821つづき

 再論すれば。「様々なる意匠」が日本と云う風土における「あらゆる超越的
言説のモード化」を訴えたのではないということ、言説における宿命の介在を
考慮し、己の批評をそこに据えることを表明したものであること。すなわち
言説には必ずや分野の系譜史と発話者の体現する個体史(血球の流れ)が
介在するということ。これがあの時点での「様々なる意匠」が表明すること
である。

 ここで宮台の批評の方法に言及すれば。リアリティを微分し概念化
することで宮台の批評は成り立つが、そこに系譜学はあっても〈個体の体現
する血球の流れ〉という視線はない。宮台の大きな批評『サブカルチャー神
話解体』にしてからがサブカル系譜学ではあるが、表現を考える上での
もう一つの柱である〈自己史〉という概念は巧妙に奪胎してある。ただ
社会において他者とコミュニケートする点としての〈私〉が設定されている
のみに過ぎない。しかしそれは自意識としても存在し自己内で対話する
〈自己〉ではない。

 これは何故宮台の批評の特徴であるが、60-70年代現代思想の継承点でも
ある。同時に彼の批評をどこか胡散臭くもさせている点である。何故なら
個体史をまったく奪胎して人間を歴史を語り得るとは俺には思えないから
である。