例えば「嫉妬」を Now A…has come into the bedroom by the inside door opening onto the central hallway. She does not look at the wide open window through which—from the door—she would see this corner of the terrace. Now she has turned back toward the door to close it behind her…. この文章には焦点化人物がない様に構成されている、とリモンは言う 一方でトルストイの戦争と平和で He did not turn his head and did not see the men who, judging from the voices and the thud of hoofs, had ridden up to him and stopped. They were Napoleon and two adjutants escorting him. Bonaparte, making a tour of the field of battle…was inspecting the dead and wounded…. ナポレオンの呼び名は異なる焦点化の痕跡として用いられており、二行目と三行目で焦点化人物が異なる 二行目は中立なナポレオンと呼ぶ語り手の描写であり、三行目はボナパルトと見下して呼ぶけがをしたイギリス将校の視点に移っている 地の文でブオナパルテと呼ばれるならそもそもフランス人でもないとさらに見下した焦点人物であり、ナポレオン皇帝と呼ばれる地の文と区別される こういう表現に注意深くなること 0505吾輩は名無しである2018/10/22(月) 00:18:10.41ID:nleb5lXf>>503 で、君は院生かなんかなの? レスを見てきて君の書いた理論なら読んでみたいんだけど、どこでも読めないの? 0506吾輩は名無しである2018/10/22(月) 00:20:49.34ID:hMbR7QK+>>502 また、読んでもいないのに批判か。 みっともないよ。
語り手が同じでも登場人物のフィルターを通して語り手が語る みたいにチャトマンでは言ったりするし つかその手のジュネットだけじゃ足りない射程が足りないと拡張したり して用語はたくさんあるんだよね リモン=キーナンだけじゃなく… 0512吾輩は名無しである2018/10/22(月) 00:36:18.16ID:Kh+KEP6P ID:9R5+mQH/よりはID:n4U8H1Vjの言ってることのほうが具体的でわかりやすいな どっちにしろ面白くはないけど 0513吾輩は名無しである2018/10/22(月) 00:41:04.84ID:n4U8H1Vj>>511 チャトマンのフィルターというのが、登場人物の領域と語り手の領域を分けるもの ある意味特権化して、語り手をそれこそ以前の「作者」の地位にしてしまうものではないかと するとやっぱりそのような語り手を創作する作者が復権してしまう それはまたジュネットの問題圏から離れるような気がする 0514吾輩は名無しである2018/10/22(月) 00:50:43.25ID:9R5+mQH/ voiceだのfliterだのreflectorだのrefractorだのfigural mediumだのselfだのfocalizerだの どれも一長一短なんでリモン=キーナンわかりやすいと思っちゃうのは まあただたんに知らないだけ無知なだけなんだよね で、認知物語論では焦点化という用語では認知的な面を反映することができない (これはリモン=キーナンも言ってるので含む必要があると 他にも共通する意識を持っている二人の考えが叙述されるとき焦点化だとか視点だとかって 用語では捉えることができないとか言うわけ 0515吾輩は名無しである2018/10/22(月) 00:53:56.77ID:n4U8H1Vj The intellectual Landscape in the Works of J.M.Coetzeeという本の、「character and Counterfocalisation」という章で 恥辱をバルやジュネットの焦点化を用いて分析するスピヴァクが引用されている 評者はデレク・アトリッジというクッツェーの教え子でもある第一人者 プルーストやカフカの「登場人物」を分析していて、ジュネットのCounterfocalisationについて書かれている Supivakのいうクッツェーのrelentless focalisationの分析も面白い 0516吾輩は名無しである2018/10/22(月) 01:04:38.68ID:9R5+mQH/ で理論的に認知面がまるっと欠落するということは 分析ツールとして使えないわけよなかなか ジョイスやプルーストなんてまさに認知面の作家だけど プルーストを分析したジュネットの理論ではそこがまるっと抜け落ちちゃうわけ 0517吾輩は名無しである2018/10/22(月) 01:09:44.20ID:9R5+mQH/ そんなわけで古典的物語論つかえねーと 動的な物語理論体系作ろうぜとなって 動的物語体系論なんてのを作って 視点関連だけでまるっと一冊あったりする… 0518吾輩は名無しである2018/10/22(月) 01:18:03.05ID:kT+Jzssq 視点の文学理論て大昔からあるじゃん 0519吾輩は名無しである2018/10/22(月) 01:23:45.06ID:9R5+mQH/ 視点やヴィジョンという用語じゃ視覚面が強すぎてつかえねーっていうから ジュネットは焦点化を導入したんだけど、いやビジョンって視覚だけじゃないじゃん? チャトマンのフィルター的にも使えるし認知面や可能世界面も取り扱える用語でもあるし 使おうぜとなったりしてるからねえ まあその手の議論の歴史をたどるだけで疲れる 0520吾輩は名無しである2018/10/22(月) 01:26:51.75ID:n4U8H1Vj 間違っていたら申し訳ないけれど、チャトマンのフィルターというのは映画におけるnarratorと文学におけるnarrator区別しているよね I would argue that the narrator, by definition, does not see things in the story world; only characters can do that, because only they occupy that world (see the discussion of "filter" in Chapter 9). The narrator's task is not to go strolling with the characters but to narrate what happens to them, whether by telling or showing.
映画における語り手に近くて、物語世界と隔絶した存在と言う議論じゃないのかな What I like about the term "filter" is that it catches the nuance of the choice made by the implied author about which among the character's imaginable experiences would best enhance the narration— which areas of the story world the implied author wants to illuminate and which to keep obscure. This is a nuance missed by "point of view," "focalization," and other metaphors.
焦点化という言葉を避けてチャトマンが提出するのはそれがbest enhance the narration/author wants to illuminateであって、 やっぱり小説の技術論、作者の技術論になってしまって「作者」の復権になってしまうと思うんだけれど 0521吾輩は名無しである2018/10/22(月) 01:31:58.32ID:9R5+mQH/ 別に作者の復権にはならんような 語り手だけで十分では? フィルターのメリットは 語り手が物語の登場人物の意識や知覚を通して語るという方法があるわけだが それを観察地点にこだわらず意識やイデオロギーや感情といったものを通しているという 意味を上手く捉えることができるからね 焦点化という言葉だとその面が上手く表せない 0522吾輩は名無しである2018/10/22(月) 01:35:02.35ID:9R5+mQH/ だからリモン=キーナンは 焦点化を拡張して知覚面だのイデオロギー面だの 心理面だのと言って表そうとしたわけだよ でもそれってフィルターでいいじゃんってなる 0523吾輩は名無しである2018/10/22(月) 01:50:33.98ID:n4U8H1Vj チャトマンとジュネットの相違点 "The only focalization logically implied by the 'first-person' narrator," writes Genette, "is focalization through the narrator." But surely speaking of the narrator as "focalizer" blurs the distinction that Genette himself introduced to clear up traditional confusion between voice and point of view—between "who speaks" and "who sees." The narrator's comments are not of the same order as a character's perceptions, even if he is reporting what he saw or felt "back then" when he was a character.
キーマンでもそうなんだけれど、やっぱり作者が統一している世界になる ハーディやもしかしたらヴァージニア・ウルフなんかには適用がある意味しやすいとは思うのだけど チャトマン自身、これは大陸のナラトロジーとの違いだと言っているようで、どうも個人的に大陸系のほうが性に合っているらしい 0524吾輩は名無しである2018/10/22(月) 02:17:42.46ID:9R5+mQH/ いや、まあ作者とかってよりこの手のは自由間接話法や自由間接思考を どうやって上手く分析ツールで表したらいいのかってところから始まってるから これは語り手と登場人物の発話や思考が錯綜する技法で まあ日本では馴染みが浅く使用者もなかなかいなくて翻訳もしづらい技法だった フローベールの翻訳も最近ようやく芳川さんが上手く訳出してくれたけれど 欧米では結構使われてる、そこの問題意識がないとわかりづらい 0525吾輩は名無しである2018/10/22(月) 02:18:14.26ID:n4U8H1Vj ジュネットの欠点とされる作中人物の焦点化を認めない、ということは焦点人物外の登場人物や自然を隠喩として読むことをなるべく控えている、と言うことになる 作者の意図をさぐるのでなく、テクストだけを扱う、という方針 (もちろん、作者の意図が明確に描写に現れる作家もいる) で、プルーストと言うのはこの語り手外の描写に異常にこだわった作家だったりする seeやfeelという単語が徹底的に使われている、あくまで語り手の内部の認知について書かれた小説で、ジュネットの分析で「失われた時を求めて」の認知的側面はいささかも失われないと思う チャトマンの引用するウルフ Jacob's Room "So of course," wrote Betty Flanders, pressing her heels rather deeper in the sand, "there was nothing for it but to leave." Slowly welling from the point of her gold nib, pale blue ink dissolved the full stop; for there her pen stuck; her eyes fixed, and tears slowly filled them.
これは外から焦点化しているけれど、語り手の意図を読むなと言うほうが無理で、語り手は明確にペンを砂壺に強く押し付けたり、蒼白なインクが筆だまりをつくったり、語り手は作者として夫人の感情を代弁している チャトマンはこれをpsychologicalにfilteredされた語り手としている Then we enter her mind, though the filtration is "psychonarrated"—rendered in the narrator's own words. The mental content is not conceptual but perceptual. プルーストやクッツェーはそうではない 0526吾輩は名無しである2018/10/22(月) 02:21:27.31ID:9R5+mQH/ もちろん昔のチャトマンのフィルターの意義と、今の認知面の反映をし易いという意味では 微妙に意味合いが違うのでその点はチャトマンが言ってることではない 0527吾輩は名無しである2018/10/22(月) 02:23:34.11ID:9R5+mQH/ というわけでチャトマンを持ってきてくれて悪いが問題意識が違うということを理解してくれ 0528吾輩は名無しである2018/10/22(月) 02:28:27.03ID:9R5+mQH/ チャトマンもテクストは古いからな今から約五十年ぐらい前か 現在では可能世界、認知世界、物語的自己をどう上手く扱うのか?が問題意識にあるから 焦点化では扱えないということを理解してくれればいい 0529吾輩は名無しである2018/10/22(月) 02:32:40.17ID:n4U8H1Vj アウエルバッハが例えばボヴァリイ夫人を引用するにあたり、語り手はエマであるが体験話法でない箇所を指摘している トストでの生活は明らかにエマの経験の描いているようでありながら話法が異なる ここでは計画的な要約、フローベールが描写している プルーストは、フローベールがいかに作者の操作を巧みに行っているかを感嘆する手紙を残している フローベールは突然焦点化を変える技法が優れていて、だから依然読んだ批評もラモンらの拡張したナラトロジーを利用していた モーパッサンと違って、フローベールは拡張した英米系のナラトロジーで面白みが増す作家だと思う 0530吾輩は名無しである2018/10/22(月) 02:54:36.37ID:n4U8H1Vj ちなみに同箇所はジュネットも引用している ジュネットの読解を通したフローベールも当たり前だけど非常に面白い フローベールやプルーストやスタンダールが "pulverize" descriptionsに腐心した フローベールは突然の焦点化の変更を確信犯的に行い、プルーストはその戦略を採用しない、しかし共通の問題意識をともなう この辺りで共通するのがクッツェーの学位論文のテーマのフォード・マドックス・フォードのdistributionという考えで、コンラッドに関わってくる 0531名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2018/10/22(月) 08:35:18.80ID:1qvONjL0>>524 日本の文芸翻訳でも技術の核心部分だな 逆にいうと小説以外の形式では あまり問題にならない 0532吾輩は名無しである2018/10/23(火) 09:03:46.07ID:AaaoAukG 現代の取るに足らないレスも100年後には口承文学として その例証に捉えられる。 0533吾輩は名無しである2018/10/23(火) 23:32:47.05ID:pS+nwgu2 いくつか大陸系のナラトロジー論を紹介しておこう J. M. Coetzee and the Ethics of Narrative Transgression(2017) Alexandra Effe
この本はドイツのMonika Fludernikのナラトロジー論を用いてクッツェー作品の認知的特性を作品ごとに挙げている タイトルからもわかる通り名著J. M. Coetzee and the Ethics of Readingに強い影響を受けていて、書くことの倫理、読むことの倫理が逸脱したnarrativeによってどう追及されるかを書いている 特にモダニズムだからこそ書く対象への倫理が問われる(あるいは自らに倫理を課す)クッツェーのポストモダニズムという逆説がある 動物愛護を唱えるコステロ物や、異言(ヘテログロシア)、自伝に加え、教育を扱う「イエスの幼年時代」(死者が記憶を失ってスペイン語世界に転生する?、異常にナラティブ分析を挑発する書物)などにおいても言語/読者との倫理的関係がテーマになっている 英語よりも先に日本語訳とスペイン語が出版された「モラルの話」や精神分析医との対話「Good story」も倫理と教育、認知の背景に「物語論」がある Unnatural narratology pays particular attention to narratives that do not adhere to our understanding of the world. Since narratives have the power to change how we think, what is perceived as unnatural changes diachronically in accord with narrative conventions. In cognitive narratology, such change has been theorized as the cross-influence between narrative and cognitive structures. Prefiguration is the reader’s understanding of the world and of narrative prior to their encounter with the text, based on everyday experience and narrative conventions. Configuration is an act of comprehension and reflection through which all elements of a story are related to one another. Refiguration names the process in which the reader applies their understanding of the text to their understanding of the world, leading to an altered understanding of the world and of narratives. 0534吾輩は名無しである2018/10/23(火) 23:34:32.24ID:pS+nwgu2 Cognitive narratology is interested in this process of change and in how narratives are at work in how we think in general. Instances of metalepsis in Coetzee’s texts provide insights into such processes. Conversely, theories on the intersection of narrative and mind are a useful framework for analyzing metalepsis in Coetzee’s texts. Monika Fludernikの Towards a ‘Natural’ Narratologyはこの辺りをきっかけに読んだもので、英米系よりも大陸系、読者の受容論においてもphilologicalな伝統もきちんと踏まえている In Towards a ‘Natural’ Narratology, Monika Fludernik defines four levels at which cognitive parameters operate in the reading process: our understanding of how people act and of their motivations based on real-life experience (level I), mediating frames of how one has access to a story (level II), generic conventions or conventions in everyday storytelling situations (level III), and the process of narrativization (level IV). 0535吾輩は名無しである2018/10/23(火) 23:39:07.27ID:pS+nwgu2 いわゆるclassical narratologyに対するpostclassical narratologyの特徴は以前書いたように ‘postclassical,’ “point to a broader reconfiguration of the narratological landscape. The root transformation can be described as a shift from text-centered and formal models to models that are jointly formal and functional—models attentive both to the text and to the context of stories.” どちらかと言うとテキスト中心から機能的モデルへの移行と言える 前者は読者の知識から読者の受容を考えるのに対し、後者は読者の反応を重視する 多かれ少なかれ、ロックのタブラ・ラサに近づくものとしてDavid Hermannは捉えていて、要するにかなり大陸系と英米系のコミニュケーション理論の違いを引きずっていると言える さらに、前者はボトム・アップ(細部を積み重ねていく)のに対し後者はトップ・ダウン・シンセシスで統合的なアプローチをとろうとする だから、具体的な作品の分析はどうしても理論先行 物語論に認知科学を接合することには、ノエル・キャロルの「問題点の列挙」を含めて根強い反発がある seven possible relationships between cognitive reception theories and narratology: (1) incompatibility, (2) unrelated coexistence, (3) the heuristic use of cognitive theory, (4) the modular addition and utilization of cognitive theory, (5) the partial integration of concepts and models from cognitive theory, (6) a narratology anchored in cognitive theory, and (7) a narratology which is part of cognitive theory. おおまかに、2-6の間に収まるというのがJens Eder の意見 empiricな認知科学の知見を理論として物語論に適用した場合、あくまで一般論でしかなく作品ごとの分析はできないという意見は根強い 0536吾輩は名無しである2018/10/24(水) 00:01:07.26ID:DesbYmet narratology and narrtologiesという論文で物語論の中でcognitive narratologyはかなり限定された対象として扱われている 分析哲学や認知科学で扱うには、被験者の知識・経験が非常に大きく作用してしまい、テキストよりもコンテキストを重視し、ダイナミックな読者の経験を扱うことは映画や漫画よりもはるかに遅れている、とされる 近年で独創的な批評として評価されたケープタウン大のCarrol ClarksonによるJ. M. Coetzee: Countervoices(2009)にしてもナラトロジー論としての理解は極めてテキスト中心と言える ある作家のテキストを丁寧に読もうとしたとき、一見古典的なテキストを丁寧に読む物語論のほうが「ダイナミックな」読解よりも面白いことは多い Arguments against the Integration of Cognitive Theories 認知理論をどのように物語論に「統合するか」は非常に大きな問題で 統合派の論者として下記のような人々はいるが、あくまでできることは限定しているように思う Cognitive and Reception–theory–oriented Kinds of (‘Meta’-) Narratology “Critical Narratology” (Ann Fehn, Ingeborg Hoesterey, Maria Tatar) ‘Psychoanalytic Narrative Theories’ – Peter Brooks, Ross Chambers, Marianne Hirsch ‘Reception-oriented Narrative Theories’ – Wolfgang Iser, Werner Wolf “Constructivist Narratology” (Ansgar Nünning) – Monika Fludernik, Manfred Jahn 個人的に共感を覚えるのは大陸系の Monika FludernikとAnsgar Nünningになる 前記の7)の立場をとる、物語論に認知科学は不可欠だ、とする立場の論者は必ずしも主流ではないし、異なる分野の知見を統一することには慎重になるべきだ、という意見は根強いのが現状だと思う 0537吾輩は名無しである2018/10/24(水) 00:26:06.02ID:DesbYmet ジュネットの読解は徹頭徹尾プルーストのテキストの特権性を主張する しかし、認知科学においてはそのような「天才的」書物は扱えない そのような天才的書物は読むだけで「読者」に特定の反応を導くことを立証できない 単に知識のない読者と研究者の読者では違った反応をする 認知科学ではもっと抽象的な目標を立てなくては「反応」を示すことができない すると、個々の作品分析にはかなり制限が生まれる上に、取り出すべき「反応」をいかに評価するかという問題が出てくる ジュネットにとってプルーストの書物は「一回性」のものであり、クッツェーのSingularityについての議論とその批評は「物語論」においてつながる クッツェー自身批評家としてのテキストを多く残し、英文学教授でもある(Carrol Clarksonは孫弟子) 認知科学を用いたいわゆる「ダイナミックな」物語論で、面白い作品論に出会っていないだけかもしれないが、基本的には作品論と相性が悪いものだとは思う The future development of both narratology and the usage of the term ‘narratology’ is uncertain, but it will be interesting to watch, and even more interesting to make attempts to intervene and offer modest proposals for terminological distinctions and for a more precise usage of key terms. Ansgar Nunnung 「Narratology or Narratologies? 」 0538吾輩は名無しである2018/10/24(水) 08:16:22.55ID:N925CLfE 絵画の認知科学の分析とたぶん 事情は一緒だろう
a passage to indiaでno bathing-steps on the river frontをno ice-cream stands on the river だとおかしくなる、というどうでもいい先行研究を 引いてじゃあ何を言いたいのかというと, 読者は前もってある程度インドの知識がないと 表現を読み取れないのだ、と
しかしその場合初めから有名作品に拘泥する必要はゼロ 実際の談話や文から機能を考察して その後に有名作品がいかに巧みか、という 路線に繋げればいいだけ 0545吾輩は名無しである2018/10/26(金) 15:34:07.04ID:DkcNEswF どっちかというとソシュールよりもオースティンだな 0546吾輩は名無しである2018/10/28(日) 03:54:56.52ID:kY9ftyvL ジュネットの物語論について、ミーケ・バルが反論を呈したのは「80日間世界一周」の主人公とその従僕の関係についてのジュネットの記載からだ バルが「焦点化する主体」という概念を提示し始めたのはこの英国紳士フォッグとフランス人の新しく従僕となったパスパルトゥーの関係をめぐってだ パスパルトゥーは雇い入れが決まった当日に、「トランクを用意してくれ。〇時の馬車に乗る。世界を80日でめぐって戻ってくる」と変わり者の主人に言われる 主人はその数時間前に、社交クラブで賭けをして80日で世界をめぐってみせる、と断言した この主人は冷静沈着、何事にも動じず、感情を表に出さない機械のような登場人物で「80日間世界一周」のロマンスやサスペンスはパスパルトゥが補完する形になっている このバルの反論について、「小説のしくみ」(東大出版会2017)で菅原克也は「バルの誤解から始まった」としている "The only focalization logically implied by the 'first-person' narrator," writes Genette, "is focalization through the narrator." But surely speaking of the narrator as "focalizer" blurs the distinction that Genette himself introduced to clear up traditional confusion between voice and point of view—between "who speaks" and "who sees." 菅原克也はバルの用語法における外的焦点化と内的焦点化の二分法において二つの問題を提示する ・語り手は知覚するか ジュネットにおいては語ることと知覚することの峻別こそが出発点であったが、バルにおいては語り手も知覚する 三人称の語りで作中人物(フォッグの容貌)や外界の風景が語られるとき、語り手は「知覚している」のか、「あるいは語っているに過ぎない」のか ジュネットにおいては語り手は知覚するものではない バルの議論では知覚し、同時に語る、奇妙な審級の存在となっている さらに、リモン・キーナンはバルの二分法を受け継ぎ、きわめて単純な解釈をする、と記される 0547吾輩は名無しである2018/10/28(日) 03:57:00.22ID:kY9ftyvL リモン・キーナンは語る私は物語世界の外部に、知覚する私に物語世界の内部(内的焦点化を割り当てる)を割り当てる 整合性は持つけれどもしかし、そもそも三位一体論のような複雑さを持つこのような論理は、「語る私と経験する私が同じであるという最も困難な問題」を説明しきれていない
焦点化についての三分法から二分法はやはり重要な喪失を含んでいる そこで、バルの論文を読んでいくと、その対象は映画であり、「シンドラーのリスト」の場面を「焦点化人物」を導入する根拠としている しかし、映画と小説を同じ「物語論」で語ってよいのか、という問題は常に存在する 認知ナラトロジー論、可能世界論において、バルの焦点化人物を採用する論者は常に小説と映画、あるいは日常会話に至るまでを同じ領域として扱おうとしている Genette says: “Unlike the director of a movie, the novelist is not compelled to put his camera somewhere; he has no camera” (Genette 1988:73). Vice versa, it can be said: Unlike the novelist, the director of a movie is not compelled to talk to the audience; he has no voice. 蓮實重彦のジュネット以降の論者に対する批判も明確に、「小説においては」という限定の中で小説と映画の区別をつけていないことを指摘している デリダに言わせるまでもなく、テキスト外に小説の現実はない、が哲学者サールの論争が焦点化においても現れる 0548吾輩は名無しである2018/10/28(日) 04:14:46.09ID:kY9ftyvL デリダの「言説は発話者の意図に限定されない」という意見に対し、サールは言語行為論を用いて「発話者の意図」の強調を行った 物語論においても、サールは言語学者として、物語論者によって抽象された「ファーブル」なるものを存在するものとし、さらにそれに「操作」を咥えることによって物語となる、と引用される しかし、この「物語が最初からある」というある意味穏当な意見を蓮實は徹底的に批判する とぎれとぎれにしか聞こえない「ボヴァリー夫人」における政治家の演説は草稿からしてもエマとレオンの情事の対立項としてしか残されていない、というテキスト論的傍証はさておき、 小説の特異性を謳うジュネットや蓮實にとってマルセルはプルーストであり、エマはフローベールであり、サールのようにホームズ物はワトソンがホームズの目撃者と語っているふりをして読者にそのような虚構世界に勧誘しているとは言わない 映画においては必ず映し出されない映像が存在するし、そうでない映画は非常に窮屈なものになる 逆に、小説においてはテキスト外に存在する自立したテキストは存在しないことをボヴァリー夫人論で主張し続ける 「内包された読者」や「内包された作者」という審級を認めない蓮實重彦は物語論の中で、ジュネット以降の拡張された「語り手のない小説は存在しうる」というUnspeakable Sentencesのアン・バンフィールドの論理を追っていく タイトル通り、この分析はsentenceであって、小説ではない、という蓮實は安易に漫画や映画のために拡張された物語論や複数の焦点人物が存在しうるという説をもとにした可能世界論を小説・テキスト世界に「再適用」することを拒絶する
「文」はあらゆる焦点化存在に開かれているが、テキスト的現実において「語り手のない小説」「複数の焦点化主体という審級を認めなくてはならない小説」は必ずしも面白くない ボヴァリー夫人という複数の焦点化人物を含んでいるように見える作品を作者フローベールやジュネット・蓮實は「ボヴァリー夫人は私(フローベール)である」という前提を共有している 0549吾輩は名無しである2018/10/28(日) 04:32:14.99ID:kY9ftyvL 小説の大前提はSFやテレパシーを持つ登場人物でなければ登場人物がほかの登場人物の考えていることは知ることができない ところが、漫画や映画、ある種のノンフィクションではルールを逸脱して本来知りえない他者の思考・知覚・視点があっさりと描写される 可能世界論は多数のfocalizerが存在し、それぞれ知覚した・イデオロギーによって歪められた・フィルターされた複数の代替的現実を構成する テキスト依存のTAW(textual alternative world)やTRW(textual real world)は、しかし小説の中の限られた、テレパシー能力者か小説の制限を無視した作品にしか採用することはできない ジュネットがそもそも知覚できない領域、とした他者の「嘘や誤解によって構成された」可能世界を読者が容認する、という可能世界論の前提は漫画や映画、日常会話と、いわゆる小説的テキストでは成立の要件が異なる