>>520
> カミュの異邦人を読んで白痴のムイシュキンをなぜか思い出して、なぜか考えると共通点があった

カミュの異邦人、読んだこと無い。

> よくよく考えるとみんなで勝手に余計な世間を作って、わざわざ生きることを難しくして満足してはいないか

最近こればっか言うけどね「ムイシュキンはドストエフスキー」だとおもう。当たり前ちゃぁ当たり前だけど。
君のいうとおり、
> 世界は嘘をつかないと生きていけない
だれでもしてる。
> フリをするとかお世辞をいうとか、とりつくろうと言ってもいいし、ようは世間に合わせること
だね。

でもさ、ドストエフスキーは、作品の中では、彼は世界に残る作品を書いてる自覚があったんだ。だからインチキや妥協をする必要はいっさいなかった!
誰に何と言われようと、損しようと、貧乏になろうと、自分の芸術と思想を抱きしめていた。なぜ抱きしめたか?というと

それがあまりに偉大なことを知っていた。罪と罰もカラマーゾフの兄弟も白痴も、徹頭徹尾終始一貫、人間の根本の問題から目を離さない、狂的なまでに執念深く、人前精神を追究した。

道徳性も天邪鬼も。

> 白痴の主人公も異邦人の主人公もそれができなかった為に、一方は死刑に一方は発狂するしかなかった
> ドストエフスキーは白痴を美しい人に仕立て上げた

> 世間を生きれる人と嘘がつけない人、果たしてほんとうの白痴(異常)はどちらなんだろうね?
> ドストエフスキーのすごい皮肉というか風刺を感じる

世間を生きれようが 生きれまいが、最後に死が来て、その人生の究極の総決算が来るのはいっしょ。ドストやカミュにかぎらず
たとえば鎌倉仏教の祖師たちはそれこそ。。。。