>>352
> 全体的みわたすならば、この国の習慣において、ヨーロッパかもしくはロシアでもいい、歴史の流れのあるキリスト教の世界観を正確にとらえることは、ぼくたち日本人は不可能だろう

そうだね。そのとおりだ。それはまちがいない。
ところで
人類史の中でキリスト教以前と以後では、人間は良くなったのか? (このような概括的な言い方は、実際は何も語ってないに等しいだろうが。)
人間は戦争や貧乏やその他精神的に追い込まれるだけで、狂的な行動に出るものでしょう。それを制御するための
宗教ではないか?
カラマーゾフのなかで、イヴァンをはじめ、大半の登場人物が懐疑的であるのは、ある面当然でないか。
信仰の名のもとに、腐敗が行われてきたのが、また眼前にそれを見ているからである。

> >なぜ、八幡大菩薩ではなく、キリストの神なの?
> この答えをぼくは知らない
> でも、これはぼくの物語だ、だから自分の物語のうえで知っていることもある

ぼくの問はかなり卑怯で、バカげたものだったかも知れない。数の多寡や日本人は... などバカな話だったね。
信仰というものはそんなことでは測れない一側面をもっている。

> そして自分をときあかすことができるのは、他人ではなくてあくまでも自分だけだ
> どんな人間でも、ただの平凡な個人であるばかりではなく、必然的にあたえられた世界の中で一期一会をとおして偶然的な何かと出会う
> それは誰の物語の中でも用意されている、造物主からの特権だ
> だからだれの物語もすばらしい
> なぜキリストの神を選んだのかは知らないが、でも、それを必然とよぶのか自由意思があったのかとるのかについては、ぼくが知っている
>
> 答えになっていないかもねw

これ以上ない、すばらしい回答だ。その上で「自分をときあかすことができるのは、他人ではなくてあくまでも自分だけだ」の一文に注目した。
ぼくたちにはカラマーゾフという共通理解の土台がある。また、カラマーゾフやドストエーフスキイ作品を通じて
深めていこう!