【ばふりばふり】蓮實重彦 X+2【120度】 [無断転載禁止]©2ch.net
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色々、憶えてる発言
黒澤明はジョン・ヒューストン位の位置 谷崎潤一郎は一流
小島信夫は二流
三島由紀夫や吉行淳之介、島尾敏雄らは二流以下 「蓮實さんがウェスタンカーニバルに行ったんですか?」
蓮實「行かねぇ奴はバカよ」 なんで大して評価していない三島の名を冠した賞を受けたのかね
(三島の戯曲はそれなりに評価してるみたいだが) 僕の女房は馬鹿なことにイングリッド・バーグマンが好きなんですよ 饒舌な二塁手はビートたけしひとりでじゅうぶんである >>10
それでも小説家としては蓮実なんかよりも圧倒的に三島が上だってことくらい自覚してるでしょ 金井「タレントとしてのビートたけしはあまり興味のある存在ではないですね?」
蓮實「ビートたけしさんは面白い人物だとは思いますが
さあ早く家に帰って彼の番組を見ようと思ったことは一度もない」 (唐十郎について)ひたすらチューインガムだと思うな 蓮実重臣さん49歳(はすみ・しげおみ=音楽家)18日、S状結腸がんのため死去。葬儀は近親者で営んだ。お別れの会を後日開く。
喪主は映画・文芸評論家で元東京大学長の父重彦(しげひこ)さん。
軽音楽ユニットでの活動のほか、映画やアニメ、CMの作曲や演奏などで活躍。2009年公開の映画「私は猫ストーカー」の音楽では、第64回毎日映画コンクール音楽賞を受賞した。 マジか。。。
やっぱ子供が親より先に死んだらあかんよなあ。。。 びっくりしたわ・・・
やっぱタバコ吸ったほうが長生きするな 重彦の祖父
蓮實鐵太郎 正五位勳三等功四級
明治5、旧・羽藩祐筆、栃木縣士族・蓮實啓之進の長男
陸軍士官學校卒
陸軍歩兵中佐
靜岡俘虜収容所長
地主
妻・壽子
明治13、男爵關義臣長女
學習院女學部卒 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ >>25
赤ちゃんの頃からオヤジのタバコの副流煙を吸い続けたせいでガンになったのだろう 「小説より遠く離れて」って、なんであのチョイスなんだろうな
小島信夫「別れる理由」とか筒井康隆「虚人たち」とか物語疑いまくってる気がするんだけど
この2人に対する蓮實の評価って基本高いから、語るに値しないって訳でも無さそうなのに 蓮實さんは筒井に関してはかつて「文学的才能の無さ」発言はしてるけどね http://shokenro.jp/00001348
闘争のエチカでも捻くれた評価の仕方だったけど
ソースが木になる 筒井に関しては本体よりプチ蓮實の方が読み込んでるし批判も具体的だった。 筒井に関しては断筆宣言騒動について
書くことについて楽天的とか能天気という趣旨で切り捨てていたし
絶対文藝時評宣言でも文学部唯野教授について
唯一評価すべき点は
自分で一人で書こうとしたのではなく
引用で書いたからだとかいう趣旨だったからね 蓮實 その通りだと思います。つまり、日常生活において、筒井康隆は自分はごく普通の人間だ、
と一つの約束事としては言える。で、アブノーマルと言われている瞬間がいつ起こるか、と言うと、
彼にとっては物を書く時である。書いている瞬間にすでに自分がアブノーマルな何かである、
という自己特権視の権利に恵まれているという彼の確信がそこに出てきていて、それは自分は作家だよ、
と言っていること以外の何物でもない。それならば、あらゆる作家はアブノーマルかと言うと、
近代の作家は、すでに十分制度化されており、アブノーマルではないと思うんですよ。
つまり、筒井康隆の想像力が非常に優れているからアブノーマルだ、というのではなくて、
彼の文学観がおそらく一九世紀からほとんど進歩していないくらい貧困で、
幸い一九世紀のリアリズム小説があったから、自分はこのような小説が書ける、
という程度の相対的に歴史化されたアブノーマルであって、
その意味では徹頭徹尾ノーマルな人間だと思っている。そのノーマルさというものの中で、
日常生活でどれだけ遊べるか、という問題では彼は遊びの才能には恵まれていたと思う。
遊びというか組合せですね、組合せの才能には恵まれているが、人々がそれに対し、
様々な対処ができる、ということを証明しているだけであって、彼がアブノーマルだとはちっとも思わないですね。
まず、文学というのはアブノーマルでなくてはならない、という一九世紀ロマンティズム的思い込みがあって、
そこが彼の最大の古さであり、あれほどのことをやりながら、擬似前衛にとどまっている
最大の原因ではないかと思う。ということは、彼には無意識の差別意識が働いている、ということであって、
それは、一九世紀前半から中頃にかけて、ブルジョアの文学者たちが抱いた様々な妄想を、
彼が二〇世紀まで引き延ばして持っていた、ということの説明でしかない。
情況1994年8・9月号89〜90P 蓮實 ところが、畸形性をめぐっては、もう一つ別のパラダイムがあります。たとえば筒井康隆という人も、
その種の畸形をよく使う作家ですげれども、これは松浦的なそれとは全く無関係に透明なわげです。
驚くべき透明さがあって、それが筒井康隆の魅力なのか、文学的な才能の欠如なのか、
これはもう一度問い直してみるべき問題だと思うけれども、なぜ彼があれほど透明かと言うと、
あれは語られているものの側にリズムかおるからでしょう。つまり、同じところにとどまらない。
ところが松浦さんは、同じところにとどまらないというリズムによって透明であるわけではない。
何かもっと実存に触れたところで、妙に透明なんてすね。
渡部 そうですね。筒井康隆に関しては、前に蓮實さんが
「リアリズムがあってくれてよかった、という前衛作家だ」と。あの透明さというのは、
むしろ楽天的だという意味ですね。
蓮實 そうです。
「魂の唯物論的な擁護のために」392p 蓮實
その通りだと思います。つまり、日常生活において、筒井康隆は自分はごく普通の人間だ、
と一つの約束事としては言える。で、アブノーマルと言われている瞬間がいつ起こるか、と言うと、
彼にとっては物を書く時である。書いている瞬間にすでに自分がアブノーマルな何かである、
という自己特権視の権利に恵まれているという彼の確信がそこに出てきていて、それは自分は作家だよ、
と言っていること以外の何物でもない。それならば、あらゆる作家はアブノーマルかと言うと、
近代の作家は、すでに十分制度化されており、アブノーマルではないと思うんですよ。
つまり、筒井康隆の想像力が非常に優れているからアブノーマルだ、というのではなくて、
彼の文学観がおそらく一九世紀からほとんど進歩していないくらい貧困で、
幸い一九世紀のリアリズム小説があったから、自分はこのような小説が書ける、
という程度の相対的に歴史化されたアブノーマルであって、
その意味では徹頭徹尾ノーマルな人間だと思っている。そのノーマルさというものの中で、
日常生活でどれだけ遊べるか、という問題では彼は遊びの才能には恵まれていたと思う。
遊びというか組合せですね、組合せの才能には恵まれているが、人々がそれに対し、
様々な対処ができる、ということを証明しているだけであって、
彼がアブノーマルだとはちっとも思わないですね。まず、文学というのはアブノーマルでなくてはならない、
という一九世紀ロマンティズム的思い込みがあって、そこが彼の最大の古さであり、
あれほどのことをやりながら、擬似前衛にとどまっている最大の原因ではないかと思う。
ということは、彼には無意識の差別意識が働いている、ということであって、
それは、一九世紀前半から中頃にかけて、ブルジョアの文学者たちが抱いた様々な妄想を、
彼が二〇世紀まで引き延ばして持っていた、ということの説明でしかない。
情況1994年8・9月号89〜90P >>37
OCR使用のため誤字等があり
NGワードにかかって訂正できず 蓮實 ところが、畸形性をめぐっては、もう一つ別のパラダイムがあります。たとえば筒井康隆という人も、
その種の畸形をよく使う作家ですけれども、これは松浦的なそれとは全く無関係に透明なわけです。
驚くべき透明さがあって、それが筒井康隆の魅力なのか、文学的な才能の欠如なのか、
これはもう一度問い直してみるべき問題だと思うけれども、なぜ彼があれほど透明かと言うと、
あれは語られているものの側にリズムかおるからでしょう。つまり、同じところにとどまらない。
ところが松浦さんは、同じところにとどまらないというリズムによって透明であるわけではない。
何かもっと実存に触れたところで、妙に透明なんてすね。
渡部 そうですね。筒井康隆に関しては、前に蓮實さんが
「リアリズムがあってくれてよかった、という前衛作家だ」と。あの透明さというのは、
むしろ楽天的だという意味ですね。
蓮實 そうです。
「魂の唯物論的な擁護のために」392p みんなで筒井康隆を叩いていた異常な時代の恥ずかしい言論だね 蓮實重彦がやたら言葉、言葉言ってるからなんでこの人は詩じゃなくて小説なんだろうって不思議だった。 ソシュール的な意味での言葉じゃないの?
平たく言えば「世界は言語によって構成されている」という言説を小説に持ち込んで、文体をもって現実世界に対し別の世界を提示して現世界の見方をも変えてしまえ、って事かと
硬質で宗教臭い文体の大江谷間の村ワールド
官能的で土臭い文体の中上紀州ワールド
文それ自体が閾の狭間で蠢く犇く古井ワールド、小島ワールド、金井ワールド、谷崎ワールド、etc…… >>44
いじめられっ子にはいじめられる理由がある、みたいな言説。
あの時期はみんな示し合わせて叩いていた。 蓮實派だけじゃないの?叩いてたのは
後はむしろageてたと思うけど 黒沢清は筒井作品を映画化したがってるし、青山は映画に出演させている。
菊池ナルヨシや中原は筒井を高く評価している(中原に関してはかなり意外だが)。
蓮實シンパだからといって筒井を毛嫌いしてはいないしする必要もない。 筒井小島古井大江辺りは時局次第でバカにしたり褒めたりする感じ
井上ひさしや村上春樹はガチの敵 >>49
対談集や近代日本の批評なんか読んでも古井や大江は
もともと高い評価をしているよ
絶対文藝時評宣言所収の男流文学論についてふれた文芸時評で
男流文学論で言及されている作家で
一流は谷崎潤一郎のみで、かろうじて2流が小島信夫、
それ以外の三島や村上春樹などは三流以下と言っている
自由に書けない言論弾圧の時代であった第二帝政において
いかにして書くかとという問題が出てきて
そこからフローベールやボードレールやマラルメやランボーが出て
それがカフカやジョイスやプルーストからベケットやヌーボーロマンまでにつながるというのが
蓮實の論点で筒井のスタンスは単に時代錯誤でしかないと評価しないのは当然の話
ハリウッドのプロダクションコードによる規制と
スターリン以降のソ連映画が平行しているというのも
蓮實の論点だったな
どのような内容の映画を撮るから、いかにして映画を撮るかという転換という 朝日新聞の文芸時評でも筒井が被った書くことの不自由なんぞ
近代以降の小説家の書くことそのものの不自由と比べれば
全く大したことではないという趣旨のことを確か書いていたな >それ以外の三島や村上春樹などは三流以下と言っている
正確には二流以下ね ヌーヴォーロマンってあれこそ時代錯誤だろう
プルーストが徹底的に批判した描写の客観性を疑うどころか推し進めてるし いろんなスレで最近、有名な作家の名前は出したいけど明らかに読んでないで書き込む人が増えたね
なぜかそういう人は有名な名前を否定にしか使わない
○○は○○だから○○に比べて駄目!
きちんと読んでの書き込みが読みたい、というハードルはそんなに高いのかな
膨大な文学を、自分の性に合わないものは読まずに済ませるために切り捨てて矮小化したいのかな
別に誰も読めとは言っていないのだから、罵倒したりして読まない理由を作らなくてもいいのに
でも、きちんと読むと面白いものはたくさんあるよ 筒井批判は良くてヌーヴォーロマン批判はダメって舶来品信仰やがな
大体劣化ベケットだろうよヌーヴォーロマンって 蓮實の描写論て疑問だなぁ。
あの人の好みなだけじゃないかとまでは言わないが。 >>54>>56-57
ヌーボーロマンが劣化ベケットという根拠は何なのかともかく、
描写を回避するとなると
天皇や華族と被差別部落との対決を描いた明治初期の小説のような
ある意味差別的な物語的落差を求めるしかなくなる
そういう意味で筒井は典型的な物語作者なんじゃないの?
第二帝政のような時期には書けなくなってしまうタイプ 言論の自由が制限されてる時代に描写しまくりの他愛のない物語書けばいいってことか?
それでいいならそれでいいけどさw それに何を書くかから、いかに書くかにへという話なのに
いつから描写のみの話になっているんだw >>52
自分や仲間には不条理な弾圧がかからないという自信があるんだろうか? >>59
蓮實は描写をマンセーする余りナラトロジーに於ける「語り」を軽視してるんだよ
ジョイスやヴァージニア・ウルフやフォークナー、そしてベケットが「語り」を軸にしてるのに対して、ヌーヴォーロマンは「語り」に対する自覚が無い
だから描写頼りのヌーヴォーロマンはベケットの後退という事になる
あと蓮實が評価してる阿部和重や後藤明生が天皇を題材にした事なんてあったっけ?
後期の金井なんて筒井系のベクトルな気がするが、まあ筒井の方が修羅場潜ってるし 筒井は江戸戯作の黄表紙本のそれ以下まで
ナレーションの技術がひどいくらい後退していると
いわれていたような気がしますがねw 筒井にそもそも語りの高度な意識なってあったっけw
それならあんな無残な無人警察なんて書かないと思うんだけどなw
状況描写のごまかしも目立つし
イメージ批判すら碌にないと批判されても仕方がない代物でしかないしw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています