★★★大江健三郎スレ★★★ [無断転載禁止]©2ch.net
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川端は優れた作家と言ってるのも見たことあるな
これは雑誌か何かの発言だから少し表面的な発言だろうけど >>208 ノーベル賞なんて全然目指してないけど、「新しい日本の私」が良いとずっと思っていたけど、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・爆笑。
美しい日本の私は神秘主義なんだ。今の風潮も美しい日本! でしょ。テレビとか。首相もそんなタイトルの本出してるしさ。ノーベルはだれが取るんだろうなぁ。もう何十年も日本にはないかもね。 >>214
アジア枠を、政治的な思惑で中国人作家に使っちゃったからねえ・・・ >>212
いや多分大江は川端のことそれなりには尊敬してたと思う。川端存命中は派閥的に近づけなかったんじゃないかな。
大江が川端に批判的というほうが俺には表面的に思える。大作家なんて言わんだろう。ましてやストレートで殴り合える古井との対談なんだし。
横光が生きてたらどんな日本文学はどう違っていただろうかというのは、文脈から判断して批判として言っていないように俺には読めた。むしろ古井と一緒にほっとしてるって感じ。
>>210の書き抜き方はかなり恣意的、「文学の淵を渡る」に載ってるからちゃんと本文を読むべき。 >>216
じゃあ全文乗っけるから自分で判断してくれ
大江 川端康成が終戦直後に死に、横光利一が生き延びて文壇のりーダーになっていたら、どのように現代文学は違っただろうかと考えることがあります。
ここに川端康成の『掌の小説三篇』として三つの短篇が選ばれていますが、はじめの一篇と後の二篇ははっきり違う時期のものですね。最初の『望遠鏡と電話』は、どうしようもない。後の二つは、川端さんらしい世界の中に入り込んでしまっているという感じのものです。
古井 つまり、川端さんはかつて、『望遠鏡と電話』」のような作家であったわけですね。これが出発点なんです。これが川端康成の作品かと、ちょっと驚くんですが。
大江 『挿話』という作品は、戦争直後の雰囲気がよく出ていると思いますね。そして、『さざん花』となると、これはもう川端康成独自の世界です。最後に『戦争のためにこの世の光を見ないで失はれた子供達のことを私はふとあはれんで……』という感想がある。
感想で小説を終えるという日本独特の形式、本当ぱ文学として成立していないのではないかという疑いもある書き方を日本文壇の中心に置いた人のひとりか川端康成かも知れない。
古井 ただしし、この『さざん花』のテーマは、翻訳しても立つテーマですね。旧約聖書なんかに出てくる滅亡の民。女が孕んでも空気しか産まない。女が孕まないというのが神の一番の劫罰だということで通ります。あらゆる宗教に通じるんじゃないかと思いました。 大江 しかし、外国語に翻訳するんだったら、最後の四行を翻訳者に消されてしまうと思うな。
外国に自分の作品が訳される時、僕が興味を持つのは、特に短篇などが訳されて、ここはいらないと思うと翻訳者に言われると、それは僕個人の問題ではなくて、日本文学全体の問題として受け止めることができる場合かあるからです。
そこから言うと、この『さざん花』という作品は、大作家川端康成が日本人にとっての最大の問題をとらえている作品だとも言えます。彼は政治的でも社会的でもないと言われたけれども、実は日本人の運命をよく見つめていて、それがこの作品に表現されている。
しかも隣に咲いているさざん花などは、日本人しかとらえられないような美的世界です。僕には、最後に自分の感想を述べて小説を終えるつくりは感心できない。しかし、本当に複雑な心理が書かれています。川端さんの言葉の表現は曖昧なんだけれども、深いことは深い。
古井 われわれ日本人読者も、今読んでいて分裂するところかありますね。敗戦ということのユニバーサルな形が出ている。そっちの方を注目して読んでいくと、いろんなものが落ちるんですよね。
ところか、さまざまな心理の綾をたどって読んでいくと、どうしてもユニバーサルな形が読み取れなくなる。現在、文学愛好者か短篇を読んで、もっとも分裂するところじゃないですか。
大江 その通り。日本文学の独自性を感じると同時に、これから日本文学をつくっていく人たちの運命に対して、不安な感じもする。やりにくいんじゃないだろうかという気持ちがする。『さざん花』は、普遍性と日本の近代小説的という要素が二つ、両方とも表れている短篇です。
古井 世界的と言える短篇の形と、日本的な心理の綾を、その都度、力技で統合している。長い伝統の上でさらに自分の仕事をする場合、若い人の作品は明らかに分裂していますね。どっちにつこうか、迷ってますね
大作家と大江は書いているし、それこそ川端にはambivalentな視線であって、川端を読んでほっとしているなんて空気の対談ではないでしょう 大江は「感心しない」なんて一言も言ってないじゃん。大江が川端嫌ってないと何か不都合なことでもあるの?
「本当は文学として成立していないのではないかという疑いもある書き方を日本文壇の中心に置いた」ここだけ見ると批判に思えるが、その前に「日本独特の形式」って言ってる。
日本文学のアイデンティティが一つの形式として現れるならそりゃ、誰だって評価するだろ。 >>220
>大江は「感心しない」なんて一言も言ってないじゃん。
せめて引用した部分だけでも読んでから書き込んで!
>しかも隣に咲いているさざん花などは、日本人しかとらえられないような美的世界です。僕には、最後に自分の感想を述べて小説を終えるつくりは感心できない。
大江の受賞講演は読んだ?
川端には、もちろん尊敬もあるけれど、アンビヴァレントな、批判的な視線を持っている作家だということをどうして否定しようとするのかな? まず>大江は非常に川端には批判的
と書いたのは恣意的だったよな
俺はえっと思ったよ >>223
引用した箇所を読んでください
「どうしようもない。」
川端さんらしい世界の中に入り込んで「しまっている」
「大作家」
「本当は文学として成立していないのではないかという疑いもある書き方を日本文壇の中心に置いた人のひとりか川端康成かも知れない。 」
「最後に自分の感想を述べて小説を終えるつくりは感心できない。」
「最後の四行を翻訳者に消されてしまうと思うな。」
日本文学の独自性を感じると同時に、これから日本文学をつくっていく人たちの運命に対して、「不安な感じもする。やりにくいんじゃないだろうかという気持ちがする。」
こういう言い回しを、婉曲語法として理解できないかどうかは人によるし、いやこれは尊敬なんだと強弁したっていいでしょう
横光利一が生きていたら「疑いもある書き方を日本文壇の中心に置」くことはなかったかもしれないと読み取れないで、「ほっとしている」みたいな読解したってかまわないとは思う
でも、ここで挙げた3篇には強烈な違和感を表明していることは事実で「批判的」という言葉で形容するほうが正しいと思いますが 強弁してるのはどっちや
大江が両義的な評価してるのはよく見るからそれ自体は別にかな 大江に「あいまい」とされていた作家には志賀直哉がいる
この場合の「あいまい」というのは文章的な表現ではなく
論理や構成の事で
これは志賀直哉個人の資質に由来するものではなく
日本文化の問題でもあると考えていたようなフシがある
ただ、大江が「あいまい」な文化によって葬られようとしている
と擁護した戦後民主主義や戦後憲法が
それほど論理的で説得力があるものとは思えない
大江がよくいう「戦後民主主義という鮮烈な体験」は非常に神秘的なもので
現行憲法制定前の終戦時における個人的な体験に過ぎない
よって現行憲法上の明文とはそれほど関係ない
大江が作品でイェーツとかを持ち出すのもよく分かるが
それが論理によって万人を説得し、護憲や民主制維持に導くようなものではないね
天皇並びに皇国の崩壊によって生じた空白を埋めた憲法と民主制を
弁証するための後付け理論に過ぎない
それゆえ第一公理措定の時点で神秘主義を持ち出すしかない
まあ、これは大江や戦後日本に限ったことではないけど
空中楼閣は最初の基礎工事が大変であり
大江はその基礎工事にあたって全力を傾けた >>225
それでいいのでは?
両義的な評価をしている中で、その対立点としての欠点を浮き彫りにしているという意味で川端は大江にとって批判するべき相手として繰り返し扱われている
大江が川端を好きかどうかとか言うくだらない点ではなくて、川端の作品のどういうところを批判しているかを知ることのほうが実りはあると思う
「批判していない」といって対立点を通り越すのはもったいない
ガルシア・マルケスが「眠れる美女」のモデルを探そうとして、それに嫌悪感を覚えて拒絶するか、「批判」するかは川端のセンチメンタリズムを「批判」するかに直結していると思う >「戦後民主主義という鮮烈な体験」は非常に神秘的なもので
>第一公理措定の時点で神秘主義を持ち出すしかない
これはしょうもない混ぜっかえしのように思うな
その論法を裏返して言えば
戦後民主主義ニアリーイコール西洋は公理さえ置けば
そこからかなり論理的に敷衍できるもので、他の相手と論理で討議できる
そこが肝でしょう
川端の美しいイコール日本は、他の相手、西洋などに対し何がどう美しいか
わかるひとには分かるで言い募るしかなく分からせるように説明できない
大江言いたいことはそれでしょ 要するに、日本日本といっても、なにか特別なこと(もの)があるわけじゃないってことだろ?
自然崇拝という良くも悪くも遅れた感性を排除すれば、あとには、ただ明治政府のプロパガンダとしての神秘化が残るだけ。 南が丘文庫
http://www.minamigaoka.info/BOOKS/
Official Homepage
横浜市立南が丘中学校の母体である、平成研究会、通称、経世会とは、自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤栄作派)・木曜クラブ(田中角栄派)の流れを汲む、鉄の軍団と呼ばれた保守本流集団である。
横浜市立南が丘中学校OB会 俺は静かな生活を読み始めた
静かな短編集かと思いきや文章の調子がコロコロ変わるんで退屈しない 俺今年で34だけど、大江って32で『万延元年のフットボール』書いたんだよな...
化け物としか形容しようがないわ。 26でセブンティーン書いたの凄すぎ
あと何だかんだ言って飼育凄すぎでしょ ろっこつ!
落としどころに同意
何でもないものがキーの方が物語は感動すると思ってたけど肋骨くらいが面白いかもな 筒井康隆の大江健三郎評価はたぶん
気違いのたわごと 東条英機朝鮮人説が出てくるとかインターネット新しいよなあ… 大江は今、アルコールをたくさん飲んでる(アル中か?)。
そして森田療法をしてる(通院してるらしい)。
ほんとうは大江のような立場の人が精神医学や心理学を否定して批判しなきゃいけないのに森田療法をしちゃってる。
大江のような精神医学、心理学を信用してるバカな人たちは「家族依存」「依存」「甘え」などの心理学言葉を使う。
大江信者のブサイク婆はよくこの心理学言葉を使ってたわ。 カズオ・イシグロは、川端、大江の後継者になれて光栄だとか言ったみたいだね。
カフカやプルーストが好きみたいだから、大江も好きなんだろうな。 自分は日本文学の系譜に連なる作家ではないって名言したみたいだね 「憂い顔の童子」で、なんで古義人は田部夫人がベートーヴェンの「月光」を弾いたことにキレたんだろ
テクストになんのフォローもないから読んでて「???」だった >>246
黒野がきちんと説明していますよ
音楽堂の、「ここではピアノが湿気てしまうのではないか?」という言葉に答えて田部夫人がピアノに向かいます
そこで、ピアノの調律をするのが予想されることですが、とつぜんゆっくりとしたテンポでベートーヴェンを弾き始める
田部婦人はナントカ音楽大を出たような人で、求められていないのに(ひけらかすように)「完成形の楽曲を弾く」
この場面は翻れば、田部夫人がスポンサーになって演劇の打ち合わせをするところ
ところが、田部夫人はドンキホーテに出てくる公爵夫人よろしく、招待しておきながらドンキホーテを尊重せずに自分の考えを押し付けようとしてくる
ピアノ演奏に見せる鈍感さで、ダダッ、ダダッとやるからね
まだ話はそこまでいっていないと、不愉快だったんじゃないかい?
この鈍感さに過剰に反応しているのは「老人の愚行」、怒りに敏感になったコギトだからだけど、それでも「田部夫人〜公爵夫人」への反応じゃないかな >>247
田部夫人の鈍感さと押し付けがましさを表現している場面だったのね
「月光」という固有名詞が出てたから曲自体に含意があるのかと思ってました
この本は普通に読んでて意味が把握できない挿話が多すぎる
「水死」もそうだったけど
作中でいうとおりリリーディングしない限りは迷路をさ迷うような構造をわざと作ってるのかな >>248
まるで一人称(作者=コギト=わたし)のしかも作者が語り手と一致しているようなスタイルなのですが、透明な語り手ではありません
コギトはしばしば行動が先走り、説明が後からついてきます(今回のように、他人がその行動を説明することもあります)
これは三人称リアリズム小説に時折見られる手法で、作中人物が内面を描写されず、前触れなく突然の変貌をする
伝統的な私小説や三人称小説では、怒る前に、「私はその鈍感さに激高した」だったり、「ピアノをいきなり調律せずに弾き始めるのが見えた」とする
ここでは、その場面の描写には、ぬぐいがたく「主観的印象」で描写されています
主観的印象がそれをおこした原因を描写するのを追い越してしまっています
コギトの中の無謀なもう一人を追っかけるような
読者にたいして作中人物の内面が開示されない、作中人物もまた意識せずに怒り出していることを提出している
この書き方は、「ぼく」ではできないアイロニカルな手法です
異物が入り込んでいる、それを自覚しているようなコギトという人物のレイトスタイルであって、老人の内面ではなく、老人の愚行・怒りを書く手法
老人がおろかなことをしたり、怒る理由はきちんとある、しかしその怒りを押し殺すのでなく表明すること
場面の少し前に出てきた田部夫人の描写はじつはすでに好意と嫌悪感とが紙一重で、それがあるきっかけで爆発する
この焦点人物との野蛮な距離感は結構好きなんですよね こういう小説において、「怒りっぽい」とか「気まぐれ」な人物ってのは結構注意深く読まなきゃいけません
「気まぐれ」ってそもそも何か?「怒りっぽい」って実は何に怒っているのか(sensitiveなのか)?
もちろんそこの薄い人物としてこういう人物を出現させることもあるでしょう
しかし、作者の人物の脳をわざわざ損傷させてまで「怒りっぽい」大江の分身コギトを登場させる意味は何でしょうか?
「炭鉱のカナリア」、(悪意)に超敏感に反応する人物造詣をむりやり設定してしまう
怒りを押し殺す常識を麻痺させてでも、「怒りを表明する人物」を必要としたのがこの連作でしょう
これは、結構な破格で、反則技だと思います
小ざかしさでなく、老人の愚行が見たい、そのラディカルさが小島信夫の晩年を思わせる
いい小説だと、個人的には思うのです 大江健三朗は今、アルコールをたくさん飲んでる(アル中か?)。
そして森田療法をしてる(通院してるらしい)。
ほんとうは大江のような立場の人が精神医学や心理学を否定して批判しなきゃいけないのに森田療法をしちゃってる。
大江のような精神医学、心理学を信用してるバカな人たちは「家族依存」「依存」「甘え」などの心理学言葉を使う。
大江信者のブサイク婆はよくこの心理学言葉を使ってたわ。
ノーベル賞とか大江信者のブサイク婆にはマイナス効果しかないからw付け上がるだけ 怪奇譚とか、オカルト版のほうがルードウイッヒよりいいよ。
言葉遊び感覚で哲学から数学まで学べます。 >>254
大江は日本語の可能性を拡げたんだよね。
漢文と日常会話の混交で出来上がっていた日本の小説の文体を、なんとか先進国並みの表現を可能にする文体にまで引き上げた。
狭い島国日本の文体が、少しでも世界に通用する文体になれたのは、大江の功績だろう。
文体が矮小だと精神の矮小をもたらす場合が多いし、文体が大らかに拡張されていれば、精神もまた自由になれることが多い。 カズオ・イシグロはノーベル賞を輝かせる
ノーベル賞の肩書にすがりつく大江健三郎 >>256
君はノーベル賞作家の作品をいくつ読んだの? >>255
日本語の可能性を広げたのは夏目漱石たちだろう
なにを言ってるんだ?大江の恥知らずの読者は >>258
漱石は、やっと世界水準の下のほうに日本語を引き上げた。
それだけ日本語の水準は低かった。
言葉の水準が低いということは、精神の水準が低かったということでもある。
高い低いというのは、事物や心を、それらしく他者に伝える文体であるかどうかということ。
漱石までの作家の文体は、上手い下手はあっても、類型的な事物や人情しか表現できなかった。
鴎外と比べれば、その違いがよくわかるだろう。
そこからさらに一歩踏み出したのが大江。
抽象的な概念まで、小説という形式で表現できるようになった。
これには敗戦による日本人総体の精神の向上が寄与していたが、現在は日本人総体としての精神が幼くなっている。
日本で先端的な表現を構築するのは、とても難しい時代になっている。 イシグロの作品が売れまくっているのを見る
全く売れなかった大江の気持ちはいかに >>262
読まれてないの?
小説全集は出るみたいだけど? 大学生で拗らせた文学オタクなら必読みたいな扱いやけどな 大江 >>265
文学を知りたければ、文学を語りたければ、大江は必読だね。 東大は文科ぐらいだよな。日本文化大学の方が。京大はしらないけど。 立命館の高野悦子さん。相変わらず事故でご存命にあられなかったけど。
会えたのか。 大江は生きた化石
大江文学には、20世紀後半の歴史が刻まれている。 知の考古学的には、化石とか地層とか。
>>270は悪口のつもりかもしれないけど、ある意味適切だ。
ただ、現在の大江も、あるいはその他の作家も、現在の化石と地層になり続けているということに、気が付かないといけないんだけどね。 あいまいな日本の私を無料で読めるところありますか? 二人のノーベル文学賞受賞者の講演を読むと、資質の違いがよくわかる。
東洋プレミアムで受賞した川端と、世界標準で受賞した大江ということもよくわかる。 ノーベル本人よりも医大だよな!何しろ年がら年中ジョイス読んでるもん こなふざけた奴をノーベル賞に選んだノーベル委員会って
日本に悪意があるとしか思えないな
日本の恥だし日本文学の恥 「万永元年のフットボール」のアマゾンレビューで
大江は文章を難しく書いているだけで、内容が深遠な難しさがあるわけではない
単なるハッタリだと批判されているけど当たっているだろう 読んでから言え
かなり複雑な仕掛け、企みがある重層的な小説だぞ 谷崎潤一郎に名指しで文章の日本語の使い方が変だと批判された男
しかも谷崎潤一郎に添削された正しい日本語で読みやすい文章まで載せられてたな 谷崎変態。
大江は変態を批判。
こういうことだろ? 正しい日本語ってw
学校のお勉強じゃないんだから馬鹿馬鹿しいわ
正しい〇〇語なんてもんは粉砕していくのが
モダニズム後の世界文学の課題
オリエンタリスム枠受賞の谷崎と世界水準志向大江の目線の差だな
別に谷崎嫌いではないが >>286
日本における悪魔払いと評された
大江健三郎のノーベル賞受賞って
そんなに誇らしいものなのかね? >>289
誇らしいかどうかは人によるだろうが、大江文学を世界が称賛したことは確かだから。
川端は東洋枠としての下駄をはいてるが、大江は西欧一般基準での受賞。 谷崎のその発言ってソースどこ
文章読本に「正しい日本語に拘る必要なんてない」とか書いてた気がするが 全集に載っていた晩年の随筆
朝日新聞の文章についても文句言ってたよ 正しい日本語といえば大江と近しかった丸谷が
中上健次にそれで難癖つけて谷崎賞
あたえなかったんだよな
お前はジョイスの訳者じゃないんかいという
本当に難癖で真面目にとらえる意味なんかないよ 丸谷の最晩年の、丸谷・大江・筒井の鼎談は良かったよね
あれ筒井が企画したらしいね 大江初心者だけど
死者の奢り・飼育 は乗れなかった。見る前に跳べ はめっさ面白かった。
3冊目、なにがいいかな? だな。セヴンティーンが入ってる「性的人間」おすすめ 日本における悪魔払いと評された大江健三郎とは
日本における自殺の象徴だ
最近集団自殺のような事件があったが
まさに自殺的な大江健三郎の影響のもと
行われたものと思って間違いないだろう 三島由紀夫が「文学とは」と語っているなかで、大江健三郎の名前が出てくる
http://youtu.be/Xy502F3slDo?t=5m1s だれが何の意味を込めていったのか知らんが
日本会議戦前肯定天皇崇拝カルトを悪魔だとしたら
大江の悪魔祓いとやらは実に立派な仕事じゃないかな >>306
テロリストって、日本会議みたいな団体のこと?
武力闘争じゃなくて、詐欺みたいなことしてる人が多いようようにも見えるけど。 日本会議系って味方を守らない
状況しだいですぐ裏切る卑怯者のイメージだよね
旧軍のメンタリティと共通するのかな? >>309
右翼思想というのは、自己中心的な感性が国家という幻想に謬着したもの。
それぞれが自分を中心とした国家観だから、自分の都合に合わせて敵味方も変わる。
アメリカも敵から味方(主人)へと、とても簡単に変わった。 富岡八幡宮の宮司がテロの標的になったんだね。
現場に日本刀があったということは、右翼の内ゲバが、テロにまで行っちゃったのかのかな?
富岡八幡宮は、反日本会議、反神社本庁の声明を出したと思うんだけど、それと関係があるのかな? 大江が今若かったら詩織さんレイプ事件を題材にしてなんか書くのだろうか
というか「水死」のリッチャンの話みたいだよねあれ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています