レーゼシナリオは、もう古い!?
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>>1
松本ちえこ「恋人試験」
https://www.youtube.com/watch?v=y5Lpyzb-J5c
♪零点なんかは許せない 百点取る人大嫌い♪
65点くらいが、ちょうどいいんだってさ。
新しすぎると女にモテないよ。 どうせ美香とかいうネカマが立てたスレだろうが、自分でもっと言えば良いじゃん。 映画になる現実性が高いからシナリオは書かれるんだろうが、
演劇の場合は、演じられる可能性が全然なくても戯曲は書かれることが多いのではないか?
さらに言えば、映画のシナリオの場合は撮影上、site specific(場所の固有性)に束縛
される可能性が高い一方で、演劇は演じられるたびに設定を自由に変えられるような。
シナリオ書いた経験ある奴はどんどん意見言えば良いじゃん。
書いたことない俺でもしゃべってるんだからw 映画は特定のストーリーだけだけど、
エロゲー、ギャルゲー、乙女ゲーなどは、ストーリーが選択できるところがいい。
だけど、まだ、そんなに、選択可能の面白さって、無いんじゃないの。 ゲーム原案文学というと有名な作家なら筒井康隆の
「RPG試案 夫婦遍歴」というのがあったはず。
コンピュータゲームじゃないけど、
TRPGリプレイとかいうのもゲーム文学じゃなかったっけ? >>3
小説は古すぎ
ゲーム文学は新しすぎ
レーゼシナリオがちょうどよい ゲーム原案文学ってこんな感じか?
タイトル:乙女ゲー『アイツとアタシのツンデレらぶウォーズ』
アイツ「美波?ハンカチ落としたぜ」
選択→A:「ありがとう」 B:「どういたしまして」」 Aを選択の場合
アイツ「(心の声)なんて素直なコなんだろう。胸キューン」
Bを選択の場合
アイツ「(心の声)ありがとう・・・って、お礼を言うのは俺じゃなくてお前だろ?でも、胸キューン」
(声の出演:アイツ→古谷徹、アタシ→小山茉美) >>11
美波ってのは、名前じゃなくて名字のほうがいいな。
たしか少女漫画の「エリート何とか曲」のヒロインが
美波唯
この手の作品は主人公は漫画であってもゲームであっても
ボーイッシュな名前のほうがウケる。真琴、夏生、珠緒あたりか?
美波真琴、美波夏生、美波珠緒
ゲームなんだから、お好きな名前を選択できるようにすればいい 新しすぎるのはモテないよ。
時代の半歩先を行くくらいが丁度いい。すると小説はもう古い、ゲーム文学は新しすぎる、
ちょうどいいのがレーゼシナリオという感じ ゲームに文学が引用されると他人の表情が変わってうれしいというのはあると思う。 英語のセリフのゲームを開発したけど評判はどうだろうか↗ 今週のフライデー見たら
ゲームが脳を破壊するという記事が。
やっぱり、簡単にはゲーム文学の時代は来ない。 ま、携帯の登場時はIQの低下に繋がるとか世界的な研究で言われてたわな。
今の世の中はIQや集中力が少しぐらい下がっても、同時並行的に手順的仕事をこなす
能力が重視されてるような。
行き当たりばったりの長寿継続ストーリ―漫画とか、既にゲーム文学じゃないの?
余り読まなかったがドラゴンボール、北斗の拳、蒼天の拳とか。 黒こげテレポーテーション失敗とか、ゲーム文学の意味。
脳は変容してもゲームは楽しいと思う。テレビやラジオビデオの方が
先発でセキュリティーもよくない時代もあったと思うが、日進月歩だよ。
研究して被害を減らすべきだが、ゲームで身につくものがあれば、被害も
功利的にみてみればいい。 43で思い出すのは本厄だなあ。神社の総代とか、宮司とか、現代でいうと、ゲーム世代かもね。
仕事引き継がないと。大僧正の法力も切ないし。魔界の調べなんて東京の実話だもんね。 中卒で働けるし、定年は65歳まで引き上げられてきたから、社会の主役である「社会人年齢」層
というのが、16歳から65歳まで、ということになるだろう。そのなかには、
「フィクション作品の享受の仕方」というテーマでアンケートをとっていけば
「漫画は読むけど活字本は読まない」とか「ゲームも好きだけど読書家だ」とか
「DVDで映画を観るけど、本も読まずゲームもやらない」とか、色んな人がいるだろう。
社会人年齢層のなかで、「ゲーム脳」派(ゲームしかやらない、あるいは、
他メディア作品は稀にしか享受しない)が過半数を越える、というのが
ゲーム原案文学が、19世紀〜20世紀における小説ほどに(アバンギャルドじゃなく)
スタンダードな文学形式になる、ということの一条件であると思う。 もう一つの条件は、「ゲーム原案書式が広く知られるようになること」だ。
その目安として「国語の教科書」がある。ネットの普及によって、校舎に子供を来させて知育を行う、
というやり方が変わっていく可能性はあるけど、とりあえずバーチャル学校のような形であっても
公共教育が続き「国語科」教育も残ると仮定する。戯曲は昔から国語科で教えられていたけど
映像劇のシナリオが教科書に載ったのは、
1990年代の倉本聰「北の国から」あたりからだと思う。それまでは文教政策的には戯曲とシナリオの間には
溝が設けられていて、シナリオなんてものは文学ではなく
サブカルチャー製品の設計図みたいな扱いだったと思う。
レーゼシナリオが「ポスト小説」として浮上してきた(?)のも、そのような時代が到来したからだと思う。
ゲーム原案が、1990年代における「シナリオ教科書掲載」くらいの域に達すれば、
前衛でなく標準的な文芸形式になるだろう。 1、ゲーム自体が各年齢層で「支配的な」フィクション形式になる。
2、「国語科」の教科書に、ゲーム原案書式の作品が載る。
たとえばプログラミングなども義務教育で教えるようになってきたらしいが、
「プログラミング科」ではなく、「国語科」で教えられるというところが、2の条件において肝要。 そして、そのような時代は今世紀の前半にはまだ来ないと思う。>>23に書いてあるように
まだ、ゲームを危険視するムキが存在するからね。
例えば、いいとこの坊ちゃん嬢ちゃんは、家庭教育によって、
ゲームをやる時間を抑制されるであろう。
1990年代に郊外型シネコンが出てくるまでは、
規制緩和によって映画館は繁華街でしか営業できなかった。
家族で見に行くような健全な娯楽作品を上映していても、「風俗営業」の扱いだった。
ゲームがいま、だいたい、国家権力からそんな扱いを受けている。 90年代以降は、映画に関しては、かなり規制緩和が進んで、
「パルプフィクション」「グッド・フェローズ」「HANA-BI」など暴力表現や麻薬表現などが
ある映画も、カンヌやベネチアで賞を取ったというような芸術的評価があれば
図書館の視聴覚コーナーで観られるようになった。
今村昌平の「うなぎ」も過激な性表現が冒頭から出てくるけど、
パルムドール受賞という裏づけがあるから、図書館に入った。
文化庁の補助金で作る映画なんかでも津川雅彦監督の『寝ずの番』なんて
獣姦やフィストファックありのシモネタのオンパレード。
やはり、表現の自由がかなりな程度保証されてないと、「文化の中心」には来れない。
ゲームはまだその意味でサブカル、アングラという位置づけだ。反逆的ではあるけど
政府からの監視もキツイ。
その情勢の中では、ゲーム原案文学とやらも、マイナーにとどまるだろう。 小説→近過去文学
ゲーム原案文学→近未来文学
そして、栄えある現代文学を担うのは・・・・レー(以下略) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています