★★★大江健三郎スレ★★★ [無断転載禁止]©2ch.net
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>>460
三島『日本文学は、太宰治じゃないけれども自分がアウト・ローになる、あるいは社会から
見捨てられてゆく、そういう降下の感覚においてはじめて権威とか行動とか力とか権力とか
すべて上昇的なものを否定できる』
『…それはまた実に受けいれられやすい。非常に難解な装いをしているけれども、受け入れられやすい形の文学。』
だそうだ。 つまりは聖書だな。キリスト教的といえるかもしれない。 >>459
その対談は読んでいないので、意味がとりにくい。
「自分のほうは衰亡」の自分とは誰のこと?
蜜三郎?
そうだとすると、三島の読み方に疑問が湧いてしまう。 >>463
三島はここで日本文学が鴎外、露伴以外はみな青春の文学だとしている。
だから万延元年が『文学的には成功する』けど日本文学の範囲の外に『絶対に出てない』と語る。
ここの衰亡とは父の文学と対比してだと思う。「個人的な体験」も父の物語だけど結局は青春文学だもの。 >>464
「対談・人間と文学」を読まないまま疑問を呈するべきではないことは承知している。
ただ、青春の文学といっても、そうではない文学といっても、なんの意味もないとしか思えない。
鴎外、露伴が青春の文学ではないという根拠も分からない。
三島自身、そういう意味では青春の文学で、戯曲を除けば大江より下手だ、というに過ぎないのだから。 >>465
三島が言いたいのはエウリピデスのヘラクレスやカラーゾフの大審問官のような権力の問題が日本文学で扱われないってこと。
確かにそれには意味はないかもね。
『いまだにぼくの文学を含めて石原君でも大江君でも、みな息子の文学をずっとやってきている。
そうすると、文学をやりながらどうして父親になれないのだろうか…』
『権力の内面の荒廃…それをほんとうに迫真的に描いたものはない。』 ドストエフスキーにも基本的に父はいない
一連の長篇は父なし子による親探しのようなものであって
日本のドストエフスきーとも言われる大江の場合は
父無し子である「僕」が重度の障害児である息子との対話によって
「父」に育っていくという物語を書いている
一種の「天使」ともいうべき息子を介して語られる言葉によって
「父」である「僕」が子供のような存在になるので
旧約聖書の記述の様な絶対的関係には発展しない
傷の舐め合いで終わってしまうからね >>466
権力が父親・・・
三島がもしそう捉えているなら、やはり社会と個人の関係が理解できなかったということだろう。
生育環境から見て、三島が家族の関係というものを理解できずに成長したことはよくわかるが、それをそのまま引き摺っているのでは文学者として幼稚に過ぎるだろう。
それは同時に、権力そのものの理解を妨げているのではないかと思う。 >>468
ラカンでいう大文字の他者みたいなイメージだったんじゃないのかな >>469
大文字の他者・・・
言葉の遊びになるね。
たんなる言語的な状況であり関係であり構造。
家族とも権力とも、触れ合うところはない。 『権力の内面の荒廃…それをほんとうに迫真的に描いたものはない。』
山崎豊子が権力の内面の荒廃を完璧に描き
歴史に残る記憶に残る偉大な作家になっていますが 山崎豊子
「白い巨塔」「華麗なる一族」「不毛地帯」「大地の子」「沈まぬ太陽」「仮装集団」で社会と権力と人間を描ききり
のべ3000万部以上売りあげ、ドラマ、映画化で誰もが知っている国民作家となった
これにならぶ大江の作品は一つもない >>472
権力の内面の荒廃を描いても、文学としては優れたものにはならなかったんだよね。 村上龍の愛と幻想のファシズムも権力を描いているね
権力批判もいいけど、本当に革新を求めるなら結局権力は必要になる >>475
あなたは気のきいた風な言い回しが好きなんだね。 >>466
権力の内面の荒廃ということで言えば今の大江健三郎の存在そのもので
体現してるんだと思うね。
人を殺したいという子供が次々に出てくる大江が作ったといって良いこの日本で
大江健三郎が首をくくって死ぬことは何より待たれること。 日本民法の父、穂積陳重の『法窓夜話』を現代語に完全改訳
法律エッセイの古典的名著が短編×100話で気軽に読めます
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>権力の内面の荒廃ということで言えば今の大江健三郎の存在そのもので
>体現してるんだと思うね。
それはみんなが感じている事です
大江の権力性と腐敗というのは
たとえば元いじめられっ子の在日韓国人であり
それを売りにしてデビューした柳美里が
創作上のプライバシー問題で
同じ在日韓国人である元友人から訴えられた際に
柳さんは人を傷つけたのだから反省しなさい、とお説教をするような事ですね
大江健三郎がそこまで他者に配慮して書いていたとは思えないんですけどね
どちらかというと柳美里に近いでしょう
弱者としての立場を強引に強者に転換しようとするようなタイプで
三島由紀夫が嫌悪していた太宰治にも似ています
もっとも太宰治の場合はキリストを引き合いにするだけの恥じらいがありますが
大江の場合は創作上の人物であるギー兄さんがキリストになってしまいます
という事は救世主の創作者である大江健三郎が事実上の「神」になる
まあ実際はパウロでしょうけど >>479
その意味での権力なら、大は森元総理から小は街の爺さんまで、なんの権力も持っていない社会人を探す方が難しい。
専業主婦だって、友人や夫に一定の相互の権力を持っているし、外に出ないニートだって、たぶん親には一定の権力を持っている。
フーコーが分析してみせた権力も、その程度のもの。 権力を描く文学としては、松本清張も有名だ。
山崎豊子にしても清張にしても、とても面白い。
でも、精神になにかを訴えてくるということはあまりない。
なんとなく正義感を煽られる程度か。
人の心の動きを単純化して、それぞれの役割に合わせてしまうようなところがあるからだろうか。
作品の出来とは別に、いわゆる純文学といわゆる大衆文学の違いではあるのだろう。 山崎豊子と大江健三郎どっちが偉大か
文学者、批評家は絶対タブーのテーマだろうね
「純文学だから偉い」「小説の企み(笑)」があるから偉いとか色々正当化しようとするだろうけど説得力があるとは言えない
ガチで勝負したら、議論したら、負ける可能性はあるよね >>482
マジレスすれば、一つ一つというか一行ずつというか作品全体というか、比べて読んでごらん。
登場人物の心の動き、表に出た言動、読者である自分の心が読みこまれてる気がするのはどちらの作品か。
文体、作品構成などを持ち出すまでもなく、優劣は明らか。 >>明らか
果たしてこの程度の議論で正当化できるかな
全然明らかではないと思うが
文章も大江がうまいと言えるのかな
「なんでわざわざ読みにくく書くの?」
「何がテーマなの?」
「全然感動しないんですけど?」
「社会に一切影響力ありませんよね?」
「ドラマ化映画化で成功したものないよね?」
こういう議論に巻き込まれて反論できるかな >>484
評価の基準は明確に書いておいた。
登場人物の心の動き、表に出た言動、読者である自分の心が読みこまれてる気がすること。
あなたの反論は基準を変えているだけ。 登場人物の心の動きも敗けているだろうね
全然「明らか」ではない 三島は大江の才能を評価していたからこそ、大江が権力を描かないのが歯痒いんだろう。 >>486
読み方の違いとしか言いようがないから、議論しても無駄だろうね。
ところで、山崎豊子というのは、盗用騒ぎを繰り返したことでも有名だ。
瀬戸内寂聴に、あの人の盗用は病気だ、とまで言われたとか。
そんな盗用だらけの文章だと評価はしずらいよねw >>487
三島自身、権力を描いたのは宴のあとぐらいしか思いつかないんだが、どんな作品をイメージしてるんだろう? 大江も権力的なものは書いてると思うよ
万延元年のフットボールだってそうじゃない? 山崎豊子は通俗大衆小説として
三島の絹と明察や宴のあとと比較すりゃいいよ
どっちも非常に図式的でドラマ化向きだろね >>489
三島は自身が青春の文学から離れられないと発言しているから、それが描けなかったんじゃないかな >>488
大江もパクリの常習でしょ
アップダイクからパクリ、ノーマン・メイラーからパクリ、もとはサルトル、フォクナー、ガルシア・マルケス
そのとき時の流行追っかけた人なんだから >>487
大江がどう言う人生を歩むバカやろうか目に見えていたんだろ。
さすが評論には定評がある三島。 >>489
権力と反権力というようなヒステリーな関係ではない
あらゆるところから見て人を感動させることができる
彫刻のような小説を作ることを目指した
それはつまり日本を描こうとした
日本の悲しさを描こうとした
金閣寺に出てくる青年はいわゆる反権力だが
なぜかその青年に金閣寺を燃やさせた。
それは一応実際にあった事件はあったんだけどそれとは違う理由で
燃やさせた。 >>493
せっかくだから、どういうところがパクリ(盗用)なのか指摘してよ。 >>494
大江はいい人生を歩んでいると思うよ?
どこがバカやろうだと思うの? >>498
自分は良くてこの日本をどん底に叩き落とすとか
さすが大江の人生だな、万死に値する >>495
>金閣寺に出てくる青年はいわゆる反権力
僕にはそう読めなかったけど、どういうところが反権力だと思うの? >>499
日本をどん底に叩き落とすってどういう意味?
あなたが日本という言葉に振り回されてるだけじゃないと思うんだけど。 >>502
大江の政治が理由で今の日本ができていると言って良い
それがわからないならそもそもからして話にならない。
人を殺したいという子供が次々に出てくるのもこの大江のせいだと思っている >>501
それが反権力?
理解しにくいな。
僕にはただのネトウヨに見えるんだけど。
もちろん、そんな言葉はなかったけど。 >>504
反権力の卵とも言えるな
反権力と言えば売国を目的とした
基地外の左翼を思うなら俺はそもそもそんなものは考えに入れていない >>503
あなたには精神障害があるの?
大江の政治とかいっても、大江は政治家じゃないし、今の政治は安倍晋三が責任者だよ?
人を殺したいという子供が次々に出てくるのが政治のせいなら、責任は安倍にあるということになるんだよ? >>506
何を寝ぼけたこたとを言ってるんだ
安倍が政治の中心的な権力を持って何年しか経ってないと思ってるんだ
しかも総理大臣という限定的な権力
憲法改正をしたくてもさせてくれない権力だ
それよりも日本ではデマゴーグを流す立場を持っている人間の方が
権力がある。それな大江だ。 >>508
総理大臣が限定的な権力だというなら、大江はまったく権力を持ってないということになるよ。
あなたは勝手に憲法まで変えられる独裁者が権力者だと言いたいみたいだけど、いうまでもなく、大江にはそんな権力はない。
デマゴーグというなら、国会答弁でずいぶんいい加減なことを言ってる大権力者安倍のことだとするのが適切だと思うよ? >>509
弱ぶりながら中心に居座り
デマを流し続けてきているのが大江
法律的な権力?は持たなくても中心にいようとして中心にいるならば
当然に責任がある >>511
大江はどこの中心にいると思ってるの?
デマを流し続けている、というのは具体的には何のこと?
安倍晋三氏や日本会議の連中のほうが、怪しげなことばかり言ってるように見えるんだけど。 >>513
日本会議は大江などによってなし崩しにされようとしている日本
を維持しようとしている人達だろう
大江は日本をなし崩しにするデマの中心だろう
反日本の中心だろう >>514
日本を維持って、なにを維持するの?
日本会議のウェブサイトによれば、尊皇と従米なんだけど、それがいいの? >>515
反日は最も憎むべきもの。
反日の大江よりどう考えても良い。
反日ではないのが日本会議でその団体が尊皇であり従米なら
とりあえず仕方がないこと。政治というのはベターなものを選ぶというのは
よく言われることだろ。これに関してはその方式を忘れるというのは
左翼脳としか言いようがない。 というか反日というだけでその考え方人間性全てがダメだと思うがね >>516>>517
日本万歳、天皇万歳と言ったことで、多くの国民が死んでるんだよね。
愛国者が、国民を殺したわけだ。
日本万歳、天皇万歳を否定するのが反日なら、反日が国民にとっては正しい在り方ということになる。
僕は、愛国者を否定する、誇り高き反日だな。 >>518
何言ってんだお前、もはや宗教だな
大江教でもある。そういう嘲笑する揶揄に対してこの大江は予防線を
張ってたりするから相当に用心深い権力者だよ大江は
万死に値する >>519
日本万歳、天皇万歳は、宗教そのものだろ?
根拠のない礼賛と崇拝が宗教というものだ。 >>521
そんなことを考えるのはチョンころしかいねぇよ
または日本があると不都合な人間 >>522
だからといって反日が許されるものではない >>525
愛国は戦争を招き、国民を貧しく不幸にする。
反日こそが、国民を平和で豊かにする。 >>527
今の日本の苦しみはほぼ大江など反日が撒いた種が元の苦しみだけどな
お前はもしかして共産党の人間だろうか? >>529
お前のいってることはまさに共産党のそれだけどな 国は絶対ではない。しかし多くの人は国に依存している。 >>531
創価学会に依存したり、共産党に依存したり、最近のブームに依存したり
色々だろうな。けど依存がなんたらいう奴は俺は確信を持って今は
そいつから何かを搾取しようと企んでいる奴だと確信するね。
新興宗教も家族から引き離そうとしたりする。
その急先鋒が大江健三郎だ。 >>531
国は依存するものではなくて作り上げるもの。
国のために国民がいるのではなく、国民のために国がある。
あたりまえだろ?w 吉本隆明が西欧人にとっての国はピラミットの頂点のようなイメージで
日本人にとっては自分達を包む袋のイメージだと言ってたな
>>533こんなのがまさに袋的なイメージなのかな >>534
国家というのは、国民が作り上げた組織のこと。
それは民主主義であるかどうかということではない。
どのような支配体制であっても、それがその国民の国家なのだ。
国家とは組織のことであって、ピラミッド的(?)な支配構造を持つか持たないかとも関係がない。
日本の場合は、江戸時代までは地域権力である藩を束ねる組織が幕府であり、藩もまた村などの地域権力を束ねていた。
その意味ではピラミッド的ともいえるだろうが、それは日本に限ったことではなく、封建制はもとより、専制君主の西欧でも見られる支配体制だ。
袋的というのがなにを意味しているのか知らないが、>>533とは無関係に思える。 西欧がピラミット的ってのは下部構造に対して上部構造の国は代替可能だという意識があるって意味じゃないかな >>536
それは西欧に限らない。
どこの国でも、市民生活は普通に続きながら、支配者の交代がある。
市民革命云々と言っても、その前後の市民生活に大きな差があるわけではない。
国家というレベルではないが、日本における藩権力は、ときどき移封されてるが、住民は同じだ。
国家権力の交代である明治維新にしても敗戦にしても、市民が入れ替わったわけではない。
下部構造(市民の生活)というのはそういうものだ。 >>537
その下部構造の意識の差を吉本は言ってるんだと思うよ
主体は下部って意味ね 大江健三郎さんが非常に注目を浴びた『個人的な体験』という小説があります。
1964年に出た作品ですが、これはジョン・アップダイクの『走れウサギ』(Rabbit, Run)という1960念に出た
作品を完全にパクったものだと言われています。
『走れウサギ』という作品は「ラビット」というあだ名の付いた男の話ですけど、大江健三郎は自分の小説に
「鳥」という「バード」というあだ名の主人公をもってくる。
アップダイクの方は奥さんを裏切って浮気するはなしですが、大江の作品も「バード」が妊娠中の妻を
ほったらかして浮気するはなしなんです。
大江健三郎が最初に出したエッセイ集というのは、「厳粛な綱渡り」という分厚い本なんですけど、
それはノーマン・メイラーのadvertisement for myselfとほとんど作りは同じ。 >>539
それがパクリ?
その程度をパクリというなら、世界中からパクリではない作品を探すほうが大変そうだ。 また使い回しコピペか
バードって個人的な体験以前に空の怪物アグイー収録の短編不満足に既にでてくるんだけど
主人公に動物の渾名をつけるなんて別にアップダイクオリジナルのものでもないだろうし
こじつけが過ぎるな しかし村上春樹の「鼠」ってアップダイクとか大江を意識してるんだろうか
「1973年のピンボール」というあからさまなのはあるけど 四国の森のはなしもフォークナーのヨクナパトーファ・サーガのものまねだし >>543
レベルが低すぎて
誰も相手にしない気がする 本歌取りもサンプリングミュージックもパクリと言われると何も出来なくなるぞ >>538
下部構造というのは、社会経済の動きのこと。
「意識の差」とか「主体は下部」とかいう言い方は、定義の矛盾になる。 >>495
無限定に日本と使うのは、精神的に極めて幼稚。
日本という言葉がなにを意味するのかについて、まったく思考してない。
それは右翼共通の欠陥だ。 >>541
>主人公に動物の渾名をつけるなんて別にアップダイクオリジナルのものでもないだろうし
>こじつけが過ぎるな
まったくその通りです
ちなみにドストエフスキーの「白痴」の主人公である
ムイシュキン公のムイシュキンとは「鼠」という意味 大江健三郎が反日扱いされている場面を見掛けるたびに
「戦争って本当に忘れられるんだなあ」と実感する 大江がアップダイクのパクリってのは発表当時から石原慎太郎などからも言われていたけどな >>550
言いたい人がいたんだろう。
才能への妬みなのかな。 >>551
だけれど大江はバードの人生をそれ以上深めようとはしなかったよな。
パクリだからそれ以上深めることはできなかったということなんだろう。
そういうパクリの性格を自分自身で揶揄してもしかして自分は本を読み
書く人間だと懺悔を込めて告白し
読んで書くという一連のクソ退屈な作品群に至ったのかもしれない。
一方なんとか生み出したギー兄さんは何度も登場させることになったよな。 >>552
文学とはなにか、の一言に尽きるね。
もう少し本を読んだ方がいいと思う。 2代目ギー兄さんとかギージュニアとかいろいろ派生人物はでてくるが
ギー兄さん自体は一作しかでてこない
コピペ使い回しだし実作にあたらずネット越しに情報読みかじってるだけくさいんだよな >>552
その後の作品がすべてバードの
つまりリアルな作家の人生への深め方じゃないの?
逆にいうとそれまでの作品は実生活とは関係ない
あるいはどうでもいい事柄の表現で
個人的な体験以後は逃げることのできない
現実を引き受けてどう生きるかという表現で
よう知らんけど 「(大人になった)君にはもう、鳥(バード)という子供っぽい渾名は似合わない」
という教授の言葉で締めくくられる「個人的な体験」でもって
バード(鳥)という名前によって象徴される青年時代(少年と大人の境位)と永訣し作者の分身たる主人公は大人の道を歩むことを決意する
これが後年の父と子の物語群へとつながる
自由を渇望しながら閉鎖的な状況に苦しむ青年時代の物語から
出世時に障害を背負わされた無垢なる存在との共生によって
この世の不条理や暴力と対峙する大人の物語へと脱皮した
青年「鳥」と決別することが深化の起点であり
それがなかったら単なる青年の物語で終わる
まあ受難者としてのギー兄さんがいるので
青年の問題をまるっきり放棄したというわけでもないのだけど 柄谷行人が反文学論で執拗に大江をディスってるのがウケるな >>557
それは読んでいないけど、柄谷が吉本の猿真似で大江をディスってるんじゃなければいいけどね・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています