>>280
なるほど
あなたは本質より事実存在を先に見ている、だから宗教という概念を先立たせる組織は欺瞞が含まれる、とするわけですね
評価の対象は行動である、これは一理になりますね
神がいなければすべて許される、というわけですね
自己を社会と対にして自己の生を見つけている事が実在とするならば、宗教家も神に対して自己の生を見つけているとういう点で、ドストエフスキーもキリストを尺度として自己を措定したとは言えないでしょうか

イスラム教も、テロをする方を数えるならばテロをしない方も数えるべきだとは思いませんか
それもまた実存的な存在だと思うのです
何が言いたいかというと、行動から実存が先か本質が先かの判断を下すのは難しいのではないか、と思うのです

ならば、なぜ思いに欺瞞があるのでしょう
ならば、なぜ欺きが思想に被さってしまうんでしょうか