>>513
 実存的であるということと、実存を解析するということ。また言い換えて、
己の実存に居座るということと、実存的とは何かを解析しうること。
 実存的というのは内省はしない。自己解析はしない。解析した末に普遍ま
で行きつくことをしない。

 天才の作法や作品、達人の流儀や生涯を知る〈私〉の感動と生体験。
対象にぶち当たる自己意識のナマな体験。

 小林の批評は同じところに留まって発展はしない、対象にぶち当たった
〈私〉、天才の秘密に行きあたった自己に湧きおこる感動。
 知的営為があることはあるが、作品や作者に没入した〈私〉における
〈震撼〉がすべてであり、作品や作者の歴史と〈私〉という歴史の邂逅以上
の価値は見出せないという理念があったと思える。

 よって「様々なる意匠」では邂逅の末に〈私〉の内部で沸き起こる詩に
批評の理念が見出されている。小林の批評の意味はここで宣言され、
そしてそのまま動かずにいた。

 これは「死んでしまったからもう先へは行けない」という決まり文句で
掴まれるようなものではない。死ぬ前から上記の場所で止まっていたし、
それで本人は何ら不自由はしてなかった、此処以外の批評の場所はないと
されていたという意味だから。