文学理論 11
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
個人的にずっと謎だった「新しい文芸批評の方法」を書いたC.S.ルーイスと
ナルニアを書いたC.S.ルイスは同じ人なのか問題が解決した(同じ人だった)
この本、なぜかC.S.ルイスのWikipediaに載ってないんだよ c s LewisのAn experiment in criticismならwikiの項目があるが、これのことかな。
onlineで読めるようだが。
ハイブロウ、ロウブロウの区別は不毛で、ルイスは優れた本は読み返されるものだが、ハイブロウ高尚好みな読者達が読み返される本を劣ったものとするのは間違いで、彼等は読み返しに値することのメリットを分かってないとする。 >>301
C.S.ルイスは16世紀のイギリス文学の研究がそもそも専門で、自分も最初はナルニア国の人と一致しなかった
エドマンド・スペンサーとかミルトンの精読、アレゴリー・象徴の分析でちょくちょく引用されて出てくる
T・S・エリオットとかF・R・リーヴィス、ノースロップ・フライなんかにつながる重要な批評家で、オックスフォード・ケンブリッジ大学の中世ルネサンス研究の第一人者を30年以上続けていた研究者
ナボコフみたいに、有名になりすぎて本業のルネサンス研究の陰が薄い人だけれど、けっこう鋭い分析が多くて自分にとっては文学研究>宗教論>>>>ナルニア国
立ち位置はエリオットに近いところと対立するところもあって結構面白い人 2000年以降(ここはアバウトでいいけど)に出た文献で、これは読んどけっていう本ある? ジェンダー論、フェミニズム論かな
「男同士の絆」とか
昔は文章は形容詞から腐るとか言われたらしいけど、今はジェンダーの扱いから腐る >>309
形容詞から腐るとか言われた理由と、ジェンダーの扱いから腐ると考える理由を知りたい。 >>310
形容詞のほうは陳腐化するからだろね
ジェンダーのほうは時代とズレるから ジェラール・ジュネットの翻訳って、いっぱい出てるけど、どれが面白い?
「物語のディスクール」と「物語の詩学」は読んだ 構造意味論の古本が3200円で売ってたから、けっこう安くなったな、文庫でも出るのかなって思ったけど
考えたら定価(6500円)の半額で売ってただけだな ジュネット、ブース、チャトマンにしろフィッシュにしろアホみたいに高くてむかつく ちくまと平凡社が興味示さないから文庫にならないのが原因 「記号学的実践」シリーズの版元の水声社は、amazonでは販売しない方針らしい
実は「フィクションの修辞学」とかは、ジュンク堂の販売サイトとかで探すと新品を(もちろん定価で)注文できるけど、ほんとに買えるんだろか? 水声文庫っていうレーベルはあるにはあるんだけど、一般的にイメージされる文庫とは別物だね
学術系の出版社っていうのは、安売りしないおかげで売れなくても潰れないってとこがあるから仕方ないかも >>320
販売先は主に大学図書館とかなんだろうか?
そうだとすると、文系予算の縮小でこの出版社も苦しくなるな。
すべて電子化して、身軽になるしかないのかな? ジュネット死んでも何かやったわけでもないし
かといって他の新規の訳を出すわけでもなし
厳しいなあ 記号論って何だったんだろう
記号なんて、シニフィアンとシニフィエ、あとコードを押さえておけばいいくらいで、
それ以上掘っても何も出てこないのに、盛り上がりすぎだった シニフィアンシニフィエといってもひとつの、企画であって、
どういう風に言語論を語ろうが自由だ。たとえば、アスキーアートと記号とか。 記号論は、ソシュールが最初から言ってたように本来は心理学者の仕事だから
認知心理学に包含されたんじゃないかな
ここ何十年かで、客体としての言語やテクストだけじゃなくて、
ようやく主体としての人間の心理や脳のほうからも文学が研究できるようになったけど
どこまで主体を研究して、どこから客体を研究すればいいのかっていう線引きが、
まだよく分からないんだよね 小説のテクストでは作者が消えてもいいけど、批評は逆に作者=論者の存在が感じられるほうがいい
論者の人柄が感じられない批評を読むのは、面白くない講義を聞いてるみたいなもんで、たとえ言ってることが正しくても退屈だ そりゃ、ミスリードされたんじゃなくて単なるおっちょこちょいだ
何にでも加減ってものがある 一緒に戦おうと言ってくれる仲間の
不意をついて気絶させて自分だけ戦いに赴く
っていう演出の初出は何? 結局、批評理論としての文学理論って、よそから理論を借りてきて文学に当てはめてるだけなんだよな
文学プロパーとしての文学理論は、創作理論以外にないと思うわ 物語論って、なんで物語全体のあらすじみたいなものを分析しようとするんだろう
あらすじの分析手法は細部の分析には適応しにくいけど、
細部の分析ができれば、それをあらすじの分析まで広げていくことは比較的容易だから
やり方が逆だと思う
正しいやり方でやってたのは、シチュエーションという最小単位を研究したスーリオくらいだ 文学空間なんて涙が出るほど影響受けたけどなあ。批評もいいものだよ。 「詩と認知」って、翻訳タイトル詐欺みたいな本だな… >>337
そういう時こそ、図書館だよ。
身近になくても、大学なら大学間で、地元の図書館でも図書館同士で取り寄せられる。 今『文学理論講座』ピーターバリーを読み始めたが、
日本でリベラルヒューマニズムといったら軽いサヨクと
思われるのではないか。 イーグルトンは自他ともに認める「左翼」だけど、バリーは「資本主義者」だよね? バリーはジョゼフヒースやスティーブンピンカーと似た「ポモを小馬鹿にする」スタンス >>342
イギリス系は功利主義が源流だから、大陸、特にフランス思想をバカにするだろ。
自分の国の王室の故郷みたいなもんだから、王室に対する反発もあるのかねw ナラトロジー系じゃあまりポモは見なくなったな
サールだのルイスだのグッドマンだのデネットだの
分析哲学、認知科学が多くなった
そっち系等読まないといけない >>349
流行を追いかけると、きりがなさそう・・・ >>346
ラグジュアリーの文脈ではポモは今もスノッブの嗜み
知的優越という意味では君の指摘は若干当たっている ジュネットやポール・ド・マン比べて何が優越しているの?
もちろんその二人を一緒にしているわけではないが >>352
「ポモ叩きが今はスノッブ」という文脈において
スノッブが知的優越感を持つ人である
という意味ならある程度そうだろう、ということだよ
だから洗練された高級な趣味を掲げる人が好む
対象としては今も英米のポモには一定の力があると
考えられる 文脈云々ではなく
リカルドゥーやジュネットあるいはド・マンやバフチンに対して
何が優越しているの、と言っているんだけど?
別に優越はしていないのならそれでもいいけど >>350
流行じゃなくて理論の基礎に使われてるから
もう読まないと厳しいんだ… ジュネットやリカルドゥーより優越していることが
示せない代物を読まないと厳しいとかw ジュネットはすでに古典扱いだよ
古典的物語論で乗り越えられるべきもので
むしろフランス構造主義の作家として捉えられてる
ジュネットの主体は静的で世界を持たない存在だが
今の現在のナラトロジーの主体は世界を持ち
可能世界さえも取り扱う
まあだからジュネットとかは古い そんでもってグッドマンの世界制作だのルイスの複数の世界だのが
デネットの物語的自己だのが基礎になってたりするので
イデオロギーを持ち、知覚する主体でもあり、世界観を持ち、
精神的な機能を表彰する存在でもあり
読者や語り手や登場人物よっても構成、仮構されうるもので
そうなるとジュネットの主体だと古くてやってらんない っと表象する存在
たとえばナラトロジーの空間論なんてのがあるのだけれど
テクストには描かれないし出来事もないが
登場人物の行動や思考によってマッピングされる
世界のことなんて意味の言葉が用語として定義される
もうこれはジュネットの主体じゃあ無理だし
認知物語論とか、可能世界を持ち出さないと無理
ダブリナーズでいえばイーヴリンで彼女が恋人と逃げることを夢見る南アメリカ
のことなのだが、まあ理論的基礎としてすでにジュネットは古くて使えないことがわかってる そんなのがいっぱい現代の認知物語論にはあるので
ジュネットだと理論的な前提が古くて使えないことが多いわけ
つうわけでせっせと認知科学だとか分析哲学読むしかない
主体、登場人物が何かを知覚したり、考えたりするときは
常に何かしらの相の下で行ったりしなかったりする
っていうサールの前提で考えることになる
そうでなくともそれ以前にリモン=キーナンのイデオロギー面だったり
チャトマンのイデオロギー論だったりデイヴィッド・ロッジのバフチンからの
イデオロギー論の系譜があったわけで
ジュネットの焦点化というのはちょっと理論的な範囲として狭いし
理論としては劣ってる 無理無理、プロットにしてもすでに
登場人物の知覚、心理面からも出来事が予期される
なんてことになってrから
結局ジュネットじゃ十分じゃない ヴィトゲンシュタインなどは読みたいとは思うが
あとは科学哲学などの議論を押さえていればこっちはそれでいいよw ジュネットの主体は構造主義的で静的で世界観を持たない存在なので
いろいろ制限がある
現代の物語論の主体は動的で世界観を持ち相互に影響を受ける存在としての主体
もう完全にジュネットだと分析ツールとして時代遅れなんだわ
君がどうとか関係ない >>370>>372
いやいやw
ジュネットやリカルドゥーやバフチンやロシアフォルマリズムに
ド・マンなどを押さえていれば
それでこっちは十分だよ
屋上にさらに屋根の議論はいらねw ジュネットしか君が読まなかろうが
理論はどんどん刷新されていってるわけで
つうかもう20年以上前だな…ジュネットが理論的前提として使えなくなったのは
ま、ほとんど日本には現代の物語論は輸入されてないので
知らない人は多いのもしょうがない 屋上に屋根の議論じゃないからなあ
もうジュネットじゃ取り扱えない範囲の話だからな >現代の物語論の主体は動的で世界観を持ち相互に影響を受ける存在としての主体
その種の議論は興味が持てないなあ
小説を書く上ではジュネットやバフチンを押さえていれば十分だけどね 君が興味を持たないとかクソどうでもいいわ
理論的にはジュネットだけじゃ使えないって話だからな >現代の物語論の主体は動的で世界観を持ち相互に影響を受ける存在としての主体
何かとても古臭い議論が顔を変えて再登場という感がぬぐえんなw 世界観を持つ主体なんてのが古臭い議論なわけがないな
チャトマンにしてもリモン=キーナンにしてもミーケ・バルにしても
ジュネット、ジュネットの批判者は主体ではなく
その概念分析の機能性や範囲を重視してたからな
だから再登場ってことはない 現代の物語論を読むにしても
眉に相当ツバをつけて読まないといけないという
感想しか持てないなw
何かとても古臭い議論が新しい言葉に装いを変えて
再登場という感しか持てないw まあ君が物語論を全く知らないのはよくわかったよ
おそらくジュネットとロシアフォルマリズムしか知らないおっさんなのだろう
もう新しい知識を蓄える能力も読む気力も知識もないというのもよくわかった
自分は君とは違うのでせっせと読むだけ いやいやw
なんか柄谷行人の「批評とポストモダン」を
思い出すお話ですなあw その新しい知識なるものが新しさが
安愚楽鍋や東京新繁盛記の新しさで終わらないように願っておりますw 俺のことより自分のこと心配したら?君はすでにジュネットだけで十分というアホみたいなこと言ってるんだよね
ジュネットの焦点化というのが毀誉褒貶が激しく様々な
理論家によって批判を浴びてきたという基礎的な知識がない
だからもう君が古い人間であることは確定的事実なんだよ まあジュネットしか読んでないで十分と言っちゃう人だから
しょうがないな、井の中の蛙大海を知らずと言うやつだな 小説の形式的なことに関しては
ジュネットで十分だと言っているだけなんだけどねえw 焦点設定という話は今も小説の形式的な話には
十分通用する話のはずなんだがw その形式に対する理解はジュネットだけでは
不十分で数々の批判を浴びてきたという話もしたのだが
ジュネットだけで十分だと君が思ってることと
理論的な射程として不十分なことは全く違うということすらも
理解できない頭が凝り固まったおっさんっぽいから
もう相手しないことにする 日本でその新しい知識が
相手にされないのにはそれなりに理由があると
あらためてそう思ったなw どっちにしても、小説というのは誰かが書いたもの、という前提を忘れちゃいけないよね。
その作者以上の世界は作れないんだから、 作者が誰かに取り上げられるから、振り返って作者になるという他人行儀の無限回廊
と考えてみれば面白い作品も多いのではないかと推察されうる。 作者と作品がソフトなら読者はハード&鑑賞者である
このばあい読者によって再現性にバラつきがあり解釈にもズレがある
だからといって読者が創作者になり得るわけではない
作者と作品が一時的生産物なら読者と鑑賞はその二次的なものに過ぎない ハード か。原義の方が。
読者と鑑賞をもって積極的なかかわりが生まれますよ。読者に勝つ見込みは
ないのではないか、そうじゃなきゃ作品を残す意味がないというか。
僕は未発表の作品がほとんど続いています。テクストの能力は毎回新作出すぐらい
出版物では発揮がしにくいと思うなあ。言霊や呪詛のようなことで、現代テクストは洗練されているけども、古典テクストの力の発現はすごいと思う。 ハード か。原義の方が。
読者と鑑賞をもって積極的なかかわりが生まれますよ。読者に勝つ見込みは
ないのではないか、そうじゃなきゃ作品を残す意味がないというか。
僕は未発表の作品がほとんど続いています。テクストの能力は毎回新作出すぐらい
出版物では発揮がしにくいと思うなあ。言霊や呪詛のようなことで、現代テクストは洗練されているけども、古典テクストの力の発現はすごいと思う。 少なくとも柄谷の「批評とポストモダン」を読むべきだと思われる
新しいと思っているものが実は単に新しい言葉で
過去の概念のことが言われているだけではないのか
あるいはそもそも新しい概念なるものがあるのかという疑いぐらい
基本的に持つべきだろう そういうの振り回して若いうちからジジイババア気取ってたやつがダメな老害になるパターン多すぎ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています