小林秀雄 その九 [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
分断というものがカッコとしてあった時代の仲間褒めででっちあげられた人です
昔の分団はひどかったらしいね、川端なんか寝たきりで体調悪いかみさんのところに深田の原稿
頼みに行って、体は気遣っても告発しようとは全然思わなかったらしいから、
小林も同じ、今の梨園みたいな閉鎖的な世界だった 井伏は初期の段階で小林秀雄に賞賛されてたらしいよ。 いかに井伏が文章家として素晴らしいか、というような事を真剣に書いていた気がする。 これがそれである。
https://www.amazon.co.jp/直観を磨くもの-小林秀雄対話集-新潮文庫-小林-秀雄/dp/4101007098 これが入ってないなんて
小林秀雄と坂口安吾の対談「伝統と反逆」
https://imgur.com/gallery/II1d7 >>907>>908
教えてくれたのに、読みもしないでケチをつけるとか、どういう神経なんだろう?
個人的には対話集はとてもつまらなかったし、安吾も薬やって競輪に発狂するような異常性を差し引けば、ただの進歩親父だ。
人の好みはそれぞれだけど、読まずに自己宣伝はいただけない。 被りがありそうだね。永井龍男、河上徹太郎、大岡昇平との対談は同じものが収録されてるの? >>910
同じものではないね。
・『小林秀雄対話集』(講談社)
永井龍男×小林秀雄「批評について」昭和29年NHK教養大学(ラジオ放送と
思われる)
河上徹太郎×小林秀雄「美の行脚」『芸術新潮』(新潮社 昭和30年4月号)
大岡昇平×小林秀雄「現代文学とは何か」『文学界』(文芸春秋)
昭和26年6月号
・『直観を磨くもの』(新潮文庫)
永井龍男×小林秀雄「芸について」『婦人公論』(中央公論社
昭和42年4月)
河上徹太郎×小林秀雄「歴史について」『文学界』(文芸春秋
昭和54年11月)
大岡昇平×小林秀雄「文学の40年」『日本の文学 43 小林秀雄』
(月報 中央公論社 昭和40年11月) 911つづき
ちなみに『小林秀雄対話集』(講談社)は本の背帯に「自選全一巻」
と書いてある。小林自身が選んだ対談という意味。『直観を磨くもの』
(新潮文庫)は前者に載って居ないものから新潮社が選んだものでしょう。
また前者における坂口安吾との対談では坂口の「教祖の文学」の後に
企画された対談であり、坂口に拠る小林批判が激しかった頃のもの。
坂口からは戦後の小林の重要な特徴についても批判されている。小林が戦後、
画家や音楽家へ批評を拡げた事にかんして「あんたは文学でやらなきゃ」
「純粋じゃないんだよ」と云われ「何云ってやがる!」と激高する場面が
ある。
坂口「小林さんはモオツァルトは書いたけど音楽を知らんよ」(小林は
文学者としてモオツァルトを書いたのではないと言う意味)
小林「(知らないことにぶつかって)冒険することは面白いことだ」
坂口「詰まらないことだよ。あなた、画のことなんか知らんから画にぶつ
かるのが険しい道だと思ってる」 912つづき
坂口「一番間違っているのはこういうことだと思うんだよ。文学の批評の
専門家だからね。その専門以外のものに未知であるがゆえに惹かれているん
だろうと思うんだよ」
小林「無論そうだ。未知だから惹かれる」
坂口「だから純粋じゃないと言うんだ」
小林「何言ってやがる!」
坂口「小林さんは弱くなってるんじゃないかな。つくるか、信仰するか、
どっちかですよ。小林さんは中間だ。だから鑑賞だと思うんです。僕は
芸術すべてがクリティックだという気概が小林さんにはなくなったんじゃ
ないかという気がするんだよ」
坂口のここでの批判は戦後の小林の根幹に触れている。その意味で貴重
だし、自選対談集にこれを入れた小林もここでの坂口に感心していた
からこそ自選対談集に入れたのではと俺には思える。 >>914
どういたしまして。お役に立ったなら何よりです♪ 2017年になってから書き込みが無いな
ってことで若干今更問をあえて
小林秀雄は実際の所何が凄くて、何が唯一無二だったのだろう?
そして何故今も新刊が出るのか?本当に今も若い人に読まれているのか? セクハラの親父の本なんて読まないでカイエでも読んでなさい。
女子は女子モノ男子のモノなら
同い年か年下の男性のなんかを読むといいよ女性は。
男子は年増女性ばかりでOK。年寄り男性もものちょっとは。
年下の本は読まないこと。 性差 歳の差を考ええて 本によるセクハラをされないようにね。 「様々なる意匠」において小林は《バルザックは己のあるがままを写さん
として「人間喜劇」を書き、マルクスは同様に書いた。何ら異なることはない。
ただ二人は己の異なる宿命を生きたに過ぎない》と述べている。
小林が〈宿命〉と云う時にそれは芸術家のみにいう概念ではなく理論家や
哲学者についても云っている。これは甚だ異様な認識でありこういう
ことを云う人は少ない。「マルクスはただ客観的に書いた。主観ではない」
が多くのマルクス読者の認識だろう。しかしそこに小林は与して居ない。
たとえば宮台真司などはここ2年くらい、〈終わりなき日常の終わらなさ〉
を例証する試みとして小林の「様々なる意匠」を
引き合いに出し、《日本ではあらゆる言説はモード化される。小林の
「様々なる意匠」と同じ》と問題化する。のみならず宮台は現在日本に
蔓延するポストモダン化として、《あらゆる超越的言説が〈自己の問題〉に
変換され脱臼させられる。「こう言う奴が自分が面白くないから云ってる
だけ」になる》とも述べている。
しかし実は「様々なる意匠」とは、「こういう奴が言っている」的な
理論と主観の問題は最初から考慮に入れ、むしろ言説と宿命の相関とし、
むしろ、だからといってそこで為されていく研究が無であるわけではなく、
また主観に還元されてしまうわけではない、ただマルクスは「己のあるがまま
」を書いたに過ぎないとする。
つまり宮台が言う意味での「ポストモダン」は小林においては最初から
考慮に入れられている。また、だからといって研究や理論が無に帰すわけ
ではないことも前提されている。小林のいう〈宿命〉という概念の意味
を宮台は読めては居なかった。
今になって上記のことを言いだし〈終わりなき日常の終わらなさ〉だと
する宮台よりも、テキストとは何かという問いに於いて、当時の小林の
方がよほど徹底して考え抜いていると云わなければならない。 821つづき
再論すれば。「様々なる意匠」が日本と云う風土における「あらゆる超越的
言説のモード化」を訴えたのではないということ、言説における宿命の介在を
考慮し、己の批評をそこに据えることを表明したものであること。すなわち
言説には必ずや分野の系譜史と発話者の体現する個体史(血球の流れ)が
介在するということ。これがあの時点での「様々なる意匠」が表明すること
である。
ここで宮台の批評の方法に言及すれば。リアリティを微分し概念化
することで宮台の批評は成り立つが、そこに系譜学はあっても〈個体の体現
する血球の流れ〉という視線はない。宮台の大きな批評『サブカルチャー神
話解体』にしてからがサブカル系譜学ではあるが、表現を考える上での
もう一つの柱である〈自己史〉という概念は巧妙に奪胎してある。ただ
社会において他者とコミュニケートする点としての〈私〉が設定されている
のみに過ぎない。しかしそれは自意識としても存在し自己内で対話する
〈自己〉ではない。
これは何故宮台の批評の特徴であるが、60-70年代現代思想の継承点でも
ある。同時に彼の批評をどこか胡散臭くもさせている点である。何故なら
個体史をまったく奪胎して人間を歴史を語り得るとは俺には思えないから
である。 >>922
失礼。
>821つづき
ではなく921つづきです。よろしく。 小林秀雄がね、とうまを…
ん?とうま?たいまだろ
いや、麻薬じゃないんだよ、能の話
だから、たいまだろって…
わかんねーやつだな!
どっちが! >>925
能では「たえま」と言われてるんだってね。
誰と誰の言い合いか知らないけど、ふたりとも違うみたいだ。 とうま、はダメだけど、たいま、はありでしょ。
たえま、か、たいま、どちらか。
ちなみに、中央公論ではたいま
新潮文庫ではたえま
たぶん小林は、当該文章から、当麻寺(たいまでら)を重く見たんだろうね。 >>927
能の作品としては、「たえま」。
当麻寺の読み方が新しいだけだろう。
「たいま」でいいなら、「とうま」でもいいことになる。
「たいま」が小林の発言、表記であるなら、文化人としての底の浅さかな? >>928
>「たいま」でいいなら、「とうま」でもいいことになる。
とうまでら、じゃなくて、たいまでら、だから、とうまでもいい、ってことにはならんでしょう。
それから、とうまでら、は7世紀創建
能のとうま、はとうまでら、に取材しているわけだから、寺を主に考えるのはあたりまえ。
そもそも、能って言葉は、猿楽が転じて江戸時代にできた言葉だから、とうまでらよりあたらしいのが能のほう。
小林を底の浅いとか(笑 >>929
当麻寺の読みは関係ないよ。
世阿弥に近い読み方が、現代まで続いているのが「たえま」。
あくまでも、能でどう読むかということが文化としての知識。
当麻寺の読みにしても、呉音であれば「とうめ」、漢音なら「とうば」、慣用的にはどちらでも「とうま」と読むようだ。
建立当時から「たいま」と読まれていたかどうかも、実はわからない。
だから、「たいま」でも「とうま」でも同じだといってる。 >>931
作者がつけたタイトルを否定してどうするんだよw >>933
>麻薬じゃないんだよ、能の話
能の話だから、「たえま」だろ? >>933
もしかしたら、文庫には「当麻」に「たえま」とルビがふってあることをいってるのか?
ルビは編集者が付けただけで、小林は知らないのかもしれないぞ? >>935
新潮と中央公論でルビが違っている
出版前にゲラは読む
つまり、たいまでもたえまでもどっちでもいい
ってこと。
憶測書いて何か意味あんのか? >>936
なにが憶測?
能では、「たえま」しか読みはないんだよ。
能の話をするなら、「たえま」。
麻薬の話じゃないからw >>938
まるで意味がわからないんだが、なにをごまかしてると?
ルビの話?
出版社によってルビが違うのは、どちらも、そのルビを小林本人が指定した可能性がとても低い、ということだぞ?
>>925の会話から判断する限り、この二人は能のことを話していながら、能の「当麻」の読み方を知らなかった。
小林は、「当麻」の感想を書いていながら、「当麻」の読みすら指定していない。
「俺には俺に読み方がある」というなら、その読み方のルビを指定しただろう。
読み方などに関心がないのか、うろ覚えのまま確かめなかったのか、中央公論の編集者が手を抜いたのか、どれであっても、小林の読み方の正当性を見出すことはできない。
なにが言いたいの? >>939
小林が出稿ゲラを読まなかった、なんて証拠でもあるの? >>940
読んでいるなら、ルビが二種類あるのはどう説明する?
あの小林秀雄が、どっちでもいいから両方とも了承している、と?
それこそ意味不明だろ?
そんなことより、>>938は、どういう意味? 新潮の直観を磨くもの面白い
湯川さんの話は少し難しいけど しかし、2chは過疎ってるなあ…。
はやっているのはニュースくらいなのでは?
昨日、2chのコンテンツを整形しているサイトにぶち当たったけど、
こぎれいにまとめる精力を、コンテンツそのものの向上にあてるべきだろう。
入れ物がよくなっても、中身が運子じゃ近寄らんわな。
最近、レスがツイッタの挨拶みたいに空虚になっている。
レス伸ばすのも一文字ですますとか。
充実してるのはNG文字くらいか(笑
黒丸二つ書いたら警告とか、有りえね〜馬鹿さ加減。
もう2chも終わりかな。 文学評論なんて架空のフィクションに近いから、
フィクション世代だよな。ノンフィクションの方が割と好きだ。
イスラム世界とか。 「帝国陸海軍は、今八日未明西太平洋に於いてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
いかにも、成程なあ、といふ強い感じの放送であつた。一種の名文である。日米会談といふ便秘患
者が、下剤をかけられた様なあんばいなのだと思つた。(中略)その為に僕等の空費した時間は莫
大なものであらうと思はれる。それが、「戦闘状態に入れり」のたつた一言で、雲散霧消したので
ある。それみた事か、とわれとわが心に言ひきかす様な想ひであつた。
何時にない清々しい気持で上京、文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した。僕等は皆頭
を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比
類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ。そ
れは、日常得たり失つたりする様々な種類の自信とは全く性質の異なつたものである。得たり失つ
たりするにはあまり大きく当り前な自信であり、又その為に平常特に気に掛けぬ様な自信である。
僕は、爽やかな気持で、そんな事を考へ乍ら街を歩いた。 十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子そのこ(今年六月生れの女児)に乳をやっていると、どこかのラジオが、はっきり聞えて来た。
「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」
しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。
強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹いぶきを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。
こんなのもあるよ。
文章としては、こっちの方がずっと上手い。 http://goo.gl/RQMz9Z
私はフランツ・カフカも海辺のカフカも好きなもので、このカフカと名乗る青年実業家の始めたビジネスに妙な縁を感じ、彼のビジネスパートナーとなりました。
結果、今ではいつでも好きな場所で生活できる経済力と、自由な時間を手に入れました。最初のインスピレーションを信じることって結構大事なんだな、と思いました。
文学好きの皆さん。
ハワイのビーチでピニャ コラーダを飲みながら、あるいは雪深い山奥の別荘で暖炉の火に照らされながら、思う存分読書に耽りたいと思いませんか?
このビジネスで結果を出せば、そんな生活が夢ではなくなります。 酒を飲んでクダを巻いて、声がでかければ勝ち。
小林が酒を飲みだすと、知識人はすぐ恐れ入っちゃうw こないだたまたま小林の声初めて聞いたけどなんか意外だったな… 新潮文庫版の「学生との対話」を読むと
物質が精神に影響を及ぼすことはない、と断言して
学生から「本当にそんなことはあるんですか?」と突っ込まれて
慌てていたけどね
いや、私が言ったのはベルクソン流の心理主義に基づく唯物論批判であって
君はベルクソンを読んでいないのか?読みたまえ!
と言い逃れていた
これに限らず「精神」「魂」「物自体」といった
哲学用語の使い方や理解がけっこう適当
そういうことを突っ込まれても反省が無いからね
この人と議論しても無益だね
まあ、喧嘩は上手いんだけど
ただ、それだけ 昔のやりかたを踏襲することはない。だけど武器も消費しないと
いけないなんて行動律あるのかなあ? レベルがひくいな
。東大は。四国にあった東大の方がいいんじゃないの。本物そう。 帝みかどレベルだけのこして、インフラ出版出世止めさせた方が。 >>953
小林に論理も知性もないのは確かだが、「哲学用語」なるものがあると思うのもどうかと思う。
「精神」も「魂」も「物自体」も、なにか厳密な概念規定があるわけではない。
だから「哲学」からの反論もできなかったし、小林もベルクソンの恣意的で感情的に利用することもできた。
ちなみに、小林の強い影響を受けながら、その無限定さを徹底的に否定しようとしたのが吉本隆明。 >>960
>「精神」も「魂」も「物自体」も、なにか厳密な概念規定があるわけではない。
まあ、そうだともいえるし
それゆえ「物自体」とはなにか?とアディケスあたりが問題視をしている
カントは形而上学批判にあたってはまず「物」や「空間」を証明し
これによって世界を可知と不可知の領域に分割したうえで
可知の領域のみを論理によって把捉し得るとしている
これがカントの悟性哲学の基本方針
しかし、これは形而上学を棚上げしただけで
時間や認識活動の持続性についてのきちんとした解答は出していない
このあたりがベルクソンによるカント批判の中心なのだけど
全集を読破したと豪語するわりにはきちんと読みこなしてはいない
それと小林は形而上に属するであろう「精神」と「魂」が混同
する形で使用されていている
たとえば哲学界隈ではウイリアム・ジェイムズが
どうやらベルクソンは諸個人の実在をこえたところに「精神」を設定しているようだ
とベルクソン哲学の宗教的傾向に疑問符を呈しているのだけど
この種の問題点を小林は「魂」と混同する形で認めてしまっている
つまり神秘主義あるいは形而上学としてベルクソンを評価しているわけだ
批評家以前に読書人としての基本的読解力があるかどうかも疑われるレベル 「哲学にいちばん欠けているのは正確さである。哲学の諸体系は私たちが生きている現実の寸法に合っていない。現実よりも大きすぎるのである。」
(ベルクソン『思考と動き』序論第一部 原章二訳)
訳者による言い回しだけど、まるで小林の文章みたい。
でも、小林の批評に対する批判として、そのまま通用してしまいそうだ。
小林の場合は、「現実よりも大きすぎる」のではなく、現実よりも小さすぎるというべきだが。
もっとも、ベルクソン自身が正確に現実を捉えていたかといえば、それはそれで大きな疑問だ。
小林がベルクソンに傾倒したのは、その不正確さと現実乖離の故ではないのかと、揶揄したくなってしまう。 小林くらい頭のいいやつはいないよ。純粋な頭の良さを初めて金に換えた野郎なんだよ 小林が何で食ってたかってのは今も謎のままだって吉本隆明が言ってた。パトロンがいたんだろうと思うよ。それでいいじゃん ベルクソンって読んでて眠くなるくらい真っ当
論理的飛躍を凄んで誤魔化す誰かとは違う 色々批判も書かれているが、にもかかわらず死後数十年経過した現在でも読める、しかも
多大な刺激がある、それはレトリックも含めてだが、そういう批評家として君臨しているのも
確かである。
やはり初期の代表作である「様々なる意匠」、「批評の科学性について」、「マルクスの悟達」
などを読み返すと、〈作家の宿命〉〈血球に流れ〉という批評概念にせよ、〈マルクスもバルザ
ックもただありのままに書いた〉というレトリックにせよ、考えこませる力があるし、彼の全集が
年月を経て何回も再編集されていくというのは必然だしそれだけの力と才能を感じさせるね。
個人的には三島由紀夫が自決した翌年初頭に出た『新潮臨時増刊 三島由紀夫読本』に
書かれた「感想」が好きだね。三島の死について書かれているんだが、初期の「様々なる意匠」
で宣言した〈作家の宿命〉〈血球の流れ〉という概念を語彙を変えてそのまま三島の死に
当て嵌めている。「三島さんは反省的意識にかけては大家だっただろうが、あの人にとって
も、自分自身が透明だった筈はないだろう。やはり運命といった暗い力と一緒にいたのだよ」
という言い回し。これは「様々なる意匠」における批評宣言の焼きまわしであり、あの批評
の根底にあった作家への眼差しが、三島の死という事件に際して、改めて甦った、
独自な視線がある。そして三島の死に際した書かれた幾多の文章の中でも小林の
「感想」は、政治的な問題には一切触れずただ、三島という現存在に照明をあてたもの
として、その一点で書いたものとして、彼にしか書けなかったこれも名文だと思う。 たとえば岡潔との対談で時間概念を物理的時間と社会的時間に分けて
ベルクソンの時間概念は後者の方だ、と弁護していたけれどそれは違うね
ベルクソンはカントの空間の実在→人間の認識装置の制約→論証性
という論立てに対して
視覚中心の空間認識に依存していると批判しているわけだから
とうぜん物理学的批判も引き受けざるを得ない
だからアインシュタインの批判に対して自説をひっこめたと思うけどね
小林のように時間を歴史に、歴史を個人の思い出に、個人の思い出を心に
心を魂や神にスライドしていくようなトンデモ議論じゃないんだよ
それでこの神様もパスカルの唯一絶対神の話をしていたかと思えば
宣長風の八百万の神という風にコロコロ変わり
そのくせ湯川秀樹が非局所性の議論で空間の不安定さを指摘したら
「ニヒリズムだ」「虚無だ」と的外れなことを言い出す
この人の若い頃の小説は狂気と隣接したようなところがあるのだけど
それは若い頃だけの話では無いと思う
しかしその狂気はフロイト的なヒステリー気質のものに過ぎないような気もする 小林は簡単なことを文章をひねくり回して難解な文章にしてたタダのオッサン >>968
ほんとうに小さな思い付きを培養して文章化する能力と、無意味なことを考え続ける能力というのは、他の追随を許さない。
否定してるんじゃなくて、それが人間の精神というものだ、という意味なんだが。 小林か、僕はあまり読んでないけど、東大、京大とかの出版物が多すぎることと
関係のあることをあさってみないとなあ。 最近、小林秀雄の「歴史について」が妙なところで影響を与えているのを視た。小林の「歴史
について」は読んだ方にはお分かりのように、「一度起こってしまったことは二度と取り返し
はつかぬ」というところにポイントを置いている。歴史は二度と帰らぬということである。
これがどうもハイデッガーの本来的存在了解のことだと思いこんでいる研究者を視た。彼は
こう書いている。
《今も見たように、存在者の存在は、元来、周囲の存在者との関係の内にはめ込まれ、また
そのようなものとして、周囲の状況に応じて刻一刻と変化する。しかし他方で、われわれは
存在者をそうした関係性から切り離し、実体化して捉えてしまうという避けがたい傾向を
持っている。これが存在了解という観点から捉えた場合の、本来性と非本来性それぞれの
意味なのだが、》
このテキストは2017年7月に出た「ハイデガー『存在と時間』入門」(轟孝夫 講談社現代
新書)という本の48頁で、この研究者の言によれば、存在者を周囲の状況との移り変わる
時間と切り離してそれだけを捉えることが頽落的な存在了解、そうでなく周囲の状況と
ひとつになった、一回性のことと捉えるのが本来的な存在了解だとしている。
実はハイデッガーのいう本来性の問いにこのような議論が入ってくることはなく、負い目
の中で良心の呼び声に応え自己の経歴から見出す自立的自己-性、「善きもの」、没-交渉的
存在が本来性である。
この研究者はどういうわけか、小林秀雄の歴史意識を本来的存在了解だと捉えて書いて
しまっている。
ハイデッガーのテキストから読みとれなくて苦慮した結果こういうところに助けを求めた
のか、誤った連結をしてくれている。
たしかに木田元などがハイデッガーと小林秀雄の思想的酷似について話してもいるが、
だからといってテキストにもない連結をしていいわけではない。しかし、小林の「歴史について
」がこういうところに現出して、たとえ誤読というか誤連結にせよ、ハイデッガー読解に使用
されているのが興味深くもあった。 国立連合より相手への待遇が先。学歴は夜の世界でカモられろよ。 国立の書体も信仰を吸うからもっと書き直し編みなおした方がいいよ。 救済の書見たいのが若いうちは多いじゃん。変死した作家とか。 講談社といえば群像、群像といえば柄谷行人。
柄谷行人といえば、関係性の中にある個=単独性、とした人。
その研究者は、柄谷行人の単独性の線で、ハイデガーのいう存在そのものを読んだ、ということじゃないか。 >>978
柄谷の影響があると言われればそう感じるところもあるね。もともと『探究U』
のなかで小林の「歴史について」を引用もし、意識してみせているしね。
単独性は関係性の中でというより、関係の非対称性として、というほうが
適っているのではないかな。「教える-学ぶ」における関係。 小林秀雄 美しい花2017/12/8 若松英輔
新しい小説のために2017/10/26佐々木 敦
小林秀雄の超戦争―全釈『無常という事』を楽しむ 2017/8/25佐藤公一
屈託という思想――小林秀雄と井伏鱒二2017/6/23神林 尋史
反戦後論 2017/6/2浜崎洋介
小林秀雄と河上徹太郎2017/4/6坂本忠雄
小林秀雄の真珠湾攻撃妄想 : 《オタク》と戦争2016/8/24佐藤公一
ドーダの人、小林秀雄 わからなさの理由を求めて2016/7/20鹿島茂
小林秀雄のリアル: 創造批評の《受胎告知》2016/4/8佐藤公一
新版 小林秀雄 越知保夫全作品2016/1/28越知保夫
叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦2015/10/29若松英輔
小林秀雄の後の二十一章 (幻冬舎単行本)2015/9/25小川榮太郎
小林秀雄 骨と死骸の歌―ボードレールの詩を巡って2015/7福田拓也
反歴史論 (講談社学術文庫)2015/4/11宇野邦一
定本 小林秀雄2015/3/26前田英樹 新版 吉本隆明 1968 2017/11/13鹿島 茂
吉本隆明と中上健次2017/9/10三上治
吉本隆明 「言語にとって美とはなにか」の読み方2017/10/13宇田亮一
〈戦後思想〉入門講義――丸山眞男と吉本隆明2017/6/28仲正昌樹
震災後の日本で戦争を引きうける: 吉本隆明『共同幻想論』を読み直す (いま読む!名著)2017/2/15田中和生
批評の熱度 体験的吉本隆明論2017/1/20大井浩一
吉本隆明と『共同幻想論』2016/12/20山本哲士
吉本隆明という「共同幻想」 (ちくま文庫)2016/12/22呉智英
吉本隆明と柄谷行人 (PHP新書)2016/9/12合田正人
中沢新一と吉本隆明―亡きグルのためのパヴァーヌ2016/9/1土井淑平
吉本隆明 孤独な覚醒者 (叢書レスプリ・ヌウボオ)2016/1/20上村武男
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吉本隆明の帰郷2012/8/25石関善治郎
吉本隆明『共同幻想論』を解体する──穴倉の中の欲望2012/10/13和田司
「語る人」吉本隆明の一念2012/7/19松崎之貞
宿業の思想を超えて―吉本隆明の親鸞 (Psycho Critique)2012/7/1芹沢俊介
次の時代のための吉本隆明の読み方 (飢餓陣営叢書)2012/5/29村瀬学 ランボーの翻訳が小林の最高傑作だろう
「もう秋か。―それにしても、何故に、永遠の太陽を惜むのか、
俺たちはきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか、
―季節の上に死滅する人々からは遠く離れて。」 >>984
この詩は知らないんだけど、つまらない詩だねw >>985
そもそもお前に詩がわかるとは思えないんだがw >>986
ごめんごめんw
どこがいいのか教えてよ。 韻文の翻訳って難しいよな。
俺もどこがいいのかわからんw 詩の良さがさっぱりわからない人間が大半だろうね
小説的な物語の面白さしかわからない人が >>991
詩は感じるものだから、教えてわかるものではない
お前には無理だから、理解しなくてよろしい この俺、嘗ては自ら全道徳を免除された道士とも天使とも思つた俺が、今、務めを捜さうと、この粗々しい現実を抱きしめようと、土に還る。百姓だ。 韻文を翻訳で読んで
わかるもわからんもないだろ
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