小林秀雄 その九 [無断転載禁止]©2ch.net
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「花田清輝を持ち上げたから浅田彰はダメ」って言うのって、結局はあなたの吉本隆明に対する偏愛が強い動機になっているようにしか見えないんだけどな。 N氏が俺に色々言ってるが、とにかく全部根拠のない誰々よりは誰々…
AもBも似たようなもの…的な話ばかりで、話が具体的じゃないし
まさしく「主観的な感想」ばかりで、自己の意見の具体的根拠や引用がなく、
この書き方自体が問題じゃないかと思ったがね。
『弁証法的理性批判』にしても、直感で挑戦し続けたが、最終的に良い本
だ、と思わなければ推しはしないわけだ。稀少性の概念で人間同士に悪が
生まれる、秘密が生まれること、政治や戦争状態が生まれること、
物を加工し生産するなかで、生産される商品が自律的になり、生産者は
集列の渦に入って行き惰性化していく。内面性は否定はされないが、
この集列性や惰性に同化させられていき、同化させられていくことは
内面的に自明化させられていく。我々の日常の自明性を抉ったのは
マルクスがそうだがサルトルのこの本はマルクスよりもより徹底的に
自明性の内実を抉って見せている。その抉り方が素晴らしいのだよ。
なので>>405が俺の一文を取り上げて「直感が当たってるといいね」
とか書いてるが、俺はそこで停まってる気はないわけだ。また直感での
話しをいつまでもしてても意味はない。上に書いたように、あの本での
記述はマルクスにおける資本主義の疎外理論をより詳細に展開してみせた
力業だ。サルトルなりの用語を創造し、新たに展開してみせている。
マルクス研究は多多あるが、ここまでやってるのは中々ない。素晴らしい
というしかない。 420つづき
「一般社会人」の評価はこの本の凄さとまず関係ないし、「一般社会人」
のアマゾン・レビューがこの本を取り上げないこと自体、アマゾン・レビュー
に独自な眼をもった読者のいない証明だよ。
花田清輝についても俺は一応この人のどこが下らないかについて、挙げて
みせているけどね。具体的にね。具体的な話がされずに批評の良い悪いの
評価などできないのさ。浅田が吉本の論敵だとか、それはそうだが
ただそれだけの理由で下らないとか言ってるわけではない。俺なりに
花田の全集は読んでる。この人の人間観や革命観の中で。人間を
集合の要素に還元したり、革命家は正直ではあってはいけないとか見なして
いたり、嘘の上手になることが革命の第一前提なように言いくるめていたり
たとえばサルトルからすると革命の前提としてあるべき素直さ、正直さ。
透明さを全部政治的狡知から否定している文章がある。これは吉本を
出すまでもなくこういう革命理論に未来はないと言わざるを得ない訳だ。
こういう政治的狡知優先という側面をみて、花田のような理論は駄目だ
、そういう革命は先が知れてると言ってる訳だ。 421つづき
小林の批評についても同じで、あくまでも具体的にしか俺は論じる気はない
。どっちがどう、という結論に性急に行くのではなく根拠を引用し、
出すべきだね。小林の「様々なる意匠」は好きな作品だし、作家の作家たる
運命や書くことに到る宿命をあげている箇所は好きだが、吉本は小林の
こういう批評の提示を継承してみせている。吉本の太宰論や
三島論に乳児期から掘り起こし辿って行く手法があって、ああいうところを
みると吉本は小林が提示した作家の「血球の流れ」を生誕史や生涯史として
書いたと分かるよ。しかもそこでどっちも生涯を生きながらえることが
できないで自死を選んだ悲劇を描いて見せている。作家論として素晴らしいし
人間学としても良い。小林が「様々なる意匠」で提示した方法の継承でも
ある。色んな意味で吉本の作家論は良いよ。
P氏がやはり「花田を持ち上げたから浅田が駄目だと言ってるのだろう」
とか書いてるが、これまたP氏は浅田の批評、花田の批評について、
具体的に語って見せるのが礼儀ではないかな。その上で、「貴方が言う
ほど花田の批評も浅田の批評も悪くはない」とやるべきじゃないかね?
貴方はそもそも 花田の書いたものを読んだことはあるのだろうか?なけれ
ば俺の花田論 に反論し、その根拠を提示することは出来ないだろう。
それができないから単なる勘繰りに(「貴方は〜ファンだから」的見方)
なってるように見えるのだよ。そうならないようどうか頑張ってください。 >>420
俺はきわめて単純な質問しただけで、君が直感で「弁証法的理性批判」には
なにかあると判断したというから、直感とは主観的なものか客観的なものか
問うただけさ。
もう一回聞くけど、直感とは主観的なものか、客観的なものか、どっちだと
思うの?
花田吉本論争については、吉本が花田を「東方会の下郎」とよんで、それが
結構花田にとっては痛手で、それから花田はあまり書けなくなったって話を
聞いたことあるねえ。 たまたま花田吉本論争についてまとめた本である
「真昼の決闘」って本を手に入れたので、これを読んで、論争の概要をとりあえず
把握するわ。 浅田はこの「東方会の下郎」という表現をして、「よくこんなルサンチマンに満ちた
うそ寒い表現ができるものだ」といったわけで、どっち側もかなり感情的になってるとは
いえるねw >>423
ああそうwそういうことが気になってるの。
読んで字のごとしで直感とは直な感ですよ。主観というのが私の観方だ
とすれば、直感とは観方でさえもない感ですよ。
ちなみに俺は直感と書いたっけな。触覚と書いてなかったかな?
これも主観のような観方でさえもない感覚のことです。昆虫のようなね。
あと、貴方が挙げている本を書いた好村富士彦という人は花田の側の人
で、そもそも『真昼の決闘』という映画じみた題名からして映画好き、西部劇
好きの花田の継承。またガンマン同士の決闘シーンによくあるような、
片方が撃たれて倒れたかのようにみえて、実は勝った方がバタリと倒れる。
実は最初撃たれたかのように見えた方が勝っていた、というのは
花田=吉本論争へのこの筆者の見方で、これまた花田寄りだと分かるのね。
結局吉本が勝ったように見えているが、この論争の後、吉本はそれまで
の反体制運動の芽を潰して回ったわけで、結果、よくない時代が来た。
なので負けたように見えている花田は勝っていたのである。そういう結論
なんです。
ただこの本の良いところはあの論争の全経過が書かれている。それは
この本の意義であって、持っておく意味はあると思う。
貴方はこういう本を読むだけではなく、実際の両者のテキストを入手
して並行して読むのが良いと思うけどね。ついでに絓 秀実の『花田清輝』
『吉本隆明の時代』も花田寄り。これまた俺なりに読んだが先の
『真昼の決闘』を数ケタ上回る、偏向著しい本だ。
無論貴方は貴方の読み方をするだろうし、俺の見方でしかないが
。どっちにしろいずれは実際のテキストを読まなければ分からない箇所が
出てくる。なら最初っから実際のテキストにあたるのが実は良いと思う
んですけどね。 >>425
直感とは主観的なものでも客観的なものでもないと、なるほど。
批評というのも、客観的でなければ主観的という二分法で裁断できる
ばかりとは限らなそうだねw
さすがに吉本ファンだけあって、ずいぶんと花田吉本論争には詳しいねw
まああの論争でどっちが勝ちだろうと、俺にとってはどうでもよいことだが
論争の中身についてはほとんど知らないから、論争の内容についての提示
があれば、中身の把握はできるわけね。
しかし結局「東方会の下郎」という表現をどうとらえるかということに最終的に
収束するような予感もするがねw まあ何というか、小林いうところの党派根性に満ちた論争にも
みえるし、それほど深くかかずらう意義はないのかもねw >>427
>それほど深くかかずらう意義はないのかもね
あの論争の提示していた最も難しい問いてのは花田という人の戦前から戦中
・戦後の至る思想的な遍歴。戦前はマルクス主義。これが戦中は右翼団体。
戦後は日本共産党。と変貌するが、これが花田の思想としては、一貫性が
あったのではないか。
というのは日本の戦中の国家社会てのは当然天皇
が絶対的な権力をもち、他国に進出、陰謀を弄しながら拡大して行く政策だ。
政府と独占資本が癒着し、国家総動員法によって国民には貧乏を強い、
思想統制を行い、暗黒の時代を作りだす。
一方ソビエト連邦も、思想統制を行い、一部官僚と党が利権を独占し、
国民には貧乏を強い、戦争で他国に進出する政策をとる。他国からの侵略を
防止するという名目で進出する。人類史上初の共産主義国家という名目だが
、内実は全体主義の戦争好きだ。
つまりどっちも国家が思想を統制し、利権を独占し、天皇神権を、共産主義
護持を理由に国民に貧乏を強い、ロクでもないことをやるわけだが、ところが、
この時代、花田のような思想家にとって、二つの国家は互換可能とみえた。
そういう可能性がある。だから花田は右翼団体から日本共産党へ寄生先を
簡単に変えられたし、花田のように戦争中は右翼。戦後は労働組合の
ボスに収まる男が実は結構いたのではないか、と吉本は指摘している。 428つづき
この問題はさらにマルクス主義をどうとらえるかという問題につながる。
花田にとって戦中日本国家社会と共産主義国家が互換しえたとすれば。そして
互換可能だからこそ彼はさほどの苦労はなく行き来できたとすれば。
ヌエのように形を変えて生き残った政治的人間花田の思想遍歴をどう
考えるかは、マルクス主義をどう捉えるかという問いに直結する。そこでの
党派をまた共産党が利権を独占し自由を統制する国家をどうとらえるかに
直結する。
これがあの論争の、論争自体では発展しなかったが潜在していた問題
だ。で、論争では発展はしなかったがその後、吉本はこの問題をずっと
考えてきた。それが吉本の思想的根幹の問いとなったと俺などは捉えている。
だから潜在していた問題としては深刻である。ところがこれが浅田彰
や柄谷らではまたスガ秀実では一切顧みられることがない。そしてひたすら
に花田讃歌になっていく。連中が思想的なセンスが乏しいと俺などが
考える理由だよ。俺はあの論争の意義をそう捉えている。
まあ小林秀雄愛読者には興味がないかもだけどね。 まあ小林だって転向の問題はそれなりに考えていたわけで
小林の場合は林房雄という転向者のサンプルが身近にいた
から、それを基準に転向者の問題を考えていたといえるね。
吉本は少年時代は軍国主義少年だったそうだが、敗戦のショックで
考え方が完全にかわったそうで、ある意味転向者ともいえるねw
吉本が執拗に転向の問題をあつかったのも、敗戦の衝撃が
原因と言えよう。
小林は戦後の座談会で「俺は一切反省しない」という有名な啖呵を
きったわけだが、小林の場合は戦前戦時中戦後と考え方の大幅な
断絶はみられず、吉本はそこも評価していたね確か。 戦時中の
文学者のなかで、もっとも傷が少なかったのは小林といってるね。
なにしろ戦時中は戦争を翼賛してたのが、戦後は一転して民主主義
万歳になった例はたくさんあって、そういうのは吉本にとっては
嫌悪の対象だったろうからねw >>431
あまり語ってはいないが、エッセイの「林房雄」かなあ。
林房雄自身が「転向に就いて」という文を書いてるそうで、それに
対する感想も書いてあるね。林の「転向に就いて」も一緒に読んだほうが
よいかもしれない。 >>432
ありがとう。
林房雄の「転向について」は読んだことがある。
駄文としか思えないが、盟友の駄文を小林がどう扱っているのか、とても興味がある。
読んだら感想を書くよ。 >>430
>吉本は少年時代は軍国主義少年だったそうだが、敗戦のショックで
>考え方が完全にかわったそうで
そこのところは実際の発言・回想とは異なるね。終戦の玉音放送の後、
吉本はショックで、海に無意識に泳ぎに出て泳ぎながら泣き、下宿先に
帰ってもまだ泣いていて、おばさんに慰められる。この時まだ吉本は
「負けた」ことを認める気にならず、一部でも日本軍の内でまだ戦うと
いう人があれば自分も加わり戦争を続ける気になっていた。
ところが日本軍の兵隊は次々戦地から戻ってくるのみで、まだ戦う、
戦争は終わっていない、という声など一向に起きない。そこで初めて、
自分のような愛国人間が少数に過ぎなかったこと、ほとんどの日本人大衆に
とっては愛国心や誇りよりも生活の方が優先すること、お上の一声によって
姿かたちなど簡単に豹変すること、を知った。
そうこうするうちに、東京裁判が始まり、自分が誇りに思い、赤紙がく
れば号令1下で討ち死にでもする気でいた日本軍が異国の大衆にどんなこと
をしていたか、初めて知ることになった。日本軍にたいする夢も潰えた。
その辺から吉本の内部で葛藤が始まり、自分は当時いっぱしのインテリ
でいるつもりだったが、何一つ世界も社会も知ってはいなかった、無知
であったことに到った。 434つづき
大衆とは何か、国家とは何か、社会とは何か。考えることになった。
そこから彼の戦後は始まったと言っている。
ちなみに敗戦後、吉本は戦中に敬愛していた文学者の一人、小林秀雄に
ついて、この人には文学を学んだけども、しかし世界とは社会とは何か
、吉本の言葉で言えば、「向こう側からくるもの」いわゆる
彼岸性、自意識の問題に解消されないもの、については何一つ教えては
くれなかった、言い換えれば彼岸性の問題については小林にはなかった、
それを自覚するようになった。
それに関連して、小林のマルクス論について言えば、「達人」の「達観」
となり、意識と存在の相克となり、思想とその商品化の問題、となり
それは鋭利ではあるが、反面、社会とは何か、どうあるべきなのか、どう
変えていくべきなのか、労働者の窮乏や疎外をどうするのか、という
まさしくマルクスの出した問題には触れられることはない。
吉本は数年前に『小林秀雄全集』が再編集された際のインタビューで、
「小林はマルクスを良く読みこんでいた」と評価している、とWikipedia
にあったが、それは上に書いたような、自意識に収まる「達観」「達人」
としてのマルクスに過ぎないという限定が付いてる。吉本がそこでそこまで
言ってはいないとしても、悪いが俺には分かるのでね。吉本の小林論を
一つではなく辿った人間としてはね。 >>422
>貴方はそもそも 花田の書いたものを読んだことはあるのだろうか?なけれ
>ば俺の花田論 に反論し、その根拠を提示することは出来ないだろう。
>それができないから単なる勘繰りに(「貴方は〜ファンだから」的見方)
>なってるように見えるのだよ。そうならないようどうか頑張ってください。
ハッキリ言って僕は花田の著作を一冊も読んだ事ないけれど、あなたの返信を読む限り、僕の指摘はかなり核心をついているのではないかと思うんだけどな。全く的はずれなの? >>436
貴方が言ってるのは>>419に貴方が
>「花田清輝を持ち上げたから浅田彰はダメ」って言うのって、結局は
>あなたの吉本隆明に対する偏愛が強い動機になっているようにしか見えない
>んだけどな。
と書いたことにたいして>>422のように俺が書いたことに関するものだね。
「偏愛」があろうがなかろうが、そういうところだけでこっちは書いている
のではないわけで、そこが読めないならそういう御仁自体、目が悪いまた
ちょっと怠慢に見えるんだがな。
この部分に関しては「花田清輝を持ち上げたから浅田彰はダメ」といった
無根拠な言い方はしてませんよ。>>400の後半また>>428>>429をもう一度
読んで欲しいんだが。そこで花田清輝という思想家がどういう問題を秘めてい
たのか。そして特に80年代からの花田清輝再評価の渦中で、ここで挙げてる
ような、問題が看過されていたこと。
言ってみれば労働者の真の解放、疎外の、搾取の止揚とは何か、
という問題。それが花田にはなくてしかもソビエト連邦ではそれが為されて
るという風聞は徐々に欺瞞であり反対に収容所列島であることが明らかに
なったという歴史。花田がそれらに口をつぐむ人間だったこと。
それらに蓋をした上での花田清輝評価にすぎないということ。花田清輝が
生涯変わらぬソ連信奉者であったことは全集を開けば一目瞭然なのだし、
花田清輝のそういう一面にたいし、遣り切れない感情のない花田讃歌などに
価値があるとは俺には視えないわけだ。 437つづき
もっと言わせてもらえば「ソ連の真実など言わなくても良い」式の情報
操作も花田が肯定していた
ことも頁からみえる。具体的に挙げてみれば『全集第3巻 二つの世界』を
開いてみると良い。ソビエトを訪問し、民衆の反応に嘘を感じたという
、「私だけの真実」にこだわるジイドにたいし不快感をあらわにし、ワイルド
の言を借りて「私は君の唇が面白くない。一度も嘘をついたことのないその
唇が」などと凄んでみせ、どこか「革命は正直者には無理」かのように
書いて見せる。これは同書所収「目の鱗」というエッセイに書かれている。
俺はこういう思想の持ち主、政治的篭略をしか信じきれない人間が
主導する「政治のプロの論理」に期待する気には一切なれないのだよ。で、
この手の思想家を持ち上げてる一連のグループもまた不審なわけだ。
今一度ご質問に答えると、俺は貴方が言うほどに感情的にのみつまり
「あいつは吉本と論争した花田を持ち上げたから駄目だ」くらいの
単純さ、無根拠さで書いてるわけではないぜ。必要な読書は省いていない。
「この人は〜派だから」というところで論争なら論争を主張をみるのは
ありがちだが、それだけでは論争の内実は無論分からないし、
あくまでもテキストの実態を自分の目で確かめることだ。でなきゃ
自分の判断等無理だ。せいぜい三面記事的分類にしかならない。
頑張ってください。 僕があなたの議論を矮小化したところが気にくわないわけだね。ごめんなさい。もっと頑張るようにする。では話の続きをどうぞ。 Pくん、レスどうもです。
小林の予言かなと思ったのは、以下の文章です。
>私小説は亡びたが、人々は「私」を征服したろうか。私小説は又新しい形で現われて来るだろう。
>フロオベルの「マダム・ボヴァリィは私だ」という有名な図式が亡びないかぎりは。
西村憲太の私小説かな、と。
「北町貫太は私だ」という図式が生きているから。 >>433
俺も初めて読んだとき、こういう褒め方もあるのか?!とビックリしたからねえw
>>434
>この時まだ吉本は「負けた」ことを認める気にならず、一部でも日本軍の内で
>まだ戦うという人があれば自分も加わり戦争を続ける気になっていた。
つまり吉本は軍国主義少年だったってことやん。
>その辺から吉本の内部で葛藤が始まり、自分は当時いっぱしのインテリ
>でいるつもりだったが、何一つ世界も社会も知ってはいなかった、無知
>であったことに到った。
そのような葛藤にいたった原因は、玉音放送であり、敗戦であり、東京裁判で
あったわけで、つまり敗戦の衝撃といって何ら問題ないだろうw >>435
>労働者の窮乏や疎外をどうするのか、というまさしくマルクスの出した問題には
>触れられることはない。
小林だって人類最低辺の呪われた人々に対する関心は吉本なみにはあったと
いえるねw ソ連なんかマルクスの理論にもとづいて作られた国家であると
喧伝されてたわけで、ソビエトについても小林はいろいろ考えてたといえるねw
吉本だって労働者の窮乏を吉本の力でどうにかできたわけはないので
80年代にはコムデギャルソン着たりして、大衆消費社会について肯定的に
なってたわけで、結局時代の流れには誰もさからえないといえるねw >>440
まあ結論は常識的にまとめたわけだが、その結論の導出過程には
いささか飛躍があるように見えて、結構強引なオチのつけかたであるねw 八十年代の一般大衆がコムデギャルソン着られるようになったのは
吉本やマルクスの理論のおかげかというと、これは明らかに違うと
いえるよねw >>440
僕どちら(ボヴァリー夫人・西村賢太)も読んでないからわからないです😭 参考までに柄谷行人が私小説を定義しているテキストを貼りますね。彼も私小説について否定的ですね。
http://i.imgur.com/ppaQbtO.jpg
http://i.imgur.com/Jy2cVCl.jpg >>447
この柄谷の議論はちょっと私小説一般に敷衍できるかどうか疑問の余地なしと
しないね。 私小説が何なのか僕もよくわかってないところがあります。たぶんここで柄谷行人が念頭に置いているのは、「私小説としての中上健次」なんじゃないですか。あれは一人称が私ではないけど。 中上健次は中上健次が被差別部落出身者だという文脈を取り払っても素晴らしい小説として読めるでしょう。そういう事が言いたいんじゃないかしら。 そうなの?固有名は柳美里しか出てきてないようだが。 僕はそう思います。柄谷行人の文学論はすべて中上健次が念頭に置かれていると思っています。まだ「漱石論集成」を読んでないから、それに関しては語れないけど… 村上龍が芥川賞選考委員長に就任した時に「中上健次の岬を標準にして評価する」とかほざいたでしょう。めちゃくちゃナンセンスな話だと思うけど、あれは完全に柄谷行人の影響ですね。まあ、妄想と言われても仕方ないけど(笑) 柄谷行人が「私は深読みしているかも知れないが、私は深読みできないような小説には興味が持てないのである」とか文芸時評で言ってて、それを読んで以来、柄谷行人は深読みする事にしています。もしかしたらハメられてるのかも知れないけど(笑) 小林秀雄の話をしましょう(笑)住人Bに新潮文庫の「Xへの手紙・私小説論」を勧めたけど、僕が読みまくってるのは「Xへの手紙」なんですよね。マジで何回読んだかわからないです。僕はこのテクストを徹底的に深読みしている。 「Xへの手紙」が当時の文士の潜在意識に影響を与えていたという可能性も考えている。やはり妄想なのかなあ。 「Xは自分かも知れない」と考えている文士はいたと思うよ。坂口安吾は考えていたと思う。 「新人Xへの手紙」というテクストもその文庫に含まれているけど、そちらは何回も読んでない。あまり興味がもてなかった。ワナビとしての自意識が希薄だからなのかな。 「徹底的に深読みしている」というのは嘘だな。僕よりも更に深読みする余地は充分あると思っている。だから魅力を感じるのかな。 三島由紀夫はどう考えても「Xへの手紙」の「君」になろうとしてたよね。対談を読んだ限りの感想だけど(笑)しかも、書かれた年を考えると、「X」が三島であるはずがないのだけど。 まとめてうpするか。講談社文芸文庫の著作権を侵害するか。ごめんなさい。でも僕は「小林秀雄対話集」を既に3冊買ってるから、ゆるしてくれ。 自分の理想の彼方にある人格を書けるかどうかって、文学者にとってすごく重要なんじゃないかなあ。ドストエフスキーがアリョーシャを書いたというのは本当に驚くべき事だ、みたいな事が小林秀雄と坂口安吾の対談で語られてなかった? 844 名前:N ◆.a7VUr.VD. [sage] :2016/04/25(月) 19:03:00.25
坂口安吾など、小林に向かって、なんでお前は文学やらせりゃ日本一偉いのに、音楽や絵について書くんだなどと絡んでたね。
私小説論については、蓮實が理解できないっていってたけど、その評価にも半分同意するねw
フランスの現代文学と日本の私小説を比較して、私小説をよりユニバーサルに理解しようという野心はあるが
目標がうまく達成されたかというと、それほど完璧に標的に命中した批評とは思えないな。 これはどの本で読めますか?
849 名前:N ◆.a7VUr.VD. [sage] :2016/04/25(月) 19:18:09.82
小林は晩年の「正宗白鳥の作について」で、もう一度私小説について論じるわけで、こっちのほうが「私小説論」より出来がいいと思ったね。 小林秀雄全作品〈別巻2〉感想(下)
雑誌連載五年を経て中断、ついに刊行も禁じたベルグソン論…。著者の遺志の告知のために、特に別巻として収録する。
併せて最晩年の雑誌連載、未完の正宗白鳥論―。 ちなみに新潮で連載してる前田英樹『批評の魂』は、正宗白鳥と小林秀雄の絡み合いメイン マジだ。Nさんに貰った新潮5月号のタイトル「小林秀雄」やんけ。 Nさん、このスレで小林秀雄の文学理論について語って欲しいと言われているので、今度語って下さい♪
文学理論 8 [無断転載禁止]©2ch.net
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1456876313/ 文学理論について語るなら、小林の理論のみならず、もっと広範囲の
文学理論について語りたいねえ。 >>443
>つまり敗戦の衝撃といって何ら問題ないだろう
単に「敗戦のショック」というではなく、自分の何が駄目だったかに
思いが至った、というのが吉本にとっての「敗戦」だったわけで。そこから
彼の戦後が始まった。内省が始まったということが決定的な要因だと言える。
「敗戦のショックで」「転向」という言い方だと、単なる鞍替えにも視える
し、実際そういう鞍替えに過ぎない思考変更した日本人もいたろうから、
上に挙げた花田清輝のようにね。なので貴方の言い回しだと誤解を生むし
簡略化しすぎてると思う。
貴方は元々乏しい知識で頑張って話してるのかwどうも言葉に曖昧さが
あるね。
>>444
>吉本だって労働者の窮乏を吉本の力でどうにかできたわけはない
それは分かるが彼は労働者にとっての暮らしの窮乏や向上やをずっと
考え、だからこそカップヌードルのような手軽で安価な食品の登場を歓迎し
、また女性がファッション雑誌に見入るような風潮を生活の余裕として
歓迎したわけだ。労働者が明日の食事にも困るまた食費にカネが吸い取られ、
他には何も買えないような生活が変わって行ったことを歓迎していたのだ。 477つづき
窮乏についての意識があったからこそ、80年代に自分が中流だという
意識が広まって行ったことも歓迎した。経済分析で個人消費があがらなければ
景気はよくならないという分析までしている。
たえず大衆の生活と窮乏については頭にあって発言し続けている。時代を
変えてみせるてのは大変なことで、そうやすやすとやれることではないが、
それでも精一杯のことは言論人として終生やってみせている。「日本の
大衆の運命」という語彙もたびたび使っている。「こういう思想が先導する
大衆の運命を考えると絶望的になる」のような言い方でね。
貴方は無知だなあ(苦笑)小林の愛読者ってこういうもんか、てのが
俺の感想だな。だが小林に大衆の窮乏をどうする、という意識がなかった
としても、仕様がないと言うかwあれはそういう思想家じゃないでしょう。
考えてみたら小林の書くことじゃないと思うね。小林は優雅に友人たちと
文壇ゴルフに出かけて華麗なスイングを披露wまたは出版社の用意した
高級料亭で一杯やりながら友人たちと文学談義にでもうつつを抜かしてる
のが似合ってる。
汚い労働者や学生のやってる闘争など彼の頭にはないですよ。w
>>459
>「新人Xへの手紙」というテクストもその文庫に含まれているけど
小林秀雄の「新人Xへの手紙」てのはなくて「新人Xへ」のことだろうね。 >>477
>貴方は元々乏しい知識で頑張って話してるのかwどうも言葉に曖昧さがあるね。
君の話にはまったく具体性が欠けてるけどねw 吉本の話を分析してる
わけでもないし。
>>478
>貴方は無知だなあ(苦笑)
君の話にもなんら知識の開示らしいものはないし、なんか一方的上から目線で
知ったかぶりしてるだけという印象しか受けないねw
花田、吉本論争をあつかった「真昼の決闘」を読んだが、著者は確かに花田より
であるね。だが花田よりの著者の目から見ても、花田はろくに吉本に反撃できなかった
と書いてあるから、論争は誰が見ても吉本の勝ちに見えたんだろうw
花田は「負けるが勝ち」で吉本にわざと勝ちを譲ったというんだが、これはかなり
アクロバティックな擁護といえるねw まあしかしこの本を読むと、花田にも小林の
影響はそれなりにあったというのがわかって、それは収穫だったね。
まあ今までよりも随分反論に時間がかかった印象だが、その割には内容の無い
反論で、吉本信者のレベルというのはしょせんこの程度かと思ったことであったよw 「真昼の決闘」でも、吉本のコムでギャルソン、アンアンへの出演が吉本の
知的退廃のもっとも明らかな例としてあげられてるねw 埴谷が吉本を
批判したと書いてあるね。まあ吉本以外の左翼からみれば、これは吉本の
知的退廃以外の何物でもないんだろうが、当時の社会の雰囲気しってれば
吉本がそういう風なふるまいしたのも、時代の空気というものであって
俺は吉本の態度が知的退廃の極みなどとは非難しないよw >>479>>480
『真昼の決闘』読んだんですか。これは御苦労さま。
たしかにあの本には花田への小林秀雄の影響が語られてる。小林の
エッセイ「オリンピア」で砲丸投げの選手を小林が語っているのに
絡み、「批評家はむしろ、砲丸を生みだすのでなければならない」と
する。自分の流儀を小林と対照で控えめに声明してみせている。
「達人を語るのが好きだったがそのうち自分が達人になってしまった」
として敬意も払いながら自分とに違いにも言及している。
具体的には花田の『全集第1巻 復興期の精神』(講談社)所収の
エッセイ「太刀先の見切り」で書かれている。これは短いエッセイで確かに
小林の存在を大きく、自分にとっては乗り越え難い存在として意識している
ことが感じられる。俺が把握している花田の小林論はこれくらいだね。他にも
あるのかもしれないが。
しかし「影響」というほどのものは花田からは感じないけどね。一応
花田は小林を読んでは居るのだろうし意識もしたのかもしれないが。何よりも
小林は花田のような組織への寄生はしない人間でしょう。組織を守るための
嘘など不要だと切り捨てるでしょう。倫理的態度がまるで違う。無論
小林の方が毅然としてるしさっぱりしてる。 481つづき
>今までよりも随分反論に時間がかかった印象だが
とあるが。反論に時間などかけていませんよ。ここでのやり取りにばかり
時間かけてることはないし。好きな本読んでる時間が最も大事です
から。俺は2ch.読んでて吉本を語っている人で感心した人は取り敢えず
皆無だし、まともにやり合う気にもなりません。そのうちこちらが
講釈垂れてるようになって、一方的になってしまい、結局こちらほど
は相手は読んでないし興味もないと分かってくる。
吉本にまともに衝撃うけた、または読みこんだと感じられる人を2ch.で
見かけたことはないね。
じゃあ2ch.以外ではというと、数年前に『吉本隆明のDNA』という本が
出て、愛読したっていう人数人の話が掲載されてたけど。そこにいた人達
の話読んでも、俺ほどの深さは感じられなかった人もいたのだね。分かって
るなあって人もいた半面。
言論界でもかつて熟読し、今でもまともに読んでる人は今や少数に視える。
居ることは居るけども。
たしかにかつて過激派の時代には「教祖」とか呼ばれたらしいけど、
実はそう読まれてはいなくて、読まれなくても雰囲気で語られる人って
いるから。「こういう人」だって。だが大抵そういうのは外れてるのね。
吉本の場合に限らず読まなくてはまず分からない。ましてや80年代以降は
読まれなくなっていった。読まれなくなって、デマゴギーと偏見の対象に
されていった。90年代以降はますますその傾向に拍車がかかっていった。
というのが見たところ吉本の周辺の「愛読者」の傾向ですね。
貴方への「反論」というより、言葉の中身をはっきりさせた、と思ってます
けどね。曖昧な言葉遣いで、これはまずいと思えたのでね。 >>481
失礼。訂正です。ここにあげた文献、正確には『花田清輝全集第二巻
復興期の精神』(講談社)です。宜しく。 河出のムックには花田による別の小林論ありますね。全集では何巻かわかりませんが。
小林秀雄 はじめての/来るべき読者のために
[発行所] 河出書房新社 [シリーズ] 文藝別冊 KAWADE夢ムック
レトロスペクティブ 小林秀雄
●小林秀雄論から
花田清輝 聖アウガスチンの感傷 伝記作者・小林秀雄 >>482
そんなに自信があるなら、吉本スレにおいでよ。
楽しく語り合おうよ。
このスレのコテなんか相手にしても、吉本についてはおろか、小林についてだってまともな話はできないんだからさ。
ま、吉本スレでも、君「ほどは相手は読んでないし興味もないと分かってくる」かも知れないけどさ。 >>486
ほうほう♪それは歓迎です。吉本スレで何か振ってくれたのを見つけたら
また参加させてもらいます♪ >>487
なにを振ればいい?
主要著作関係?
身辺雑記は趣味じゃないな。 >>487
とりあえず、順番でいくと「言語にとって美とはなにか」かな?
吉本スレに論題?を書いてみるね。
簡単に書いとくから、ひとつずつ簡潔に対応してくれることを期待してる。 >>489
ううんwただねえ、吉本の本て(誰の本でも同じだろうけど)入り方が
あって。ただ一般教養として読んでいくてのは無味乾燥でしかない。論じるに
してもね。
俺にしても、アンチ吉本の時代を経ている。ただ他のアンチと違うのは、
アンチだからと言って、知ったかぶりで叩くことはしなかった。ただ
嫌いなだけだった。小田実シンパだったのでね。アンガージュマンの
サルトルとかにも入れ上げた。それもよく分かってないうちにね。
吉本を見直すきっかけは就職して、こんな厭な世界があったのかって
思い到ったこと。そこで読んだ吉本の詩に感動したこと。労働社会にたいする
絶望感に彼の詩は彩られてるから。心から感動することになった。
詩に共感すると、不思議と批評や思想の方も抵抗なく読めるようになった。
そういう経緯があるから、独自な経緯で吉本本に入ってきた。で、
教科書的に語ることには興味がわかないんだな。困ったもんでw >>481
まあ花田ったら、小林からまるで影響受けてないようなイメージが
あったし、批評の書き方も小林と全然正反対っていうイメージがあった
からね。実はそれなりに影響あったとわかったら、花田へのイメージも
変わるわけね。 吉本と花田にしても全然書き方は似ていないって
イメージがあるが、どっちも小林から影響受けてたといえるねw
>>482
まあ小林についての論は、現在の文芸誌その外でも毎年見かけるけど
吉本論は確かにあまり見かけないね。 この間読んだ文芸誌でも
小林についての論は三つくらい載ってたが、吉本論ってほとんどないし
吉本を評価してる文学者、理論家もほとんど見かけないね。吉本が
「試行」やってたころは、吉本の弟子がそこに集っていたようだが
あまり名を挙げたのはいないようにみえるし。 吉本についての現代の
文学界、批評界の評価は低調であるといえるねw 吉本再評価の
動きがでてくるならば、やはり吉本を十分読み込んだものからしか
出てこないと思われるし、俺は今更吉本を読み込むなんて無理だから
そっちが日本で一番吉本を読み込んでる自信があるなら、君が吉本
再評価やってみるしかないんじゃないの? 吉本論を論文にまとめて
どっかに投稿してさ。 >>490
まあ吉本はインキ会社や町工場に勤めてた経験があるから、似たような
経験があると、やはり吉本は理解しやすいんだろうねw 小林は工場に
勤めたこととかないから、工場勤めや会社勤めやったことがあるなら、吉本の
ほうが感情移入しやすいということはあるだろうよw まあしかしそれは小林の
批評と吉本の批評の本質的価値であるとまでは断言することが憚られるねw まあしかし吉本はインキ工場につとめながらも、小林そのほかの文学者の
文章読んでたわけで、インキ工場での経験を詩文章、文学を学んで昇華させ
表現したという風にいえそうだねw 花田清輝の経歴みると、工場などに
勤めた経験はほどんどなくて、ジャーナリズムを遊泳してきた根っからの
ジャーナリスト、批評家にみえて、軌跡はずいぶんと違っているように見えるねw
しかしどちらも小林という釈迦の手のひらで争っていたという風に、やはり
小林秀雄スレにおいてはまとめてしまうわけであるねw >>490
それは残念だ。
関心のある所は、人それぞれだからしかたがない。
なにかの機会に、また。 >>491
まあ、吉本が論じられなくなることに関しては「もっと読むべきだ」とか
いう熱望とかもないんだなあ。どうも特に2ch.あたりで論じてる輩はまず
一般教養として誇示したい人が目立つ。心から必要で読み進んだ人じゃない。
講釈垂れてる人にしても、或いは講釈して欲しい人も、結局教養人で、
それ以上のものじゃない。
吉本には生体験を悲劇として生きて死んだ文学者や思想家への視線が
ある。また思想にしても、視えないでいる精神の苦闘を探り当てる手法
がある。彼が文学者や思想家を論ずる場合、そういう視線がたえずある。
吉本自身の読書自体、受験生的な、または学校教師的な、あるいは
教養主義的なものとは異なっている。
その吉本を一般教養として纏める手法自体に俺には異和感がある。そして
特に2ch.ではそうした教養人による講釈以外は見られない。 495つづき
昔ハイデガーの講義を読んでたら、彼も「学校哲学」という名称で、
「あそこには人間にたいする真の問いかけはない。一緒にされては困る」
と疑問と否定を投げ、「一緒ではない所以をこれからお見せしましょう。
根本的に問いかけるということがどういうことかお見せしましょう」
と、そこまで言いはしないが現にやっていたのはそういう精神の問いかけ
だったわけで。気概と言葉の迫力があった。聴いてるのは学生だが、彼らに
たいし、どうやら自己の本来性を探ることこそが人間の務めと言いたげな
講義だった。スタンスがよく理解できた。これはただの講壇哲学ではない。
そういう迫力と気概のある書き手が俺は好きなのだ。
吉本の話に戻れば、吉本の仕事が一般教養にジャーナリズムに取りこ
まれる必要は感じないし、俺のようにどっかで感受した人が勝手に読んで
いればいい。
かつてのマルクス、ハイデガー、サルトルなどに匹敵する深度とスケール
を併せ持つ著述家は吉本だけと思ってるし、雑誌に取り上げられなくなる
という辺りは、元々俺は吉本論はあまり読まないので。これまで読んだもの
では強引な纏め方だったりするのが結構あり、偏見評論とかね。あまり
期待もしないのだね。俺が読んでるほどの深度も精度もないようでは
知れてるわけで。
問題は〈この私〉がどう読むかしかないのだ。小林にしても吉本にしても。
そうではないのかな?ジャーナリズムなど気にせぬが良いよ。 >>495
まあ吉本には一般教養に収まらない深度があるったって、具体的な
引用によってそれを示す手続きがないと、他の読者にその深度が
伝わらないねw
>>496
まあ君ひとりで吉本を背負ってる自信があるんならそれはそれでいいが
いろんな論があれば、いろんな角度からの見方が得られるわけで
そういう様々な視点からの評価というのは、再評価に伴う余禄といえるねw
まあ、吉本はマルクス、ハイデガー、サルトルに匹敵する総合的知識人
というのはかなりの評価といえるが、吉本はハイデガーやサルトルを
そんなに読んでたようには思えないけど、そのあたりはどうなの?
「言語美」や「共同幻想論」にどのくらいマルクスについての言及があるのか
表題からしてマルクスに大幅に依拠した理論書にも見えないしね。 >>497
たとえばハイデガーを読んでいれば、彼が人間の精神の歴史にたいし
疑問符を投げ、どこでどういう欠損を歪み生じたのか、知の歴史を一個一個
掘り崩していく手法がある。彼が哲学史家でもあり遡行するのは有の意味
が消えていく中で客観性信仰が台頭し、同時に主体性の根本が見失われていっ
た。有の意味は主体に収斂されていった過程を示したかったからだ。
彼の『有と時』ってそういう書物だよあれは。
そこで人間の精神・知の歴史全体を問い直す視線が生まれてくる。
吉本の心的現象論を紐解けば、人間の内部に人間以外の植物や魚類、
鳥類、爬虫類の精神が宿っていることが解剖学を引用し謂われている。
同時にここには人間を理性や合理性に同値する思想への反命題がある。
人類史を相対化する視線が上の両者にはある。 >>498
>人間の内部に人間以外の植物や魚類、鳥類、爬虫類の精神が
>宿っていることが解剖学を引用し謂われている。
へ〜ユングの元型論みたいだな。ユングの元型論も人間精神の基底に
おける進化論的基礎を明らかにしようとした試みであるが、魚類、鳥類
爬虫類の精神というのは、なにかオカルトめいて、ユングの理論は
非科学的とされたが、吉本の理論にもそのような危険性があるように
見えるねw 498つづき
同時に両者には理性や合理性に収斂する人間への反命題としての脱理性への
視線がある。ハイデガーでは1930年代中期の草稿で理性的動物をどう超えられ
るのかという問いをし、有は拒絶として底無しの深淵を開く、慣れ親しま
れた振る舞いから退去する、それは畏怖と驚愕をもたらす。しかしそれは
有にとっては窮迫からの防衛である、とする。
また吉本では親鸞論で造悪論を論じ、悪をやればやるほど浄土に近くなる
という思想をオウムのサリン事件と関連付けて論じている。人間的な徳や
知や善やに価値を置くべきではないという思想であって、これまた人間存在
にたいする根本的な視線変更が為されている。
両者ともに学校教育的な知からはみ出す過激さと深度を保有している。
吉本はサルトルもハイデガーも相当読んでるし心的現象論では批判的な
引用も屡されてるぞ。
マルクスについては60年代中期にまとまった論考を書いてる。
しかもその読解は消化した上で出てくる。〈共同幻想〉
というのは『ドイツ・イデオロギー』の一節に出てくる〈幻想的な共同性〉
から取ってる。十分読み込んで消化しそこから新しい展開をしている。
あれは民話や神話や漱石の分析は入ってるが、始まりはヘーゲルとマルクス
の思想だ。ヘーゲルとマルクスとの関係が気になって考えていたという
のは吉本とフーコーとの対談で自身が説明しているところだ。 500つづき
それと具体的な言及がなければ「読んでたように視えない」、というのは
余りにも浅はかだなあw俺は読んでてがっかりしたよ。たとえばフーコーは
ハイデガーについてはまとまった論考は遺さなかった。しかし、彼の論を
読んでいればハイデガー有論のいわゆる外堀としての制度・理性の牢獄を
描きたかったことは後期に発表した「主体と権力」で、人間を主体に
変え、服従させていく力こそ権力であり、制度であり理性の実体である。
それを言いたがっていたと分かるし、それはハイデガー有論からすれば
外堀に該当すると分かる。
フーコーはハイデガーについては自分の有名な論考の中で名前は出さない。
死の直前のインタビューで若いときに相当読み込んでノートを作ったことを
告白しているだけだ。
著述家が名前を出さないからと言って読んでないとか影響されてないとか
言えないはずだが。
貴方は読書家な割には読み方が浅はかだなあw まあ小林はすくなくともサルトルはフランス語で読んでると思うが
吉本は文献はほとんど日本語で読んでたわけかいな? 吉本が
フランス語やドイツ語できたとも思えないし。 翻訳通じてもそれなりに
深い読みはできるというのは、俺も認めるけどねw
吉本が誰かのことを「翻訳業者」と罵倒していたことをふと思い出したねw
小林もハイデガーはそれほど読んでないだろうが、マルクスやサルトルは
それなりに読んでたわけで、マルクスやサルトル読んでれば総合的
知識人といえるなら、小林も総合的知識人といえるねw Nさんはいろいろ読んでるんだけど、自分の問題意識のない単なるディレッタントなだけだと思う。
悪いことではないと思うし。だから他人の評判でしか価値判断できない。
全然小林的じゃないけど。 >>501
こっちは吉本ほとんど読んでない以上、読みの深さ浅さ以前の話で
吉本について単に知らないだけでねw そっちは吉本はよく読んでるんだろうが
小林については俺ほどは読み込んでないだろうから、小林については
こっちにアドバンテージがあるわけさw >>503
俺は小林は自分の評価で読んでるわけでねw 別に他人の評価に
たよって小林を読み進めたわけじゃないんでねw 君の勘違いに
すぎないねそれはw まあ小林読むのが面白いから読んでただけで、面白いから読むのがディレッタント
というならば、俺はディレッタントで十分だけどねw つまらなくて退屈なものを
読まなければいけないのは苦痛であるし、小林読んでる間は退屈しなかったのでねw フーコーがハイデガー読んでたってのは、理解できるけどね〜
戦後のフランス哲学にハイデガーが与えた影響は大きいからねw >>506
>まあ小林読むのが面白いから読んでただけで
>小林読んでる間は退屈しなかったのでね
それを言うならこの世には面白い、退屈させない本はほかにもありますと
いうことね。無論小林の書くものは面白いし、ハマるのもわかるんだけどw
それと、小林は確かに面白いんだけど、同じ「宿命」といっても、
ハイデガーも同じタームは使うし、より構造的に「宿命」を浮かび上がらせる
手法がある。また作品と読者の実存の邂逅を謳歌するのが小林の批評の眼目
だったという気がするが、実存そのものの解明はやらないでもいい。
作家が作品を誕生させ、読者である小林と出会う、その偶然にたいする
驚異への視線はあるけども。じゃあ実存とは、一個の人間が何を求めて
生きていくのかという問いを構造的普遍的に問うことはしない。
小林の流儀ではそこまで突っ込む必要もない。何故そこで差異が
出てくるのかというのが重要だと思う。
小林の批評は面白いが、あれは一種の批評という名前の美。作品であるし
、批評という形式の美であり詩であり作品である、という特徴は
美点でもあればそこから先へは行けないでいた行き止まりでもあったことを
意味している。
だからあれはあれで完結しているし、読ませるし感服させるが、発展性は
なく、「批評家という名前の作家」という評価が妥当だと思いますね。
彼の独自性もそこにあった。彼にハマッた読者に停滞感が匂うのもそのせい
だろうと思っていますね。 小林の批評を高く評価する人もいるが、僕はその中に下品さを見るだけだな。
自分の思い付きを強い言葉で断定する。
たまに見聞きする中小企業のオヤジと同じ下品さだ。
小林が一時期骨董品で商売していたというのも、本当かも知れない。
「これは贋物です」
「贋作でも真作に劣らぬ力があるじゃないか。お前にはそれがわからないのか」
「力はわかりませんが、お金にはなりません」
「ばかやろう、このど素人が!」
安吾の競輪事件もこんな感じだっただろうな。
酒を呑み、オダあげてクダを巻く。
そんな光景も真実の姿に近いのだろう。
断定の強さは、心の弱さかもしれない。
開戦の報に触れたときのふやけた文章を読者は忘れるべきではない。 批判だけじゃなく小林の残した文章で心に残ったものも挙げておきたいの
で。
小品だが三島由紀夫自決の際に書かれた「感想」ってのがある。『新潮
1971年2月号臨時増刊』に掲載されてるんだが。この雑誌は今でも文学
関係の古書店で出回ってるし、探して読むのは容易だと思うが。たった2頁
の文章で、出版社からの電話に答えたかのような体裁で、談話のように
書かれている。
三島が内省では飛びぬけていただろうにもかかわらず、全てが視えていた
わけではなかろう、やはり自分でも良く分からぬ運命とともに生きたのだ、
「謹んでお悔やみ申し上げる」というような決まり文句が昔から人の死に
さいしては言われるが、死に際して人が感ずる謎がいつもあるからだろう。
自分が三島さんの死に対して右翼とか、そういう政治的意味で受け取る
ことはない。ひどく孤独なものを感ずるからだ。
というのはその後、胎児論や乳児論で吉本も取り上げた三島の生育史を
予感させる。この時点で小林が三島の生育史を知っていた訳ではなかろう
から、直感的感想だとしても素晴らしいし、三島への哀悼の句としていまだに
胸に迫るものがある。 >>511
小林はもう死んじゃったから、小林の批評はあれでいきどまりだが
読者がそれ読んで参考にする分には、未来への発展性はあると
いえるねw そもそも作者が死んだ後誰も読者がいなければ、作品に
しろ批評にしろ、生きながらえることはできないわけでねw 誰か
読者をあらたに獲得する旅に、作品というのは再生するわけさw >>511
中小企業の親父については偶に見聞きするだけで、あまり
知らないようだが、中小企業の親父たって、いろんな性格のが
いるわけでねw 俺が知ってる中小企業の親父と小林はほとんど
似てないねw
開戦の報に触れたときの小林の文章は、小林のすべての文章の
なかで一番グダってる文書ではあると思うが、他の連中は開戦の
ときにもっと勇ましいこといってたわけで、あそこでグダったのは
小林の良さをむしろ示しているといえるねw 戦後の発言のほうが
むしろグダってなくぶれてないので、そこは吉本も評価してたねw
周りが勇ましいときはグダり、周りがグダってるときはハッキリもの
いう、これが小林の反時代的流儀といえるねw あの開戦についての文章のグダりかたは、確か橋本治が分析してたね。
吉本隆明はあの小林の開戦の文章にはそれほど感銘受けなかったのでは
ないか?あれだけグダってる文章ならば。むしろ高村光太郎などに影響
受けたのではないかと想像されるねw >>512
小林と三島といえば、その「感想」と、小林と三島の対談、それと小林と
江藤との対談において出た三島についての話、この三点がメインといえるねw
まあこの三つがあれば、小林の三島観については大まかな見取り図が書けると
いえるねw >>513
実存的であるということと、実存を解析するということ。また言い換えて、
己の実存に居座るということと、実存的とは何かを解析しうること。
実存的というのは内省はしない。自己解析はしない。解析した末に普遍ま
で行きつくことをしない。
天才の作法や作品、達人の流儀や生涯を知る〈私〉の感動と生体験。
対象にぶち当たる自己意識のナマな体験。
小林の批評は同じところに留まって発展はしない、対象にぶち当たった
〈私〉、天才の秘密に行きあたった自己に湧きおこる感動。
知的営為があることはあるが、作品や作者に没入した〈私〉における
〈震撼〉がすべてであり、作品や作者の歴史と〈私〉という歴史の邂逅以上
の価値は見出せないという理念があったと思える。
よって「様々なる意匠」では邂逅の末に〈私〉の内部で沸き起こる詩に
批評の理念が見出されている。小林の批評の意味はここで宣言され、
そしてそのまま動かずにいた。
これは「死んでしまったからもう先へは行けない」という決まり文句で
掴まれるようなものではない。死ぬ前から上記の場所で止まっていたし、
それで本人は何ら不自由はしてなかった、此処以外の批評の場所はないと
されていたという意味だから。 517つづき
小林の批評にあるいつも漂ってくる、小林に紡がれていく詩とは、
上記のような、邂逅の詩であり、思想や作品の根底にある秘密に行きあたった
〈私〉が紡ぐ詩である。秘密に行きあたるまで知的な直感が突き進む。
行きあったところで〈私〉の詩が始まる。
これは「様々なる意匠」での宣言と同じであり考えてみれば三島の死に
たいして語られた追悼文「感想」は、小林の批評の理念そのままの様式で
語られた典型的な小林秀雄批評。隠れた代表作だ。しかしそこでの三島の
死を悼む方法は「様々なる意匠」での宣言そのままなのだ。
1970年の時点でまだあの宣言のままの批評を駆使し、そしてしかも感動的な
批評を小品だが書ける。しかしそこには自己の方法的発展は相変わらずない
。しかし同時に三島の生涯の秘密に行きあたった〈私〉における詩はある。
詩の感動はある。
だからあの「感想」は三島の追悼をしながら奇しくも小林の批評の典型を
露わにもしてみせていた。変わらない、または変われない方法を露わに
してみせていたと言える。 518つづき
死ぬまで変わらない方法を理念を駆使した批評家はそれはそれとして
措いといて。しかしそれに後続する批評家が同じことをしても意味はない。
後続した吉本や柄谷の意識としてはそうだったはずだ。小林と同じことを
しても意味はない。小林が出来なかったことをやるしかない。二人の
方法をみてるとその意識は色濃くみえる。そこに批評の歴史がみえる。
目を転じて文学愛好家は小林の批評に惹かれ易い。何をみても自己の内部
に沸き起こる生体験と詩情を書ける批評家は魅力的だ。同時にしかし
その愛好家と小林の関係には入り難いものがある。蓮実重彦ならば
「文学という制度」と言ったかもしれないが、小林の批評にある方法には
盲目なまま愛好家に留まる事の中にはそれもまた停滞しかないし、
発展性はない。それこそが文学だと言うなら、それはやはり文学の囲い込み、
制度化というしかない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています