小林秀雄 その九 [無断転載禁止]©2ch.net
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481つづき
>今までよりも随分反論に時間がかかった印象だが
とあるが。反論に時間などかけていませんよ。ここでのやり取りにばかり
時間かけてることはないし。好きな本読んでる時間が最も大事です
から。俺は2ch.読んでて吉本を語っている人で感心した人は取り敢えず
皆無だし、まともにやり合う気にもなりません。そのうちこちらが
講釈垂れてるようになって、一方的になってしまい、結局こちらほど
は相手は読んでないし興味もないと分かってくる。
吉本にまともに衝撃うけた、または読みこんだと感じられる人を2ch.で
見かけたことはないね。
じゃあ2ch.以外ではというと、数年前に『吉本隆明のDNA』という本が
出て、愛読したっていう人数人の話が掲載されてたけど。そこにいた人達
の話読んでも、俺ほどの深さは感じられなかった人もいたのだね。分かって
るなあって人もいた半面。
言論界でもかつて熟読し、今でもまともに読んでる人は今や少数に視える。
居ることは居るけども。
たしかにかつて過激派の時代には「教祖」とか呼ばれたらしいけど、
実はそう読まれてはいなくて、読まれなくても雰囲気で語られる人って
いるから。「こういう人」だって。だが大抵そういうのは外れてるのね。
吉本の場合に限らず読まなくてはまず分からない。ましてや80年代以降は
読まれなくなっていった。読まれなくなって、デマゴギーと偏見の対象に
されていった。90年代以降はますますその傾向に拍車がかかっていった。
というのが見たところ吉本の周辺の「愛読者」の傾向ですね。
貴方への「反論」というより、言葉の中身をはっきりさせた、と思ってます
けどね。曖昧な言葉遣いで、これはまずいと思えたのでね。 >>481
失礼。訂正です。ここにあげた文献、正確には『花田清輝全集第二巻
復興期の精神』(講談社)です。宜しく。 河出のムックには花田による別の小林論ありますね。全集では何巻かわかりませんが。
小林秀雄 はじめての/来るべき読者のために
[発行所] 河出書房新社 [シリーズ] 文藝別冊 KAWADE夢ムック
レトロスペクティブ 小林秀雄
●小林秀雄論から
花田清輝 聖アウガスチンの感傷 伝記作者・小林秀雄 >>482
そんなに自信があるなら、吉本スレにおいでよ。
楽しく語り合おうよ。
このスレのコテなんか相手にしても、吉本についてはおろか、小林についてだってまともな話はできないんだからさ。
ま、吉本スレでも、君「ほどは相手は読んでないし興味もないと分かってくる」かも知れないけどさ。 >>486
ほうほう♪それは歓迎です。吉本スレで何か振ってくれたのを見つけたら
また参加させてもらいます♪ >>487
なにを振ればいい?
主要著作関係?
身辺雑記は趣味じゃないな。 >>487
とりあえず、順番でいくと「言語にとって美とはなにか」かな?
吉本スレに論題?を書いてみるね。
簡単に書いとくから、ひとつずつ簡潔に対応してくれることを期待してる。 >>489
ううんwただねえ、吉本の本て(誰の本でも同じだろうけど)入り方が
あって。ただ一般教養として読んでいくてのは無味乾燥でしかない。論じるに
してもね。
俺にしても、アンチ吉本の時代を経ている。ただ他のアンチと違うのは、
アンチだからと言って、知ったかぶりで叩くことはしなかった。ただ
嫌いなだけだった。小田実シンパだったのでね。アンガージュマンの
サルトルとかにも入れ上げた。それもよく分かってないうちにね。
吉本を見直すきっかけは就職して、こんな厭な世界があったのかって
思い到ったこと。そこで読んだ吉本の詩に感動したこと。労働社会にたいする
絶望感に彼の詩は彩られてるから。心から感動することになった。
詩に共感すると、不思議と批評や思想の方も抵抗なく読めるようになった。
そういう経緯があるから、独自な経緯で吉本本に入ってきた。で、
教科書的に語ることには興味がわかないんだな。困ったもんでw >>481
まあ花田ったら、小林からまるで影響受けてないようなイメージが
あったし、批評の書き方も小林と全然正反対っていうイメージがあった
からね。実はそれなりに影響あったとわかったら、花田へのイメージも
変わるわけね。 吉本と花田にしても全然書き方は似ていないって
イメージがあるが、どっちも小林から影響受けてたといえるねw
>>482
まあ小林についての論は、現在の文芸誌その外でも毎年見かけるけど
吉本論は確かにあまり見かけないね。 この間読んだ文芸誌でも
小林についての論は三つくらい載ってたが、吉本論ってほとんどないし
吉本を評価してる文学者、理論家もほとんど見かけないね。吉本が
「試行」やってたころは、吉本の弟子がそこに集っていたようだが
あまり名を挙げたのはいないようにみえるし。 吉本についての現代の
文学界、批評界の評価は低調であるといえるねw 吉本再評価の
動きがでてくるならば、やはり吉本を十分読み込んだものからしか
出てこないと思われるし、俺は今更吉本を読み込むなんて無理だから
そっちが日本で一番吉本を読み込んでる自信があるなら、君が吉本
再評価やってみるしかないんじゃないの? 吉本論を論文にまとめて
どっかに投稿してさ。 >>490
まあ吉本はインキ会社や町工場に勤めてた経験があるから、似たような
経験があると、やはり吉本は理解しやすいんだろうねw 小林は工場に
勤めたこととかないから、工場勤めや会社勤めやったことがあるなら、吉本の
ほうが感情移入しやすいということはあるだろうよw まあしかしそれは小林の
批評と吉本の批評の本質的価値であるとまでは断言することが憚られるねw まあしかし吉本はインキ工場につとめながらも、小林そのほかの文学者の
文章読んでたわけで、インキ工場での経験を詩文章、文学を学んで昇華させ
表現したという風にいえそうだねw 花田清輝の経歴みると、工場などに
勤めた経験はほどんどなくて、ジャーナリズムを遊泳してきた根っからの
ジャーナリスト、批評家にみえて、軌跡はずいぶんと違っているように見えるねw
しかしどちらも小林という釈迦の手のひらで争っていたという風に、やはり
小林秀雄スレにおいてはまとめてしまうわけであるねw >>490
それは残念だ。
関心のある所は、人それぞれだからしかたがない。
なにかの機会に、また。 >>491
まあ、吉本が論じられなくなることに関しては「もっと読むべきだ」とか
いう熱望とかもないんだなあ。どうも特に2ch.あたりで論じてる輩はまず
一般教養として誇示したい人が目立つ。心から必要で読み進んだ人じゃない。
講釈垂れてる人にしても、或いは講釈して欲しい人も、結局教養人で、
それ以上のものじゃない。
吉本には生体験を悲劇として生きて死んだ文学者や思想家への視線が
ある。また思想にしても、視えないでいる精神の苦闘を探り当てる手法
がある。彼が文学者や思想家を論ずる場合、そういう視線がたえずある。
吉本自身の読書自体、受験生的な、または学校教師的な、あるいは
教養主義的なものとは異なっている。
その吉本を一般教養として纏める手法自体に俺には異和感がある。そして
特に2ch.ではそうした教養人による講釈以外は見られない。 495つづき
昔ハイデガーの講義を読んでたら、彼も「学校哲学」という名称で、
「あそこには人間にたいする真の問いかけはない。一緒にされては困る」
と疑問と否定を投げ、「一緒ではない所以をこれからお見せしましょう。
根本的に問いかけるということがどういうことかお見せしましょう」
と、そこまで言いはしないが現にやっていたのはそういう精神の問いかけ
だったわけで。気概と言葉の迫力があった。聴いてるのは学生だが、彼らに
たいし、どうやら自己の本来性を探ることこそが人間の務めと言いたげな
講義だった。スタンスがよく理解できた。これはただの講壇哲学ではない。
そういう迫力と気概のある書き手が俺は好きなのだ。
吉本の話に戻れば、吉本の仕事が一般教養にジャーナリズムに取りこ
まれる必要は感じないし、俺のようにどっかで感受した人が勝手に読んで
いればいい。
かつてのマルクス、ハイデガー、サルトルなどに匹敵する深度とスケール
を併せ持つ著述家は吉本だけと思ってるし、雑誌に取り上げられなくなる
という辺りは、元々俺は吉本論はあまり読まないので。これまで読んだもの
では強引な纏め方だったりするのが結構あり、偏見評論とかね。あまり
期待もしないのだね。俺が読んでるほどの深度も精度もないようでは
知れてるわけで。
問題は〈この私〉がどう読むかしかないのだ。小林にしても吉本にしても。
そうではないのかな?ジャーナリズムなど気にせぬが良いよ。 >>495
まあ吉本には一般教養に収まらない深度があるったって、具体的な
引用によってそれを示す手続きがないと、他の読者にその深度が
伝わらないねw
>>496
まあ君ひとりで吉本を背負ってる自信があるんならそれはそれでいいが
いろんな論があれば、いろんな角度からの見方が得られるわけで
そういう様々な視点からの評価というのは、再評価に伴う余禄といえるねw
まあ、吉本はマルクス、ハイデガー、サルトルに匹敵する総合的知識人
というのはかなりの評価といえるが、吉本はハイデガーやサルトルを
そんなに読んでたようには思えないけど、そのあたりはどうなの?
「言語美」や「共同幻想論」にどのくらいマルクスについての言及があるのか
表題からしてマルクスに大幅に依拠した理論書にも見えないしね。 >>497
たとえばハイデガーを読んでいれば、彼が人間の精神の歴史にたいし
疑問符を投げ、どこでどういう欠損を歪み生じたのか、知の歴史を一個一個
掘り崩していく手法がある。彼が哲学史家でもあり遡行するのは有の意味
が消えていく中で客観性信仰が台頭し、同時に主体性の根本が見失われていっ
た。有の意味は主体に収斂されていった過程を示したかったからだ。
彼の『有と時』ってそういう書物だよあれは。
そこで人間の精神・知の歴史全体を問い直す視線が生まれてくる。
吉本の心的現象論を紐解けば、人間の内部に人間以外の植物や魚類、
鳥類、爬虫類の精神が宿っていることが解剖学を引用し謂われている。
同時にここには人間を理性や合理性に同値する思想への反命題がある。
人類史を相対化する視線が上の両者にはある。 >>498
>人間の内部に人間以外の植物や魚類、鳥類、爬虫類の精神が
>宿っていることが解剖学を引用し謂われている。
へ〜ユングの元型論みたいだな。ユングの元型論も人間精神の基底に
おける進化論的基礎を明らかにしようとした試みであるが、魚類、鳥類
爬虫類の精神というのは、なにかオカルトめいて、ユングの理論は
非科学的とされたが、吉本の理論にもそのような危険性があるように
見えるねw 498つづき
同時に両者には理性や合理性に収斂する人間への反命題としての脱理性への
視線がある。ハイデガーでは1930年代中期の草稿で理性的動物をどう超えられ
るのかという問いをし、有は拒絶として底無しの深淵を開く、慣れ親しま
れた振る舞いから退去する、それは畏怖と驚愕をもたらす。しかしそれは
有にとっては窮迫からの防衛である、とする。
また吉本では親鸞論で造悪論を論じ、悪をやればやるほど浄土に近くなる
という思想をオウムのサリン事件と関連付けて論じている。人間的な徳や
知や善やに価値を置くべきではないという思想であって、これまた人間存在
にたいする根本的な視線変更が為されている。
両者ともに学校教育的な知からはみ出す過激さと深度を保有している。
吉本はサルトルもハイデガーも相当読んでるし心的現象論では批判的な
引用も屡されてるぞ。
マルクスについては60年代中期にまとまった論考を書いてる。
しかもその読解は消化した上で出てくる。〈共同幻想〉
というのは『ドイツ・イデオロギー』の一節に出てくる〈幻想的な共同性〉
から取ってる。十分読み込んで消化しそこから新しい展開をしている。
あれは民話や神話や漱石の分析は入ってるが、始まりはヘーゲルとマルクス
の思想だ。ヘーゲルとマルクスとの関係が気になって考えていたという
のは吉本とフーコーとの対談で自身が説明しているところだ。 500つづき
それと具体的な言及がなければ「読んでたように視えない」、というのは
余りにも浅はかだなあw俺は読んでてがっかりしたよ。たとえばフーコーは
ハイデガーについてはまとまった論考は遺さなかった。しかし、彼の論を
読んでいればハイデガー有論のいわゆる外堀としての制度・理性の牢獄を
描きたかったことは後期に発表した「主体と権力」で、人間を主体に
変え、服従させていく力こそ権力であり、制度であり理性の実体である。
それを言いたがっていたと分かるし、それはハイデガー有論からすれば
外堀に該当すると分かる。
フーコーはハイデガーについては自分の有名な論考の中で名前は出さない。
死の直前のインタビューで若いときに相当読み込んでノートを作ったことを
告白しているだけだ。
著述家が名前を出さないからと言って読んでないとか影響されてないとか
言えないはずだが。
貴方は読書家な割には読み方が浅はかだなあw まあ小林はすくなくともサルトルはフランス語で読んでると思うが
吉本は文献はほとんど日本語で読んでたわけかいな? 吉本が
フランス語やドイツ語できたとも思えないし。 翻訳通じてもそれなりに
深い読みはできるというのは、俺も認めるけどねw
吉本が誰かのことを「翻訳業者」と罵倒していたことをふと思い出したねw
小林もハイデガーはそれほど読んでないだろうが、マルクスやサルトルは
それなりに読んでたわけで、マルクスやサルトル読んでれば総合的
知識人といえるなら、小林も総合的知識人といえるねw Nさんはいろいろ読んでるんだけど、自分の問題意識のない単なるディレッタントなだけだと思う。
悪いことではないと思うし。だから他人の評判でしか価値判断できない。
全然小林的じゃないけど。 >>501
こっちは吉本ほとんど読んでない以上、読みの深さ浅さ以前の話で
吉本について単に知らないだけでねw そっちは吉本はよく読んでるんだろうが
小林については俺ほどは読み込んでないだろうから、小林については
こっちにアドバンテージがあるわけさw >>503
俺は小林は自分の評価で読んでるわけでねw 別に他人の評価に
たよって小林を読み進めたわけじゃないんでねw 君の勘違いに
すぎないねそれはw まあ小林読むのが面白いから読んでただけで、面白いから読むのがディレッタント
というならば、俺はディレッタントで十分だけどねw つまらなくて退屈なものを
読まなければいけないのは苦痛であるし、小林読んでる間は退屈しなかったのでねw フーコーがハイデガー読んでたってのは、理解できるけどね〜
戦後のフランス哲学にハイデガーが与えた影響は大きいからねw >>506
>まあ小林読むのが面白いから読んでただけで
>小林読んでる間は退屈しなかったのでね
それを言うならこの世には面白い、退屈させない本はほかにもありますと
いうことね。無論小林の書くものは面白いし、ハマるのもわかるんだけどw
それと、小林は確かに面白いんだけど、同じ「宿命」といっても、
ハイデガーも同じタームは使うし、より構造的に「宿命」を浮かび上がらせる
手法がある。また作品と読者の実存の邂逅を謳歌するのが小林の批評の眼目
だったという気がするが、実存そのものの解明はやらないでもいい。
作家が作品を誕生させ、読者である小林と出会う、その偶然にたいする
驚異への視線はあるけども。じゃあ実存とは、一個の人間が何を求めて
生きていくのかという問いを構造的普遍的に問うことはしない。
小林の流儀ではそこまで突っ込む必要もない。何故そこで差異が
出てくるのかというのが重要だと思う。
小林の批評は面白いが、あれは一種の批評という名前の美。作品であるし
、批評という形式の美であり詩であり作品である、という特徴は
美点でもあればそこから先へは行けないでいた行き止まりでもあったことを
意味している。
だからあれはあれで完結しているし、読ませるし感服させるが、発展性は
なく、「批評家という名前の作家」という評価が妥当だと思いますね。
彼の独自性もそこにあった。彼にハマッた読者に停滞感が匂うのもそのせい
だろうと思っていますね。 小林の批評を高く評価する人もいるが、僕はその中に下品さを見るだけだな。
自分の思い付きを強い言葉で断定する。
たまに見聞きする中小企業のオヤジと同じ下品さだ。
小林が一時期骨董品で商売していたというのも、本当かも知れない。
「これは贋物です」
「贋作でも真作に劣らぬ力があるじゃないか。お前にはそれがわからないのか」
「力はわかりませんが、お金にはなりません」
「ばかやろう、このど素人が!」
安吾の競輪事件もこんな感じだっただろうな。
酒を呑み、オダあげてクダを巻く。
そんな光景も真実の姿に近いのだろう。
断定の強さは、心の弱さかもしれない。
開戦の報に触れたときのふやけた文章を読者は忘れるべきではない。 批判だけじゃなく小林の残した文章で心に残ったものも挙げておきたいの
で。
小品だが三島由紀夫自決の際に書かれた「感想」ってのがある。『新潮
1971年2月号臨時増刊』に掲載されてるんだが。この雑誌は今でも文学
関係の古書店で出回ってるし、探して読むのは容易だと思うが。たった2頁
の文章で、出版社からの電話に答えたかのような体裁で、談話のように
書かれている。
三島が内省では飛びぬけていただろうにもかかわらず、全てが視えていた
わけではなかろう、やはり自分でも良く分からぬ運命とともに生きたのだ、
「謹んでお悔やみ申し上げる」というような決まり文句が昔から人の死に
さいしては言われるが、死に際して人が感ずる謎がいつもあるからだろう。
自分が三島さんの死に対して右翼とか、そういう政治的意味で受け取る
ことはない。ひどく孤独なものを感ずるからだ。
というのはその後、胎児論や乳児論で吉本も取り上げた三島の生育史を
予感させる。この時点で小林が三島の生育史を知っていた訳ではなかろう
から、直感的感想だとしても素晴らしいし、三島への哀悼の句としていまだに
胸に迫るものがある。 >>511
小林はもう死んじゃったから、小林の批評はあれでいきどまりだが
読者がそれ読んで参考にする分には、未来への発展性はあると
いえるねw そもそも作者が死んだ後誰も読者がいなければ、作品に
しろ批評にしろ、生きながらえることはできないわけでねw 誰か
読者をあらたに獲得する旅に、作品というのは再生するわけさw >>511
中小企業の親父については偶に見聞きするだけで、あまり
知らないようだが、中小企業の親父たって、いろんな性格のが
いるわけでねw 俺が知ってる中小企業の親父と小林はほとんど
似てないねw
開戦の報に触れたときの小林の文章は、小林のすべての文章の
なかで一番グダってる文書ではあると思うが、他の連中は開戦の
ときにもっと勇ましいこといってたわけで、あそこでグダったのは
小林の良さをむしろ示しているといえるねw 戦後の発言のほうが
むしろグダってなくぶれてないので、そこは吉本も評価してたねw
周りが勇ましいときはグダり、周りがグダってるときはハッキリもの
いう、これが小林の反時代的流儀といえるねw あの開戦についての文章のグダりかたは、確か橋本治が分析してたね。
吉本隆明はあの小林の開戦の文章にはそれほど感銘受けなかったのでは
ないか?あれだけグダってる文章ならば。むしろ高村光太郎などに影響
受けたのではないかと想像されるねw >>512
小林と三島といえば、その「感想」と、小林と三島の対談、それと小林と
江藤との対談において出た三島についての話、この三点がメインといえるねw
まあこの三つがあれば、小林の三島観については大まかな見取り図が書けると
いえるねw >>513
実存的であるということと、実存を解析するということ。また言い換えて、
己の実存に居座るということと、実存的とは何かを解析しうること。
実存的というのは内省はしない。自己解析はしない。解析した末に普遍ま
で行きつくことをしない。
天才の作法や作品、達人の流儀や生涯を知る〈私〉の感動と生体験。
対象にぶち当たる自己意識のナマな体験。
小林の批評は同じところに留まって発展はしない、対象にぶち当たった
〈私〉、天才の秘密に行きあたった自己に湧きおこる感動。
知的営為があることはあるが、作品や作者に没入した〈私〉における
〈震撼〉がすべてであり、作品や作者の歴史と〈私〉という歴史の邂逅以上
の価値は見出せないという理念があったと思える。
よって「様々なる意匠」では邂逅の末に〈私〉の内部で沸き起こる詩に
批評の理念が見出されている。小林の批評の意味はここで宣言され、
そしてそのまま動かずにいた。
これは「死んでしまったからもう先へは行けない」という決まり文句で
掴まれるようなものではない。死ぬ前から上記の場所で止まっていたし、
それで本人は何ら不自由はしてなかった、此処以外の批評の場所はないと
されていたという意味だから。 517つづき
小林の批評にあるいつも漂ってくる、小林に紡がれていく詩とは、
上記のような、邂逅の詩であり、思想や作品の根底にある秘密に行きあたった
〈私〉が紡ぐ詩である。秘密に行きあたるまで知的な直感が突き進む。
行きあったところで〈私〉の詩が始まる。
これは「様々なる意匠」での宣言と同じであり考えてみれば三島の死に
たいして語られた追悼文「感想」は、小林の批評の理念そのままの様式で
語られた典型的な小林秀雄批評。隠れた代表作だ。しかしそこでの三島の
死を悼む方法は「様々なる意匠」での宣言そのままなのだ。
1970年の時点でまだあの宣言のままの批評を駆使し、そしてしかも感動的な
批評を小品だが書ける。しかしそこには自己の方法的発展は相変わらずない
。しかし同時に三島の生涯の秘密に行きあたった〈私〉における詩はある。
詩の感動はある。
だからあの「感想」は三島の追悼をしながら奇しくも小林の批評の典型を
露わにもしてみせていた。変わらない、または変われない方法を露わに
してみせていたと言える。 518つづき
死ぬまで変わらない方法を理念を駆使した批評家はそれはそれとして
措いといて。しかしそれに後続する批評家が同じことをしても意味はない。
後続した吉本や柄谷の意識としてはそうだったはずだ。小林と同じことを
しても意味はない。小林が出来なかったことをやるしかない。二人の
方法をみてるとその意識は色濃くみえる。そこに批評の歴史がみえる。
目を転じて文学愛好家は小林の批評に惹かれ易い。何をみても自己の内部
に沸き起こる生体験と詩情を書ける批評家は魅力的だ。同時にしかし
その愛好家と小林の関係には入り難いものがある。蓮実重彦ならば
「文学という制度」と言ったかもしれないが、小林の批評にある方法には
盲目なまま愛好家に留まる事の中にはそれもまた停滞しかないし、
発展性はない。それこそが文学だと言うなら、それはやはり文学の囲い込み、
制度化というしかない。 図とかにしてくれるとわかりやすいんだが、パワーポイントとか使えますか? 出来ないというなら、それを文章で示す力も「文学」を構成している力の中に含まれると思いますよ。 >>517
まあ結局、吉本の図式的理解をこえるものは何一つないわけで
ピースが図にしてくれるとわかりやすいといったが、図式的理解
なんだから、図解すれば確かにわかりやすくなるだろうねw
インプリンティングという現象があって、ひな鳥は生まれて最初に
見た動くものを親と思い込んでついていくという現象なのだが
文学の解釈でも似たようなことはあって、最初に与えられた解釈から
抜け出る読みをするというのは、大抵の場合無理なわけだねw
つまり吉本の解釈が最初にあって、その解釈にあうように小林を
読んでいくだけだから、結局どこまでいっても図式的理解の枠内に
とどまる解釈しかできないわけだねw まあ刷り込みされた図式に
逆らう読みなど大抵は不可能なわけで、こちらも不可能なことは
そちらに要求しても意味は無いと達観してるわけだねw まあ吉本の図式的読解をこえる読解をするためには、吉本以外の多くの
ひとの小林論を読んでみるのが有益と言えようが、小林の本文以外に
多くの小林論にも目を通すというのは、小林ファンにしかできないわけで
つまり他の読者にそのようなことは要求し得ないというアポリアにぶつかる
わけであるねw 結局、江藤淳「小林秀雄」は読めなかった😭
図書館に一旦返却して、また借りてきます。 無常といふ事 にある「一見魅力ある様々な手管めいたもの」とはどういうことでしょうか?誰か解説お願いします・・・! >>527
>歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきり逃れるのが、以前には
>大変難しく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管(てくだ)めいたものを
>備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と
>映って来るばかりであった。
魅力ある手管を備えているのは、「歴史の新しい見方とか新しい解釈という思想」であって
歴史の新しい見方や新しい解釈が魅力的に見えたから、そのような思想が備えている
「手管」も自分にとって魅力的に映ったと、そういうことだよね。 ここでいう「歴史の新しい
見方」というのは、もっぱらマルクス主義による歴史の新たな解釈のことを指しているのでは
ないかと思われるね。まあトレルチなどの新カント的な歴史哲学、ヘーゲルの歴史哲学も
おそらくは含まれているのだろうね。 >>524
困るな。勝手に「吉本のコピー」みたいに決めつけるのは。
俺は>>517>>518では吉本の小林論など引用もしてなければコピー
もしてないぞ。あれが吉本の小林論なら俺はちゃんとそう書いてるよ。
貴方の勘繰りに過ぎない。というかあれくらいのことならば小林の批評
をいくつか辿っていれば視えてくることだろう。吉本の論を援用するまで
もなく。「刷り込み」されるほど読むなら大変なものだが生憎そこまでは
読みこんではいないなあ残念ながらw
俺は吉本の小林論は読んでるが、それに全面的に依拠してここでは
書いてるわけではない。また小林については柄谷行人も書いたり喋ったり
もしている。貴方がどれだけ知ってるか知らないが、小林批判においては
柄谷や蓮実や浅田あたりのほうが吉本よりも峻烈だ手厳しいぞ。
柄谷はかつて中上健次と『小林秀雄を超えて』という対談集まで出して
おり、ちなみにこれははっきりまるごと駄目だしのための一冊だ。よって
全編手厳しい批判で埋め尽くされている。
小林にたいする駄目だしは吉本だけではないし、むしろ吉本は柄谷たち
に比べれば一部批判しながらもかつての愛読者としての思い入れのこもった
論をいつも展開している。比べてみれば分かるよ。 >>528
御丁寧にありがとうごさいます・・・!
助かりました よって
>>525にあるような>吉本の「図式的読解」などあるのかどうかも記憶にないし、
吉本の小林論よんだときに「図式的」など感じた事はないし、また元々
いちいち参照になどしてはおらぬし、変な
勘繰りもほどほどにしてもらいたい気がするんだがな。
>吉本以外の多くのひとの小林論
は上記のようにとっくに読んでいるよ。読んでて俺の方が「あんたらの言う
ほど小林の批評はひどくはない」と思う事も屡ある。
柄谷行人や浅田彰が昔やっていた『批評空間』には小林秀雄研究家が
結構いたし、のちにあの雑誌休刊後に小林論で一冊出した山城つぐみなども
いただろう。悪いが俺はそれは読んでないが。
あなたはどうも都合の悪い論は勘繰りで済ましてしまう悪癖があるん
じゃないかね。これも勘繰りには違いないがw
>多くの小林論にも目を通す
作業は「ファン」でもないがやっているし。 >>529
>小林の批評は同じところに留まって発展はしない、対象にぶち当たった
>〈私〉、天才の秘密に行きあたった自己に湧きおこる感動。
>知的営為があることはあるが、作品や作者に没入した〈私〉における
>〈震撼〉がすべてであり、作品や作者の歴史と〈私〉という歴史の邂逅以上
>の価値は見出せないという理念があったと思える。
これなんか全面的に吉本のコピーにしか見えないけどねw 小林の
批評は同じ所にとどまって発展しないとか、<私>と作品や作者の感動的
邂逅という以上の意味は小林にはないとか、やはり吉本のコピーでしか
ないねw
なんか哲学板のマルクススレにサルトルの「弁証法的理性批判」を評価
すべきって書いてるようだが、やはりそう簡単に賛同は得られなくて
「今更?」っていわれちゃってるねw まあ世の中そんなに甘くは無いという
ことだねw >>532
横だけど、引用の5行は、誰それのというより、誰でも感じる小林に対する普通の感想じゃないの?
小林好きな人はどう読んでるの? >>532
あ、それから、「弁証法的理性批判」読んでないのに批判しちゃまずいんじゃない?
それとも読んでるの? >>533
まあ多くのひとが小林について感じる感想といえばそのとおりであるが、別様に
書いてある感想もあるね。「同じ所にとどまって発展しない」という表現をやってるのは
やはり吉本と柄谷で、ふたりの小林についての問題意識には同じようなところが
あったと推察されるねw
>>534
マルクスのスレの住人だって、「弁証法理性批判」読まずに、サルトルのマルクス解釈に
もとづく、>>529の批判やってるわけで、別に弁証法理性批判よまずとも、批判は可能と
いえるねw マルクス読んでるやつなら、サルトルはしらずとも、マルクス解釈についての
批判はできるわけだろうからねw >>535
>多くのひとが小林について感じる感想
それなら、「吉本のコピー」とか決めつけるのは変だろ?
>サルトルはしらずとも、マルクス解釈についての批判はできる
できてもできなくても、おまえとは関係ないんじゃないの?
「今更?」というのはあまえの判断じゃないんだろ?
世の中が甘いとか辛いとかとなにか関係があるの? サルトルの「弁証法的理性批判」はマルクスのテキストをサルトルが読んで
その解釈をおこなったわけだが、マルクスの解釈学というのは別にサルトル
だけがやってるわけではなく、柄谷もやってるね。 まあサイードにおいて
マルキシズムの新たなる解釈をなした批評家としてあげられているのは
ルカーチ、グラムシ、アルチュセールであって、サルトルのマルクスの解釈に
ついては目下海外においてもあまり評価はされてないといえるねw >>536
書いた本人は吉本を非常に評価してて、吉本信者といえるくらいであり
それでその小林の評価が吉本にそっくりならば、吉本のコピーと
いったって、何もおかしくないよねw
「今更?」って書いたのは俺じゃ無くて、マルクススレの住人でねw
これが第三者による評価といえるねw 俺は哲学板でも名無しでは
書かないんでねw 単にマルクススレにあった名無しの書き込みを
こちらに転載したまでのこと。 小林秀雄のアシルと亀の子なんか読むと、この男は一体全体誰に向かって
書いているんだろうかとクビかしげるような文章なのである。
曰く、どいつもこいつも通俗小説ばかり書いている、しかし小林の批評そのものが
通俗的な啖呵とハッタリで埋め尽くされているのである
今でいう毒舌タレントなんだろうね。 >>538
吉本は>>532の引用5行みたいなことを書いているのか?
書いてるなら、その部分を引用してみてくれよ。
おまえの論敵が「第三者」に批判されてるのを見て、ざまあみろって言ってるのか?
おかしいんじゃないか? >>532
困ったなwまあ貴方がどうしても吉本のコピーだと言いたいならいいがね。
問題はそれが誰の論かじゃなく当たっているかだと思うしね。貴方は
当たっていると認めているわけだから。
>サルトルの「弁証法的理性批判」を評価
>「今更?」っていわれちゃってるね
「今更」どころかアレを読んだこことのある輩などあのスレには居ないわ。
レス読んでいればすぐ分かる。何も知らないと。マルクスについては護教的
なことしか言えないし。ここでも小林の護教が居座って…いや失敬w
とにかく「甘くない」もヘチマもない。甘くない読書を日頃してるのは
俺なんだから。「無知が栄えたためしはない」。 >>539
「アシルと亀の子」ではいろんな作家や批評家をまな板にあげてるので
誰に向かって書いてるかと言えば、とりあげられた作家や批評家、および
読者といえるねw
>>540
んじゃあ、吉本の「『本居宣長』を読む」からひいてみようか?
>小林は宿痾を再発させているともいえる。じぶんの経験に還元できるだけが
>思想だ、伝統生活の是認、体認に回帰する思想だけが不易な実理だという
>主張が繰り返しあらわれる。そして読者はいいようのない停滞感におかれる。
>私は宣長にも、それに追従し「訓詁」する小林にも哀しい盲点をみつけだす。
>日本の学問、芸術がついにすわりよく落ち着いた果てにいつも陥るあの
>普遍的な迷蒙の場所を感じる。そこは抽象・論理。原理を確立することの
>おそろしさに対する無知と軽蔑が眠っている墓地である。「凡庸」な歴史家たちや
>文学史家たちや文芸批評家たちが、ほんとうの意味で論理を軽蔑したあげく
>原理的なものなしの経験や想像力のまにまに落ちてゆく誤謬・迷信・袋小路に
>小林も陥ち込んでいるとしかおもえない。 >>541
まあお互い護教者ということは認めざるえないかもねw
日本におけるサルトル読解の現在の第一人者ったら、一般的には
海老坂武じゃないかと思うが、海老坂だってサルトルのマルクス解釈には
ほとんど触れてないようであるしねえ。もっぱら実存主義者として
扱ってるね。 やはりサルトルは戦後フランスの激動期にフランスにおいて
ある思想的方向性を示した思想家であって、原理のひとというよりは
状況のひとに思えるねw
まあ吉本の小林評価については>>542で主たる評価を示したが、もちろん
俺はこの評価に全面的には同意しないし、吉本の小林についての考え方も
変化してるわけで、いずれにせよ俺の小林評価には吉本の考え方は
それほど影響はないわけだねw まあ唯物論者だろうとテキストの解釈はやはりやらざるえないわけで
当然唯物論者が解釈学的循環におちいることもあるといえるねw >>542
吉本の文と>>532で引用しているレスの内容を同じにしか読めないのが、おまえの浅薄なところだ。
>作品や作者に没入した〈私〉における〈震撼〉がすべてであり、作品や作者の歴史と〈私〉という歴史の邂逅以上の価値は見出せないという理念
>じぶんの経験に還元できるだけが思想だ、伝統生活の是認、体認に回帰する思想だけが不易な実理だという主張
この違いが解らないなら、なにを読んでも無駄だ。
まあ、なにを対象にしても浅い理解しかできないところは、おまえの論敵も同じだけどなw
横から出てきて悪かったな。
好一対の二人で楽しく語り合ってるといい。 >>548
偉そうにするのが好きだから。
冗談ではなく、そのまんまだと思う。 平民ですね。町工場の息子じゃなかった?Nさんに訊いてみよう。 白洲次郎とかしょーもないけど、徹ちゃんはイイじゃん。 ふう、ずいぶんとレスが遅くなったが一応レスしておこうw
>>545
そりゃ吉本の感想は否定的だし、君の感想は吉本のよりは肯定的って
違いはあるがね。小林の批評は同じところにとどまって発展しないという
基本モチーフは共通してるといえるねw 吉本における「経験に還元できる思想」や
「体認」や「是認」というのは、結局のところ、作品や作者との出会い、邂逅が
もたらす感動というのは否定できないわけで、やはり見取り図はほぼ一致
してるといえるねw
俺の相手してたのは、ふたりとも吉本ファンだとおもってたが、数少ない吉本ファン
同士なのに、頭が悪いって一方的に同好の士を切り捨てるとは、これは吉本の
将来の読者が増えることは期待できないといえるねw >>548
偉そうかいなそんなに? 俺はあまり感じないけどねw
偉そうといえば、正宗白鳥が小林相手に島崎藤村は実に偉そうな
態度の男で結構嫌われていたという話をしていたのを思い出したねw
しかし白鳥は、島崎の偉そうな態度はうまれつきで仕方ない、島崎
文学の価値とは関係ないと述べていたねw まあだから偉そうな
態度だからといって、文学的価値がないということにはならんわけだ。
>>551
系図を見ると、小林の親父は元々農家の生まれだったが、下級藩士の
家に養子にはいったそうな。 >>553
小林は親父のこと、職人だといっていたねw ベルギーでダイヤモンド研磨技術を
学び、日本で初めてダイヤモンド研磨会社を設立したんだそうな。 >>556
読んだよ。小林本人はセザンヌ論が一番できがいいといってるが
俺は他のもそんな悪くないと思ったよ。 まあ専門の美術評論家で
いろいろ小林の問題点指摘してるのはいるけどねw >>559
なら、僕が書いた話だいたい合ってた(笑) >>559
全部嘘らしいよ
裏が取れない
まあ先祖や自分の幼年時代捏造しるのは皆やってるけど >>562
裏をとれないというのは、裏をとろうとした人間がいうことであって
そもそも一切裏をとってない人間がいえる言葉ではないねw
日本ダイヤモンド株式会社
http://www.nippondiamond.co.jp/profile.html
大正06年(1917) 東京銀座に資本金50万円にて小林豊造が創業
宝石加工とダイヤ工具(ダイス、ドレッサ、バイト等)の開発に着手
日本ダイヤモンド(株)のページにも小林豊造が創業って書いてあるんでね。
裏がとれなかったというからには、日本ダイヤモンド鰍ノ電話くらい
したんだろうねw そんなこともせずに全部嘘だなどというのは、おまえが
嘘つきのデマ野郎ということだねw 小林の戦前戦後の発言の変遷について:
…たとえば、戦争ということでも、これは非常時に大きな政策であるが、けっして巧い政策とは言えない。
しかし、この拙い政策でも、招来実際の平和を実現するために行なわねばならぬとあれば、行なわねばならぬ。
…戦いが始まった以上、いつ銃を取らねばならぬかわからぬ、その時が来たら自分は喜んで祖国のために銃を取るだろう…
(「文学と自分」と題する「文芸銃後運動」のために行われた小林秀雄による講演 1940年11月)
…僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した…僕は無智だから反省なぞしない。
(「近代文学」(二号、1946年2月号)の「小林秀雄を囲んで」という座談会) >>566
言い訳はするけど、反省はしない、か。
ハイデガーと同じだな。 小林秀雄の全集ダンボールでもらったんだが、なにから読めばいい? >>569
開戦時の感想。
何巻に入っていたかは忘れた。 坂口安吾 文人囲碁会
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42831_26848.html
蓮實重彦スレに貼ってあった。「教祖の文学」と同じことが書いてあるけど、初めて読んで面白かった。 文学者の戦争責任は重大だ
国家が存亡の危機のときに、反戦とか共産主義とかとんでもない。 小林秀雄の評論の中では実朝が一番好き
何回も読んだし、これからも読み続けると思う。 >>575
僕は共産主義とかよくわからないけど、歴史をひもとく限り、共産主義に対する弾圧からファシズムが始まるんだけどね。 それで先の大戦で日本は滅びかけたんだよな。それに対する小林秀雄の責任はもちろんあるよ。 >>578
俺は不勉強なので最近日本が 追い込まれて
仕方なく戦争を始めたということを知った。
ハルノートを承諾すれば国内で何百万何千万という餓死者
が出るということだったらしい
そもそもハルノートを承諾できるわけないし、承諾すれば暴動が起きただろう
小林秀雄が言うように言わば振って沸いた災害みたいなものだ
だから勝たねばならないーーーと彼は言っているがそのとうりだと思う。
日本国民として戦意の高揚に役目を果たすのは文学者としても当然のことと思う。 >>579
ここまでの文学板における僕のレスを読めばわかると思いますが、僕はそれを知った上で小林秀雄はかっこいいと言っています。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています