レーゼシナリオは、もう古い!?
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中卒で働けるし、定年は65歳まで引き上げられてきたから、社会の主役である「社会人年齢」層
というのが、16歳から65歳まで、ということになるだろう。そのなかには、
「フィクション作品の享受の仕方」というテーマでアンケートをとっていけば
「漫画は読むけど活字本は読まない」とか「ゲームも好きだけど読書家だ」とか
「DVDで映画を観るけど、本も読まずゲームもやらない」とか、色んな人がいるだろう。
社会人年齢層のなかで、「ゲーム脳」派(ゲームしかやらない、あるいは、
他メディア作品は稀にしか享受しない)が過半数を越える、というのが
ゲーム原案文学が、19世紀〜20世紀における小説ほどに(アバンギャルドじゃなく)
スタンダードな文学形式になる、ということの一条件であると思う。 もう一つの条件は、「ゲーム原案書式が広く知られるようになること」だ。
その目安として「国語の教科書」がある。ネットの普及によって、校舎に子供を来させて知育を行う、
というやり方が変わっていく可能性はあるけど、とりあえずバーチャル学校のような形であっても
公共教育が続き「国語科」教育も残ると仮定する。戯曲は昔から国語科で教えられていたけど
映像劇のシナリオが教科書に載ったのは、
1990年代の倉本聰「北の国から」あたりからだと思う。それまでは文教政策的には戯曲とシナリオの間には
溝が設けられていて、シナリオなんてものは文学ではなく
サブカルチャー製品の設計図みたいな扱いだったと思う。
レーゼシナリオが「ポスト小説」として浮上してきた(?)のも、そのような時代が到来したからだと思う。
ゲーム原案が、1990年代における「シナリオ教科書掲載」くらいの域に達すれば、
前衛でなく標準的な文芸形式になるだろう。 1、ゲーム自体が各年齢層で「支配的な」フィクション形式になる。
2、「国語科」の教科書に、ゲーム原案書式の作品が載る。
たとえばプログラミングなども義務教育で教えるようになってきたらしいが、
「プログラミング科」ではなく、「国語科」で教えられるというところが、2の条件において肝要。 そして、そのような時代は今世紀の前半にはまだ来ないと思う。>>23に書いてあるように
まだ、ゲームを危険視するムキが存在するからね。
例えば、いいとこの坊ちゃん嬢ちゃんは、家庭教育によって、
ゲームをやる時間を抑制されるであろう。
1990年代に郊外型シネコンが出てくるまでは、
規制緩和によって映画館は繁華街でしか営業できなかった。
家族で見に行くような健全な娯楽作品を上映していても、「風俗営業」の扱いだった。
ゲームがいま、だいたい、国家権力からそんな扱いを受けている。 90年代以降は、映画に関しては、かなり規制緩和が進んで、
「パルプフィクション」「グッド・フェローズ」「HANA-BI」など暴力表現や麻薬表現などが
ある映画も、カンヌやベネチアで賞を取ったというような芸術的評価があれば
図書館の視聴覚コーナーで観られるようになった。
今村昌平の「うなぎ」も過激な性表現が冒頭から出てくるけど、
パルムドール受賞という裏づけがあるから、図書館に入った。
文化庁の補助金で作る映画なんかでも津川雅彦監督の『寝ずの番』なんて
獣姦やフィストファックありのシモネタのオンパレード。
やはり、表現の自由がかなりな程度保証されてないと、「文化の中心」には来れない。
ゲームはまだその意味でサブカル、アングラという位置づけだ。反逆的ではあるけど
政府からの監視もキツイ。
その情勢の中では、ゲーム原案文学とやらも、マイナーにとどまるだろう。 小説→近過去文学
ゲーム原案文学→近未来文学
そして、栄えある現代文学を担うのは・・・・レー(以下略) >>28
>レーゼシナリオが「ポスト小説」として浮上してきた
そんな事実あるのか? ポストって言っちゃいけないんだよお
殺戮と延命の両義性を持つ語だからね 小説は、花村萬月や島田雅彦など、作家自らが終わりを認めてるからね。
殺戮しなくても「すでに死んでいる」
レーゼシナリオは終わった。ポスト・レーゼシナリオ(ゲーム原案)の時代だという奴がいたら
そいつは確かに「ポストマン(やたらとポスト〜と言いたがる奴)」だ。 小説は、花村萬月や島田雅彦など、作家自らが終わりを認めてるからね。
殺戮しなくても「すでに死んでいる」
「レーゼシナリオは終わった。ポスト・レーゼシナリオ(ゲーム原案)の時代だ」という奴がいたら
そいつは確かに「ポストマン(やたらとポスト〜と言いたがる奴)」だ。 モダン(=小説)からコンテンポラリー(=レーゼシナリオ)ってことか。
ゲーム原案文学はフューチャーだな モダンの次は「ポストモダン」じゃなくて「コンテンポラリー」 「近代的なるもの」の、経済的様相が、
柄谷行人いうところの交換様式D(アソシエーションという社会構成体に対応する協同組合的transaction)で、
文学的様相がレーゼシナリオ。 「近代=モダン」の、経済的様相が、 柄谷行人いうところの
交換様式C(商業交換)で、 文学的様相が小説。
「現代=コンテンポラリー」の、経済的様相が、
交換様式D(アソシエーションという社会構成体に対応する協同組合的transaction)で、
文学的様相がレーゼシナリオ。 >>39=>>1か?
アンチ・レーゼシナリオ派が真実を攪乱しようとしている。 そら、現実に今のテレビや映画のシナリオ・ライターにレーゼシナリオは書けないよ。
そんな実力あったら、小説家や劇作家になって成功してる。 観察能力のある人はコピーライティングや
行動経済学や進化心理学にも行ってるね
未来予想のスレだからちょっとスレかりる 予言ごっこだと思って眉唾でいて欲しいんだけど
これから文壇サイドの作家で
句読点等の定量解析によってゴーストライター疑惑がでる作家が必ず出てくる
悲しいことにそこには女流作家も含まれているだろう
セクハラは愛人ビジネスにも繋がり、文芸評論の賞はもろに金だから容易にお抱え批評家を生み出しかねない
そもそも文芸作品の絶対評価なんか最初から不可能なんだからな
受験生的な傾向と対策、愚直に踏襲される成功パターン
才能ある人間の移動を語るスレにふさわしく
世は旧メディアを維持したいおじさんたちの手下であるアイドル作家芸能人作家だらけ
下地は整っている https://www.youtube.com/watch?v=PdIra3AQ4Xw
>>9
火星人ってプリンプリン物語のこれか。
「レーゼシナリオの次はゲーム原案文学だ」とか言ってる奴のテーマソングは、これだな。 >>49
♪誰にだって取り柄がある 私にだって取り柄がある 耳が回る 予感がする♪
新しすぎることを言って、着実な一歩前進を妨げる奴は
この歌で、からかってやればいいんだ。 ちなみに、「小説の時代が終わってレーゼシナリオの時代が来る」とかいってる人は
火星人ではない。地球人。
上にも柄谷とか島田とか萬月とか出てくるけど文学の専門家が
すでに「小説の終焉」宣言しちゃってるからね。 歴史もあるしね
芥川の「影」、谷崎の「月の囁き」あたりがが1921年だから
もうすぐ百年になる。
日本共産党と同じくらいの長さ。 セルバンテスがドンキホーテを書いたのが1605年で、世界最初の近代小説とされた。
『日本近代文学の起源』が英語にも中国にも訳されてるという意味で
近代文学論の世界的権威とも言える柄谷行人が
「近代文学の終り」を刊行したのが2005年。この本で、近代文学とは
小説中心主義的文学だと彼は言う。
要するに終わるまでに小説は400年の歴史があった。
一文学様式にとって、100年とは四コマ漫画の起承転結の「起」みたいなもの。
だから、レーゼシナリオは、その歴史がやっと一コマ目を終えつつあり、
起承転結の承がもうすぐ始まるという段階。
それに比べると、ゲーム原案文学は・・・・ :
::
`::.
:::.
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::(∀・( ´Д`)
r-( ( O┳O
.:i⌒<< ) 冊冊〉
:ヽ_ノUU(_)llJ
ヽ_ノノ
「まだ
始まっちゃいないYO」 × 英語にも中国にも訳されてる
○ 英語にも中国語にも訳されてる × 要するに終わるまでに小説は400年の歴史があった。
○ 要するに小説は終わるまでに400年の歴史があった。 新しいメディアが出てきたから古いメディアが消滅するということにはならない
テレビ普及後もラジオはあった。
最近「君の名は。」が興行成績の四位かなんかを更新したけど
ビデオどころか映画館で映画を見る人も依然として多いということの証左。
タイタニックとか「千と千尋」とか「アナと女王」とか上位を占めているのは
ネットやネトゲはともかくファミコンのようなインタラクティブなメディアも
十分に普及した後の製作だろう。 ファミコンはメディアとはあんまり言わないか。
ともかく、コンテンツを表現する機器の話。 興行成績は興行収入で計るケースが多いね。物価水準が考慮されてない。
でも、動員数で計っても、
東京オリンピックみたいなオバケ映画(ホラーという意味ではないw)を除いて
ファミコン普及後のものが多い。
wikiの観客動員数を見ればわかる。アドレスは長すぎて貼れなかったorz wiki 日本歴代観客動員数ランキング
で、ググれ レーゼシナリオは映画が発明されてから四半世紀ほどで
書かれ始めたようだが
ビデオの普及のように、映像劇が個人向け仕様になった後じゃないと
メジャーな表現ではありえない。
でも、日本では漫画という個人向け映像劇がビデオ以前から普及してた。 69ゲットしそこなった
くやしい
レーゼシナリオ最高!というほどでもない
普通! アマゾンで中古でも買えん
図書館の相互貸借しか手がないか 北川冬彦が伊丹万作を絶賛
その婿が大江健三郎
レーゼシナリオとノーベル賞は関係ありすぎ 大江の「厳粛な綱渡り」
ボールドウィンとノーマン・メイラー
レーゼシナリオ関係者の名が出てくる。前者は、ホントは普通のシナリオだけどね
芥川と谷崎も出てたか。佐藤春夫はどうだったかな?
芥川賞に反対側したから無視したかも 谷崎や芥川の名は、
文学的エッセイの厚い本だったら
一回も登場しないってのは逆に難しいだろう。
万作の息子の十三は晩年はシナリオの重要さを訴えて
三谷幸喜に接近したりしてたな。
また、レーゼシナリオがノーベル文学賞に近づいてしまった(十三代目ゴエモン風に)
十三つながり? 大江健三郎にもシナリオ草稿「革命女性(レボリューショナリー・ウーマン)」が
あるとか。 >>71
朔太郎のシネポエム「蟲」と「貸家札」らしい とくに、後者のほうが、「シナリオ研究」に掲載されたという意味で
ドンピシャリ 蟲のほうは、読んだら、違うみたい。
>>84のリンク先でも、「この前と同じく」という表現から誤解したが
「同じ」なのは、無意識を題材としたシュルレアリスムという点だけみたい。
シナリオ的ではなかった。 中上健次にも「南回帰線」という漫画原作の書籍化本があって
シナリオと小説の中間のような形式だとか。
しかし、中古品も高いね 春樹にもアフターダークがあり
大江にも革命女性がある
川端も映画製作に関与したこともあるというから
ノーベル賞受賞者や候補者は
レーゼシナリオに限りなく近い? 「狂った一頁」か。
地獄門でカンヌグランプリ取った衣笠監督の作品で
川端は脚本書いてるね.
柄谷と村上龍の対談でも話題になってたな 大江の革命女性、半分ちょっと読んだところだけど
そうとう面白い 大江はやっぱり怪物だな。
レーゼシナリオの開花は
ホームシアター(個人が見たいペースで映像劇を見られる環境)
の普及にあると思ってたが、レンタルビデオがやっと普及し始めた80年代後半
(前半もあったけどまだユーザーフレンドリーじゃなかった)に、「革命女性」みたいなのを
書いたのだから。 ナムジュンパイクのアートみたいにテレビが大量に並んだ壁が出てくるとか
軽薄なリポーターが出てくるあたりは
内田裕也主演の映画「コミック雑誌なんかいらない!」の影響があるかも。
あれもビートたけしがフライデー事件起こした頃にテレビ放映してたから
1986年あたりの公開か。
んで、「革命女性」というタイトルは、
冒頭に出てくるシーラ・フガードの本のタイトルそのままで
まあ、軽いノリの試作品だから、そういう適当な題なんだろうが
「宮沢賢治はまだ必要」なんていう風に改題してほしいな。
映画「コミック雑誌〜」のもじりというのと、
作品の内容(ヒロインによる賢治の一節の暗誦の映像を残すか否かで一悶着ある)との
ダブルミーニング。 「コミック雑誌なんかいらない!」1986年2月公開
「革命女性」同年12月雑誌公開。
やっぱり可能性あるな。
あの映画、「いいとも」の横澤彪プロデューサーが出てた記憶があるけど
横澤さんと大江さんはほぼ同時期に東大文学部にいたから友人である可能性がある。
そのよしみで大江さんがあの映画を観たのかも。
「雨の木〜」も有名人友達自慢が「いいとも」に似てると思ったが、これは小説のほうが先。
でも「いいとも」が「雨の木」の真似をしたのかも。 >>90
君が注意を促すのは良いが柄谷が蘇ってはいけないと思うけどね。 蘇る?別に廃れてないと思うけどな。>>97
ああ、確かに、交換様式論やり始めてからは「文学の人」としては廃れてるか。
だけど、この前の「文學界」でも、「文学という妖怪」がまた徘徊し始める時が来る
とも、言ってたよ。その妖怪がレーゼシナリオであることを祈るね。
実際、アンサイクロペディアでは、レーゼシナリオを鼻行類に喩えてるし
アイダホ大学助教授が書いた、ジェームス・ボールドウィンのレーゼシナリオ論でも
closet screenplay=レーゼシナリオを「odd thing(変なもの)」と呼んでる。
小説は浸透しすぎて妖怪ではなくなったから、次はレーゼシナリオが・・・ レーゼシナリオがノーベル賞に近づくどころか
ノーベル賞作家がホントにレーゼシナリオ書いてたってことになったな。>革命女性
>>94
「ミヤザワケンジはまだ必要」という風にカタカナにしたほうがいいかも。
「ミヤモトケンジ」と混同するような感じが、面白い。
あと「ミヤザワケンジがまだ必要」という風に助詞を「が」にしたほうがいいかもな。
主人公がもう三十代半ばなのに「娘」という役名になってるあたりからも、
そのほうがいい。大人になってもまだ童話が必要なのよ、みたいな。 あるいは義兄の伊丹十三の映画風に
「マル革の女」なんていうのもいいかも。
革マルじゃなくてマル革www キャスティングとしては、日本人のイメージとしては
娘=松たか子
灰色の服の男=石丸謙二郎
だな。もちろん約の設定に適齢期の頃の。
ハリウッドなら、娘=アマンダ・プラマー、灰色男=チャールズ・グローディン 灰色の服の男→灰色服の男
石丸さんはよく意地悪な役人を演じる人で
園子温のハザードのラストで税関はハマリ役だった。
三谷の「竜馬におまかせ!」でも、役人というのとちょっと違うかも、だが
アメリカ文化にアンビバレントな感情を抱き、バカ殿様を操って、
日本にジャズが入ってこないようにする家臣の役をやってた。
ところが、私生活では初代ストリーキングの実践者だという
奔放なお方。この二面性が灰色服の男にピッタリ。
松たか子は、こういうの好きそうでしょ。 >>101
もちろん、ハリウッドのほうも
役の設定に適齢期の頃の話。 >松たか子は、こういうの好きそうでしょ。
ブレヒトの「セチュアンの善人」を主演したり
エミール・クストリッツァ監督の「アンダーグラウンド」が好きだというからね。 >>94
>シーラ・フガード
アカデミー外国語賞を取った「ツォツィ」の原作を書いた作家の妻らしい。 「革命女性」
立教大学映像身体学科で上演
なんかファックポーズを撮られた香山リカ同科教授が
主演してるのかって感じw アマンダ・プラマー → 「ホテルニューハンプシャー」のミス流産
チャールズ・グローディ →「ミッドナイトラン」の会計士
>>101 wikiな
尾崎のところ、「にかかわらず→にもかかわらず」
に、直せ。
あと、羽鳥の「激レア」発言は書いといたほうがいいな。
あと羽鳥の記事も作っとこう。 あと「河馬に噛まれる」の記事は既存だから
リンク可能 「河馬に嚙まれる」にも「革命女性」を
あと「噛まれる」から転送 劇団ハーベストの「ゴーイングマイウェイ」っていう芝居
これが革命女性とキサラギを合成したような作品だとか
https://www.rocket-exp.com/s/R/item/detail/2981830136 川畑のTwitter見たら
大学生だとか。
立教大なら、羽鳥ゼミか?
あそこで、革命女性やったからね 川畑→川端→ノーベル賞
光瑠→光→ノーベル賞作家の息子
レーゼシナリオとノーベル賞が関係ありすぎて困る!wwwwwww
反権威主義的でありたいのに
勝手に向こうから追っかけてくるwwwwww助けて!wwwwwww 文芸誌での、蓮實重彦と筒井康隆の、大江健三郎についての対談で
セブンティーンについて、筒井が
バロウズ、セリーヌ、ノーマン・メイラーの影響がありそうだなどと言っていた。
三人ともレーゼシナリオ書いた作家だよな。大江もノーベル賞、
蓮實と筒井もフランスの芸術文化勲章もらっている。
権威のほうからレーゼシナリオに擦り寄ってきて困っちゃう!wwwwww 「猿とエッセンス」のハクスレーは「知覚の扉」という著作もあり
題はウィリアム・ブレイクの詩から取った。
「革命女性」の大江の好きな詩人もブレイクで
「個人的な体験」でも彼の詩や絵画についての言及がある。
レーゼシナリオ書いた作家たち、関係ありすぎ、つながりすぎ!
恥ずかC! シネポエム「貸家札」の朔太郎と
レーゼシナリオ「黄昏の殺人」とシネポエム「春風馬堤図譜」の佐藤春夫も
後者と同郷の西村伊作が主宰した文化学院とか
佐藤が谷崎から譲渡された妻が朔太郎の同郷だとかの縁で
交流があったとか。 レーゼシナリオといえば北川冬彦
北川が訳したのはダンテの神曲
神曲→ディバイン・コメディ→神聖喜劇→荒井晴彦
神曲→懐かしい年への手紙by大江→革命女性
また、つながりを見つけてしまった 来年は、谷崎が「月の囁き」
芥川が「影」を書いてから100周年
あと半年
「マジでKOIする5秒前」をもじって言えば、
日本人が「マジでレーゼシナリオにKYOUMIもつ半年前」!?wwwwwwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています