>>583
>仏教は仏に「なる」ことを目指すとするならば、
>キリスト教(ユダヤでもイスラム)は神にどう「跪拝」するか、
>どこまでひれ伏すかを目指すものになる

成仏する(悟りを開く)ことを求める者を仏教では菩薩という
その段階において僧院内でも厳然たる階層秩序が存在する
これはカソリックや東方教会内でも似たようなもので
教団には聖人というものがやはり存在する
たとえば東方教会では仏教の様な曼陀羅風の図像がある

人間が悟りを開く(凡我一如)/唯一絶対神に跪拝する
という教義上の違いがあっても
教団内の階層秩序や運営方式がどういうわけか似てしまうのは
結局、仏や神ならざる人間の事情で存在する宗教だから
ドストエフスキー作品では神や信仰はもちろん
この聖人の説法も問題になる
たとえばチホンやゾシマとかね

というのはこの存在こそが神と人間の中間項であり
上述の信仰上の問題(つまり人間そのもの)を示す良いテスターだから
信仰は基本的に人間の事情に過ぎないのだけど
そんなのは神様の知ったことではないので