小林秀雄 その九 [無断転載禁止]©2ch.net
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批評も文学として読めば、そういう作品だとしか思わない。
まあ、批評家は作家と読者の中間に位置するものとして、両サイドの便宜になるような
活動が、少なくとも読者としては、うれしい。 >>8
小説などの創作は、妄想を含めて現実を対象とする。
文芸批評は、その創作されたものを対象とする。
そんな感じかな? 小林にかぶれるって謎だわ。
だから俺は批評読むのは好きでも批評家になりたいなんて考えもしなかった理由なのかなぁ。 物語創作という形で表現するかあるいは作品解釈という形で主張するか
まあ、後者の方が自己主張はしやすいわけです。
小林は批評だから後者に属するのだけど表現のようなところがある。
これは花田にも共通することで彼らは主張者であると当時に表現者なんですね。
衒気さかんな若者(とくに文学青年)が夢中になるのはそういう所でしょう。 穿った見かたをすると、若年層には、個人の表現者に夢中になる人が少なくなってる気がする。
アイドルを追うのも、グループの一人として追いかけてる気がする。
グループが解体したら、アイドルではなくなってしまうようにも見える。
作家や評論家は、例外的には複数で個人を名のる人もいるが、やはり個人の表現だ。
個人を対象とする緊張感に耐えられないのか、グループであることの安心感からなのか。
心酔する対象がいないと、対象を乗り越える力が弱くなる気がする。 僕は現実にも心酔している人がいるし、会ったことはないけど、その人の書くものを読んで心酔するようになった人もいるよ。小林秀雄もその一人。 信仰心の足りない奴はダメだって小林秀雄は言ってたよ(笑) 乗り越えることができないやつは、もっとダメ、だろ? 浅田 ともあれ、『私小説論』は措くとしても、小林には相対的他者との偶然的関係の絶対性
という問題意識があった。『私小説論』でも、ジッドを論じながら、本当はドストエフスキー
を考えているのかもしれず、その水準では同じことが言えるかもしれない。ただ、その水準で
も、小林は最初から最後まで良かったとも言えるし悪かったとも言えると思うんです。という
のは、それを「宿命」という言葉で呼んでしまうでしょう。もちろん『様々なる意匠』で言う
通り、宿命というのは、AでもBでもCでもありえたのになぜか他ならぬAであるという相対
的な事実の絶対性ということで、その意味において他者性や社会性の認識を含んでいる。とこ
ろが次の段階で批評の話になると、作品をさまざまな角度から体系的に解析しようとした果て
に、「作者の宿命の主調低音」が響いてきて、この響きを聞いたときに自分が批評を書きだせ
る、という浪花節的な話になる。つまり、意識を超えたところで作者=作品=批評家のイマジ
ネールな同一化が生じるというわけですね。だから「宿命」というのは他者性や社会性にさら
された差異の意識でもあるけれど、同時にそれがもっとも内面的な同一性に転化できるように
なっている。 それめちゃくちゃ面白いな。どの本に載っていますか? 浅田彰の凄いところはこれだけ的確な分析を口で言える事だよな。 これが小林秀雄に対する本質的な批判でしょ。吉本隆明の小林秀雄批判がどれだけ下らないものか、これを読めばわかるよな。僕は小林秀雄を擁護したいけど。 蓮實 小林に「花の美しさなんてない、美しい花があるだけだ」という言い方がありますが、
それは「美しさ」という概念の分析記述はしまいということでしょう。その場合、保田にあって羅列であったものが、
小林では論証ぬきの断言になる。つまり内包を確定することなしに話が進むわけで、ぼくはこ
こらへんで二人が重なってくるように思えるんです。
蓮實 人は「花の美しさ」を論じうるんですよ。「美しい花」を分析=記述することでね。
その段階を踏むことなく小林的に表象性を否定することは、何も言っていないと同じなんです。 「教祖の文学」でも「言葉遊びじゃないか」って言われてたね。 柄谷も似たこと言ってたね。漱石を踏まえて文学の科学は可能であると同時に不可能なんて事実だけど何も言ってないのと同じってw そこでなぜ柄谷行人がそれでも小林秀雄を尊敬しているか、という謎が問題ですね。僕は柄谷行人が小林秀雄に憧れていたと確信している。 だって小林秀雄かっこいいじゃん。これを読めば一目瞭然ですよ。
小林秀雄対話集 (講談社文芸文庫)
https://www.amazon.co.jp/dp/4061984160/ 読みすぎて真っ黒になってるよ。>>27は。電子書籍化したもの。すぐに引用出来るよ。 bootで電子書籍化した。僕は小林秀雄と坂口安吾の伝説的対談「伝統と反逆」を今度Twitterに流そうと思っている。全ての日本人が読むべき対談。 2冊目を買って、その綺麗な方を業者に送ってPDF化した。その本に書き込みがあったのでムカついている。 これはNさんも知ってる話なんだけど、僕は「伝統と反逆」を全文文字起こしして(多分全ページスキャンしてOCRにかけたやつだと思う)、当時はかなり拙い技術だったText to Speechで音声化して文学板に撒いてたよ。狂ってるでしょ。 小林の文章って何か安っぽく感じちゃって苦手だな。
あの安っぽさが逆に「大衆的文学青年」を惹きつけるのかもしれんがw てめーでそれ以上のものが書けるわけでもないのに、そのえらそうな態度は何だ?(笑 >>32
安っぽくないよ。今でも通じる金言をたくさん残している。
>>33のレスは、僕が書いたっぽいけど違うので。 金言っつーか箴言・皮肉・ジョークが作れ、安っぽくない文章が書けるなら、評論家になんかならず小説家になってるよ(笑 >>35
安吾は小林の文章は心眼を狂わせる力があるって言ってるよ。 僕は小林秀雄になりたい。なれないけど、近づきたい。 >>7
小林いわく、マイクを忘れたジャズシンガーと。
>>19
これも近代日本の批評に載ってんじゃなかった? あの本は
ほとんど小林秀雄批判でうまってるねw しかしこの批判は要するに
宿命という言葉が気に入らない、といってるだけに聞こえるねw
まあ小林にもいろいろ弱点はあるが、詩的喚起力が非常に強かったのは
今まで出てきたいろいろな証言にあるとおりなわけだねw >>43
ほんとそう。含蓄のある言葉を紡げる人だった。 それは「詩的喚起力」とはまた違うか。とにかく深い事を言える人だったよ。その深さに意味がないとポモの人たちは指摘してるわけだけど。 だから >含蓄のある言葉を紡げる とかなんてそういうものは
なんか深い意味があるんだろうと思い入れをするファンには禅問答だけど
なに口からでまかせで思いつきを言ってんだよ、の批判者にはコンニャク問答でしか無いんだって(笑 >>49
いや、で任せではないんだよね。読めばわかるよ。小林秀雄は一貫した事を言っているよ。 まあ小林が批評やって文学界におおきな影響をあたえた、支配したというのは
小林の詩的才能ゆえとひとまずいえるね。なんで小林が小説でもなく詩でもな
く批評を選んだのかという理由は、もちろん小説や詩を書く才能がなかったと
いうのも、大きな原因であるが、批評優位の時代性ということもあるわけだねw
小説というジャンルが近代文学の王道とおもわれていたが、小林はそのような
見方に非常に疑惑を抱いていたわけだねw 描写優位の小説的リアリズムは
いずれ映画に太刀打ちでなくなるだろう、小説という芸術は20世紀でほとんど
終わりともいってたわけだねw 散文は描写ではなくもっと違ったものを目指すべき
という考えで、描写によるイリュージョンよりも、もっと知的な領域を将来的に
開拓すべきという考えをもっていたわけだ。それが批評という領域であって
モデルとなるのは、ポーやヴァレリーやボードレールのような詩人にして批評家という
存在であったといえるねw バルザックが映画の時代に生きてたら、小説であんなにくどい描写するか
という問題を小林は提出したりしたねw ゾラの小説でも船の中で階段を
あがってまたさがるだけで二ページ費やしたりするわけだねw >>22
>吉本隆明の小林秀雄批判がどれだけ下らないものか
おもしろそう。
煽るわけでもないし、反批判を書きたいわけでもないから、どこが下らないのか書いてみて。
>>33
それを言ったら、批評家は成り立たないよ。 読者がどんなイメージを脳内再現してくれるか?で叙述するんでね。
丁寧にやると少々長くなるのは仕方無い。
ただ勿論、その長々しさをくどいと思わせないように書いて行く、ってのが「芸」ね。
映画が物語のメインの時代になると、映画的に読者が脳内再生するように叙述することが多くなる。
ちなみに、映画は21世紀を待たず、表現芸術としてはとうに終わっちゃったものだけど。 まあ小林の時代では、映画が小説を駆逐するだろうと思われていたが、小林も
将来的には映画もさらなる技術の進歩によって、当時の小説のように古臭いものに
なるだろう、と考えていたわけだねw まあ実際、映画の時代よりさらにテクノロジーは
進歩して、仮想現実世界の構築までいきつくわけだねw 小説的イリュージョンでは
そのようなハイテクイリュージョンには太刀打ちできないわけだねw つまり読者に
イリュージョンを与えるというやりかたでは散文芸術はもはや生き延びられないわけだねw 中原昌也のお父さんは「タオタオ」の原作者らしいですよ。
http://i.imgur.com/5NeHlTm.jpg
(中原昌也と宇川直宏の対談「絶望の淵からの挑戦状!!!!!!!!!!!!!!!!」より) そう簡単に言い切りなさんなお若いの(笑
その「小説的イリュージョン」は19世紀でもう他の表現手段に劣っている。
それでもその最悪の「小説的イリュージョン」で他の表現手段に優ろうとする人もいるかも知れない。
いるかどうかは知らないし、しようとしているのかどうかも知らないが。 >>59
他の表現手段って何? 映画? 映画は19世紀もほとんど終わりに
近づいたときに世にでたので、19世紀はまだまだ小説のほうが優位でしょ。 劇場芝居には勿論、紙芝居やマンガ、落語講談浪花節にさえ、表現手段じゃ小説は太刀打ちできないでしょ?
そういうことですよ(笑 >>65
それらには出来ないことが小説には出来ますよ。 >>65
まあ小説には印刷術という強い味方がいたわけで、これは演劇そのほかに
対する優位性といえるねw劇場や芝居小屋にいかなくても、手軽にイリュージョンが
楽しめる、それが小説のメリットであったわけだね。 >>68
印刷術が小説の発達と切り離せない近代的技術というのは、べつに評論家に
決めてもらわなくても、大方のひとが認める事実であろうw >>72
近代において小説が発達したのも、印刷技術によって手軽にイリュージョンが
楽しめるという条件があったからなわけだね。テクノロジーとイリュージョンの
結びつき、関係性というものを考えると、小説というのは演劇よりはハイテクと
いえるね。まあ演劇だって最近はいろんな凝った演出するわけで、そういうのは
高度なテクロノジーが関係してるわけだが、小説よりはローテクといえるだろう。 演劇というのは、ギリシャ時代から、それより以前から存在する
芸術形式なわけで、原始的でありローテクといえようが、やはり
どういう時代になっても、演劇というのは消滅しないわけだね。
生の人間がでるというリアリティは他では代替できないわけだね。 それについて三島スレで面白い事を書いていた人がいますよ。 表現方法が非常に原始的だってのを逆手に使うって表現もあるよね。
ただそれをやってもその方法は一人が一辺しか使えないからね。
(ニューとかアンチとかまあ前衛とかってアホのあれは別論。念のため)
ベースは結局はオーソドックスな表現技術になる。いわゆるリアリズムね。
これをどこまでやるか?どこまで捨てるか?なんだな、先ずの「芸」は。
ファンタスティックものだと、ホント苦しむ。
作者しかイメージできないもののしかし同じイメージを文章だけで読者に再現してもらうわけだから。
くどくどやっちゃいけないし、だけど細かくリアルに叙述しなくちゃいけないし、で。
創作家が批評家の言うことなんか全くバカにしかしないのは、その苦労をやってるからだよね。 推理小説みたいなもので、同じ変則的なやり方は2度は使えないから使わない。
混乱させられる楽しさ騙される楽しさってのは読者は同じものからは2度は思わない。
ポモを徹底的にアホ・バカ・コケと軽蔑だけしかしないのは連中は2度どころか終生同じことしかしてないから。 831 名前:吾輩は名無しである :2016/03/10(木) 20:34:43.17
さっき「三島の長編は実際の事件をモデルにしてることが多い」つう話が出てたけど
三島が戯曲作るのもそれと似たような動機があるんじゃないかな
それはふたつとも「現実性」を付加すること(或いは付加したと思うこと)ができるってこと
戯曲は実際の肉体を持つ俳優が演じるということで「現実性」を獲得できる
ところがいかんせん三島先生の作るものはどうにも頭の中で考えた無理な操作が入ってしまう
まあだから「現実性」が欲しかったんだろうけど >>74
たとえば源氏物語という作品がある。
中国の膨大な作品群もある。
書き留められたギリシア悲劇もギリシア神話としての叙事詩も、とても優れた作品だ。
さて、読者の数や表現形態が、単純に、作品の優劣を左右するといえるのだろうか? 戦前の私小説批判として中村光夫が改めてフローベールとモーパッサン持ち出したのは正しかったのかね。
あの時期のヨーロッパの小説って自然主義的理念は廃れてプルースト、ジョイス、セリーヌ、サルトル、ジュネとかカフカもそうかな主人公が作者を仮構したような小説ばっかじゃないか?w >>82
ショーロホフ、マン、ロラン、ローレンス、等々・・・
どうなんだろうね? 疑問を感じたのは中村光夫の谷崎潤一郎論で谷崎も私小説的なものとして批判してることだね。
作者のナスシシスティックな身辺雑記でしかないものを批判するのはわからなくはないんだけど
自然主義理論的な作者を消す方法だけ理想化するのもマズいんじゃないかと。 自然主義→私小説は日欧とも必然の流れだったのかな? >>86
日本の私小説というのは、自然主義を自分に引き寄せただけだけど、西欧で該当する作家はいるのかな? まあ、私小説の定義にもよるよね。
ただ、どの定義でも、西欧で私小説が主流の時期があったとは思えないけど。 日本の無知な評論家は、私小説というのは日本独自のものだなどと言うがそれは間違いで、ノーベル賞はわりあい私小説的なものを評価している。
『ブッデンブローク』も、自分の家の歴史を描いたものだし、ベローの『ハーツォグ』も私小説的である。
『文学賞の光と影』2012 >>89
私小説の定義を広げすぎだろ?
自分に関すること、自分がモデルになることが作品に出てくればすべて私小説、というなら、なんでも私小説になるけど。
それをいったら、漱石だって私小説作家になる。
私小説というのは、自分の経験を反芻するために書かれたもの、だろ? ジョイスの『若き日の芸術家の肖像』やジュネの『泥棒日記』やセリーヌの亡命三部作は私小説? 柄谷 小林秀雄が言う「宿命」という言葉には、絶対的な他者という意味と、相対的な他者と
の関係の絶対性という意味の両義性があるといってもよいと思う。しかし、たとえ「宿命」と
いう言葉を使わなくても、「絶対性」というものはいつも危ういものではないですか。小林が
福本と似ているというのはそういうことです。
浅田 もともと相対的関係の絶対性は、ただちに絶対的関係として内面化されるようになって
いる。 自己と批評対象の合致は現状の知的構造の中でのみ可能である。
かかる意味あいにおいて自己は関係性という綾の結び目に過ぎないが
意志という自発性によって多相な現実への入射(批評)がなされる。
ここに自己と批評の可能性(能動性)を懐疑的にではあるが、確認できる。
つまり、批評とは自己という社会存在が「私」として「ある」事の異称なのである。
まあ、こういう事を小林は言っているのだと思うのだけど。
ようするにベルクソニアンによるマルクス主義的決定論批判なわけね。
こころとか思いでとか言い出すのも何となく分かる。 おいらが小林がイマイチ受け付けないのは小林のベルグソニズムの要素だな。
ドゥルーズも同様。 逆に信者はベルグソン経由の小林の発言を深いとか思うんじゃないか? チャンネル桜かよ!お前らが小林秀雄に触ると穢れるからやめろや!! https://www.youtube.com/watch?v=93IikaBVQ7A
【小川榮太郎】小林秀雄の後の二十一章[桜H27/9/10]
お子様ファンが湧いているようなので、チャンネル桜から(笑 小林秀雄が好きなら、別にチャンネル桜見ても問題ないんじゃないの?
>>99は小林を読めていないんじゃないだろうか? >>103
あなたが小林秀雄を薄汚いチャンネル桜と同じレベルで扱っていいと思っているなら、あなたは小林秀雄を何ら好きではないと言い切っていい。もしくはチャンネル桜の手先。 童貞か(笑 若いな。まあべつにいいじゃん。誰でも最初は童貞だよ。
情報発信媒体に薄汚いとか言われてもねえ…。別にかまわんぞ。
小林のコンテンツと情報発信媒体は質が違う、ってのを理解できないのか?
お前が、俺は小林が嫌いだとか桜の手先だと思っている、として、
それを表明する意味は何だ?何かの罵倒になっていると考えているのか?
よく考えてみろ。
ちなみに、俺はお前をみじんこ並にバカだと思っているぞ。
もっと毒を吐け!悪意を爆発させろ!って最近教育的指導をしている気分だな。(笑 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています