのに(これは噂じゃなくて事実)、翻訳を引き受けたのは善意であるかどうかはわからない。 仮に悪意があれば(これは推測)、公開されない手紙まで丁寧に訳すことはないかもしれないし、そもそも蓮實(あるいは翻訳者)自身が吉本の論考を理解していたとも思えない。 そうしたことはともかく、君が「私の人生観」を推薦して、もう一人のコテが読んでみると言ってるのだから、しばらく「私の人生観」を軸に意見を交換したいと思うがどうだろう? よければ、その中で吉本の文学理論も紹介していこうと思うが。 >>325 文学においては主観が重要というのは客観的事実であるといえるねw 吉本は 文学鑑賞の客観的基準を作ろうと努力したわけだろうが、たとえば吉本の 源氏物語論みても、他の源氏研究に比べてむしろ主観的な研究であるといえるね。 >君はいつも他人の評価を自分の評価にしてる。 知ってることなら自分の評価でやれるが、知らないことを知るためには他人の評価を あてにしなくてはならないことはよくあるわけでねw 早い話がおまえの小林評価に しても、小林の主要著作みんな読んで評価してるわけではなく、吉本という他人の 評価によりかかっているにすぎないわけだねw >しばらく「私の人生観」を軸に意見を交換したいと思うがどうだろう? それは別に問題ないね。ピースは「私の人生観」買ったそうだが、もう読んだのかな? 人生観を語るようになった小林などもうダメだ!と、それで小林を離れた読者もいた ので、ピースは「Xへの手紙」読めても、こっちを読めるかどうかはわからないね。 >>326 >文学においては主観が重要というのは客観的事実であるといえる その根拠を示さないといけない。 客観的というのは、根拠があること。 >吉本という他人の評価によりかかっている それは君の下種の勘繰り。 吉本は、小林は個人の主観が大切だと言ってるだけ、だなんてどこにも書いてない。 >こっちを読めるかどうかはわからない そんなこと言うのは、その人に失礼じゃないかな? 親しき仲にも礼儀あり、ってね。 そもそも、君自身が「読めてる」かどうか、怪しいもんだよ? だいたい、君の知らない〈噂の真相〉?まで教えてあげたのに、お礼も言えない礼儀知らずじゃ小林を読む資格にも疑問がついちゃうなw 読書会は、もう一人のコテが了承して、準備ができたら始めよう。 >>327 >その根拠を示さないといけない。客観的というのは、根拠があること。 ひとによってどんな小説が面白いか、その評価は全然違うわけだし 吉本の文学だって、ひとによって評価は全然違うというのは既に示した 事実であるね。文学の評価が客観的であるならば、吉本の評価は誰もが 一致する共通の価値があるはずだが、現実には評価は人によって大幅に 違っているわけだね。これすなわち、文学的評価において主観が重要と いう証拠といえるねw >吉本は、小林は個人の主観が大切だと言ってるだけ、だなんてどこにも書いてない。 まあ自然主義文学者ゾラは当時発達していた客観科学にもとづいた小説を 書こうとしたわけだが、できあがった小説は小林曰く「奇怪な夢の塊」だった わけだね。吉本の文学理論もそのようなものに見えるねw >そんなこと言うのは、その人に失礼じゃないかな? まあピースのことはおまえよりはよく知ってるので、余計なお世話だよ。 >>328 >誰もが一致する共通の価値があるはずだ 全員一致じゃないから客観性がない? 全体主義国家なら、全員一致の評価基準になるんだろうけどね。 「わしは、こう思う」「ハイル・ヒトラー!」 >吉本の文学理論もそのようなものに見える 見えてもねえw 『言語にとって美とはなにか』を読んでから、とは言わないけど、せめて吉本の文学理論の骨格ぐらいは把握してからにしなよ。 >余計なお世話 君が「読めて」るか「読めて」ないかは、余計なお世話じゃないと思うよ。 あまりにバカバカしくなってきたから、もう僕はこの手のやり取りには応じない。 君はなにか言い返したいなら、言い返せばいい。 具体的な話題になったら、またレスするよ。 >>329 1+1=2は理性ある人間なら否定しないので、これは明白な客観的真理といえるねw 小説の評価は1+1=2ほど明白に客観的とはいえないので、これはどちらかといえば 主観的なわけだね。 1+1=2は全体主義だ!ファシズムだ!などというのは、馬鹿馬鹿しい 抗弁といえるねw >『言語にとって美とはなにか』を読んでから、とは言わないけど、せめて吉本の文学理論の骨格ぐらいは把握してからにしなよ。 小林に文芸理論はないなどたいして小林を読んでもいなくて、小林の思想の概要も把握してない そっちに、あれこれいわれる筋合いはないよねえw 神保町の青空古本市で『小林秀雄対談集』(講談社 昭和45年 第5刷) を100円でGet.保存状態も良く書きこみも棒線もなし。何となくお得感があ った。 >>325 >そもそも蓮實(あるいは翻訳者)自身が吉本の論考を理解していたとも >思えない。 ここは同意だね。 そもそも吉本の幻想論には吉本による当初の解説の仕方からして問題が あった。彼は「マルクスの「ドイツ・イデオロギー」における「共同の 幻想体」からとった」としていたが、そののちに90年代のインタビューでは 、「〈幻想〉というタームは共同の場合には〈錯覚〉と取っても良いが、 対幻想や個人幻想の場合、〈錯覚〉では妄想のようになって、意味が違って くる」と説明し直している。結局対や個人では、いわゆるハイデガー的な 〈有る〉の繋辞のようにとるべきであって、対や個人の領域での存在論 すなわち「〜である」「〜がある」という現象や判断一般を指すととるべき ということだろう。しかしこれを吉本が説明し直したのは90年代半ばであ って、これは山本哲士らとのインタビューで言われたのだが、吉本による 重要な訂正であるにもかかわらず、皆もう興味が半減していたのか さほど俎上にも上がらなかった。 331つづき また問題のフーコーとの対談では蓮実による〈幻想〉翻訳語はfantasme になっている。これはフーコーの死後に編纂された『Dits et Ecrits V 1976-1979』(Gallimard)所収のフーコー&吉本対談でも確認することができ る。fantasmeでは死霊や空想という意味で、これでは共同幻想は勿論 個人幻想の訳としては不十分。 この対談について後に吉本は「あそこはfantasmeではなくてillusionだ と思う」と言っていたが、私見ではillusionは「錯覚、妄想、空想」などで、 これも共同幻想訳としては良いが個人幻想訳としては意味が違ってくる。 意味が違ってくる、というのは、「錯覚、妄想」では個人幻想の幻想とし てしては意味が違ってくる、と吉本本人が語っている。 むしろ、個人幻想訳としてはindividu etre 個人の領域での「有る」 とした方が吉本が後に訂正した仕方に意味が通じる。ついでに対幻想訳 としてはやはりetreを使ってpaire etreとするのがフランス語としては 正しいと思う。 吉本本人が「個人幻想では〈幻想〉は相応しくなかったかもしれない」 と誤解を生む表現であったことを認めているのだから、そこも難点だったし、 蓮実が共同幻想をfantasme collectifとしたことも既に問題だった。 >>331 さすがに、「ハイデガー的な〈有る〉」とは繋がらないんじゃないか? と指摘したいとこだけど、スレ違いなので、吉本スレでやろうよ。 >>333 >さすがに、「ハイデガー的な〈有る〉」とは繋がらないんじゃないか? いいや繋がるよ。吉本自身による個人幻想論は文芸批評理論の確立を 意図した『言語にとって美とは何か』から始まりでは起因している。そして 文芸作品とはその作家による〈〜がある〉〈〜である〉という繋辞を駆使 した世界の表明のことだ。〈ある〉は個人幻想を内側から 現し、世界を意味する。〈ある〉が個人史における意識に先行する像に 拘束されていく、すなわち世界は原-像、先行-像すなわち本人が意図しない うちに形成された像に支配されるとしている。 ところで吉本は80年代後半の太宰治論では資質、文学史での意味、太宰 文学の特質に踏み込んでいくが、そこで太宰が生まれてすぐに乳母に預け られる、また、思春期に家の女中から性的な悪戯をされる。すべてこれら が太宰において「生と死を超え易い資質」を形成したとしている。すなわち ハイデガー的な原-像、先行-像に太宰が苦しんだことをここで表明してる。 吉本がハイデガーを参照したことは語られてはいないが、両者の思索は偶然 同じ角度から個人や作家に照明を当てている。読んでいれば分かるよ。 334つづき で、あと>>328 でN氏によってこう書かれている。 >現実には評価は人によって大幅に >違っているわけだね。これすなわち、文学的評価において主観が重要と >いう証拠といえるね 吉本が文芸作品における価値評価を確立したといえるのは、たとえば ある作品を100人が読めば100通りの読み方、価値、好き嫌いが出てくる。 じゃあもう一回その100人に読んでもらうとする。さらにもう一回…さらに …と無限に読み返すうちに、その100人は同じ地点に到達する筈である、 という。すなわち作家個人の歴史性とその超え方、その生まれ育った風土や 同時代の 社会、そこでその同時代が抱え込んだ諸々の風景や問題と作家個人 の資質や歴史性との交点が。また文芸史で何を付加しえたかが。吉本の言葉 でいえば自己表出からみられた言語表現の全体の構造が文学の価値である。 或いは自己表現と指示表現の交錯する表現意識の相乗空間の時間の流れに 確定される、となる。 どちらにしても100人100通りの嗜好は最終的には止揚されるとしている。 『言語にとって美とは何か』での文芸作品への価値論とはこのように主観に、 好き嫌いに留まる価値論からは距離を置いている。そこだけは言っておか なければならないと思えたので書かせていただいた。 >>335 そういう風にすべての文学作品の評価価値が止揚される時空間というのは この世の終わるときであろうね。 つまり現在の評価でそれをあてにはできないね。 最後の審判の日がくるまでのあいだは、みんな主観で評価しなくてはならんわけだ。 >>334 だからさ、吉本スレでやろうよ。 君がよければ、>>331 >>332>>334 を吉本スレに転記しとくけど? >>335 は、そのままここで議論すればいいと思うけど。 ハイデガーとか吉本とかフーコーとか、ここのコテの人たちにはなじみのない哲学だと思うよ。 >>323 キター。40年前の本とは思えない。状態に何の問題もない。小林秀雄「私の人生観」(角川文庫・1975年版・定価:180円) http://i.imgur.com/0lZuLSL.jpg >>326 >それは別に問題ないね。ピースは「私の人生観」買ったそうだが、もう読んだのかな? これから読みます。でも、先に図書館から借りたの読まなきゃです。 >人生観を語るようになった小林などもうダメだ!と、それで小林を離れた読者もいた >ので、ピースは「Xへの手紙」読めても、こっちを読めるかどうかはわからないね。 「Xへの手紙」だって人生観を語ってると思います。 >>327 >読書会は、もう一人のコテが了承して、準備ができたら始めよう。 リアルタイムでは追いつけそうにないから、先にやってて下さい。興味があります。 >>328 >まあピースのことはおまえよりはよく知ってるので、余計なお世話だよ。 その通りDEF!! 文学とは畢竟己の人生観を懐疑的に語る事ではないのか! >>340 もう一人のコテは、相手の話を咀嚼しないで、すぐ捻くれたり罵倒したりするから、良識のありそうな君を待ってるよ。 自分好みの意見しか受け付けないみたいだ。 相手は僕ではないけど、>>336 がいい例だよ。 >>343 こういう事を書くと不自然につるんでると思われるのは嫌だけど、僕はNさんを信頼してますよ。あなたが真剣に書いた分だけ真剣にレスをしてくれると思います。試してみるといいですよ。 >>338 本当に四十年前? 俺の本よりはるかに綺麗だなあ。俺のは第三十二版だ。 >>339 そりゃそうだ、図書館で借りた奴を先に読まないとな。物事には優先順位というのがある。 >「Xへの手紙」だって人生観を語ってると思います。 それはそうだ。 >>340 なんかねえ、これ以上は吉本スレでやればいいんじゃないかって 意見もでてるよね。 >>345 >本当に四十年前? 俺の本よりはるかに綺麗だなあ。俺のは第三十二版だ。 http://i.imgur.com/eOEsTvq.jpg >そりゃそうだ、図書館で借りた奴を先に読まないとな。物事には優先順位というのがある。 あざす!ベルンハルトの「消去」の下巻を借りたんですけど、めちゃくちゃ読みたいのに文學界と新潮が邪魔をする(泣) 本当は「伯爵夫人」を読みたいのに、最果タヒのクソくだらない小説もどきが邪魔をするんです(笑) >なんかねえ、これ以上は吉本スレでやればいいんじゃないかって >意見もでてるよね。 これ吉本スレなんすか(笑) 思想家の小谷野敦さんが2代目吉本隆明を襲名 http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1331980000/ >>346 俺のは昭和四十二年七月二十日第二十二版発行、昭和六十年に改版 第三十二版発行だね。 まあ一番読みたいのを先に読むのが正しいねw そういう場合は。 >>346 哲学板の吉本スレだろう、やるなら。 吉本隆明 1924-2012 その3 [転載禁止](c)2ch.net http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1447062523/ ここも読んだけど、ホステスの人生相談に吉本がのったとか 女性に一方的にストーカーされたとか、それは吉本の「良い人ぶり」の 表れという話が面白かったねw とりあえず、「私の人生観」でベルクソンの理論について語ってるのは p.126からp.127までだから、小林の芸術凜音について知りたければ、そこだけ 読めばいいよw >>347 >まあ一番読みたいのを先に読むのが正しいねw そういう場合は。 本来はもちろんそうなんですけど、僕は純文学5誌スレで「最果タヒの十代に共感する奴は嘘つき」を読むと公言してしまったんですよね。本気で苦痛を感じています。まあ、自業自得なんですけど(笑) >>348 なるほど(>_<)後日読んでみます >>349 今読みます ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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