【早稲田大学】渡部直己6【俺の女になれ】
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>>583
君の言ってるのは日本マスコミに対する常識的固定観念だ。
細かいこと言って申し訳ないが、カウンターパートconterpartは同業以外の意味ではあまり
聞いたことないような。
状況が変われば、文春、新潮も書くだろう。
たぶん彼等は渡部擁護ソースを手ぐすね引いて待ってるんだろう。 ぶっちゃけ、直己の退職金っていくらぐらいなん?
額によっては同情するw セクハラ退職教授の擁護記事をあとから載せたマスコミってこれまで例あるの?
シャシャキにせよ栗原にせよ文壇をでかいものと考え過ぎ 2016.8.28
【文芸時評9月号】
おかしさがこみ上げてくるヘンな「私小説」 早稲田大学教授・石原千秋
蓮實重彦元東京大学総長がまたまたお怒りのご様子だ
(「『文学部不要論』の凡庸さについてお話しさせて頂きます」聞き手・渡部直己、同)。
「文系の学部で、若い人を惹きつける資質の持ち主がめっきりと減っている」とか、
「世間も知らなくて、すごくもないという人たちが大学にわさわさといる」とか、
一大学教員として耳が痛いことばかりだが、世界の大学ランキングについて
「その研究教育の機会に恵まれるのにいくらかかっているかを加味すること」を指摘しているのは、
なるほどと思う。これは、日本の教育予算のあまりの少なさをランキングに加味すべきだという意味である。
若い人が経済的に苦しいから、年金制度をしっかりして退職金を廃止せよという「天下の暴論」もある。
60歳以上の高齢者が総資産の3分の2を所有しているそうだからあながち「暴論」でもないが、
「六十歳から六十五歳ぐらいの人たちが数千万、時には一億ぐらいの退職金をもらって何になるのでしょうか。
後期高齢者になってから郊外に家を買うぐらいのものでしょう」とくるのはどうだろう。
こんな高額の退職金を受け取れるのはごく一部の人だけだし、老後は郊外の家を売り払って
(あるいは他県から移住して)便利な都心の高層マンションに引っ越すのがトレンドなのだが。
4moon27days
福嶋亮大の記事に対するは反論記事を読んだ。
「文学」はme tooをから溢れ落ちるものだと言う定義に対する定義できるものではないというのは筋は分かる。
しかし、メタ視点で言うと福嶋亮大は、あそこで引用されてるようなラノベを評価してきた人で、
そこに福嶋の保守的な?芸風の転向をみるべきでは。
2018年9月10日 柄谷、蓮實に憧れる人がいるのはよくわかるけど絓、渡部はカリスマ性とか限りなくゼロに近い小汚いオッサンて感じだからな。
小林秀雄以来の書くものと本人の魅力で惹きつけてあんな存在になりたいと思わせる能力が文芸批評家から消えた。 >>607
小林が特殊なだけ現代はまず小説自体がマニアックでそれに寄生してる評論家なんて専用業者のおっさんにしか見えないの 近いうちに、本を買う層のキャパも猛烈な勢いで減って来る。
文芸批評の書籍があったんだと、云われる時代も近いだろう。
現在40歳以下の貧困率の実態は相当深刻。 貧困だから文学が読まれないというのが間違い
歴史を見ればはっきりしている
純文学は貧困者のためのものじゃなくなっていた、というならそれは理解できなくもないけど、
それは自業自得というものでは フローベール持ち上げる以上、貧困と関係なくなるのは歓迎という方向では 知的好奇心の低下も貧困と言ってもよいのでわないか。
フローベールも今で言うところのニートに近いかもしれん。
日本の事情も特殊なのかもしれんが、先行き暗いのは一緒か。 十年以上前に大塚英志が文芸誌は不良債権だと言い、笙野頼子が花園を荒らすなと怒ったことがあったが、それでもまだ潰れていないのだから、まだ当分は(下手すると100年ぐらい)続くのではないか?
才能のある人はもう文学やらないだろうから、才能のない若者はニッチなところで楽して作家になれるチャンスがまだあると思うよ。 文芸誌は再販制度を維持するために出版は文化的事業であることをアピールするためのもの。
電子書籍に再販制度が適用されないと決まった時点で文芸誌の使命は終わった。 >>613
あの論争は決着どうなったんだっけ?
結局その二人とも筆だけじゃ食べられないから
大学教員やってるよね。 >>612
それで知的は誰が決める?俺が決める、
だったから今回みたいな事態を招いたのでは 大塚英志の評価をちょっと迷ってるんだよねえ、
彼は討論の場に出て来て意見合わないと平気で退席するんだが、
ある程度意見が合わないのが討論会という場だと思う。なら
はじめから来なきゃいいんだから。そこのところがワザとい。
対談でも、自分は未来に絶望してるポーズ発言とか、どうにも。
絶望するとか誰にでも言えるし、明るい展望を示すような発言
をすればいいのに。それにあのでっぷりとした腹まわりのだらし
のない体型とか、自己管理出来ない結果じゃないのと突っ込み入れとく。 自己管理とかサラリーマンじゃあるまいしw
作家はドラッグやってるんだよ? 今何が知的かは、文芸批評家ではなく、哲学者・社会学者その他論壇評論家が決めているだろ。彼らは哲学的・社会科学言説と私小説的な告白を混ぜて適当にやれる。 痴的の間違いでわ?
と、いふコトはシャシャキよ、お前さんの腹まわりも・・・・ >>620
お前は倉本さおりだろうが、佐々木敦の腹回りがでかいことや、チンポがでかいことぐらい佐々木の愛人のお前が知らなくてどうするよw
しらばっくれるのも大概にしろw >>617
大塚は感覚の部分で面白いところもあるが、トータルで見るとなんか?になっちゃう型の物書きだと思うわ
そういうタイプだから評論から創作に移行したんじゃないかな 「事件」の続報と四方田犬彦の初小説 “ニューアカ”の終焉
[レビュアー] 栗原裕一郎(文芸評論家)
渡部直己および早稲田大学大学院現代文芸コースのセクハラ事件についてはこれといった続報がない。
関係者は依然沈黙のまま、早大からの報告も、『早稲田文学』からの声明もない。
文芸各誌も事件などなかったかのようにスルーを決め込んでいる。唯一ライターの武田砂鉄が、
『文學界』の連載、『すばる』の長島有里枝との対談(ともに9月号)で言及しているが、
武田は文芸外部の人間である。部外者の批判で禊ぎに代えるというのは大手新聞などでよく見るやり口だ。
業界内の不祥事には目をつむるというのなら、
文芸誌は今後一切フェミニズムだのなんだのと口にしないでほしいものだ。
さもなければ私たちの議論しているフェミニズムは現実社会とは無関係な机上の空論ですと断りを付すべきである。
文芸誌8月号では、四方田犬彦初の小説「鳥を放つ」(新潮)が目玉か。
1972年に東都大学(明らかに東京大学がモデル)に入学した
明生(あきお)の2012年までの半生をモチーフに描かれるのは、
学生運動およびニューアカデミズムの総括である。明生の造形には作者の一面が投影されているが、
「四方田素子雄(すねお)」なる自虐戯画的な登場人物も現れる。
この二重化は物語上の仕掛けである「双子」とも呼応する。
明生に割り振られた、狂騒に対して当事者ながら醒めた傍観者でもある役柄は、
ニューアカを虚栄と突き放すラストを引き立てるが、評者は少々ずるいのではないかと思った。
四方田と渡部直己は一歳違い。ニューアカのようやくの終焉を告げる作品と事件が奇しくも並んだ印象である。 >>624
四方田犬の「鳥を放つ」はモロに、1977年芥川賞受賞作の三田誠広「僕って何」の二番煎じだろ。
こんなの書いて恥ずかしくない恥知らずだから四方田犬をやってられるんだろうw
全く恥ずかしいワン公だw 三田クンは中上に酒ビンでブン殴られた直後に、
こう言った、
僕って何? そんな武勇談を誇るお前が中上の犬ってことだな
四方田犬彦よりも、中上センパイの話でイキるシャシャキの方が哀れな存在ではないの? >>627
どこのシャシャキが中上の話でイキったんだ?
怒らないから言ってごらん。 三番目のシャシャキだよ
あたいは知らんけどホジホジ
ナオミはどーすんだべなあ
ヒデミもどーでるんだべか
シャシャキに聞いてみよう 四方田には師匠である由良君美が
とにかくエリオット上げの風潮であった
当時の英文学会と対立した時のことなどを
詳細に書いて欲しい 一応、断っておくと俺は阿保馬鹿カスボケ痴呆の佐々木敦とは別人であり、俺は佐々木や渡部直己、四方田犬、松浦寿輝らと比べて、遥かにずば抜けて頭が良いw
中上の「枯れ木灘」の付録に様々な媒体に掲載された、各批評家達の書評が載ってるんだが、その中に柄谷のもある。
曰く「『枯れ木灘』は、大江氏のように人類学者の便利な一般概念を外から導入しただけの旧態依然たる作品ではなく、いわば人類学的対象そのものである。」
俺は、中上については柄谷と全く正反対の立場。
第一、柄谷の言では中上は人類学的対象の北京原人みたいではないかw
あまり、誉め言葉とも思えないかもw アルバムの人、こんなところで頑張ってたんだ…。
早く二作目載せてもらえるといいね。 過激な菜食主義者ら逮捕=「肉」売る店次々襲う−仏
【リール(仏)AFP時事】フランスでここ数カ月、「肉」を売る店が次々襲われる事件が続き、過激な菜食主義者6人が逮捕された。
ファストフード店のマクドナルドや、チーズ専門店、鮮魚店も狙われ、窓が割られ、人間以外への差別「種差別」に反対する文言が壁に書き殴られていた。
仏警察の12日の発表では、北部リール一帯だけで6人は5〜8月、9カ所を襲っていた。
残されたDNAや通話記録から警察が家宅捜索を行った。6人は「黙秘している」(警察)という。
食肉店などの業界団体はこれに先立ち、血に似せた赤い液体を店などにまかれる被害が全国で続出中と警備強化を内務省に訴えていた。
最近も、仏北部カレーで菜食主義者が計画していた集まりの横で、不満を募らせる酪農家や店主らの団体がバーベキュー・パーティーを企画。一触即発の事態になった。
(2018/09/15-18:24)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018091500457&g=int 実際は大江の方が人類学的対象として優れていたと思う
中上は半端な自意識が邪魔をして無頼文士キャラにおぼれて自滅した人 渡部騒動あたりから露骨に村上批難、中上ageする勢力が工作をはじめたよな
完全に渡部一派の論壇連中なんだけど >>637
君は作家か批評家なの?
俺は無名の一般人だが。
俺は渡部なんかに全然、同情なんかしてない。
だが、ひょっとして創価のハニトラの可能性もあるなと思ってるだけ。
村上春樹には関心ない。
今んとこ渡部に味方したのって福嶋と新潮社ぐらいだろ。
スガなんてスカシッペだけ。
中上は渡部セクハラと無関係だ。
批評空間と全然、違うとこから中上を俺は評価しており、批評空間派には批判的だ。
何でもかんでも派閥観点で見るの迷惑。 枯木灘って部落だなんだって情報なければ地方の田舎町の生活は生々しく描かれてるけど部落と関係ある小説とはわからないよな。
部落を路地として描くと美学的なものになるのはいかがなもんなんだろう?
現実の部落はあんなもんではないんじゃないかな? リアルタイムでそういう批判は散々出てたが、
中上健次存命中は本人が有無を言わせずそういう異論を潰すことができた
ああいう人、こわいっしょ
それが祟って死後ぱっとしないわけよ 中上の「路地」を評論家達が正しく読解できなかったのが、中上にとっては痛かった。 中上の「路地」を部落差別の文脈で読むべきではない。 取り敢えず、中上健次について大事なことは言っておいたw 中上自身の意識は知らんが中上の小説を反差別の文脈で読むのは無理があるんじゃないかなあ ハニトラに決まっておろう
俺のオンナになれ?
いつの時代じゃろ >>644
反差別も差別の文脈に含まれてる。
そういうのを取り敢えず除いて、中上を読むべきと俺は言いたい。 オトコって太るとなして中上みたいな顔になるんじゃ? nozaの日記
2003-07-11 渡部直己『かくも繊細なる横暴』について(その2)
■金井美恵子と中上健二
この二人についての対比がされている。
どちらも、ヒューム=ドゥルーズ的な分子のランダムな運動を捉えている点は高く評価されるが、
中上は最終的には、人間という形象を手放せなかったゆえに、
聖と俗という図式に惹き付けられてしまう、という分析だ。
この分析には納得出来ると動じに、やや不当なものにも思える。
丹生谷貴志が書いていたドゥルーズとフーコーの違いを思い出す。
ドゥルーズは分子のランダムな運動を徹底的に肯定して、それが人間という形象をとらなくなることさえ考える。
動物になる、というような生成変化への肯定は、よく知られたところだろう。
一方、フーコーは、そのようなドゥルーズ的な生成変化を最大限に称えつつも、
あくまで自分は人間という形象を手放さない(手放せない)。
では、それはフーコーがドゥルーズより劣っていることを示しているかといえば、そうではないだろう。
フーコーには、同性愛、監獄、精神病院というような、
人間という形象が権力作用の場となるようなものが常に念頭にあったから、そうなっているのだと思う。
似たようなことが中上についてもいえるのではないか。中上については、当然、差別ということが問題になる。
そこを、一気にランダムな分子の運動を肯定するという話にするわけにはいかないだろう。
あるいは、ランダムな分子の運動として捉えられた人間という形象が、なおも問題となるというべきか。
これは、ヒューム=ドゥルーズ的な転回の後で、主体や歴史をどう考えるかという、より広い問題だ。
ただ、『異族』の中上が、そのような理屈では救えない程に図式的なのは確かだ。 金井美恵子についていえば、目白4部作以降の作品が殆ど考察されていないのは気になる。
68年を表題にするのであれば、いわゆる芸術的な作品だけでなく、
目白4部作的なものも当然に主題にするべきなのではないか。
このような「通俗的な」作品を扱いきれないところに渡部の分析の欠点も出ているように思う
(金井美恵子に言わせれば、「渡部直己は映画を観ないからだ」という話になりそうだ。
映画の魅力が、その通俗性にあるのは確かだろうし。小説もそうだろうけど)。
■大江健三郎
大江はブランショ的な「遠ざかりの現前」としてイマージュに魅せられつつも、そこから撤退した、という批判。
大江とイマージュの問題を結びつけるのは新鮮な視点であって、面白い。
ただ、イマージュと小説がそう簡単に結びつけられるのかという疑問は残る。
単純に考えて、イマージュと素直に結びつくのは、映画とか絵画だろう。
絵画は詳しくないが、映画なんか鏡、とか似姿とか、そんなのに満ち溢れている。
その一方で、そのような主題の小説...
渡部は、『万延元年のフットボール』を大江の頂点と見ているようだ。確かに、一つの頂点であることは間違いない。
が、『懐かしい年への手紙』『キルプの軍団』『静かな生活』のような後期の作品も素晴らしいと思う。
これらの作品は渡部の批判には回収しつくせない面白さがあると思うのだが、うまく語れない。
この時期の大江について、何か書きたい、というようなことを蓮實重彦が書いていたと思うのだが、
結局書かれずに終わってしまったのだろうか。
後、中上の作品が大江批判としての側面を持っていることが指摘されている。これは正しい指摘だと思うが、
一つ、大江にあって中上にないものがあると思う。それは、ユーモアだ。
中上も小説が優れたものであることは認めても、どうしても好きになれないのは、この点が大きい。
大江のきまじめなユーモアとでもいうべきものが私は好きなので、
そこの考察もあるといいかもしれない(ややないものねだりですが)。 近代哲学はキリスト教哲学の神を科学技術に置き換えたものだとおいう指摘は誰が最初だったんだろうね
ソーカル事件とか、日本だと福島以降の反原発運動とか、
文系のそういう理論とそれに対する理系による反論は興味深い 「近代人は聖書の代わりに新聞を読む」なんていうのはよく言われる 悪いけど、渡部直己、市川、スガ、小谷野、栗原、田中、福嶋らはゼロの人と思ってる。
全然、問題にしてませんw
浅田、柄谷、蓮實は有害という意味では問題にするしかないでしょう。
読むなら、外国の批評家だけで良いでしょう。
まじな話で、明治維新の時に匹敵するぐらいの危機意識を持って、近代以後の日本の文芸批評は全部、捨ててかかった方が良い。
そのくらい、日本の文芸批評はガラパゴス化してる。 御仏蘭西のオブンガクも形骸化している。
ガラパゴスでもゼロでも人材乏しくても居ないよりかはマシ。
非常にレベルが低いハナシではあるのだが、
スピノザとニーチェとキルケゴールを読んだ後に、
柄谷の『意味という病』を読んでみたらよかんべ?
小説といふか散文はプルーストとフローベールあればヨカよん。他イラネ。 プルーストとフローベールが優れた作家なのはわかるが
文学の分析として他イラネは駄目なんだけどな
時代の中で独自性や制約があるのが芸術というものだ
他イラネ系の言説って研究としては失格で
そういうのはプロパガンダかプロパガンダに引っ掛かってるかどちらかじゃないかという疑問がずっとある んだがら、非常にレベルが低いハナシではあるのだが、って、言うとろお!! 大杉重男
「祖先以前」あるいは「子孫絶滅以後」から見た「文学史」 (09/14)
高橋を代弁する「ピン」は、女弟子への欲望を内面に閉じ込めて実行しようとしない花袋に対して
「押し倒しなよ」「どうしてやんないわけ」と批判するが、
このような形の「内面」批判(非常にバブル的な感性を感じる)は、
渡部直己問題を考えると、既に失効したと感じられる。
漱石(二葉亭と違い文学を捨てなかったのに文学を「懐疑」したとして言わば「名誉二葉亭」的に称賛される)によって
自然主義が乗り越えられた(あるいは少なくとも乗り越える可能性が示された)という「文学史」は、
もはや完全に批評性を失った紋切り型以外のものではなくなっている。
メイヤスは人類が登場する以前(それをメイヤスは「祖先以前性」と名付ける)の宇宙の出来事を、
現在の人類が科学的に認識できるのはなぜかという問いを建て、
すべてを超越論的主観性の枠に閉じ込めたカント哲学を批判する。
メイヤスに言わせれば、それはむしろ「プトレマイオス的反転」であり、
近代科学の可能性から背を向けて主観性に閉じこもった反動的身振りだった。
漱石の「父母未生以前」は現在の「私」がそれと神秘的な(超越論的と言っても良い)
関係性を持つことのできる対象である。
そのことによって漱石はカントがそうしたように、世界を主観化し、「物自体」を排除した。
この漱石的主観性は、柄谷行人が作った日本近代文学史の枠組において特権的な位置を与えられ、
高橋版『日本文学盛衰史』はそれを継承することで高橋の文壇的地位を確立させた。
高橋版の結末は「ぼくは瞑目する。/すると微かに聞こえて来る、滝壺の向こうに落ちていった一千億人の悲鳴。
耳を澄ませば、その中に、確かに未来のぼくの悲鳴も混じっているのだ」という文で結ばれるが、
ここで高橋は、人類全体の運命を自身の超越論的主観性の中に閉じ込め、
そのことで、自身が小説家であると同時に批評家でもあることを保証し、
他者からのどのような批評をも無効にする最強の鎧としての「文学史」を所有する。
私は、この「文学史」を破砕するのに、「祖先以前」あるいは「子孫絶滅以後」の視線
(その視線の主体は必ずしも「機械」やAIとは限らない)を導入したらどうだろうかと考える 作家一個人が文学史語ったってどうなんでしょ、
ジャンリュックゴダールの映画史だって、これが映画の全歴史だとは言ってない。
ドゥルーズのシネマだってそうだと思う。
それよりも文章読本なるモノの批判はすべきかと思ふ。 岡田英弘の主張だと歴史は二種類あって
西洋のヘロドトスから始まる対決の歴史
東洋の司馬遷から始まる正統性の歴史
ふたつは水と油なのに日本人は気づかず世界史を語ろうとすると
日本の文学者が語る文学史はどっちなんだろう >>651
>近代哲学はキリスト教哲学の神を科学技術に置き換えたものだ
>とおいう指摘は誰が最初だったんだろうね
ドストエフスキーの時代にはすでに言われている
実際は絶対王政期のフランスで教権が低下したのと入れ替わるようにして
科学主義の地位が向上しただけなんだけどね
都市経済の拡大で王侯貴族よりも法官貴族やブルジョアジーが台頭し
この勢力と啓蒙主義知識人の科学主義が結合した >>659
プロ芸なら前者だけど
私小説系の諸派の正統性を検討するものなら
後者に傾くだろうね 文学史は本質的にスカスカに抜けている。時代順の文学史より、
編集推敲をして文学史を残すべきでは。一冊の本にはのこさないように。手がかり、
宝箱。隠して。 宝箱を巧妙に隠したら、ダレガレも気づかずに忘れ去られたとさ。 >>663
それを言ったらフランス現代思想も似たような物では それはフランスにおける哲学と日本における哲学の差異をすっ飛ばした暴論
日本は狭い 千のプラトー読むと
知的ハッタリを愛でる国民性だとわかる
そういう自由さやファンタジーを楽しむ姿勢は
文化程度が高いのだ、しかし愛でる対象の
程度が高いかどうかはまた別の話 そうやってフランスを俯瞰できると思える心根が頭悪いと思うわ ドゥルーズはまだできてないね。確信あるよ。アンチオイディプスもひどいありさまだ。 コラージュっぽいもん
カッコいいフレーズを書き溜めてるんだわ 検索すれば、ドゥルーズはかなり面白いことを言ってることが分かる。
それは認める。 猫飛ニャン助
「姦淫するなかれ」と云へることあるを汝等きけり。
されど我は汝らに吿ぐ、すべて色情を懷きて女を見るものは、旣に心のうち姦淫したるなり。
もし右の目なんぢを躓かせば、抉り出して棄てよ、五體の一つ亡びて、全身ゲヘナに投げ入れられぬは益なり。(マタイ伝)
2018年9月2日
こぐま
なにこれ、「汝らのうち、罪なき者まず石をなげうて」てこと?
あんた最低だよね…
最初は言及しなかったけど、〈MeToo(女の)はありうべきフェミニズム戦術だが〉という部分もかなり最悪だよね。
「Me Too」といって立ち上がった者たちの被害と主体性が「ありうべきフェミニズム戦術」に解消されているという。
中西B/N・B
文学的ではあるんじゃないでしょうか?、聖書は口語訳がネットにあるんで
そっちを引用してツイートしようとしたけれどちびちび遠まわしでツイートしてたら
そこまで行き着かないうちに時間が。
聖書ならこことヨハネ福音書の「姦淫の女」は一見まったく矛盾しているのですね、それを両方やる(続く)
のが言葉狩り(差別批判)の条件だったですよねという話です。
この矛盾はイエスの態度は男性と女性に対してで違うといえるから
今ならイエスは男性差別だって批判されてもおかしくないw。
スガさんの引用の意図はわからないけれど両方やらないといけないのは変わらないはずと返したかったわけです
こぐま
「すべて色情を懷きて女を見るものは、?に心のうち姦淫したるなり」と言い、
「もし右目がこれに背くのならえぐりだしてしまえ」と言うのはまあ常識的な感覚で言うなら極論なわけですが、
田川建三あたり、ここをどう解釈しているんでしょうね。
2018年9月3日 baphomet@ロイド•ヘルゲートZ世
これは、「愚行権」の行使が生政治における生権力への抵抗たりうるか、というお話で、
喫煙習慣を持つ左翼「男性」がそれを素朴に信じていることと、
彼らが渡部直己のセクハラを容認、隠蔽する「ホモソーシャル」なコミュニティを形成していたことは、関係があると思う。
2018年9月17日
猫飛ニャン助
私が喫煙という「愚行権」を行使しているのは、友人のセクハラという「愚行」を容認しているの同じだという意のtw見たが
(容認などしていない)、そういうバカに向けてマタイ伝のイエスの言葉を引いておいた。
それを、イエスの真意を田川健三の解説に求めようとするのも、日本的権威主義的の愚の骨頂。
こぐま
スガ秀実先生が田川建三を引くのは権威主義うんぬんって言っているの、私以外の誰にもわからないと思うけど、
私へのイヤミなんだな。く、くだらね〜、スルーするんなら徹底してすりゃあいいのに。
ちなみにスガ先生へのコメントは最初の「下劣」で十分足りてますんで。
猫飛ニャン助
何を「うぬぼれてる」んの? キリスト教だと、何でも田川って輩はいっぱいいるよ。
もちろん、あなたも含めてだが、そのひとたちへのイヤミ。
こぐま
「あなたも含めて」だったら何も「うぬぼれて」(!)ないじゃん。私の言った通りなんでしょ?
2018年9月18日 レベル低いな
難しい問題じゃないのに
metooもそうだろう
今まで被害を黙ってたやつが名乗り出ただけだろう
アホくさw 新潮45の小川栄太郎の記事、つまり男には性欲というものがあるけど何とかしてくれってことを
拙劣に言っているだけでしょう(女にも性欲はあると言わないところ、保守反動丸出しだが)
新潮45はバズらせようとして載せているだけで、それにつられてポリコレ棒振り回して新潮45の挑発に乗ってるのも、おバカだね
スガが聖書引用してからかってるのも、そういうことで、イエスの言葉は「極論」と言ってしりぞけられることではない
で、マタイ福音書とヨハネ福音書のイエスは、学問的に同一人物と同定できるのかね? 女にも性欲あるだろう
何を言っているのか
聖書の引用も何が重要かわからない
社会問題への悶々とした気持ちを
それらしく哲学チックに述べただけ
そういう姿勢がアホくさい >>681
これ
新潮45は典型的な炎上商法だよ
完全にビジネス スガの自己宣伝うざい。
こいつらの議論全然、盛り上がってねーしw ま、インターネットを成り立たせてるのは男の性欲が元のポルノだからな。
文学のリアリズムの生みの親もフローベールの性欲だし、仏教はポルノ的彫刻によって
信者を増やした。
サドの性的攻撃性がサディズムを産んだのは画期的な出来事だろ。
田川健三は世界的にはちっとも権威じゃない。 栗原裕一郎
渡部直己と早稲田現代文芸コースの件に関してはかたくなに口をつぐんでいた文芸関係の方々が、
『新潮45』の件に関してはここぞと批難してやまない。
その力学のあり方に、小川なにがしの原稿がどうしたよりも興味を引かれますね、正直なところ。
2018年9月19日
minamiwa
新潮社出版文芸部はワセブンセクハラ渡部直己氏だんまり、百田尚樹先生の殉愛だんまり、
終末論商法だんまりと普通に極悪思想一味だけどね。
2018年9月19日
issaku
『新潮45』の件でいろいろ言ってる作家さんたちが
渡部直己の件で同じくらいいろいろ言ってくれたら評価するんだけど、そうはならないんだよな笑
2018年9月19日
悪の『新潮45』と良心的な新潮文芸部というわかりやすい対立図式を作って
見事にギャラリーを躍らせ雑誌を売ったということなら、
やはりこれは新潮社社員の知性ということになるのだろうな笑
2018年9月20日 >>686
みんな市川は生き延びると判断してるんだろうね。
だから市川ににらまれたくない。
そこまで市川とワセブンって力を持ってしまったんだ。 川上に関しては、デビュー近辺では文壇のハラスメント体質を逆手にとってのし上がったんじゃないの。この板でもそんな感じで罵られているし。
この件では被害学生に対して直に何かしたわけじゃないからグレーですらないと思うが >>686
これほんと栗原だけ極めてまともだわ
他の奴らは政治やってるゴミしかいない 栗原って浅田や柄谷、蓮實を批判できんでしょ。
それなら意味無いんだよ。 >>696
浅田、柄谷、蓮實は現代で最も有害な批評家だから、それへの批判を避けていては
しょうがない。
栗原の力量が無さ過ぎてメディアがもったいない。 まあ力量はないわな
そもそも文芸の人じゃない
音楽ライターが書いているだけだから 有害かどうかは置いて
その3人が見いだした作家って誰なんだろうな 中上じゃねただマイナーだわハルキの方がマシだし3人とも人を見る目はないね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています