夏目漱石 八十四夜 [無断転載禁止]©2ch.net
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夏目漱石
1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年12月9日(大正5年12月9日)
本名 夏目金之助
牛込馬場下横町(現新宿区喜久井町)出身
前スレ
夏目漱石 八十五夜
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1484799164/ >>102
日米の一流大学って、どことどこ?
官僚だと、東大でて、就職してからアメリカでMBAという人が多いんだそうだけど、そんな感じ? >>104
跡を継がせてもらえないの?
継ぎたくないの? 改めてこころ読んでたら頭痛くなってきたしすげー鬱な暗い気持ちになったわ。
ほんと高等遊民が読むような本でまっとうに働いてる社会人が手を出すようなものではないわ。
悪影響及ぼすぞ。 名前はいわない
東京とボストン
継がないことになっている
株は半分以上あるけどな
都内自前の土地に三階建の家 >>107
山谷崖っぷち日記
読むといいよ
道元坂に住んでたおっさんが昔くれた >>108
なんで継げないの?
暇なら、継ぐか、自分で会社やるか、勉強続けるか、趣味に没頭するか、いろいろ暇つぶしの選択肢はあるだろうに。
のんびりやってて満足してるんなら、ちょっと早めの年金暮らし、みたいなもんだろうが。 やることないというのは嘘だったな
早い年金暮らしというのはピッタリの
表現だな
それそれそんな感じ
最近は有田と週刊プロレスと
っていうコンテンツを楽しんでいる
暇なのでフランス語始めようと思っている
あと史記を原文で全部読もうと こころ読んで漱石避けてる
でもあれ異色作らしいしほかのもいつか読まないとなあとは思う 漱石という人間を理解したいのならば、
「行人」と「こころ」と「道草」と「明暗」は必読だな。
余裕があればその前の「それから」と「門」も読んだ方がいい。
ちなみに猫や坊主だけ読んで漱石を理解したと勘違いする馬鹿が相当いるらしいな。 おおかゆいところに手が届くレスありがとうです
こんないい人が読者な作家は間違いないはずだ
読むぞ! 『門』は「まともな人間」が主人公。漱石作品では珍しい。 >>112
主要作品は大体読んだ
全集読むつもりだったけどモチが落ちた
一時的にそうなるのはよくある >>120
舞台や時代背景を楽しむことと
言語的な側面を考えるのが好きなので
それはとても楽しめるかな。それほど
心理面を読み込んだり感情移入をしない
から漱石の読み手としては邪道なのだろう >>121
せっかくだから、「言語的な側面」というのを、具体的に書いてみて。 こころの先生の自殺の原因が同性愛の精神異常によるものってマジなの!? >>123
言語というか語彙か。言葉を調べるのだな
一丁も二丁も
って長さどれくらいだろとか。町であるとか 人間失格読んだけどめちゃめちゃ良くできた小説だわ
漱石の感想ききたい >>126
石が大嫌いな作品だということだけは間違いない。
おまえ漱石がどういう人かまるでわかってねーな。 >>125
辞書的なことか。
「舞台や時代背景を楽しむこと」の補完ということになりそうだ。
厳密にやれば、江藤淳や荒正人とは違った面から、漱石とその時代へのアプローチができるかも知れないね。
暇なら、やってみたらいいと思う。 >>129だが付け足すと
俺は清子の他に門のお米とかもタイプだしな。
坊ちゃんの清なんかも好きだ。
したたかでも、理屈ばっかのやかましい女よりは好みなだけ。 そうかな坊ちゃんの要素とそれからの要素と明暗の要素と後期芥川の要素も入ってて
人物描写はひたすら可笑しい
文学マニアこそこれ読むべきだろ
しかもメタな構造になってすげえ巧妙な仕掛けもあって
タイトルと魔逆の小説自体はハッピーエンドで作者の遺作というねじれのねじれの構造で
127はもう一回読み直してみな しかも、小説の中に
「我輩は猫である」という固有名詞がでてくるという ヒラメとかああいうとぼけたあだ名のつけ方なんか坊ちゃんへのオマージュかな
人間に対する風刺描写とかね
あと、こころの影響もあるね
作者を投影した手記を読む人間がいてその人間を描写してるというのが第三者の作者という 人間失格は近代文学の旨味自体が小説に
なっている感じかな
自他の心理に思いを巡らすうちに価値の転倒する
ような自己否定に突き当たるっていう怖さ 読後感が坊ちゃんにそっくりなの
若い頃は若さゆえにいろいろあったが
白髪も増えたが
今もこうして生きていますみたいな
今は昔を相対化できる余裕が多少なりともできたようですみたいな
ただ、坊ちゃんと違ってその
手記を読むこれまた作者の投影らしき男が
もう一層はさまれているという構造で
3重構造になっているという >>131-133
他人の小説はどうでもいいな。
パロディとしてのおもしろさはあるのかも知れないけど。 こころが同性愛小説ってのが文芸評論界ではすでに定説なのか? よく指摘されるけど、実際にはホモソーシャル程度じゃないか。 >>140
戦前までは、男と女は別の社会を作ってたんだよ。
男女は、友人の妻とかいう関係でしか交流しない。
もちろん、不倫という意味じゃなくて。
師弟であれ、友人であれ、同性が基本という本来的な意味でのホモソーシャル。
だから、漱石の友人にも弟子にも女はいない。
大塚奈緒子は、あくまでも友人の奥さん。 女が男の師匠の弟子になるケースはあるけど、その場合は女の弟子はたいてい愛人になるんだよな。
頼山陽なんかもあちこちで女の弟子を愛人にしてる。 頼山陽は漱石が太刀打ちできない
ほどのキチガイだからなあ こころの最初に出てくる鎌倉の西洋人の男が実は先生の男娼相手らしいんだがまじ?
何気なく読んでたがそういう暗喩があったのか。漱石の才能がそら恐ろしくなったわ。 >>144
あれは欧米から入って来た個人主義的な精神文化の暗喩でしょ
だから不自然な猿股を履いてるし、先生との出会いは偶然で、引き込まれそうなところを私にとめられる
これは先生が自殺の道を選ぶのとも一致してる ”漱石の「則天去私」と「明暗」の構造”という本を読んでいるが、
これは面白い。今までの漱石への疑問などが一気に解決できている。
これは本当にお勧めの作家研究本だと思う。 則天去私も名詩にはなっていないよ。四字熟語か熟語で売れない読まれない
どまり。しかも出版法とか電波法、新聞法からも怪しい。
やっぱ漢字源なら日本の作家は小説家はぼぼ捨てたい。
新聞小説なんて無理な信仰被害、あまり良いものを書いたとは思えない。
喧伝力もないし、ネタバレもつまらない、隠す力もないし、レア度にも欠ける駆け引き。
ロリコン目に見えるしさあグラビアも。旧紙幣たかが五校教授どまりか。
神も長髪じゃないし、それじゃあ映らない部分も怪しい。 テクストに映らない良さがあるのが、ストラスブールや
ソルボンヌだろうなあ。卒。 >>150
こころは題名が優れているけど
内容はダラダラしてるよね
裸の王様小説の代表
その点太宰のウジウジはかなり読ませる 単なる自分の好みを奉じる馬鹿な裸の王様にはウジウジがお似合いらしい。 そのうじうじの仕方がおかしいのよ
漱石のギャグセンスをうじうじに混合させて
うじうじを中和してるというかいっそう際立たせてるというか
その境界線もみえないように構築されている。
こころで消化不良だった部分を克服してるって感じなんだな
こころも、手記を物語に差し込むって人称をまたぐって
当時としては斬新な実験的手法うを試みるも
こころって漱石研究者の間でも失敗作っていう人はいるね
やはりどこか破綻してるというか、かなり気合を入れて取り組んだが
なんつうか上手くいかなかったというか回収しきれなかったというか
時間がなかったというか。 >>154
句読点のない文章は、確かにウジウジして見えるね。
文章を整えて書くことが面倒だという理由で、ただ、だらだらと書いた印象をあたえる。
整理されない文章というのは、思考の幼稚さの表われに違いない。
閉鎖性と幼児性しか自慢できるものがない文系が、日本語を書くことが苦手な、理系の書き方を真似しているのかも知れない。 >>154
こころは新聞連載で次の島崎藤村が書き始められないというので強引に引き延ばした作品だっての。
そんな基本を知らん奴が変な主観を振り回さんで呉れ玉へ。 漱石は子規にすすめられるまでは建築家を志していたくらいで理系的な思考は備わってる。
漱石による英文法の整理は非常に高い評価を得てただろ。
文系にありがちな単なる博覧強記のバカとは別物だよ。
英文学に進んでも、池田菊苗や弟子の寺田寅彦のような理系人間との交流を楽しんでいるしね。 寅彦といえば、ペヤングのカップ焼きそばのチョコレート味を食ったときに、さぞや
気に入ることだろうと思った。たまに売れ残りが店頭で安売りされてるんで、
漱石好きは一度体験したらいいと思う。 あの分量は難しいよな
二部構成も難しい
他の文豪でも扱いにくい内容だと思う
長さに比して先生の秘密がショボイのが致命的
だけども 何はともあれ
評価のはっきり分かれる著名作品として注目できる 時代は変われど悩みのコアのコアは親子と男女。これ以上のものはない。あとはアレンジだけ。
手本に対して陳腐だなんだと言ってること自体、手本の下で吠えてるだけの陳腐な存在だよ。 そういえば世紀の名作で二部形式そのものは
響かないと言えば春の祭典があるな
一幕でも名作判定されてたに違いない
その意味では二部形式について
深く考えるのは面白そうだ >>159
それは子規じゃねーよ
オマエみてーな嘘つきっていまどきいるんだな?
死んじまえ
嘘つきしったか馬鹿物めが 明暗て漱石はどうやって話を終わらせるつもりだったんだろう。俺はお延と離縁して実家からも絶縁されちまうって結末だったんじゃないかと思うんだが。
で、小林と朝鮮にいく。 ↑おまえも呆れた馬鹿物だな。
最終的には漱石と鏡子のような関係になるんだよ。
この意味わかるか?無理だな。低脳には 漱石はストーリーを決めて書き出すタイプじゃなさそうだからねえ。
さまざまな場面に出くわした登場人物たちが、それぞれの性格や関係のもとに動いていく。
漱石自身も、書いてみなければわからないんじゃないかな。
三四郎以降の漱石は、猫や藤尾みたいに、話を終わらせるために殺してしまうことはなさそうだ。 >>171
先生の死は、話を終わらせるためじゃなくて、明治という時代の死だと思う。 その場合
先生が明治の擬人化だという記号に
もう少し鮮やかさが欲しいね
明治だと解釈した時に全体の尺が
有意味になるということね >>173
作品としての象徴性という意味なら、乃木希典の殉死だろう。
漱石自身が衝撃を受けたんだろうし、その衝撃で「こころ」を書いたともいえる。
それは、一人の人間の生き方への驚きであると同時に、日露戦で喧伝された兵士の犠牲の美化に対する、漱石からの明治の倫理の総決算でもあったと思う。 バカはペヤングのカップ焼きそばのチョコレート味を食え。
必死で探して食え。命令だ。馬鹿め。 うーん
総決算的な思想的深さとか歴史の象徴化が
構築されてはないよね。明治的という内実
が分からない。やはり漱石の人間関係の
心理的な葛藤の描写でどこまで読ませるか、
という手腕に「かかり過ぎている」。
似たふたりの人物の私小説的な苦悩告白が
並べてあって、
まあこれはしょうがないけど
現代の読み手は大体の筋を知って読まざるを得ない
殉死の衝撃は事実としてあっても、
小説の舞台の時代そのものはいつでもいいでしょう。 確かに小津作品の鑑賞後感と近いよね
色々あるけど
ひとつには舞台空間描写が密度としては
希薄なのだけど、つまり書き込む余地がいくらでも
ある、人物の動きはどうも練られているのだよね >>177
先生とKの倫理というのが、それぞれの死をもって成就している。
これは日露戦で美化された、塹壕に飛び込む兵士の特攻と軌を一にしている。
それを、乃木希典が子供と自身の死を引きかえにした。
そうした明治的な倫理を断ち切る〈こころ〉を追究したのが、漱石。
その意味で、明治的倫理の総決算を目指した作品ということ。
〈倫理〉はどこから来るのか?
漱石は追求してやまなかった。
そのテーマは、漱石から太宰に引き継がれたということもできる。 >>177-178
「堅物」を「人格障害」として阻害する時代の勘違いに過ぎない。
学閥学歴至上主義の反動か何かのコミュ力至上主義の類かね。
それ、単なるポピュリズムだからね。アホの多数決の結果だ。何やってるの?? >>179
そこがどうも繋がらないんだよね
イデオロギーも体制も思想も描いていないし
個人的悩みで死ぬ。
漱石の発想の源泉はとにかくも
小説として明治の死を描いて、そのテーマの書きぶり
優れているとは言えないと思うな
こじれた人間関係や悔恨を、必要以上に
重々しく描いてそれほど不自然ではない腕の冴え
とは言えるけどね。 死ぬ理由他人に説明する時の
支離滅裂がよく描かれているという意味では
やはり力の篭った心理描写と言えるかな
他人の殉死が呼び水になって自殺に至る心理
にはリアリティがある。 >>181
アズマエビスが毛唐に染まったら禽獣以下ですやん。 >>182
倫理というものが、時代と分かちがたいものだということを、漱石は強く感じている。
個人と個人の関係の中の倫理においても、社会というものが隙間なく纏わりついているということによる。
わかりやすいのは、女の貞操かもしれない。
江戸時代には、事実上は女の貞操などまるで重視されなかったが、明治になると非常に重いものな変わった。
現代では、女の貞操という概念すら消え去っている。
男はいつの時代にも貞操が問題にされたことはないがw
塹壕に自身を埋める兵士が、倫理として褒め称えられる時代もあれば、とにかく生き延びたことが褒め称えられる時代もある。
漱石は、そうした倫理の根拠を探し続けていた。
倫理は、いずれにしても個人の問題として出てくるほかはないから、漱石の作品の舞台は、個人の〈こころ〉の動きを描くしかなかった。 >>185
なるほど
塹壕のくだりは君のこだわりのように
思うが前半はそうかもと前よりは思える。
どうも >>188
日露戦は、漱石のいくつかの短文にも出てくる。
日露戦における兵士の死、というのは、漱石にとって倫理的な大きな課題だったと思う。 戦争と平和が交互に来ることも理解できないバカが男女の貞操を語る愚。
漱石批評でさえよく見かけるよね。 >>182
そもそもイデオロギーや思想は文学の本質ではないでしょ
文学の本質は文字を通して仮想的に欲求を満たすことだと漱石考えていたと思う
そして漱石は人類の普遍的なテーマである個人と他者、世界との二者択一的な欲求の衝突を軸に作品を作り
その中の『こころ』は明治の精神を手段として人間の心理を描いた
つまり、多くの人が『こころ』登場人物に共感し読み継がれて来た時点でなんと言おうが名作なんだと思う ID:khrBIDm
↑嘘つきやろう
謝罪せや!!!!!!!
糞馬鹿めが >>192
言い草がコリアンそのもの。火病ってそんな感じなのか。 みんな書いてる内容が凄いなあ。
どうせ誰かの評論か解説本をそのまま書いてるんだろうけどw >>194
君が自分の言葉で語れない子供なだけだよ。 >江戸時代には、事実上は女の貞操などまるで重視されなかったが、明治になると非常に重いものな変わった。
平時である江戸時代前中後期あたりでさえ武家ではごく当たり前に女の貞操は重視されたし、
庶民でも不義密通は死罪。訴訟に金がかかるから公に訴える者が少なかっただけ。
>現代では、女の貞操という概念すら消え去っている。
へえ、DQNの世界ではそうなんだね。まあ皇室でさえビッチが出ちゃったからね。
それでも不倫は男でも女でも有責離婚の原因になるよ?
>男はいつの時代にも貞操が問題にされたことはないがw
戦時中だと「下らない女で童貞を捨てた」みたいな言葉に代表されるような価値観はあったよ。 >>196
明治以降の感じ方としての貞操の一つである、結婚するまでは処女であるということから説明しよう。
江戸時代は、収入の糧である家を重視していただけなので、兄が死ねば、弟が兄の未亡人と結婚して家を継ぐのは普通だった。
結婚に際しても、家同士の格は重視されたが、その分、再婚も多かった。
妻が処女であるかどうかなどまったく問題にならずに、同格の家、もしくは格上の家との婚姻が重視された。
江戸時代というのは、不思議なくらい女が自由であって、結婚相手が嫌ならすぐに離縁になった。
形の上では、夫が離縁状を書くわけだが、妻に嫌われて離縁状を書かないような世間体の悪いことはできなかった。
これには、妻の財産は夫のものにはならないという家同士の利害も絡んでいる。
武家だけではなく、百姓、町人でも同じだ。
まして、江戸府内では慢性的に女不足だったから、吉原の遊女といえども、年季さえ開ければ普通に町人と結婚した。
地方であれば、若者宿、夜這いなどで結婚前に複数の男と性行為を経験することは、むしろ当然のことだった。
明治以降も、その夜這いの風習が残っていた津山で、その風習から除外された男が大量殺人をしたことは有名だ。
「処女」という言葉は、家にいる女、つまり結婚していない状態の女という意味だが、それがもともと性経験のない女という意味で使われていたのかどうかは知らない。 >>196
不義密通は重罪とされていたが、不義をされる男は甲斐性なし、という見られ方をされたので表ざたになることは少なかった。
夫は黙って三下り半を渡し、あとは好きにしろという許可を与えた。
三下り半をもらった妻は、大喜びで不義相手と結婚したり、妾になったりした。
ちなみに、粘着質の夫が強情を張って三下り半を書かないとき、女は縁切寺に逃げ込んだ。
縁切寺に駆け込めば、事実上、それで離婚が成立した。
現代の妻の不倫でも、男が大騒ぎするのはみっともないので、静かに、離婚、修復、黙認ということになる。
不倫は、まさに文化かも知れないw
男の童貞などは非倫理要因だし、既婚男の貞操は妻の嫉妬に多寡によるだけ、といえるくらい、社会的にはまったく問題になっていない。 >江戸時代は、収入の糧である家を重視していただけなので、兄が死ねば、弟が兄の未亡人と結婚して家を継ぐのは普通だった。
武家と庶民とをごっちゃにした主張は論外。
近代をイメージする場合、経済力の向上とともに庶民もかつての特権階層たるの道徳を理想とするように
なった。ここは漱石スレだから、その前提すら理解できないのは論外。
>結婚に際しても、家同士の格は重視されたが、その分、再婚も多かった。
武家を念頭に置く場合、×有り同士や格下初婚との再婚を婚前交渉や不義密通と同列に語るのは論外。
>妻が処女であるかどうかなどまったく問題にならずに、同格の家、もしくは格上の家との婚姻が重視された。
無知蒙昧な土民の野合を武家の初婚にあてはめるのは論外。
>江戸時代というのは、不思議なくらい女が自由であって、結婚相手が嫌ならすぐに離縁になった。
縁切り寺の存在すら知らない無知蒙昧な人間の妄想は他所でどうぞ。
>形の上では、夫が離縁状を書くわけだが、妻に嫌われて離縁状を書かないような世間体の悪いことはできなかった。
>これには、妻の財産は夫のものにはならないという家同士の利害も絡んでいる。
単に家同士の力関係の話を女の自由とはき違えるのは論外。 >武家だけではなく、百姓、町人でも同じだ。
なんだ、武家の話のつもりで見当外れの話を列記していたのか。脱力感全開だわ。
>まして、江戸府内では慢性的に女不足だったから、吉原の遊女といえども、年季さえ開ければ普通に町人と結婚した。
武家の妾や土民の正妻で武家の正妻の貞操を語ろうとするのは論外。
>地方であれば、若者宿、夜這いなどで結婚前に複数の男と性行為を経験することは、むしろ当然のことだった。
>明治以降も、その夜這いの風習が残っていた津山で、その風習から除外された男が大量殺人をしたことは有名だ。
無知蒙昧な土民の習慣で現代人を語ろうとしても、「だったら現代人は禽獣並みの道徳心しか持たない
土民かよ草一面」という皮肉が返ってくるだけ。どんな土民根性の輩が増えてきているようだね。
>「処女」という言葉は、家にいる女、つまり結婚していない状態の女という意味だが、それがもともと性経験のない女という意味で使われていたのかどうかは知らない。
古代から権力者が他所の男の種を排除するために未通女を嫁にしたのは当然の話。
子供が他所の種だと権力者は嫉妬するし、間男や嫁が政権簒奪を企むのは歴史が証明している。
そんな不安定要素を権力者が排除するのは馬鹿でも分かる話。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています