純文学5誌総合スレ第66巻目
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純文学5誌総合スレ第65巻目
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1530666140/
主に「新潮」「群像」「文藝」「文學界」「すばる」に掲載された作品について語るスレです。
「早稲田文学」「三田文学」「江古田文学」「太宰賞ムック」
「たべるのがおそい」掲載作品の話題も可です。
新人賞受賞作 芥川賞受賞作を各論で批評することもOKです。
文芸誌の感想は、書いても書かなくてもOKですが、あるとなお可です。
受賞作決定前の候補作の批評は普通に本人・出版社工作員のステマと見做されますから気をつけてください。
文芸誌の話題にとどまらず、新人賞選考委員の評価・クレームなどもOKです。
さらには文学のありかた、これからの文学は、そもそも文学とは? といった総論や大きなテーマも歓迎です。 又吉羽田回まではまだ結果について議論があったきがするけど、それ以降はガチの文学層は離れた印象 送り火、尼の売れ筋本ランキングで現在648位だ
何年か前までは、芥川賞作品は、受賞後何週間かは100位以内だったのに >87
俺はこの認識だわ
作家目指してた頃もあったから気にしてた時期もあったけど
今は誰がとっても気にならない
作家目指すの辞めてからも、発表の度にぞわぞわしてたんだけど
たぶん嫉妬してたんだろう
もう嫉妬の対象でもなくなっちゃった >>61
気にしてはいけない。
芥川賞の選考委員で、ちゃんと読む自信のない人は選考委員を自ら辞めるべき。
そして、選考委員は真面目に選評を述べるべき。
歴代の芥川賞の選考後発表された選評で典型的に酷いのが第77回の中村光夫の
「エーゲ海に捧ぐ」評の同作品を褒めた部分だろう。
曰く「八編のうちで、池田満寿夫氏のエーゲ海に捧ぐが抜群の出来です。」。
これだけw
いい加減にしろよとw 選考委員って建前としてはしっかり小説を読めるから選考委員なんだろ
明らかに読めないやついるよな お前らなんで文学賞のような権威にすがろうとするんだ
文学はそういうものをぶっ壊すためにあるんだよ 賞とかだせーって風潮が昔はあったような気もする
ネット時代になってなんでもネタ化して、まつりあげられ、そんで消費されたのがあわれな芥川賞 日本語で世界文学を、という試みは日本語ロックとか日本語ヒップホップみたいな、うら悲しさがあるから、芥川賞的なる文章という半ば伝統芸能化した・様式化したもので埋まってしまうのは仕方のないことかもしれぬでござる。 だから芥川賞は日本文学の最前線で一番すごいもんだと誤認されてるのが問題……って
いいたいとこだけどその誤認がなくなってきつつあるのがかないしとこ
やっぱ佐々木はずれとんねー >>95
文学は理想を追求する為にあるんだよ
現実に追従してたら佐々木みたいになる >>98
>その誤認がなくなってきつつあるのがかないしとこ
「日蝕」ならそれなりにハッタリがきいて
「おお、まさに文学!」という誤解が生じますが
「蹴りたい背中」や「苦役列車」だとあっという間にメッキが剥がれてしまう
高橋源一郎が指摘するように純文学は大衆に読まれてしまうと
有難味が無くなってしまうのです
それでも円城のように読みやすいけどさっぱり分からない、
という作品なら価値が生じる余地があるのですが
「バカ」という捨て台詞を残して辞めていった
高名な選考委員もいるので
あの手の作品でもやっぱり価値創出は難しい
最近の世間様は難しいからと言って無暗に有難がるような
可憐さを持ち合わせてはいないのです
そもそも島田雅彦の様な偶像破壊者を選考委員に据えた時点で
従来の純文学的文章経営によるハッタリも難しいわけです >>96
でも、以前のヤフー記事で、芥川賞受賞者は寿命が長く、直木賞作家は寿命が短いというデータを示していた。
直木賞作家は激務なので、寿命が短いのだろうと分析されてた。
芥川賞作家は、その賞という承認を得られたことで幸福度が高くて長生きなのだろうと。直木賞作家と違って、たまに書いたりフェードアウトしたりするしな。
賞なんでダゼーといいながら、本当は嬉しくて幸福でしょうがないくせに。 今の純文学を脱構築するとすれば どの様な作品になるのか気になります >>100
純文学の有り難みだとか、そんなことを抜かしているから現在の体たらくなんだろうに。
世の人々に読まれない小説なんて意味がない。 ダセーといってんのは、受賞作家ではなくて周りの編集とか世の中の知識人ね
芥川賞はまともな作家は取らないってのはわりと常識だった ここに出てきた作家でも高橋源一郎とか島田とか春樹とかもとっていないしね
古くは三島もとっていないし、安部公房とか大江とかはとってるけどこれは芥川賞しか
なかった時代で、しかも複数作が候補になってようやく受賞
たぶん、安部公房や大江の時代は芥川賞しかなかったから、彼らより才能があった作家が
いても芥川賞を取らせずに闇に葬られていたんだとおもうね
まあ、今の時代にあてはめてもすんなり芥川賞とっちゃう作家がたいしたことないの間違いない
新しいものほど理解されないのはいつの時代も一緒
デビュー即受賞のおらおらや影裏が安部公房とか大江以上の才能なわけないでしょ >>105
三島は芥川賞なんかすっ飛ばして選考委員だよ……
彼はあまりに突出してたから芥川賞なんて失礼という配慮だよ >>103
>世の人々に読まれない小説なんて意味がない。
読まれたら、しかも簡単に読み通せるものなら
大したものではないことがすぐにわかる
表面上の難解さで批評を誘引するようなものが純文学であり
小説が諸流派に分かれて
流派別に批評家が存在するのもそのためです 村上春樹のノルウェイの森とか 一見 文章や流れなどが難解に感じないので 表面的に捉えた多数の一般人が「淫らで 過剰評価されている小説」と言っていたのが印象的
実際に裏返すと意味が奥深かった記憶があるけど
これは純文学的にどういう位置付けになるのだろう 春樹はなんか薄味雰囲気小説に見せかけて、よく読み込むと細かい部分まで意味を持たせていて解釈の多様性があるよね 春樹並みに緻密な小説書けるやつ日本ではいないからな 解釈の多様性とか文章の緻密性とか曰く有りげな評価はできるのにその具体的中身が表されることは永久にない >>109
映画化大コケ
これがすべて
映画化しても面白い
読んで面白い
これが本物 >>109
>これは純文学的にどういう位置付けになるのだろう
ユングの影響が強い、特に90年代以降の作品は
1Q84でユングについて言及した時は唖然としたね
カフカでも露骨なのに ユングにたどり着くことはないよ。簡単にはね。村上でもはずれでしょう。通し名
であって名前ではなく、将来未来のことだからね。フロイトのようなものは過去に確認できています。 ひと昔ユンガリアンまで進んでるから最近は ヤングアリアンでもいいぐらいだ。 まあ、ザックリ言うと、批評空間派はフロイトーラカン派のiconoclastの人達であり、iconolatristであるユング好きな村上春樹を嫌ってるということ。
だが、蓮實も柄谷、浅田も甚だ徹底しないiconoclast達。
あまり、真剣に考えてない。
明治維新以来、日本のインテリの殆ど全部が余り自覚的でないiconoclastなんだな。
iconoclast,iconolatrist
はそれぞれ偶像破壊主義者、偶像崇拝者と一応訳されてるが、正確な訳ではない。 村上春樹はユング流の神秘主義だよ
だからまともな人には相手にされない まあ、村上春樹の立ち位置は希少ではある。
世界のナラトロジー研究で、近東、ギリシャ神話に関心持つ文芸評論家は新規に登場してるし、間接的にはフランコ・モレッティですら関係してる。
俺は村上の読者じゃないので村上については殆ど知らないが。 スガだって、花田清輝擁護の声を上げたのは、樺山や川本よりも3年ぐらい後なんだな。
別にスガが先陣切った訳じゃないw
ここじゃ関係ないけどw 石原千秋ですら村上春樹本だしてるくらいだから、
もっと奥がふかいのかな
それともただの深読みか >>122
「まともな人」「相手にされない」
うん、純文学的だね
文学的かどうかは怪しいが
多少煽ってみると
純文学ってそうやって選別を続けて、スカスカになっていくのかもな >>121
>iconolatristであるユング好きな村上春樹を嫌ってるということ。
そうなの?
外縁から記述していって焦点(あるいは主題)をぼかしてしまうので
なかなか尻尾を出さないか掴ませない
それで一般読者に神秘的(あるいは高尚)な印象を与える
こういう印象操作に基づく自己特権化を
浅田彰は吉本ばななあたりと同種の
文学的こけおどしに過ぎないと罵倒している 田中康夫の場合はもっと激越で
しょせんノスタルジーに過ぎず
それも粗大ごみ置き場に捨てられた自転車を拾っていく程度の
感傷性にすぎないと斬り捨ててる 沼田の影裏が映画化されるらしい
盛岡で撮影班が目撃されて主演は綾野剛だとツイッターに 映画の企画とおすんにどんだけ時間化か府とおもってんだハゲ
まして綾野剛とか何年もスケジュールうまっとるわ
100%ない 都内だけどテレビマンっぽい人が影裏を買っていて、「おっ」て思ったことを思い出した 震災関連、しかもLGBTQ絡みの企画だから通りやすいのかもしれん 流行りもの狙って書いたとインタビューで言ってたから
芥川賞狙いだったのだろうな。
釣りの描写とか文章が上手かったから、これは許せるけど。 友人に「おらおら〜」貸したら、先が読めてつまらないと言って返してきた
つまらないのはいいが、先が読めてというのは…
純文学は話の展開の面白さを追うものではないよな
そういう読みをしている一般人ばかりだから、すたれるというのもあるな 映画化といえば「マチネの終わりに」がされるらしいな。
主演、福山雅治と石田ゆり子で。 春樹は最初から
表現したいものが無いとき、人はどうやって表現すれば良いか
ということを考えてた作家だしな >>136
そうやって上から目線にあぐらかいていたからこの現状があるんだよな。
話の展開が面白い純文学もあるわけで。
一般人のそういう感想をバカにしながらも、売上が売上がとパクリまで擁護するようになってんだから自業自得だ。 >>139
横から失礼
純文学てのはそういうジャンルじゃないから、そういう読者に阿る必要はまったくないよ
「こういう現状」ってどういう現状? >話の展開が面白い純文学もあるわけで。
だから何?
純文学作家は話の展開を面白くする努力をしろとでも言いたいのか >>141
それは絶対にしたほうがいい
読まれなくなったらおしまい 読者に阿るな、はわかるけど、読者がいなければジャンルを維持できないのは間違いない >>142
うわー。「絶対にした方がいい」だってさ
そういう一元化された同調圧力から自由なのが純文学なのに
経済で純文学を語らないでほしいわ
詩の世界と同じで、儲からなくてもジャンルというものは維持されるよ >>145
純文学の歴史を知っているなら、むしろそういう同調圧力に負けた結果がいまのクソみたいな状況ってことがわかるはず
アホみたいに村上春樹を排除したり、面白さから離れていったり
たしかに同人的な形で維持できる可能性は残されているが、それでいいの? 経済で語るなっていう貴族の論理はもう通用しない世の中になってるでしょ
そこから離れて時代遅れになり、慌てて経済に阿ろうとした結果が「美しい顔」での講談社の失態だよ 栗原裕一郎
文芸誌に書かれている文字列の9割5分くらいに興味がない。 >>146
はあ。純文学の歴史ですか
どういう歴史すか?w
エンタメ小説と大差ない自称純文学が量産されるより同人誌的に維持される方が100倍マシだね
まあ、「話の展開を面白くすることを絶対にした方がいい」とか言い放っちゃうやつとは議論できないわ
>>147
全然逆だと思いますけど >>146-147
改めて読むと本当に馬鹿な書き込み
疑問1
同調圧力に負けた=純文学が話を面白くする方向に行った、ってことだよね
ならなんで「アホみたいに村上春樹を排除したり、面白さから離れていったり」になるわけ? 逆でしょ
疑問2
>経済で語るなっていう貴族の論理はもう通用しない
なぜ通用しないの?純文学はもともと売れないもんだよ
売れてるという状況の方が純文学の歴史(笑)の中では異例の事態だって分かってる?
疑問3
>そこから離れて時代遅れになり、慌てて経済に阿ろうとした結果が「美しい顔」での講談社の失態だよ
「そこ」ってどこ? ストーリーの展開の面白さのこと?
ストーリーの展開の面白さを追う小説ばかりになる方が先祖返りじゃん
「慌てて経済に阿ろうとした結果が「美しい顔」での講談社の失態」とか意味不明すぎ
経済に阿る、って日本語かね
まあ、たしかに講談社は大衆に阿ろうとしてたよ
そのことを俺は批判してるんだけどそれすら理解できない?
要するに、あんたの言ってることはムチャクチャなのよ 純文学は「私自身」であるべきだと思うから 話の展開をより理解させようと強く意識した時点で個々人の作品ではなく商業的作品に近くなる気がする
いかにも大衆小説というか
あくまで背景を無視した観念的な話だけど >>150
疑問1への回答
村上春樹や作品を面白くしない技工重視へと同調圧力が向かった、という意味
純文学は同調圧力から自由なのではなく、むしろ同調圧力ばかりなのだ
疑問2への回答
とはいっても出版社の経済活動に組み込まれており、構造的な出版不況から不採算部門は切り捨てられる可能性に直面している
今までは文化事業として維持されていたが今後は売れなければ文芸誌の休刊なども増えるだろう
疑問3への回答
そことは経済のことである
作品に面白さがないため、「美人」「イケメン」など著者の属性や特徴を売りにするしかなくなっている
売りにするとはまさに売るために必要なことで、そこを押し通そうとして大失態を犯したのが講談社 私の考えたさいきょうのじゅんぶんがく
を標榜するのもいいけど、もっと現実を見てくれ
現実を見る能力すらないワナビーばかりで作品が面白くないからこんな惨状になっているのかもしれないが >>149
> エンタメ小説と大差ない自称純文学が量産されるより同人誌的に維持される方が100倍マシだね
> まあ、「話の展開を面白くすることを絶対にした方がいい」とか言い放っちゃうやつとは議論できないわ
強く同意。
大衆に読まれなくなった所で、本来の意味で創作をする人間はそんな事は気にしない。
誰かは「現実を見ろ」などと言っているが、純文学を志している人間に放つ言葉では無い事は高校生でも分かる。 "私の考えたさいきょうのじゅんぶんがく" で、過去の文豪は成功を収めてきた筈なんだけど
大丈夫か、お前 >>154
あなたは純文学だけが本来の意味での創作だと思っているの?
一般人を見下しているようだし、それはとても傲慢な考え方だと思うけど
>>155
全然違うぞ
作家と読者をつなぐ編集がいかに大切かって話だ 純文学は本来の意味での創作なんかでは全然ないぞ
純文学システムに合わせた創作ってだけだ
本来の意味での創作を読みたいならエブリスタやカクヨムで無名作家の作品を読めばいい
あれが本来の意味での創作だ 純文学板で俯瞰した様な物言いで、「経済で語るなは、古い(キリッ」とか発言する様な人間がいる事に驚きだわな。
純文学の本来の存在意義すら考える事も出来ないのか。
そういう奴が 純文学に限らず 本来あった体系を無自覚に崩していく。
大衆の手垢で汚れてしまった純文学という文化があるとすれば、本来的な意味で活動している作家にとってそれを維持する必要は無い。 あなたの信じているような権威なんてもう純文学にはないよ
その本来の活動とやらを実践しているやつらは滅びの美学を実践しているようにしか見えないね
どうぞ、その本来の純文学とやらを信奉して滅びていってください たとえば芥川賞受賞後に島田雅彦、朝吹真理子、西村賢太
の3氏によって行われた座談会では
純文学=短篇=私小説という文壇事情の説明として
小説が長大化するとあるべき「私」の統一性や作品世界の緊密性が
損なわれるからだという共通の認識がある
何故「私」の統一性や作品世界の緊密性が重視されるのか?というと
黎明期における日本の小説結は結社的狭い世界で流通しており
物語による不特定多数の読者(大衆)の折伏ではなく
特定読者に対して向けられた「詩」あるいは「批評」的機能を
重視していたからだろう
つまり「量」よりも「質」を重視したわけであり
そしてこの伝統に即したフォーマットが知的伝統として存在する
あるいは信仰が連綿と続いているかのような錯覚がある
問題はそれだけの「質」が作者や作品はもちろん
読者にも伝統として維持されてきたのか?ということ
あるのなら「衰退」と叫ばれるわけは無いんだろうけどね
もっとも批評的機能の強い小説は今でも多いわけだけど >>161
その、批評って現代社会への批評ってこと?
それとも、そのギルド内の政治や認識に対する批評? 純文学側の人間の方が内向きの文壇村ありきが、渡部北条の件で露骨になったし純文学側の人間が質らしきものを重視してるだけ、内向きの現実逃避の文壇村で活動してろよ。 おらおら〜は個人的に良かったので、普段純文読まない人の心にもヒットするかと思って貸したのだが、「話の先が読めるのでつまらない」という感想に反感を持った。
つまらないのという感想でも、エンタメに求めるような面白さを純文に求めるのはいかがなものかと。
もちろん、展開の面白い純文もある。
描写の妙とか文体の個性など、話の展開以外の要素を味わうのが嗜みでもあると思うのだが。
そう感じるのが上から目線なのかは分からない。 >>164
作品を評価するポイントは人それぞれ
普段純文学を読まなない人におらおらの良さをわかって欲しかったのなら
貸すときに面白さのポイントを一言付け加えればよかったのでは 大正12年に書かれた「小説家番付」一位がまさかの人だったり人選がえらい面白い
https://togetter.com/li/1231732
純文学の権威や正統性はこれを見ると不変でもないし普遍でもないよね
今の文学史的評価とは随分と違う >>165
その人には、今度会った時、純文の読みについても話すことにした。
モヤモヤしたものをずっと抱えるのもなんだ。
人は簡単に気持ちが覚めて離婚する。
おらおら〜は、ボケ老女が、ボケながらも亡くなった亭主への気持ちにブレがないのに心動かされた。
震災とか大きな装置がなくても、どこにでもいるようなごく普通の人たちが、
身近で、「神も仏もありゃしない」と強い理不尽な状況に直面して怒りや悲しみを感じることはよくある。
訛りでそういう感情をストレートに表現されていると迫力があって飲み込まれた。
新人賞である芥川賞をきっかけに、多くの普通であっても一生懸命に生きている人たちに読まれるのは良いことだ。
とか話してみる。はずい感想であるが。
純文の技術的な装置というより、老女の秘められた情熱にツボった。
エンタメも読むが、老女の生きざまにこんなにも胸打たれた読後感はない。
れっきとした純文学作品なのだな。 >>145
経済じゃないよ
小説というのは読む人がいてこそ成り立つものだ
それだけのこと 儲からなくていいジャンルとか開き直りの言い訳で内向きの文壇村のルールなのに最近はクォリティーも大衆小説に負けてるしなあ >>132
スレチだが今の日本映画なんか一握りのメジャー作品を除き低予算で本当にいい加減。
確かに製作費「億」単位の作品ならそんなに簡単には作れない。
代わりに予算1億円未満の「安い」映画なら意外と簡単に制作できる。
ここ10年ほどは「誰が観るのか分からん」微妙な人間ドラマ映画・文芸映画が本当に
多いでしょ? 要するに「安い」から簡単に作れるだけ。
トータルでの実際の損益は分かりません。でも安さに開き直れば意外と簡単に作れる。
その『影裏』とやらも実際にはどの程度の予算でやってることやら、、
あと有名な俳優女優も実は意外と簡単にキャスティング出来る場合がある。
●いまの日本映画で製作費「億」単位のメジャー作品など一握り。TVの連ドラ・単発ドラ
マの制作量も激減している。アベノミクスなんか嘘っぱちで日本は不況なの。
だから割と有名な俳優女優も中堅低予算の「なんでこんなもんに?」という映画にも出ている
ことが本当に多い。事務所もタレントを遊ばせてても仕様がないからスケジュール埋めはしたい。
●あと有名な俳優女優のスケジュールが×年先まで一杯といっても、所詮はそれは「予定」
「予約」なので。ポシャる作品も多い。その辺のスキマにひょいと入り込めれば割と有名な
人でも実は結構出せるんだよ。
もちろん本人が企画やシナリオを気に入ったから、監督などと親しいからというパターンもあるしね。 、、ちなみにスレチだが今の「文壇」の閉塞してる感じ、「日本映画界」の絶望・閉塞と
本当に似てる。
「一握りの作品を除き誰も読まない、観ない」「基本は貧乏業界、一握りの人間のみが
大学教授業や文化人的な立ち位置で儲けてる」「基本誰も読まない(観ない)世界で内輪の
賞で権威付け」「たまに批評的・興行的な成功作が出てきただけで大騒ぎ(映画だと今年は
『万引きなんちゃら』『カメラをなんちゃら』とかああいうの」、、
、、映画もここ十数年の「邦高洋低」など上辺だけ、内情はひどいものだ。
そんなひどい「映画界」「文壇」とどっちにもクビを突っ込んでいる手合い(蓮實重彦や
青山真治など)もいるがな、、所詮は荒廃した業界でお山の大将ぶる連中ですよ。
荒井晴彦なども本当にみっともなくなったなあ、、 文芸誌の編集部も人件費削られて、どこも5人くらいだというしな
文芸誌へのコストも下がっている
特に群像なんかは本文はわら半紙だ
表紙もフルカラーから、1〜2色刷へ
まー読めればいいのだが むしろ金かけてCG多用の漫画家実写化か、飽きられてる低予算スイーツの方が多いけどな
現代設定で、特別にセットも組む必要なければお金はかからない
地方ロケすればスタッフの滞在費がかかる
作品の良し悪しは一概に予算ではない >>168
だから東野圭吾(例に出してるだけで東野圭吾を下に見てるわけではもちろんない)みたいな小説が読みたい読者に合わせる必要があると?
その認識がズレてるっつー話なんだがな
「絶対に面白くした方がいい」というのこそ上から目線の、傲慢な発想なんだよな
小説の可能性を切り開こうとしたジョイスやウルフやシモンやベケットにも同じこと言えんのかと
ま、「絶対に」とかいう言葉を軽々しく使うやつには常に注意が必要 >>174
俺は観てないけど、大ヒットで大評判を呼んでいる「カメラを止めるな!」は制作費3000万円だっけね さて>>152に答えるぞ
1
>村上春樹や作品を面白くしない技工重視へと同調圧力が向かった、という意味
まったく意味不明の日本語です
>純文学は同調圧力から自由なのではなく、むしろ同調圧力ばかりなのだ
それはあなたの見ている狭い純文学とやらがそうなだけでは
2
>とはいっても出版社の経済活動に組み込まれており、構造的な出版不況から不採算部門は切り捨てられる可能性に直面している
>今までは文化事業として維持されていたが今後は売れなければ文芸誌の休刊なども増えるだろう
>>149を読んでください
それでもいいと俺は書いてるんです。あなたのその考え自体が画一化された思考停止なんです
3
>そことは経済のことである
「経済に阿る」という日本語はない
それ以降の部分については特に認識に相違がないのであなたが何を騒いでいるのか理解不能です >>158さんみたいな人がちゃんと反論してるのを見ると、ここも馬鹿ばかりではないとホッとする
「経済なんだ。現実を見ろ。キリッ」みたいなことを言いだすやつには、本来どうあるべきかという視点が欠けることが多いので、警戒が必要
東京医大で女子の足切りを高くしてた件も「女医は産休を取ったり退職するから人が足りなくなるんだ。現実を見ろ」という発想から生まれた >>178
申し訳ないけど、あなた方の言い分を読むと古臭い理想を掲げる保守派というイメージ
同人活動に戻ってもいいというのなら、五誌総合スレとは別のスレでやったらどうだろう? もはや純文学には往年のような影響力が無くなっていかにして純文学が変わって、サバイバルするか、という話をしていたところに
渡部直己のセクハラ騒動と美しい顔の盗作騒動が起きた
このふたつの騒動で明らかになったのは、男性主義的で古臭い文壇の敗北であった
渡部直己のみならず、市川真人、高橋源一郎、野崎歓、阿部公彦、このような知識人と言われていた人たちが恥をさらしてしまったわけだ
こうした文壇の人々はもともと、あなたがたの掲げているような理想を追っていた人たちなんだよね
しかし堕ちてしまった この堕落でわかったことは、ある種の健全な経済の原理というか、競争原理が働く仕組みを取り入れないと業界は腐っていくということ
市川真人のようなフィクサー面した人間がのさばり、批評家たちは食い扶持を守ろうとして、そうした人物や出版社に阿り、作品を批判できなくなってしまう
そしてそれが構造化する
この状態がいまの文壇を中心とする純文学のシステム こうしたシステムを前提とすると
「いや、経済じゃないんだ」という言葉は
いまの堕落した純文学を延命させる、あるいはいまの腐敗している文壇の権力を据え置くというような意味に聞こえてくる、ということは理解してほしい >>179
「古臭い理想を掲げる保守派」とレッテル貼りして、「俺の現状追認の意見に反対するなら、それは別のところでやってくれ」ですか
まったく反論になってなくて、要するにそれ、「うるさいうるさい!ボクの言ってることは間違ってないんだい!あっち行けー!」
ていう駄々こねですよ
具体的に指摘してんだから一つ一つ反論すればいいのに、それができない奴のやる最もみっともない反応
で、「古臭い理想を掲げる保守派」ってどういうことかね
どのあたりが「古臭い」のかは理解できないが、それはまあ措くとしても、
理想を掲げることの何がいかんのか。どこが保守派なのか
俺は「現実こうじゃん」とヘラヘラ立ち腐れるのを追認するより、理想を追う方を選ぶね (キリッ で、あんたの書いてることでまったく愚かなのは、早稲田のセクハラ騒動や美しい顔騒動で
おかしな言動をした批評家や作家が、競争原理(笑)を取り入れれば駆逐されるという超論理
・競争原理って、何をどうすれば取り入れられるんですか?
・例えば競争原理の働いてる映画業界とか電通とかでこそ、むしろセクハラが蔓延してMeToo運動が起こったんですが、矛盾してません?
はい、答えてね >>183
五誌総合スレという前提を考えてほしいかな
あなたはこのスレをいつから見始めたのか知りませんが、
いかにして文芸誌を売るか、どれくらいの発行部数があるかというのはいつもこのスレの話題になっていることくらいは知っているでしょう
古臭いというのは、あなたの掲げるその理想が非常に陳腐なものだからですよ
具体的に言えば、あなたの言っているような話は、何度も何度も言われてきて、
もはや指摘するまでもなく当たり前のものとして考えられてるということです
問題は、もうその理想ではどうにもやっていけないというところにある
それなのに同じ主張を繰り返していたら、保守派なんだと認識されてもしかたなくないですか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています