>>379
 サルトルは「労働者の苦渋と疎外とむなしさ」(というのは俺の受け取り方
が入ってるんだが)を描いたしもっと具体的に言えば稀少なる価値や地位や
財をめぐって互いに敵対性に入って行く。またたえず順列化としてしか
生きられない社会に順応することを迫られていく。

 言い換えれば人間はそこでは互いに理解しあえる契機をたえず失くすよう
強いられ、秘密主義によって悪に染まることを強いられ、しかもそれは
物化として、惰性として人間を浸食する。

 サルトルはこれらを「いつか乗り越えられる日が来るだろうと信じ」
あの膨大なる著作を興奮剤を飲みながら寝ないで書き続けたらしい。この
人のあのマルクス論を読むと、知性の闘いによって歴史を更新できると
いう信念を感じる。今読んでもだからそこには驚きと感動がある。

 一方小林のマルクスはどうかといえば、「労働者にとっての常識を描いた」
ことになり、>>377にあるような思想の魔術に変わり、これ
だって謂ってみれば、思想を商品に擬え、それはいいがマルクスの真意を
汲み取る作業は為されないまま、思想が流通する様相をただ眺めていく
に留まる。そこでそれがどこまで有効なのか、
我々の日常にどう関係するのか、歴史は変えられるのか、というまさに
マルクスを革命的思想として読む作業は放擲されてしまう。