小林秀雄 その九 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>328
>まあピースのことはおまえよりはよく知ってるので、余計なお世話だよ。
その通りDEF!! 文学とは畢竟己の人生観を懐疑的に語る事ではないのか! >>340
もう一人のコテは、相手の話を咀嚼しないで、すぐ捻くれたり罵倒したりするから、良識のありそうな君を待ってるよ。
自分好みの意見しか受け付けないみたいだ。
相手は僕ではないけど、>>336がいい例だよ。 >>343
こういう事を書くと不自然につるんでると思われるのは嫌だけど、僕はNさんを信頼してますよ。あなたが真剣に書いた分だけ真剣にレスをしてくれると思います。試してみるといいですよ。 >>338
本当に四十年前? 俺の本よりはるかに綺麗だなあ。俺のは第三十二版だ。
>>339
そりゃそうだ、図書館で借りた奴を先に読まないとな。物事には優先順位というのがある。
>「Xへの手紙」だって人生観を語ってると思います。
それはそうだ。
>>340
なんかねえ、これ以上は吉本スレでやればいいんじゃないかって
意見もでてるよね。 >>345
>本当に四十年前? 俺の本よりはるかに綺麗だなあ。俺のは第三十二版だ。
http://i.imgur.com/eOEsTvq.jpg
>そりゃそうだ、図書館で借りた奴を先に読まないとな。物事には優先順位というのがある。
あざす!ベルンハルトの「消去」の下巻を借りたんですけど、めちゃくちゃ読みたいのに文學界と新潮が邪魔をする(泣) 本当は「伯爵夫人」を読みたいのに、最果タヒのクソくだらない小説もどきが邪魔をするんです(笑)
>なんかねえ、これ以上は吉本スレでやればいいんじゃないかって
>意見もでてるよね。
これ吉本スレなんすか(笑)
思想家の小谷野敦さんが2代目吉本隆明を襲名
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1331980000/ >>346
俺のは昭和四十二年七月二十日第二十二版発行、昭和六十年に改版
第三十二版発行だね。
まあ一番読みたいのを先に読むのが正しいねw そういう場合は。 >>346
哲学板の吉本スレだろう、やるなら。
吉本隆明 1924-2012 その3 [転載禁止](c)2ch.net
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1447062523/
ここも読んだけど、ホステスの人生相談に吉本がのったとか
女性に一方的にストーカーされたとか、それは吉本の「良い人ぶり」の
表れという話が面白かったねw とりあえず、「私の人生観」でベルクソンの理論について語ってるのは
p.126からp.127までだから、小林の芸術凜音について知りたければ、そこだけ
読めばいいよw >>347
>まあ一番読みたいのを先に読むのが正しいねw そういう場合は。
本来はもちろんそうなんですけど、僕は純文学5誌スレで「最果タヒの十代に共感する奴は嘘つき」を読むと公言してしまったんですよね。本気で苦痛を感じています。まあ、自業自得なんですけど(笑)
>>348
なるほど(>_<)後日読んでみます
>>349
今読みます これ、講演録なの?その場で理解した人は相当のインテリだな(笑) 僕は「前後の文脈がわからないと読めないから後で読む」と言って逃げておく(笑) 議論の端緒になったんじゃないでしょうか。>>352が。 >>353
講演録だろうが、後から手をずいぶんいれてるね。小林は講演については
講演録にするときに、ぜんぶ後から手を加えて直すっていってたね。
ここだけ読んでわかんないなら、後回しだな、「私の人生観」読むのは。 いや、わかんないとは言わないですよNさん。印象で語っていいなら語りますけど、この議論の流れを僕は把握してないから、話を振られない限り僕は黙っておきます(笑) 小林秀雄が著作に後で手を入れるのがどーたらこーたらって書いてたのは福田和也より柄谷行人の方が先だと思うけど、柄谷行人だってめちゃくちゃ手を入れてるじゃん。 >>360の認識はそもそも間違っているのかもな。無視していいです。 >>359
まあ要するに小林に芸術理論があるのかないのかって議論になってるわけだね。
で、俺はそこのページに書いてあるベルクソンに負っている小林の考え方というのが
小林の最も根本的な芸術理論と考えているわけだね。哲学者ベルクソンに負ってる
考えと言うんだから、これは哲学的な芸術理論であると、俺は考えてるのさ。 >>360
柄谷も小林のテキストは後から徹底的に改稿するって書いてたね。
まあ俺は改稿されてるのかどうかなんて、ほとんど気にしたことはないがね。 >>362
めちゃくちゃ興味深いです。ベルクソンの事を何も知らないけど。小林秀雄がサルトルに反感を持ってたのも、ベルクソンに関する理解について異論があったのかな。
>>363
むしろ「残されたテクストが全て」だと本気で思ってる気がして好感持てますね。 >>364
まあ小林はサルトルもカミュも気にしてはいたね。サルトルについては対談で
触れてるけど、サルトル読んでもドストエフスキー読んだときみたいな感動は
得られないんじゃ無いかっていってたね。 あとは「考えるヒント」にある「読者」
ってエッセイでサルトルに触れてるが、それほど反感を押し出してはいないねw
ガブリエル・マルセルって哲学者と小林が対談したとき、サルトルが空港で
新聞記者たちの前で「諸君! 神は死んだ!」って見えきったって話を
マルセルがして、サルトルはそんな奴ですか、みたいなこと小林がいったら
マルセルは頷いたとか、そういう話もあったね。 >>364
小林がサルトルに反感あったとして、それはベルクソンの解釈とは
まず関係ないとおもわれるね。サルトル、カミュ、メルロポンティのなかでは
小林はメルロポンティを一番評価してたらしいが、小林は一行もメルロポンティに
ついて書いてないから、どのように評価してたかはわからないね。 >>365
>まあ小林はサルトルもカミュも気にしてはいたね。サルトルについては対談で
>触れてるけど、サルトル読んでもドストエフスキー読んだときみたいな感動は
>得られないんじゃ無いかっていってたね。
中村光夫と福田恆存との鼎談でしょうか?
>あとは「考えるヒント」にある「読者」ってエッセイでサルトルに触れてるが、それほど反感を押し出してはいないねw
僕はNさんから「考えるヒント3」を貰ったけど、それは載ってない(笑)
>ガブリエル・マルセルって哲学者と小林が対談したとき、サルトルが空港で
>新聞記者たちの前で「諸君! 神は死んだ!」って見えきったって話を
>マルセルがして、サルトルはそんな奴ですか、みたいなこと小林がいったら
>マルセルは頷いたとか、そういう話もあったね。
サルトルのそれ、どのタイミングですか? >>366
>小林がサルトルに反感あったとして、それはベルクソンの解釈とは
>まず関係ないとおもわれるね。
そうなんですね。サルトルもベルクソンにものすごく影響受けている人でしょう。よく知らないけど。そこらへんで思うところはなかったのかなあ。 小林秀雄はサルトルに対して対抗意識があったよね。先に挙げた大岡昇平との対談を読めばわかる。その対談をまとめてアップしたいんだよな。iPhoneから。良い方法知ってる人は教えて下さい。スクショで全文抑えてあるので、それを一つのURLで読めるようにしたい。 >>367
>中村光夫と福田恆存との鼎談でしょうか?
あ、そうそう、対談じゃ無くて鼎談。
>僕はNさんから「考えるヒント3」を貰ったけど、それは載ってない(笑)
一番最初の「考えるヒント」だからね。
>サルトルのそれ、どのタイミングですか?
いや、それは忘れた。
>サルトルもベルクソンにものすごく影響受けている人でしょう。
これが違うんだな〜サルトルはベルクソンには直接的にはほとんど
影響うけてないね。フッサールとかハイデガーとかあの辺だね、サルトルに
哲学的影響があったのは。 柄谷が確か書いてたと思うが、第二次大戦後のフランス思想界はドイツから
輸入された実存主義に制圧された、という話と、サルトルがハイデガーや
フッサールの影響をもっぱら受けてたという話は付合するわけだね。 >>336
>そういう風にすべての文学作品の評価価値が止揚される時空間
ではなくって私的嗜好によって文学作品の価値が決められる時空間といって
もいい。私的好み、嗜好、素材主義、主題主義だけではない価値評価は何か、
という問題意識で『言語にとって美とは何か』は書かれている。そしてこの
問題というのはかつて小林が「マルクスの悟達」冒頭で文芸批評の科学性
についての論争を書いた時点(もっとも小林の結論は文芸批評がこれまで
連綿と続いてきた事実がそも文芸批評の科学性を論証する、という小林お得意
の言葉の魔術のようなものだ)とも繋がっている。
>>337
>ハイデガーとか吉本とかフーコーとか、ここのコテの人たちにはなじみ
>のない哲学
だとしたら逆にどういうことかね。木田元はハイデガーと小林に同じものを
感じたというし、実際両者は〈宿命〉という用語を生体験の本質、個体の
歴史性の本質のように使う。「馴染みのない」というのは単に「疎い」という
意味ではないのかね。 372つづき
小林がサルトルを意識していたという議論が出てきてるが、サルトルの
ような先鋭な政治的意識は小林にはないね。ないし、共産党に或る時期の
サルトルのように希望をかける、ということもなかった。また小林は
「マルクスの悟達」を書いてるが、しかしそこでの読み方は『資本論』
についてニーチェを語るグウルモン引用しながら、「気違いのように常識を
説いた」とし、そこでサルトルがマルクス読解で抗議したような、資本に
包摂されながら〈他者(自己とは別のもの)〉〈集列体(数列のように記号
化されていくもの)〉〈実践的=惰性態(生産行為に入って行く中で、物を
加工し、そこで加工された物が逆に人間を惰性的に拘束し、物化していく
反転)〉のようなマルクスを読んでいく中で新たに編み出した概念で読み
直す、という力業に及ぶこともない。
まず小林は初期の「様々なる意匠」「マルクスの悟達」などで度々マルクス
に言及してはいる。しかしそこで語られるマルクスは「この世はありのまま
にある」を説いた、とされ或いはニーチェを語ったグウルモンを引用しながら
「気違いのように常識を説いた」とこれまた気の利いた言いまわしで語られて
しまう。「マルクスが説いた理論は大衆にとっては常識である」とも言ってい
る。 373つづき
サルトルが膨大なるマルクス読解で労働者の苦渋の日々を描き切ったのを
読み、その眼で小林のマルクス読解を読むと、こんな流麗な文体とレトリック
で「世の労働者にとっては常識」などと片付けられてはたまったものでは
ない、という感じがしてくる。
マルクス読解の一事をもっても、小林のマルクスは「小林秀雄の悟達」
を描いても、マルクスの描いた労働者の苦渋は故意にか触れないでいる
のが分かる。そういう手つきでマルクスを語り、澄ましているのが俺には
不審にみえてきた。かつては俺は「小林のマルクスは良いね」などと
思ったことがあったが、近年ここでも話題のサルトルの書いたマルクス論を
読み、小林のマルクスってのはとんでもない代物だと違う眼でみるように
なった。小林は日本の批評界の重鎮。サルトルはフランスの重鎮。しかし
手つきは相当違う。サルトルは小林のような流麗なレトリックで「悟達」
に入って澄ましているなどということはしない。 >>370
>これが違うんだな〜サルトルはベルクソンには直接的にはほとんど
>影響うけてないね。フッサールとかハイデガーとかあの辺だね、サルトルに
>哲学的影響があったのは。
そうなんだorz やっぱり僕はこの議論に参加できるレベルにないな(笑) >>372
>(もっとも小林の結論は文芸批評がこれまで連綿と続いてきた事実がそも文芸批評の
>科学性を論証する、という小林お得意の言葉の魔術のようなものだ)
「ある批評家が少なくとも一人の読者を持ち得た事情は批評の一般科学性を孕む」というのが
「マルクスの悟達」において小林が文芸批評の科学性について主張したことで、「文芸批評が
これまで連綿と続いてきた事実」というのは、その主張を導出するための前提であるね。
文芸批評が連綿と続いてきた事実そのもので、文芸批評の科学性を論証しようというのは
いくら小林だって無理だね。
>だとしたら逆にどういうことかね。木田元はハイデガーと小林に同じものを
>感じたというし
俺もハイデガーやメルロポンティについて理解するために木田元をよく参照してるね。
木田元自身、小林秀雄の影響は大きかったって自分で書いてて「何もかも小林秀雄に
教わった」って本を書いてるね >>373
>「マルクスの悟達」を書いてるが、しかしそこでの読み方は『資本論』
>についてニーチェを語るグウルモン引用しながら、「気違いのように常識を
>説いた」
ん〜と、「マルクスの悟達」にはニーチェもグウルモンも出てこないので、それは「様々なる
意匠」に出てきた話であるね。まあ「様々なる意匠」において小林のマルクス主義文学批評に
対する姿勢のアウトラインは既に定まっているので、それを表しているのは柄谷も着目した
以下の一節であるね。
>諸君の脳中においてマルクス観念学なるものは、理論に貫かれた実践でもなく、実践に
>貫かれた理論でもなくなっているではないか。正に商品の一形態となって商品の魔術を
>ふるっているではないか。商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス
>主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この
>変貌は、人に商品は世を支配するという平凡な事実を忘れさせる力をもつものである。 >マルクスを読んでいく中で新たに編み出した概念で読み直す
結局マルクスの読み直しって、そういう風に新たな概念を導入することによる再解釈が
中心ってことになるんかねえ。護経論的マルクス主義が、官僚化、硬直化していくプロセスに
あったならば、それに対抗してマルクスの再生を図るためには、天才的な個人による新たな
概念の投入、マルクスのテキストに対する斬新な再解釈、読み直しが必要であるという
ストーリーね。柄谷もマルクスのテキストの新たな再解釈をこころみたし、そのような
マルクスのテキスト再解釈の果てに到達にしたのが、アルチュセールではあるまいかと
俺は想像してるわけだねw >>374
>サルトルが膨大なるマルクス読解で労働者の苦渋の日々を描き切ったのを読み、その眼で
>小林のマルクス読解を読むと、こんな流麗な文体とレトリックで「世の労働者にとっては常識」
>などと片付けられてはたまったものではない、という感じがしてくる。
そういう苦渋を小林が書いたのを読みたいなら、小林のドストエフスキー論を読まないとねw
一般労働者よりももっと酷い苦渋を強いられている人類社会最低辺の監獄の囚人たちの苦悩の
日々については、マルクス論ではなくドストエフスキー論で小林は書いたといえるねw
「マルクスの悟達」でも、ドストエフスキーとマルクスは対称的な二人の天才として描かれているね。
そういえばサルトルもドストエフスキーは相当読んでたって話で、小林はサルトルよんで
サルトルが相当ドストエフスキー読み込んでたことがわかるっていってたねw
まあサルトルは共産党にちかづいて、それでカミュやメルロポンティと論争して
決裂するわけで、小林はサルトルよりかっていうと、カミュやメルロポンティのほうに
より近いと言えるね。 しかしまあ吉本の「悲劇の読解」における小林秀雄論でとりあげられた作品みても
「一ツの脳髄」からヴァレリイ「テスト氏との一夜」「Xへの手紙」「当麻」「平家物語」
そして「本居宣長」と、小林を観念的自意識の怪物として位置づけようという趣が
明白であるね。「マルクスの悟達」について吉本はふれてないので、そこに着目した
柄谷とは着目したポイントが大きく違うと言えるね。 >>379
サルトルは「労働者の苦渋と疎外とむなしさ」(というのは俺の受け取り方
が入ってるんだが)を描いたしもっと具体的に言えば稀少なる価値や地位や
財をめぐって互いに敵対性に入って行く。またたえず順列化としてしか
生きられない社会に順応することを迫られていく。
言い換えれば人間はそこでは互いに理解しあえる契機をたえず失くすよう
強いられ、秘密主義によって悪に染まることを強いられ、しかもそれは
物化として、惰性として人間を浸食する。
サルトルはこれらを「いつか乗り越えられる日が来るだろうと信じ」
あの膨大なる著作を興奮剤を飲みながら寝ないで書き続けたらしい。この
人のあのマルクス論を読むと、知性の闘いによって歴史を更新できると
いう信念を感じる。今読んでもだからそこには驚きと感動がある。
一方小林のマルクスはどうかといえば、「労働者にとっての常識を描いた」
ことになり、>>377にあるような思想の魔術に変わり、これ
だって謂ってみれば、思想を商品に擬え、それはいいがマルクスの真意を
汲み取る作業は為されないまま、思想が流通する様相をただ眺めていく
に留まる。そこでそれがどこまで有効なのか、
我々の日常にどう関係するのか、歴史は変えられるのか、というまさに
マルクスを革命的思想として読む作業は放擲されてしまう。 381つづき
つまり小林の発想というものはあくまでもそこでは「意匠」に或いは
「教養」にまたは「達人の悟達」に留まってしまう。
吉本が貴方の言うように「観念的自意識の怪物」として描くのは、
謂ってみればそこにしか今、読める箇所はないからであって、別の
小林論で吉本が語っているように、小林にとっての「世界」の問題と云うのは
ドストエフスキー論で終わりだ、「世界」について考えようとするならば
小林では役に立たない。また教えてはくれない。なので自分で考えようと
するしかなかったとね。
吉本はそう言うが、俺に言わせれば「世の中はありのままにある」ことを
訴えたのがマルクスであるかのように小林が言ってのける時に、この批評家
の(マルクスではない小林の!)それは「悟達」に過ぎず、マルクスを
その手の「達人讃歌」でまとめられてはマルクスは浮かばれんだろうという
気しか今はないね。言い換えれば小林のように悟ってしまって堂に入る
ことをマルクスは求めてはいないし元気な間は著述だけではない政治活動で
駆けずり回った人間だ。「悟達」など言われてマルクスがどういう顔を
するか、一度小林は考えてみた方が良かった。答えは簡単だ。「俺はあんた
の言うような悟達などしたことはない」とでも言われるのがオチだ。 382つづき
また、貴方は小林はサルトルよりかカミュに近かった、と言ってるが。
カミュの小説『ペスト』は絶望的状況にたいし、たえず闘いを挑む、
そして斃れていく人間を描いたものだろう。このような小説が小林に
描けるかといえば描かないと俺は思うわけだ。小林にできるのは「悟達」に
入るか、その「悟達」を無理矢理「天才」にみつけて「讃歌」すること
だけだ。
加えて言えば、木田元は小林とハイデガーに類似を感じ、それは確かに
皆無ではないし同じ用語を使ってはいるが、ハイデガーのような、新しい
用語を駆使し、また哲学史の中で忘却されていった問題を抉りだし、
それらによって我々の生のリアリティに到達しようまた人類の知の歴史を
総括しようと言う遠大なる作業は小林には無理だし、ましてやナチスの
希望をかけて加担するなんてことは「芸術家批評」がお得意な批評家のやる
ことじゃない。謂い方変えればその思索の深度とスケールが、また行動の
スケールが、その間違い方も含めて、違いすぎる感じがある。俺なら
木田元の言う類似よりか今は差異をみるね。 >>381
サルトルのマルクス読解ってもっぱらどの著作でおこなわれたのさ?
マルクシズムを扱ったようにみえる著書は、サルトルの主著では
みあたらないし。「存在と無」にしても、マルクス哲学の書というよりは
現象学的な哲学書といえるし。
>>383
まあ、小林は小説書けないから批評やったわけだが、小林のカミュ論も
なかなか興味深いものといえるねw 小林はサルトルよりはカミュに近いと
いえるが、それは政治的立場の問題で、やはり考え方は大きく違うね。
小林が依拠したデカルトにしろ、ベルクソンにしろ、哲学的問題を論じるに
あたっては日常用語で十分というなので、新概念の創造など無用と
いうのが小林の立場といえるねw 383つづき
とこう書いてしまえば「小林など読む価値ない」と言いたがっているかの
ようだがそうではなく、しかし俺などが一時期「いいな」と思っていた
ほどのものは実は小林にはなかったと、今さらのように気が付きだした。
俺の誤読もあった。こうまでテキストの中で停滞した「常識」に留まっている
批評家だとは正直気がつかなかった。
小林の戦前書いてる「文芸批評の科学性」についても、前レスに書いた
ようにお得意の言葉の魔術で纏め上げて、あれで吉本の『言語にとって
美とは何か』の意義が決まるとでも思う人間がいたとしたら苦笑する
しかなくなる。小林は言い換えればそこでも「ありのまま」に留まり
新しい基準が構築され得る可能性を放棄する。そこでも「悟達」しちゃって
るわけだwこれはいま読み返すと到底頷けるもんじゃない。というか、
こういう姿勢に留まっていること自体はもう吉本の論考で「読むことの
一段階」として位置づけされている。無論そこに留まることも「読むこと」
としてはありだ。「俺にはこの作品はこうなんだ。それで十分だ」に
留まることはありだ。自己の感覚にあくまでも拘ることはありだ。それを
吉本が否定するわけじゃない。しかしそこに留まらないことも可能だという
ことを吉本は示してみせたと思っている。そこが小林の批評から出発しな
がら吉本が到達してみせた力業であって、「小林秀雄とは違う批評は可能か」
をそこでやり切ったと俺には見える。 >>384
>サルトルのマルクス読解ってもっぱらどの著作でおこなわれたのさ?
『弁証法的理性批判』(1960年)があるじゃないの。アレは全編マルクス
思想の読解と言って良い。『経済学・哲学草稿』から『資本論』に到るまで
のね。
それらを読み砕いてサルトルは新たに書き直してみせた。マルクス唯物論
からみた歴史とは何かという主題でね。
今では古書店でしか入手できないし、読みづらいので俺は何度か放棄
したが。(ちなみに俺みたいに途中放棄した人間は数多いらしく、古書店では
結構出回ってるよw)近年読み返して、ここまで我々の日常の苦渋を、物化
を、遣り切れなさを、精神の汚泥を、これでもかと描き切っていたという
ことを改めて知った。そこからどういう革命が可能かも彼なりに描こうと
している。思っていた以上の良い作品だよ。
サルトルは晩年のインタビューで自分の作品でどれを後世まで残って欲しい
か訊かれ、『弁証法的理性批判』と『家の馬鹿息子(フローベール論)』
『シチュアシオン』を挙げている。俺も全読してるわけではないが、たしかに
ここに彼が挙げている作品は俺が読んだだけでも良い作品だと思える。 386つづき
『存在と無』というのは晩年のインタビューで自分で色んな角度から
否定してみせている。「アンガージュマンは二者択一かのように書いたが
それは間違いだった。あの時代はナチスへの抵抗運動があって。捉えられた
抵抗者が、仲間の居場所を拷問で言わされそうになり、謂うくらいなら死を
選ぶ、というのが英雄的行為として伝説化されていた。ああいうアンガージ
ュマンの考え方になるのは仕方なかったんだ。傲慢だった」
またこうも言う。「自己の浄化的反省が完璧に為されるかのように書いたが
、それは生涯かけて為されるかという問題だ。自己との共犯はだから
ほとんど避けられないとも言える」
このように『存在と無』での考え方に晩年では異議を唱えていた。実際
後半書き続けたフローベール論ではほとんど政治的活動などない皮肉屋の
フローベールにたいし、やはりこれもまた生体験としては尊重されるべき
と言いたげに膨大な論考を書いてる。
サルトルのスレみたいになったけどまあ勘弁を。 >>385
要するに「言語美」は凄い、言語美を読めと、単純にいえばそういう話ね。
「言語美」についてアマゾンのレビューみると、いろいろ書いてあるね。世界に
類例のない独創的な文学理論の書という評価もあれば、あと一歩で古典に
なれるのにとか、ちょっと不親切なところがあるという評価もあるね。
浅田彰に依拠したまったく読解不能という評もあるね。小谷野敦ってあの
文芸批評家の小野野のことならば、彼もまた「天下の愚書」という評価を
くだしているねw このレビュー読んでるだけでも、結構おもしろいね。
ところで君は君の愛する「言語美」の絶賛レビューをアマゾンに書いたりしたの?
「弁証法的理性批判」はもってないし、今日ではそれを評価する評者、ほとんど
みかけたことないね。というわけで読むこともできず、誰もあまり関心持たない
書物については、俺も人並みに素通りしてしまうわけだ。
「家の馬鹿息子」は蓮實がとりあげて、最近ちょっとまた関心をあつめたものだね。
読みたいと思ってるんだが、なかなか手が出ない。 ところでピースがせっかく>>352でアップしてくれた小林の「私の人生観」における
ベルクソン論、小林に理論はないとかいうから、小林の理論と俺が考えるものを
提示したわけだが、読んでないのか、読めなくて理解できなかったのか、理解した
うえで無価値と判断したのか、なんの反応もないね。 >>389
それは僕への誘いかな?
君と>>387の議論が始まったから途中で邪魔したくなかったし、>>375でPコテ君が事実上不参加を表明したから、静観しているんだけどね。
おまけの話だけど、君がPコテ君に「考えるヒント3」をあげたというのもおもしろかった。
あの本には「私の人生観」が入ってるのに、Pコテ君は買っちゃったんだな、と。
どこにどんな文章が入っているかなんて、誰でも忘れちゃうだろうけど、たまたま話題になってる文章を二人とも忘れちゃったんだね。
小林に理論があるかないかなんて、自分でこれを引用して「無い」と宣言してるんだけどね。
「懐疑は、恐らくは叡智の始めかも知れない、然し、叡智の始る処に芸術は終るのだ。(アンドレ・ジイド)」
(「様々な意匠」) >>390
確認してみたら確かに入ってた…僕はこれちゃんと読んでないな(笑)読みたいの沢山入ってるから良いよ。でも、Nさんは確実に読んでるよ。真っ黒だったもん。 サルトルが「私はもはやマルクス主義者ではない」と言ったのが1977年だね。 >>392
その言葉は知らないんだが、一般的に、言葉には背景や隠れた意味があることが多いから、短い言葉は鵜呑みにしないほうがいいと思う。
マルクス本人ですら、自分はマルクス主義者ではない、と語ったと言われてるぐらいだから。 「存在と無」の続編を放棄したサルトルは「マルクス主義に転向した」と語っています。たぶん1945年くらいの話。"I am no longer a Marxist."はフランス語で何と言ったのか不明だけど、サルトルが急進的な政治運動に絶望した際の言葉だと言われていますね。
まあ、入門書に書いてあったんだけど(笑) imgurで複数アップロードできるんだな。途中1ページ抜けてるけど、読みたい人は講談社文芸文庫の「小林秀雄対話集」買って読んで欲しい。
小林秀雄と大岡昇平の対談「現代文学とは何か」
https://imgur.com/a/hemVg >>389
いやまあ、小林に理論はないって議論やってる最中に、ピースがせっかく小林の文を
アップしてくれたのに、誰も反応ないから、誰でもいいから反応してよって話。
君でもいいし、君の前のひとでもいいってこと。
考えるヒント3をあげたのは、とても昔の話だし、「私の人生観」入ってるかどうかなんて
すっかり忘れてたよ。最近は考えるヒント3そんなに読み返してないし、やはり忘れていくものは
忘れてしまうね。
>「懐疑は、恐らくは叡智の始めかも知れない、然し、叡智の始る処に芸術は終るのだ。(アンドレ・ジイド)」
「様々な意匠」から「私小説論」を書いたあたりまでは、小林はジイド好きだったのかもしれないが
後からジイドは嫌いっていってるんで、「様々な意匠」を書いたころには理論なかったのかもしれないが
>>352の頃には理論もってたとも考えられるねw まあしかし小林に理論がなかったとしても、鋭い
直観をもっていたなら、それで十分といえるね。理論があっても勘の鈍い批評家と、理論がなくても
勘の鋭い批評家なら、俺は勘の鋭いほうを頼りにするわけだねw 理論があったって盆暗の批評家ってのは確かにいるんでねw
小林の鋭さは天下一品で盆暗批評家とはやはりいえないね。 まあそれに小林に文学理論がなくたって、文学理論ってのは他に沢山あるわけで
アリストテレスの詩学の理論以来、文学理論は汗牛充棟で、読み切れないくらい
沢山あるわけだねw サイードの本読んだって、アメリカの文学界批評界において
どれだけ多くの文学理論が流通しているかはわかるわけで、ニュー・クリティシズム
精神分析的批評理論、フェミニズム批評理論、脱構築的批評理論、アーノルドの
試金石理論、ノースロップ・フライの物語論、このリストはまだまだ伸ばせるわけだが
そのうえに小林の理論をつけくわえたところで、世界の文学批評理論界になにかしら
重大な変動がおきるとはおもえないし、他の理論家の理論にしてもやはり似たり
よったりであると考えられるわけだねw >>388
>要するに「言語美」は凄い、言語美を読めと
>「言語美」についてアマゾンのレビューみると
>浅田彰に依拠したまったく読解不能という評もあるね
貴方は単純だなw『言語美』を読めば足りる等思ってはいないが、
吉本の批評を読んできて、たとえば88年の講演での太宰治論とか、或いは
三木成夫を引用した胎児論など、人間論として震撼させるものがある。1999
年に出た本で『詩人・評論家・作家のための言語論』て本がある。吉本の
言語論の進化した姿があって、感心させられた。少なくとも小林の批評の
まま停まっているよりはこういうのを読んでみた方が良いのではと思える
がね。
俺は浅田彰の批評は彼が柄谷や蓮実とやった『近代日本の批評』を
読んだ時から完全な眉唾としか見てないので、当てにしたことはないね。
あの本で花田清輝をやたら世界に通用するかのごとく持ちあげているんだが。
日本の戦時中の国家総動員体制とソ連の疑似社会主義体制の区別も
ついているようには視えず、戦時中は右翼団体に寄生。戦後は日本共産党
に寄生する。ソ連に行った作家ジイドがそこで労働者に会って実情を知った
逸話について、「ソ連を知るなら官僚に訊くしかない」と言い切るところ。
不逞な嘘がつけるかどうかが革命家の決め手であるかのように言い切る
ところ。集列の一個になれるかどうかが革命家の決め手であるかのように
言い切るところ。これらは花田の全集で読めるし、他にもこの手の瞠目する
思考は花田の場合あっちこっちに遺されてあるが、
この手の花田のような批評家が「世界に通用する」かどうかは俺にはどう
でもよく、何故なら「世界」を舐めている男じゃなきゃそういう花田評価が
出る訳がないからだ。で、この手の評価を下す浅田のことも苦笑ものの秀才
としか見えなくなった。 400つづき
俺はアマゾンのレビューを当てにしたことはないね。「センスがない」
としばしば感じることがある。なので読んではいるが当てにはしない。
『弁証法的理性批判』についてもアマゾンではレビューすら載っては居ない
。ここで当然アマゾンのレビューを当てにする御仁には打つ手がなくなる
わけでwお気の毒というしかないが、俺は直感であの本にたいして
「此処には何かがある」と感じてきたし、だから歯が立たなくとも、
何度か放棄しても、捨てることも古書店に売り飛ばすこともせず、
(もっとも売ったところで今はたいしたカネにもならず、買ってくれる
かどうかも今は難しいだろう。古書店も売れるかどうかには厳しいから)
諦めることなく挑戦してきた。近年やっと歯が立つようになり凄さが
見えてくるようになってきた。諦めなくて良かったと今さらのように感じ
てるよ。
そういう読書の体験は貴方にはないのかな。それはまあ「人並」としか
言いようがないが。自分の触覚で選び読んでいく癖をつける、歯が立たな
くとも触覚が動く限り諦めない。そういう癖をつけておくことをお奨めする
ね。それがあれば「人並」を少しは超えられるんじゃないの?w
偉そうで申し訳ないがね。 400つづき
俺はアマゾンのレビューを当てにしたことはないね。「センスがない」
としばしば感じることがある。なので読んではいるが当てにはしない。
『弁証法的理性批判』についてもアマゾンではレビューすら載っては居ない
。ここで当然アマゾンのレビューを当てにする御仁には打つ手がなくなる
わけでwお気の毒というしかないが、俺は直感であの本にたいして
「此処には何かがある」と感じてきたし、だから歯が立たなくとも、
何度か放棄しても、捨てることも古書店に売り飛ばすこともせず、
(もっとも売ったところで今はたいしたカネにもならず、買ってくれる
かどうかも今は難しいだろう。古書店も売れるかどうかには厳しいから)
諦めることなく挑戦してきた。近年やっと歯が立つようになり凄さが
見えてくるようになってきた。諦めなくて良かったと今さらのように感じ
てるよ。
そういう読書の体験は貴方にはないのかな。それはまあ「人並」としか
言いようがないが。自分の触覚で選び読んでいく癖をつける、歯が立たな
くとも触覚が動く限り諦めない。そういう癖をつけておくことをお奨めする
ね。それがあれば「人並」を少しは超えられるんじゃないの?w
偉そうで申し訳ないがね。 >>400
いや別に吉本の批評よまなくたって、小林以外の批評理論よみたけりゃ
>>399にやまほどあるんでね。吉本の批評理論必ず読まなきゃいけないと
いうことはないよねw 太宰論とか三木論っていっても、そもそも太宰に
それほど熱い興味あるわけじゃないし、吉本がうまく論じてるのは、君の
言をみるかぎり日本の作家や詩人ばっかりだよね。やはりサイードの批評
理論のほうが世界的な広がりがあるわけで、だから俺は小林の次に
サイードを選んだわけだね。
まあ、浅田は花田清輝すきそうだし、吉本花田論争では明らかに花田側だろうね。
ってことは浅田の吉本評価は私的な評価がはいってるという見方もできるね。 まあ君は
吉本花田論争では吉本側なんだろうが、外野からみればどっちもどっちであるわけだねw >>401
「弁証法的理性批判」は誰もレビューつけてないので、それは
今日においてはあまりひとがその著作に関心もってないということを
示していると言えるね。まあアマレビュー書いてるのは、ほとんどが
普通の一般社会人であるわけで、一般社会人の評価をしるうえでは
もっとも参考になるサイトといえるね。
>俺は直感であの本にたいして「此処には何かがある」と感じてきた
そうかい、その直感があたってるといいねw まあ直感で判断するのは
主観的判断といえるので、君のその判断が主観的ということは自覚して
おいたほうがいいねw 君が盆暗でないなら、その直感には意味が
あるわけで、君が盆暗でないことを、君のために祈っておくことにするよw 『近代日本の批評』で花田がもちあげられているのは気に入らないって
あの本にはいろんな文学者や批評家がとりあげられてるので、花田
評価がおかしいといって全否定することもないだろうと思うけどねw
俺だっていきなり福本和夫が高評価になってて、なんだこれって
思ったりしたが、いろいろ参考にはなったねあの本は。 >>405
>>401の「自分の触覚で選び読んでいく癖をつける、歯が立たなくとも触覚が動く限り諦めない。」というのは、小林が言ってることと同じだよ?
そして、それが「直感」(知覚、感性)を磨く、とも言っている。
それを罵ったら、君自身の小林体験を罵ることになるよ?
横だけど、君がどこまで小林を読んでるのか心配になってきたw >>407
直感をみがくことは必要だろうが、磨かれた直感だろうと基本的には主観的なものには
違いないんでねw つまり批評において直感が重要ということは、批評においては主観が
重要ということをそのまま意味してるのさ。 君は直感が主観的なものとは思わないの?
それを答えてね? >>407
俺はもう君なんぞよりはるかに小林読んでる自信あるしw 君はどうせ「本居宣長」も
吉本の評価だけが頼りで、原本は読んでないだろうw >>408-409
とりあえず、いまの議論を続けろよw
横から茶々入れた僕も悪いんだが・・・
それとも、彼には歯が立たないから、逃げたくなってるのかな?
確かに、君が反論するのは無理な相手に見えるな。 >>410
茶々なんかつけてないよ? ちゃんとストレートに>>407に返してるよ〜?
俺に歯が断たなくて逃げ出したのが、俺にむかって逃げ出したくなったの?
とか、ちゃんちゃらおかしくって笑えるんだけどw >>411
読み違えるのも、相手の口真似するのも、自分に自信がなくなって狼狽えたことの現れだね。
なにしろ、「茶々を入れた」のは僕で、君じゃないw >>412
ああ、どうも御親切に間違い指摘ありがとうねw まあいずれにせよ君が
俺に歯が立たなくて逃げ出したことには違いないねw >>413
幼稚なのはくだらない揚げ足取りとって勝ったつもりになってる君であるねw >>415は>>414あての間違いね。 まあこんなくだらない揚げ足取りやってる暇が
あったら、本筋での反論を期待したいところなんだが、まず無理だろうねこのぶんじゃ。 猫ふんじゃった♪猫ふんじゃった♪
猫ふんだ〜ふんだ〜ふんじゃった♪
猫ふんじゃった♪猫ふんじゃった♪
猫ふんだ〜ふんだ〜ふんじゃった♪ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 「花田清輝を持ち上げたから浅田彰はダメ」って言うのって、結局はあなたの吉本隆明に対する偏愛が強い動機になっているようにしか見えないんだけどな。 N氏が俺に色々言ってるが、とにかく全部根拠のない誰々よりは誰々…
AもBも似たようなもの…的な話ばかりで、話が具体的じゃないし
まさしく「主観的な感想」ばかりで、自己の意見の具体的根拠や引用がなく、
この書き方自体が問題じゃないかと思ったがね。
『弁証法的理性批判』にしても、直感で挑戦し続けたが、最終的に良い本
だ、と思わなければ推しはしないわけだ。稀少性の概念で人間同士に悪が
生まれる、秘密が生まれること、政治や戦争状態が生まれること、
物を加工し生産するなかで、生産される商品が自律的になり、生産者は
集列の渦に入って行き惰性化していく。内面性は否定はされないが、
この集列性や惰性に同化させられていき、同化させられていくことは
内面的に自明化させられていく。我々の日常の自明性を抉ったのは
マルクスがそうだがサルトルのこの本はマルクスよりもより徹底的に
自明性の内実を抉って見せている。その抉り方が素晴らしいのだよ。
なので>>405が俺の一文を取り上げて「直感が当たってるといいね」
とか書いてるが、俺はそこで停まってる気はないわけだ。また直感での
話しをいつまでもしてても意味はない。上に書いたように、あの本での
記述はマルクスにおける資本主義の疎外理論をより詳細に展開してみせた
力業だ。サルトルなりの用語を創造し、新たに展開してみせている。
マルクス研究は多多あるが、ここまでやってるのは中々ない。素晴らしい
というしかない。 420つづき
「一般社会人」の評価はこの本の凄さとまず関係ないし、「一般社会人」
のアマゾン・レビューがこの本を取り上げないこと自体、アマゾン・レビュー
に独自な眼をもった読者のいない証明だよ。
花田清輝についても俺は一応この人のどこが下らないかについて、挙げて
みせているけどね。具体的にね。具体的な話がされずに批評の良い悪いの
評価などできないのさ。浅田が吉本の論敵だとか、それはそうだが
ただそれだけの理由で下らないとか言ってるわけではない。俺なりに
花田の全集は読んでる。この人の人間観や革命観の中で。人間を
集合の要素に還元したり、革命家は正直ではあってはいけないとか見なして
いたり、嘘の上手になることが革命の第一前提なように言いくるめていたり
たとえばサルトルからすると革命の前提としてあるべき素直さ、正直さ。
透明さを全部政治的狡知から否定している文章がある。これは吉本を
出すまでもなくこういう革命理論に未来はないと言わざるを得ない訳だ。
こういう政治的狡知優先という側面をみて、花田のような理論は駄目だ
、そういう革命は先が知れてると言ってる訳だ。 421つづき
小林の批評についても同じで、あくまでも具体的にしか俺は論じる気はない
。どっちがどう、という結論に性急に行くのではなく根拠を引用し、
出すべきだね。小林の「様々なる意匠」は好きな作品だし、作家の作家たる
運命や書くことに到る宿命をあげている箇所は好きだが、吉本は小林の
こういう批評の提示を継承してみせている。吉本の太宰論や
三島論に乳児期から掘り起こし辿って行く手法があって、ああいうところを
みると吉本は小林が提示した作家の「血球の流れ」を生誕史や生涯史として
書いたと分かるよ。しかもそこでどっちも生涯を生きながらえることが
できないで自死を選んだ悲劇を描いて見せている。作家論として素晴らしいし
人間学としても良い。小林が「様々なる意匠」で提示した方法の継承でも
ある。色んな意味で吉本の作家論は良いよ。
P氏がやはり「花田を持ち上げたから浅田が駄目だと言ってるのだろう」
とか書いてるが、これまたP氏は浅田の批評、花田の批評について、
具体的に語って見せるのが礼儀ではないかな。その上で、「貴方が言う
ほど花田の批評も浅田の批評も悪くはない」とやるべきじゃないかね?
貴方はそもそも 花田の書いたものを読んだことはあるのだろうか?なけれ
ば俺の花田論 に反論し、その根拠を提示することは出来ないだろう。
それができないから単なる勘繰りに(「貴方は〜ファンだから」的見方)
なってるように見えるのだよ。そうならないようどうか頑張ってください。 >>420
俺はきわめて単純な質問しただけで、君が直感で「弁証法的理性批判」には
なにかあると判断したというから、直感とは主観的なものか客観的なものか
問うただけさ。
もう一回聞くけど、直感とは主観的なものか、客観的なものか、どっちだと
思うの?
花田吉本論争については、吉本が花田を「東方会の下郎」とよんで、それが
結構花田にとっては痛手で、それから花田はあまり書けなくなったって話を
聞いたことあるねえ。 たまたま花田吉本論争についてまとめた本である
「真昼の決闘」って本を手に入れたので、これを読んで、論争の概要をとりあえず
把握するわ。 浅田はこの「東方会の下郎」という表現をして、「よくこんなルサンチマンに満ちた
うそ寒い表現ができるものだ」といったわけで、どっち側もかなり感情的になってるとは
いえるねw >>423
ああそうwそういうことが気になってるの。
読んで字のごとしで直感とは直な感ですよ。主観というのが私の観方だ
とすれば、直感とは観方でさえもない感ですよ。
ちなみに俺は直感と書いたっけな。触覚と書いてなかったかな?
これも主観のような観方でさえもない感覚のことです。昆虫のようなね。
あと、貴方が挙げている本を書いた好村富士彦という人は花田の側の人
で、そもそも『真昼の決闘』という映画じみた題名からして映画好き、西部劇
好きの花田の継承。またガンマン同士の決闘シーンによくあるような、
片方が撃たれて倒れたかのようにみえて、実は勝った方がバタリと倒れる。
実は最初撃たれたかのように見えた方が勝っていた、というのは
花田=吉本論争へのこの筆者の見方で、これまた花田寄りだと分かるのね。
結局吉本が勝ったように見えているが、この論争の後、吉本はそれまで
の反体制運動の芽を潰して回ったわけで、結果、よくない時代が来た。
なので負けたように見えている花田は勝っていたのである。そういう結論
なんです。
ただこの本の良いところはあの論争の全経過が書かれている。それは
この本の意義であって、持っておく意味はあると思う。
貴方はこういう本を読むだけではなく、実際の両者のテキストを入手
して並行して読むのが良いと思うけどね。ついでに絓 秀実の『花田清輝』
『吉本隆明の時代』も花田寄り。これまた俺なりに読んだが先の
『真昼の決闘』を数ケタ上回る、偏向著しい本だ。
無論貴方は貴方の読み方をするだろうし、俺の見方でしかないが
。どっちにしろいずれは実際のテキストを読まなければ分からない箇所が
出てくる。なら最初っから実際のテキストにあたるのが実は良いと思う
んですけどね。 >>425
直感とは主観的なものでも客観的なものでもないと、なるほど。
批評というのも、客観的でなければ主観的という二分法で裁断できる
ばかりとは限らなそうだねw
さすがに吉本ファンだけあって、ずいぶんと花田吉本論争には詳しいねw
まああの論争でどっちが勝ちだろうと、俺にとってはどうでもよいことだが
論争の中身についてはほとんど知らないから、論争の内容についての提示
があれば、中身の把握はできるわけね。
しかし結局「東方会の下郎」という表現をどうとらえるかということに最終的に
収束するような予感もするがねw まあ何というか、小林いうところの党派根性に満ちた論争にも
みえるし、それほど深くかかずらう意義はないのかもねw >>427
>それほど深くかかずらう意義はないのかもね
あの論争の提示していた最も難しい問いてのは花田という人の戦前から戦中
・戦後の至る思想的な遍歴。戦前はマルクス主義。これが戦中は右翼団体。
戦後は日本共産党。と変貌するが、これが花田の思想としては、一貫性が
あったのではないか。
というのは日本の戦中の国家社会てのは当然天皇
が絶対的な権力をもち、他国に進出、陰謀を弄しながら拡大して行く政策だ。
政府と独占資本が癒着し、国家総動員法によって国民には貧乏を強い、
思想統制を行い、暗黒の時代を作りだす。
一方ソビエト連邦も、思想統制を行い、一部官僚と党が利権を独占し、
国民には貧乏を強い、戦争で他国に進出する政策をとる。他国からの侵略を
防止するという名目で進出する。人類史上初の共産主義国家という名目だが
、内実は全体主義の戦争好きだ。
つまりどっちも国家が思想を統制し、利権を独占し、天皇神権を、共産主義
護持を理由に国民に貧乏を強い、ロクでもないことをやるわけだが、ところが、
この時代、花田のような思想家にとって、二つの国家は互換可能とみえた。
そういう可能性がある。だから花田は右翼団体から日本共産党へ寄生先を
簡単に変えられたし、花田のように戦争中は右翼。戦後は労働組合の
ボスに収まる男が実は結構いたのではないか、と吉本は指摘している。 428つづき
この問題はさらにマルクス主義をどうとらえるかという問題につながる。
花田にとって戦中日本国家社会と共産主義国家が互換しえたとすれば。そして
互換可能だからこそ彼はさほどの苦労はなく行き来できたとすれば。
ヌエのように形を変えて生き残った政治的人間花田の思想遍歴をどう
考えるかは、マルクス主義をどう捉えるかという問いに直結する。そこでの
党派をまた共産党が利権を独占し自由を統制する国家をどうとらえるかに
直結する。
これがあの論争の、論争自体では発展しなかったが潜在していた問題
だ。で、論争では発展はしなかったがその後、吉本はこの問題をずっと
考えてきた。それが吉本の思想的根幹の問いとなったと俺などは捉えている。
だから潜在していた問題としては深刻である。ところがこれが浅田彰
や柄谷らではまたスガ秀実では一切顧みられることがない。そしてひたすら
に花田讃歌になっていく。連中が思想的なセンスが乏しいと俺などが
考える理由だよ。俺はあの論争の意義をそう捉えている。
まあ小林秀雄愛読者には興味がないかもだけどね。 まあ小林だって転向の問題はそれなりに考えていたわけで
小林の場合は林房雄という転向者のサンプルが身近にいた
から、それを基準に転向者の問題を考えていたといえるね。
吉本は少年時代は軍国主義少年だったそうだが、敗戦のショックで
考え方が完全にかわったそうで、ある意味転向者ともいえるねw
吉本が執拗に転向の問題をあつかったのも、敗戦の衝撃が
原因と言えよう。
小林は戦後の座談会で「俺は一切反省しない」という有名な啖呵を
きったわけだが、小林の場合は戦前戦時中戦後と考え方の大幅な
断絶はみられず、吉本はそこも評価していたね確か。 戦時中の
文学者のなかで、もっとも傷が少なかったのは小林といってるね。
なにしろ戦時中は戦争を翼賛してたのが、戦後は一転して民主主義
万歳になった例はたくさんあって、そういうのは吉本にとっては
嫌悪の対象だったろうからねw >>431
あまり語ってはいないが、エッセイの「林房雄」かなあ。
林房雄自身が「転向に就いて」という文を書いてるそうで、それに
対する感想も書いてあるね。林の「転向に就いて」も一緒に読んだほうが
よいかもしれない。 >>432
ありがとう。
林房雄の「転向について」は読んだことがある。
駄文としか思えないが、盟友の駄文を小林がどう扱っているのか、とても興味がある。
読んだら感想を書くよ。 >>430
>吉本は少年時代は軍国主義少年だったそうだが、敗戦のショックで
>考え方が完全にかわったそうで
そこのところは実際の発言・回想とは異なるね。終戦の玉音放送の後、
吉本はショックで、海に無意識に泳ぎに出て泳ぎながら泣き、下宿先に
帰ってもまだ泣いていて、おばさんに慰められる。この時まだ吉本は
「負けた」ことを認める気にならず、一部でも日本軍の内でまだ戦うと
いう人があれば自分も加わり戦争を続ける気になっていた。
ところが日本軍の兵隊は次々戦地から戻ってくるのみで、まだ戦う、
戦争は終わっていない、という声など一向に起きない。そこで初めて、
自分のような愛国人間が少数に過ぎなかったこと、ほとんどの日本人大衆に
とっては愛国心や誇りよりも生活の方が優先すること、お上の一声によって
姿かたちなど簡単に豹変すること、を知った。
そうこうするうちに、東京裁判が始まり、自分が誇りに思い、赤紙がく
れば号令1下で討ち死にでもする気でいた日本軍が異国の大衆にどんなこと
をしていたか、初めて知ることになった。日本軍にたいする夢も潰えた。
その辺から吉本の内部で葛藤が始まり、自分は当時いっぱしのインテリ
でいるつもりだったが、何一つ世界も社会も知ってはいなかった、無知
であったことに到った。 434つづき
大衆とは何か、国家とは何か、社会とは何か。考えることになった。
そこから彼の戦後は始まったと言っている。
ちなみに敗戦後、吉本は戦中に敬愛していた文学者の一人、小林秀雄に
ついて、この人には文学を学んだけども、しかし世界とは社会とは何か
、吉本の言葉で言えば、「向こう側からくるもの」いわゆる
彼岸性、自意識の問題に解消されないもの、については何一つ教えては
くれなかった、言い換えれば彼岸性の問題については小林にはなかった、
それを自覚するようになった。
それに関連して、小林のマルクス論について言えば、「達人」の「達観」
となり、意識と存在の相克となり、思想とその商品化の問題、となり
それは鋭利ではあるが、反面、社会とは何か、どうあるべきなのか、どう
変えていくべきなのか、労働者の窮乏や疎外をどうするのか、という
まさしくマルクスの出した問題には触れられることはない。
吉本は数年前に『小林秀雄全集』が再編集された際のインタビューで、
「小林はマルクスを良く読みこんでいた」と評価している、とWikipedia
にあったが、それは上に書いたような、自意識に収まる「達観」「達人」
としてのマルクスに過ぎないという限定が付いてる。吉本がそこでそこまで
言ってはいないとしても、悪いが俺には分かるのでね。吉本の小林論を
一つではなく辿った人間としてはね。 >>422
>貴方はそもそも 花田の書いたものを読んだことはあるのだろうか?なけれ
>ば俺の花田論 に反論し、その根拠を提示することは出来ないだろう。
>それができないから単なる勘繰りに(「貴方は〜ファンだから」的見方)
>なってるように見えるのだよ。そうならないようどうか頑張ってください。
ハッキリ言って僕は花田の著作を一冊も読んだ事ないけれど、あなたの返信を読む限り、僕の指摘はかなり核心をついているのではないかと思うんだけどな。全く的はずれなの? >>436
貴方が言ってるのは>>419に貴方が
>「花田清輝を持ち上げたから浅田彰はダメ」って言うのって、結局は
>あなたの吉本隆明に対する偏愛が強い動機になっているようにしか見えない
>んだけどな。
と書いたことにたいして>>422のように俺が書いたことに関するものだね。
「偏愛」があろうがなかろうが、そういうところだけでこっちは書いている
のではないわけで、そこが読めないならそういう御仁自体、目が悪いまた
ちょっと怠慢に見えるんだがな。
この部分に関しては「花田清輝を持ち上げたから浅田彰はダメ」といった
無根拠な言い方はしてませんよ。>>400の後半また>>428>>429をもう一度
読んで欲しいんだが。そこで花田清輝という思想家がどういう問題を秘めてい
たのか。そして特に80年代からの花田清輝再評価の渦中で、ここで挙げてる
ような、問題が看過されていたこと。
言ってみれば労働者の真の解放、疎外の、搾取の止揚とは何か、
という問題。それが花田にはなくてしかもソビエト連邦ではそれが為されて
るという風聞は徐々に欺瞞であり反対に収容所列島であることが明らかに
なったという歴史。花田がそれらに口をつぐむ人間だったこと。
それらに蓋をした上での花田清輝評価にすぎないということ。花田清輝が
生涯変わらぬソ連信奉者であったことは全集を開けば一目瞭然なのだし、
花田清輝のそういう一面にたいし、遣り切れない感情のない花田讃歌などに
価値があるとは俺には視えないわけだ。 437つづき
もっと言わせてもらえば「ソ連の真実など言わなくても良い」式の情報
操作も花田が肯定していた
ことも頁からみえる。具体的に挙げてみれば『全集第3巻 二つの世界』を
開いてみると良い。ソビエトを訪問し、民衆の反応に嘘を感じたという
、「私だけの真実」にこだわるジイドにたいし不快感をあらわにし、ワイルド
の言を借りて「私は君の唇が面白くない。一度も嘘をついたことのないその
唇が」などと凄んでみせ、どこか「革命は正直者には無理」かのように
書いて見せる。これは同書所収「目の鱗」というエッセイに書かれている。
俺はこういう思想の持ち主、政治的篭略をしか信じきれない人間が
主導する「政治のプロの論理」に期待する気には一切なれないのだよ。で、
この手の思想家を持ち上げてる一連のグループもまた不審なわけだ。
今一度ご質問に答えると、俺は貴方が言うほどに感情的にのみつまり
「あいつは吉本と論争した花田を持ち上げたから駄目だ」くらいの
単純さ、無根拠さで書いてるわけではないぜ。必要な読書は省いていない。
「この人は〜派だから」というところで論争なら論争を主張をみるのは
ありがちだが、それだけでは論争の内実は無論分からないし、
あくまでもテキストの実態を自分の目で確かめることだ。でなきゃ
自分の判断等無理だ。せいぜい三面記事的分類にしかならない。
頑張ってください。 僕があなたの議論を矮小化したところが気にくわないわけだね。ごめんなさい。もっと頑張るようにする。では話の続きをどうぞ。 Pくん、レスどうもです。
小林の予言かなと思ったのは、以下の文章です。
>私小説は亡びたが、人々は「私」を征服したろうか。私小説は又新しい形で現われて来るだろう。
>フロオベルの「マダム・ボヴァリィは私だ」という有名な図式が亡びないかぎりは。
西村憲太の私小説かな、と。
「北町貫太は私だ」という図式が生きているから。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています