生きることを考えた時にどう生きるかの2択がもしあるとするならば、個として苦ではあるが自由であるのと、全体として盲目であるが幸福であるのと、どちらがいいのかなんて久しぶりに大審問官を読み返してふと考えた

「われわれ羊飼いは、羊の群れである彼らの手で収穫されたパンを、取り上げて分配する。彼らはパンそのものよりも、われわれの手からパンを受け取れることの方がうれしいからだ。
われわれは、彼らを働かせはするが、労働から解き放たれた自由な時間には、彼らの生活を、子どもらしい歌や合唱や、無邪気な踊りにあふれる子供の遊びのようなものに仕立ててやるのだ。
われわれは、彼らの罪も許してやる。われわれは、彼らが罪を犯すのを許してやるので、彼らはまるで子どものようにわれわれを愛するだろう。
彼らは、われわれに対してどんな隠しごとも持たなくなる。
彼らは、自分の良心がかかえるもっとも苦しい秘密を、われわれのところに持ち込んでくるだろうし、われわれがそのすべてを解決してやる。
そして彼らは、われわれの解決を大喜びで受け入れるだろう。
なぜならその解決は、すべて自分一人で解決しなければならない現在の大きな心労や、恐ろしい苦しみを取り除いてくれるからだ。」

大審問官もまた別の方法で人類を憐れんでいたのかもしれない