>>333
>さすがに、「ハイデガー的な〈有る〉」とは繋がらないんじゃないか?
 
 いいや繋がるよ。吉本自身による個人幻想論は文芸批評理論の確立を
意図した『言語にとって美とは何か』から始まりでは起因している。そして
文芸作品とはその作家による〈〜がある〉〈〜である〉という繋辞を駆使
した世界の表明のことだ。〈ある〉は個人幻想を内側から
現し、世界を意味する。〈ある〉が個人史における意識に先行する像に
拘束されていく、すなわち世界は原-像、先行-像すなわち本人が意図しない
うちに形成された像に支配されるとしている。

 ところで吉本は80年代後半の太宰治論では資質、文学史での意味、太宰
文学の特質に踏み込んでいくが、そこで太宰が生まれてすぐに乳母に預け
られる、また、思春期に家の女中から性的な悪戯をされる。すべてこれら
が太宰において「生と死を超え易い資質」を形成したとしている。すなわち
ハイデガー的な原-像、先行-像に太宰が苦しんだことをここで表明してる。
吉本がハイデガーを参照したことは語られてはいないが、両者の思索は偶然
同じ角度から個人や作家に照明を当てている。読んでいれば分かるよ。