>>36
SUBARASII SISAKU GA KAITEARU と思います。
その上で、
>>37
> 結局思うのは、キリストは目指すべき近づくべきであって同じになることはできないじゃないかとおもうんだ
> だからキリストと同じことができなくとも、近づこうとすればいい、ドストエフスキーも「近づく」ことで溜飲を下げようとしたのではないかとも思える

この場合キリストですね。「近づく」とは、どういうことか。キリストや仏、「古い古い昔の高僧、使徒や殉教者たち」を目指すものもあろう。あるいは宗教にかぎらず、深いあこがれ、
自分にとってのアイドル、慈愛深き母、雄渾なる父に憧れ近づこうとするひともいるかもしれない。
その目指すべき対境が すでに存在しないならば または無限の距離ならば、いかにしてぼくらは
一致せんとするのか?

近づくための方法・手立てがわからないのだ。口まねすることか、身振り手振り歩き方をまねることか。
どう考え、どう思索し、どう決断したか、考えぬくか? どこまでいってもぼくらの憧れのターゲット、頼る人、それに一致することはない。