>>592
>でも、ドストエフスキーはこいうのも批判的ではなかっただろうか
>ここからは個人的感想ではあるけど、
>ドストエフスキーはキリスト教会の教えではなくて
>キリストの教えの方をうったえたかったのではないかと思っているよ

だからムイシュキンにカトリックを批判させている
これは暴力を根拠とする世俗権力と癒着して成立する政治宗教への批判であり
こういう欺瞞の体制下で虐げられた民衆の素朴な信仰心こそ
スラムで魂の救済をといたキリストの教えに即したものとして評価する
イエズス会よりも鞭身派の方を崇高とするのはそういう事でしょうね

民衆救済という点では初期の社会主義的作風よりも更に深化していく
これが憐れみと赦しを二枚看板とする「謙虚な巨人」の思想であるが
情熱に生きる「人間」ロゴージンや本質的に傷ついた幼子であるナスターシャ
の破滅に随伴する形で地上から霧のように消えていく

で、この原罪と崇高性の織り成す悲劇を見せつけられた
もう一人の主人公たるロマンチストのアグラーヤは
世俗的価値で固められた壁の中の世界に取り残される
つまり一種の絶望だけがのこるわけです
世俗的価値を踏み越えようとして
虚栄心や嫉妬などの理由から越えられなかった人間の哀れさも
同時に描かれているわけです