小林秀雄 その九 [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
>>817
新潮文庫の「堕落論」でいいんじゃない。 >>829
あの対談。こういう瞬間あったよね。
坂口:結局あんたは文学の問題から逃げて美術や音楽の方に行ったんだよ。
小林:何言ってやがる!
坂口の歯に衣着せぬ物言いが本領発揮した対談だったね。 その対談、僕OCRで文字起こしして、当時は一般的でなかったtext to speechのソフトを使って音声ファイルを作って文学板にアップしたことある。「伝統と反逆」 >>831
まあ、自分が読んだものだけの知識しかないんだから、それはそれでいいんじゃない(笑 >>835
入門編として最適やんけ?安価で手に入りやすいしさ。他にベターな選択肢あるなら出してくれ。 ちなみに「何言ってやがる!」は確かにそういう文脈だけど、「だから純粋じゃないと言うんだ」という安吾の発言に対してですね。 下らないレスしてないで、>>836にもアンカー付ければいいのに。 >>842
くだらないのはお前だよ。
麻薬礼賛の犯罪者予備軍。
それとも、もう前科があるのか? 反論できなくなるとヒステリー起こすんだよな。やれやれだわ。 >>844
お前が麻薬礼賛の反論でもすればいいんじゃね?
通報しといてやるよw >>846
麻薬の話を逸らしたくて必死だなw
お前みたいな麻薬礼賛者が相手にされると思ってるのか?
麻薬礼賛のクズは消えろ。 麻薬を無条件で礼賛してないし、スレ違いの話題で絡んでんのお前じゃん。 麻薬を必要以上に美しく書くのも、必要以上に醜く書くのも間違ってるね。でも、この話まったく小林秀雄と関係ないよな(笑)小林秀雄が褒めている坂口安吾の文章(>>832 )に普通に「ヒロポン」が出てくるのはご愛嬌だけど(笑) >>850>>851
麻薬撲滅に条件は不要。
麻薬礼賛者はどう言い訳しようが醜い。
麻薬を礼賛する社会の害悪は、消えろ。 >>853
だから礼賛してないって。日本語読めるの? >>854
条件付きで麻薬を礼賛してると書いたのは、お前自身だ。
必要な範囲で麻薬を美化すると書いたのも、お前。 酒、煙草、珈琲、紅茶
なんかもグレイゾーンだね。
だから、麻薬ってのは、単なる名称に過ぎないんだよ。
ルールを作って規制してるだけ。
有害か無害かは、個人の特性による。
俺んちは三代にわたってヘビーなスモーカーだけど、癌にかかったのはいない。
まあ、それと規則を守るかどうか、ってのは別の話。
法律で規制されているなら従うのがまともな人間のすること。 >>855
まあ、医学的な意味で価値があるものもあると思うよ。医療用大麻だってそうだし、海外ではPTSDの治療にドラッグが用いられる事もある。そういう認識はそもそも「礼賛」じゃないでしょ。あなたの言葉を引用して「無条件で礼賛してない」って言っただけでさ。 >>857
お前は素人なんだから医学を騙るな。
お前は麻薬を否定しない社会の害悪。 だから「麻薬と文学」みたいな話がどうしてもしたいなら、>>848でやろうよ。 >>859
麻薬と文学など関係ない。
社会の害悪、麻薬礼賛者は消えろ。 タバコも麻薬の仲間に入れて発売禁止にしたらいいと思う。
財務省の大馬鹿は税収しか目にはいらない。
国民の健康なんてどうでもいいと思ってる。 わかったから、雑談スレでやろうよ。小林秀雄と関係ないでしょ。 麻薬は社会の害悪。
それを認めない奴は、徹底的に非難されなければならない。 じゃあドラッグを題材にして文学作品を書いたバロウズは徹底的に非難されてるの? いや、日本語でまともに会話できない人がインターネット掲示板に偉そうな意見を書く方が間違ってると思うよ。端的に言って10年早いだろ。 麻薬礼賛者の言い訳は見苦しい。
まさか、麻薬の常習者じゃないだろうな? だから、僕は麻薬やってないよ。それもスレ違いだから是非も含めて>>848で議論しようって言ってるじゃん。君のやってる事はどう見ても荒らしなんだって。 >>872
ほっとけ、そいつは文体の話でもしょうもない絡みをしていた脳に欠陥があるカスだから。 >>874
お前はPコテの仲間か?
Pコテの仲間には、麻薬常習者がいるんだってな。
まだ捕まってないのか? >>877
麻薬常習者の友達なんて一人もいないよ。デマ流すなアホ。 >>878
自分で書いてたんだから隠すなよ。
オフ会のメンバーに麻薬経験者だけど尊敬してる人がいるとか書いてただろ?
誰かが、お前が他のスレで自分も犯罪の経験があるとか書いたことも発掘してた。
なにがデマだ? >>880
麻薬礼賛者はカスだが、ほっとくわけにはいかない。
麻薬は、社会から葬り去るべきもの。 >>881
お前の脳内では「常習者」=「経験者」なのかよ。どうなっちゃってんだよ?(笑) このスレ、麻薬中毒者に変更した方がいいんじゃないか >>883
常習じゃなきゃいいとでも思ってるのかよw
麻薬に関しては、常習も経験も同じだ。
お前は自分で書いたことを覚えておけ。
麻薬犯罪者はもちろん、麻薬を擁護する奴も社会の敵だ。 新説いただきました。
「麻薬に関しては、常習も経験も同じだ」 草吸った事ある人はどうなんの?街でボブ・マーリーがかかったら、お前は不快になるの? >>887>>888
麻薬及び向精神薬取締法
何人も、輸入し、輸出し、製造し、製剤し、小分けし、譲り渡し、譲り受け、交付し、施用し、所持し、又は廃棄してはならない。
未遂罪は、罰する。
常習も経験も同じ。 >>889
それ>>888に対する答えになってない笑笑笑 大麻取締法
大麻取扱者でなければ大麻を所持し、栽培し、譲り受け、譲り渡し、又は研究のため使用してはならない。
未遂罪は、罰する。 それが答えになってると思っているとしたら、本当にすごい。悪い意味で。 小林秀雄の話を雑談スレでずっとしてたけど、流れが早すぎるので誰も読んでいないだろう。 分断というものがカッコとしてあった時代の仲間褒めででっちあげられた人です
昔の分団はひどかったらしいね、川端なんか寝たきりで体調悪いかみさんのところに深田の原稿
頼みに行って、体は気遣っても告発しようとは全然思わなかったらしいから、
小林も同じ、今の梨園みたいな閉鎖的な世界だった 井伏は初期の段階で小林秀雄に賞賛されてたらしいよ。 いかに井伏が文章家として素晴らしいか、というような事を真剣に書いていた気がする。 これがそれである。
https://www.amazon.co.jp/直観を磨くもの-小林秀雄対話集-新潮文庫-小林-秀雄/dp/4101007098 これが入ってないなんて
小林秀雄と坂口安吾の対談「伝統と反逆」
https://imgur.com/gallery/II1d7 >>907>>908
教えてくれたのに、読みもしないでケチをつけるとか、どういう神経なんだろう?
個人的には対話集はとてもつまらなかったし、安吾も薬やって競輪に発狂するような異常性を差し引けば、ただの進歩親父だ。
人の好みはそれぞれだけど、読まずに自己宣伝はいただけない。 被りがありそうだね。永井龍男、河上徹太郎、大岡昇平との対談は同じものが収録されてるの? >>910
同じものではないね。
・『小林秀雄対話集』(講談社)
永井龍男×小林秀雄「批評について」昭和29年NHK教養大学(ラジオ放送と
思われる)
河上徹太郎×小林秀雄「美の行脚」『芸術新潮』(新潮社 昭和30年4月号)
大岡昇平×小林秀雄「現代文学とは何か」『文学界』(文芸春秋)
昭和26年6月号
・『直観を磨くもの』(新潮文庫)
永井龍男×小林秀雄「芸について」『婦人公論』(中央公論社
昭和42年4月)
河上徹太郎×小林秀雄「歴史について」『文学界』(文芸春秋
昭和54年11月)
大岡昇平×小林秀雄「文学の40年」『日本の文学 43 小林秀雄』
(月報 中央公論社 昭和40年11月) 911つづき
ちなみに『小林秀雄対話集』(講談社)は本の背帯に「自選全一巻」
と書いてある。小林自身が選んだ対談という意味。『直観を磨くもの』
(新潮文庫)は前者に載って居ないものから新潮社が選んだものでしょう。
また前者における坂口安吾との対談では坂口の「教祖の文学」の後に
企画された対談であり、坂口に拠る小林批判が激しかった頃のもの。
坂口からは戦後の小林の重要な特徴についても批判されている。小林が戦後、
画家や音楽家へ批評を拡げた事にかんして「あんたは文学でやらなきゃ」
「純粋じゃないんだよ」と云われ「何云ってやがる!」と激高する場面が
ある。
坂口「小林さんはモオツァルトは書いたけど音楽を知らんよ」(小林は
文学者としてモオツァルトを書いたのではないと言う意味)
小林「(知らないことにぶつかって)冒険することは面白いことだ」
坂口「詰まらないことだよ。あなた、画のことなんか知らんから画にぶつ
かるのが険しい道だと思ってる」 912つづき
坂口「一番間違っているのはこういうことだと思うんだよ。文学の批評の
専門家だからね。その専門以外のものに未知であるがゆえに惹かれているん
だろうと思うんだよ」
小林「無論そうだ。未知だから惹かれる」
坂口「だから純粋じゃないと言うんだ」
小林「何言ってやがる!」
坂口「小林さんは弱くなってるんじゃないかな。つくるか、信仰するか、
どっちかですよ。小林さんは中間だ。だから鑑賞だと思うんです。僕は
芸術すべてがクリティックだという気概が小林さんにはなくなったんじゃ
ないかという気がするんだよ」
坂口のここでの批判は戦後の小林の根幹に触れている。その意味で貴重
だし、自選対談集にこれを入れた小林もここでの坂口に感心していた
からこそ自選対談集に入れたのではと俺には思える。 >>914
どういたしまして。お役に立ったなら何よりです♪ 2017年になってから書き込みが無いな
ってことで若干今更問をあえて
小林秀雄は実際の所何が凄くて、何が唯一無二だったのだろう?
そして何故今も新刊が出るのか?本当に今も若い人に読まれているのか? セクハラの親父の本なんて読まないでカイエでも読んでなさい。
女子は女子モノ男子のモノなら
同い年か年下の男性のなんかを読むといいよ女性は。
男子は年増女性ばかりでOK。年寄り男性もものちょっとは。
年下の本は読まないこと。 性差 歳の差を考ええて 本によるセクハラをされないようにね。 「様々なる意匠」において小林は《バルザックは己のあるがままを写さん
として「人間喜劇」を書き、マルクスは同様に書いた。何ら異なることはない。
ただ二人は己の異なる宿命を生きたに過ぎない》と述べている。
小林が〈宿命〉と云う時にそれは芸術家のみにいう概念ではなく理論家や
哲学者についても云っている。これは甚だ異様な認識でありこういう
ことを云う人は少ない。「マルクスはただ客観的に書いた。主観ではない」
が多くのマルクス読者の認識だろう。しかしそこに小林は与して居ない。
たとえば宮台真司などはここ2年くらい、〈終わりなき日常の終わらなさ〉
を例証する試みとして小林の「様々なる意匠」を
引き合いに出し、《日本ではあらゆる言説はモード化される。小林の
「様々なる意匠」と同じ》と問題化する。のみならず宮台は現在日本に
蔓延するポストモダン化として、《あらゆる超越的言説が〈自己の問題〉に
変換され脱臼させられる。「こう言う奴が自分が面白くないから云ってる
だけ」になる》とも述べている。
しかし実は「様々なる意匠」とは、「こういう奴が言っている」的な
理論と主観の問題は最初から考慮に入れ、むしろ言説と宿命の相関とし、
むしろ、だからといってそこで為されていく研究が無であるわけではなく、
また主観に還元されてしまうわけではない、ただマルクスは「己のあるがまま
」を書いたに過ぎないとする。
つまり宮台が言う意味での「ポストモダン」は小林においては最初から
考慮に入れられている。また、だからといって研究や理論が無に帰すわけ
ではないことも前提されている。小林のいう〈宿命〉という概念の意味
を宮台は読めては居なかった。
今になって上記のことを言いだし〈終わりなき日常の終わらなさ〉だと
する宮台よりも、テキストとは何かという問いに於いて、当時の小林の
方がよほど徹底して考え抜いていると云わなければならない。 821つづき
再論すれば。「様々なる意匠」が日本と云う風土における「あらゆる超越的
言説のモード化」を訴えたのではないということ、言説における宿命の介在を
考慮し、己の批評をそこに据えることを表明したものであること。すなわち
言説には必ずや分野の系譜史と発話者の体現する個体史(血球の流れ)が
介在するということ。これがあの時点での「様々なる意匠」が表明すること
である。
ここで宮台の批評の方法に言及すれば。リアリティを微分し概念化
することで宮台の批評は成り立つが、そこに系譜学はあっても〈個体の体現
する血球の流れ〉という視線はない。宮台の大きな批評『サブカルチャー神
話解体』にしてからがサブカル系譜学ではあるが、表現を考える上での
もう一つの柱である〈自己史〉という概念は巧妙に奪胎してある。ただ
社会において他者とコミュニケートする点としての〈私〉が設定されている
のみに過ぎない。しかしそれは自意識としても存在し自己内で対話する
〈自己〉ではない。
これは何故宮台の批評の特徴であるが、60-70年代現代思想の継承点でも
ある。同時に彼の批評をどこか胡散臭くもさせている点である。何故なら
個体史をまったく奪胎して人間を歴史を語り得るとは俺には思えないから
である。 >>922
失礼。
>821つづき
ではなく921つづきです。よろしく。 小林秀雄がね、とうまを…
ん?とうま?たいまだろ
いや、麻薬じゃないんだよ、能の話
だから、たいまだろって…
わかんねーやつだな!
どっちが! >>925
能では「たえま」と言われてるんだってね。
誰と誰の言い合いか知らないけど、ふたりとも違うみたいだ。 とうま、はダメだけど、たいま、はありでしょ。
たえま、か、たいま、どちらか。
ちなみに、中央公論ではたいま
新潮文庫ではたえま
たぶん小林は、当該文章から、当麻寺(たいまでら)を重く見たんだろうね。 >>927
能の作品としては、「たえま」。
当麻寺の読み方が新しいだけだろう。
「たいま」でいいなら、「とうま」でもいいことになる。
「たいま」が小林の発言、表記であるなら、文化人としての底の浅さかな? >>928
>「たいま」でいいなら、「とうま」でもいいことになる。
とうまでら、じゃなくて、たいまでら、だから、とうまでもいい、ってことにはならんでしょう。
それから、とうまでら、は7世紀創建
能のとうま、はとうまでら、に取材しているわけだから、寺を主に考えるのはあたりまえ。
そもそも、能って言葉は、猿楽が転じて江戸時代にできた言葉だから、とうまでらよりあたらしいのが能のほう。
小林を底の浅いとか(笑 >>929
当麻寺の読みは関係ないよ。
世阿弥に近い読み方が、現代まで続いているのが「たえま」。
あくまでも、能でどう読むかということが文化としての知識。
当麻寺の読みにしても、呉音であれば「とうめ」、漢音なら「とうば」、慣用的にはどちらでも「とうま」と読むようだ。
建立当時から「たいま」と読まれていたかどうかも、実はわからない。
だから、「たいま」でも「とうま」でも同じだといってる。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。