【早稲田大学】渡部直己8【俺の女になれ】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>203
バカで倫理観のない奴ばかりだってバレちゃったわけじゃん。 カッコつけで極論に振れる癖を直さないと
ネトウヨの熱気にあてられてるんだろうが
君のお気にのワードでいうと「ダサい」 借金背負ってまで行くようなところじゃないだろ。借金背負ってでも行く価値があると思うか? 人生で本当に必要な知性は大学じゃなくても学べるって別に極論でもなんでもないよ。本当に大学で学びたいなら授業に潜ればいいよ。今そういう事できるのか知らないが。 価値あるかなあ。本当に指導を受けたい教授がいるなら価値あるのかも知れないが。 大学以外でも知識獲得はできるだろう
そんな話はしていない
お前はある事件の大学の対応への不満から
大学に行く価値がないという主張をしている
冷静な議論じゃないよな 自分には無駄だったという代わりに
一般論で仲間を増やしてみるというメンタルはどうかな
みんな無駄だったろ?ね?ね?
こういうのはダサいよw 集団レイプに集団殺人
集に頼んで生きる体質が早稲田を狂わせているんだよな >>210
ダサくて知性のかけらもない連中の巣窟だって今回露営したわけだろ >>211
別にそんな事を言ってるつもりはないが、経験論として語って意味あるか?「俺には意味あった」「なかった」って言っても、あなたはそうなんですねで終わりでしょ。 >>212
集団殺人もしているんですね!とんでもない大学だな… 浅田彰も経済学部だから哲学は独学みたいなもんだよね? みんなそうなんじゃないですかね。大学に行く事に意味がないとは言わないけど、本当に何かを学びたいなら勉強は一人でもできるよ。大学でなければ学べない事なんて非常に少ない。 セクハラ・パワハラで教授解任 早大
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41353530V10C19A2CC1000/
早稲田大は15日、学生へのセクハラや職員へのパワハラを続けていたとして、商学学術院の50代の男性教授を同日付で解任したと発表した。
男性教授は事実関係を認め「ハラスメント行為をして反省している」と話したという。
早大によると、男性教授は2015〜17年、自分のゼミで複数の学生に対する性的発言や身体接触などのセクハラ行為を繰り返し、
精神的苦痛を与えた。13〜18年には複数の大学職員を大声でののしるなどのパワハラ行為をしていた。 名前は出ないが、ホームページからは消えるから確認はできる 安里さま
そもそも蒲団は名作なのか
時代を超えて知れ渡ってますが読まれているのでしょうか
今回のセクハラ事件を踏まえた小説を被害者と加害者が共作すればいいと
何故か女子中学生のノリで名作が誕生するとキャッキャッとしておられますが
被害女性が壮大なスベリ芸に強制参加させられるようなものかと 渡部直己やスガ秀実が この先読まれるか?。 読まれるわけがない。 今だって言われていないのだから。 そんな事を言ったら小林秀雄すら誰も読んでない(誰も読んでいないからこそ小川榮太郎などという箸にも棒にもかからないようなゴミが小林秀雄研究者を名乗れる)のだから、日本の批評家が今後読まれる日など未来永劫来ないと思う。 大学の方がマシという結論
Pは大学進学率が低い時代のやつ(つまりけっこうなジジイ)という印象 お前の話は支離滅裂であまり偏差値が高くないという印象 ギャグが通じなすぎて脱力するわ。5ちゃんねるでそんなセンス求めても無駄なのかな… いつだってそうなんだよな。マジレスは嫌いじゃないけどさ。冷笑よりはマジレスの方が尊いに決まってるよな。 実際のところ
渡部直己の文章は凝りすぎてて読みにくい
小川榮太郎は旧字体が多過ぎで読みにくい
にもかかわらず、それをエクリチュールの実践だと勘違いしていて、得意気にやってるのが両者の共通点 21世紀に旧字体使うって私はウヨですよ〜ってネトウヨにアピールしてるだけだよね。 渡部が語学がどの程度できるか知らないがなんで『 テクスト』とか カタカナ使いたがるの。 馬鹿かと思うわ。 小川榮太郎の 旧かなづかいと確かにいい勝負。 【社会】早大スーフリ事件「和田サン」懺悔録。現在は別名、15年の“塀の中”生活を明かす★2
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1550982639/
渡部チェンチェイも懺悔インタビューやってほしいな 性暴力や児童ポルノを題材に…大学の公開講座を「セクハラ」と提訴!美術モデルが怒りの会見
2019年2月27日
弁護士 太田啓子
見出しはミスリーディングでは。大学は「セクハラがあったと認めた」のだから。
「同窓会にも出席するなと言われましたし、モデルとしての仕事場としても入ってはいけないと。
そこまでして被害者を黙らせるというか、徹底的な排除には、私はすごく憤りを覚えました。」
原告が「一番許せない点」というのは、セクハラと大学が認めないことじゃない
(大学は、セクハラ対策の不十分さは認めてた)。
認めた上で、被害者を徹底的に排除しようとしたその態度でしょう。組織の事後対応として問題では。
それを理解もせず事前に調べろとか嘲笑する数々のツイートにはうんざりする
「大学側は講座の内容についてセクハラがあったと認めながらも、
示談の条件として今後、大学に一切関わりを持たないなどの内容を提示したという」
前段と後段のこのちぐはぐさ。セクハラあったと大学は認めた訳で、
提訴は認めさせるためじゃなく被害者を排除する二次加害ともいうべき対応への抗議では
セクハラかどうかは原告と大学の間では決着ついてたわけで事後対応が問われてる。
セクハラだってことは認めたのに大学が被害者を徹底排除しようとしたなんて、ひどい二次加害では。
こういうことに声をあげる人を疎ましがったのか、「著名な講師への配慮」を優先したのか、どっちでもひどい。
2019年2月27日 会田誠と渡部直己の 問題は全く別次元。 会田誠は別に モデルの女性を口説こうとしたわけではなく純粋に 見解の相違の問題。 合田にも落ち度があったとは思うが モラルに反していると非難される問題ではない。 渡部は 弁護の余地なし。 モラルには反してると思います。でも渡部直己が権力関係を利用してセクハラした問題とはレベルが違いますね。もちろん渡部直己のほうが悪質。 同次元の部分もある
それが大学組織自体の対応の不味さ
つまりトラブルが起こった後の行動 >>230 渡部直己と小川榮太郎は似てると俺も思うね。 二人とも頭が悪いのに 自分では良いと思っているとこそっくり。
思い込みが激しいところも。 https://togetter.com/li/1178788?page=3
ここで渡部と佐々木敦の対談イベントを巡ってのレスが展開してるんだが、
これを読んでもエクリチュールとは何か分からないわな。
というか、渡部も佐々木もエクリチュールが何か分かってない。
渡部のエクリチュールって佐々木敦その他、早稲田文学界隈でしか通じない。
大体、渡部も佐々木もエクリチュールを定義できないだろ。
だが、早稲田主導のゲンロン批評再生塾じゃ、エクリチュールそのままで通じる。
これがおかしい。
実は全然通じてない。 結局、現代言語学の基礎がないから
フワフワしたタームで踊ることになる エクリチュール(仏: écriture)は、パロール(話し言葉)に対して用いられる、哲学用語の一つである。現代において、エクリチュールとパロールの二項対立とその差異に注目したのは、フランス現代思想家のジャック・デリダである。
したがって、哲学思想において、エクリチュールと呼ぶときは、まず西欧社会にパロール本位主義(音声中心主義(fr:Phonocentrisme))があるとし、それに潜んでいた倒錯を暴くためのシステムが問題となる。
それは、脱構築のための最初の手立てであった(詳細は「脱構築」を参照)。
しかし、たとえばモーリス・ブランショにおいては、本質的に死を含む言語活動として、またロラン・バルトにおいては、快楽の知的媒介として、それぞれ機能している。エクリチュールは、話し言葉に対して、書き言葉の特質に注目したときに用いられるタームである。
したがって、その思想家の数だけ、その意義が存在すると言っても過言ではないため、留意が必要である。 エクリチュールなんて簡単。「 書き言葉」 それだけのこと。 日本語だって日常話してる言葉と 哲学や文学の言葉は違う。普通に書き言葉とか 文学用語思想用語といえばいいのに。カタカナ使えばかっこいいと思ってる渡部がバカ。 小川榮太郎の 旧仮名遣いといい勝負。 エクリチュールについては、実は欧米の文学研究家たちの間でも定まった定義は多分、全くない。
バルトが文楽について論じながら、エクリチュールに言及することが先ず、迂遠過ぎる。
他の著名な欧米の文学研究家達も似たり寄ったりで明解に説明できる人はいないような。
だが、彼等がエクリチュールに接近しようとする姿勢は分かる。
むしろ、エクリチュールに関心ある日本人はバルトに文楽について説明するべきだった。特に日本の古典文学研究家達。
だが、今の世界のナラトロジスト達はエクリチュールに殆ど関心がないのが現状。
渡部直己の場合は当然?バルトのエクリチュールが根底にあるんだろうが、バルトのエクリチュールの一例は、文楽鑑賞で言及した「writing of the performance」が挙げられるだろう。
エクリチュールの定義についての混乱は、そのままナラトロジーのストーリー、ナラティヴ、ナレーション、プロット、テキストなどをセットで考えようとする時の混乱と対応してる。
少なくとも日本には、こういう事柄をセットで考えてきた歴史が無い。
ただ、バルトにとって日本の古典芸能がインスピレーションになったことには深い意味があると思う。
writing of the performanceというのはオリエントの伝統だが、しかし遡ればそれは
むしろオクシダントが起源なのだと思う。 パロールやエクリチュールも人間が人間のためにやっていることではないのだろう。 文字言語中心主義の東アジアではエクリチュールの問題意識がどうしても飲み込めない。 渡部が エクリチュールが重要だと思うのであれば フランス語で書いてフランスの雑誌にでも発表すればよかった。
提義すら曖昧な概念を 得意気に 自分だけわかったふりをして帰っている馬鹿。 >>249 小説の技術本読んで 小説がうまく書けるなら誰も苦労はしないだろう
。 渡辺は 大学生ってフランス語の用語ブンブンするバカに
騙されるからなあ
俺もそうだった >>250 訂正 誤って送信されてしまった。
渡辺→渡辺ね。続ける。渡辺は 批評家のはずだ。 批評家というのは 小説のハウツー本書くことじゃない。 そんなものが書けるなら自分で書いてみろ。 大学の文芸科がいかにいい加減かという証拠。
それともアランや ロランバルト や小林秀雄や吉本隆明や 柄谷行人が 小説のハウツー本だしたか? 救い難いクズ。 俺はエクリチュールについてしばらく考えた。
バルトやデリダも明解に定義できなかったエクリチュールこそ、天才の俺が定義するに
ふさわしい。
無論、渡部直己や多和田葉子、市川真人ら早稲田文学の連中や東大の蓮實重彦や
松田寿輝らには手も足も出ないエクリチュールとは何か。
大体はエクリチュールの起源は古代ギリシャ対ペルシアのサラミスの海戦時にギリシャの
将軍テミストクレスの家奴隷でドラゴマン(通訳交渉掛かり)を任されて活躍した
Sicinnusだろう。
これを機に古代ギリシャの民主主義が起こった?
古代ギリシャ人がバーバリアンと呼んできた民族たちの主力はペルシャ人であり、
オクシダントの代表として彼等蛮人との対決の中でエクリチュールは多分、発生した。 新垣隆
「私は、お金とか名声が欲しいのではありませんでした。佐村河内の依頼は現代音楽ではなく、調性音楽でしたから、私の仕事の本流ではありません」
「彼の申し出は一種の息抜きでした。あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者だったら誰でもできる。どうせ売れるわけはない、という思いもありました」
「自分が作曲した作品が、映画音楽であれゲーム音楽であれ、多くの人に聴いてもらえる。その反響を聴くことができる。そのことが純粋に嬉しかったのです」
蓮實重彦
「黒田さん(の作品)は傑作であり、私の書いたものは到底傑作といえるものではありません。
あの程度のものなら、私のように散文のフィクションの研究をしているものであれば、いつでも書けるもの。あの程度の作品というのは相対的に優れたものでしかないと思っております。」
渡部直己
「俺の女になれ」 中沢忠之
渡部直己のセクハラ問題であれほど騒いだ人たちが、会田誠氏のセクハラ問題は我関せず。
ジャンルが違えばどうでもいいのか? 文学と美術はジャンル的にけっこう近いけどね。
セクハラなんて本当はどうでもいいんだろう?w
田畑暁生(Akeo Tabata)
全く種類の違う問題だと思うが・・・
中沢忠之
おっしゃる通りです。
いちおう話しておこうかな。
会田誠氏の件は、セクハラ認定は外からは判断しようがないところがあるので、
僕には当の作家がどういう態度を示すのかだけに興味がありました。
会田氏の態度は以前の筒井康隆氏てんかん差別問題の時とけっこう似てると思いました。
てんかん差別問題も表現の自由の問題とともに、教科書問題でもあったんですね、
会田氏は、美術(文学)とはこうあるべきだという思いがあるんじゃないかな。
それはやはりジャンル聖域論だと思います。どこでも自分の作品は通用する。
僕は、表現はどんなジャンルであれ、
そのつどの文脈のレギュレーションがあって、それを読み込みながら発していくものではないかと思います。
Aという場所ならここまでできるけど、Bはここまでおさえよう、とかね。
ホワイトキューブも、学校の授業も、自分の作品は普遍的に受け入れられるべきというスタンスは、
僕には理解できません。
2019年3月8日 荒木優太(本が出たよ)
昨日も雑談で喋ったけど、批判すべき対象ってこの世にごまんといるわけだけど、
批判文書いても商業主義的な誌面には載らないし、ってことはネットのボランタリーでやるしかないんだけど、
それやったからってウゼー奴だって原稿依頼も来なくなるし、俺の人生は有限だし、やる動機づけって皆無なんだよな
著者や編集者や出版社が改心するわけでもないし。で、真っ当な批判がなくなるとどうなるかっていうと、
匿名の悪口合戦と集団クレームで敵認定した奴を量的につぶすって方向しかなくなるんだよ。
「ここまではいい/ここ先は大いに問題だ、なぜならば〜」という批判(分割)が全くできなくなる。
こういうことの積み重ねが、世の中をどんどん悪くしていると思うが、別に悪くなってもよくね?
ってみんな思ってるんなら、まあやっぱりどうでもいいことかもしれない。
考えてみりゃ、俺も義侠心が強いわけでもないしな。
2019年3月6日
坂上秋成
真面目な話、セクハラヤジを封殺「できてしまう」というのは、
世論に対して「どうせそろそろお前らこの話題忘れるんでしょ」っていう感覚が監査役に働いてるからだと思います。
しつこく言い続けないと大概の物事はもみ消されますよね。
相当好きなアニメキャラがいても放送が終わって次クールになると存在ごと忘れられるあの現象と
セクハラヤジもみ消しは似ていると勝手に思っている。
2014年6月25日
僕は最初に好きになった作家が春樹と太宰で、
初めて驚愕した作家が安部公房という感じなので渡部さんの話を複雑な気持ちで聞いていましたw
2015年7月21日
初めて市川真人さんとお会いした時に(たぶん講演会の司会頼みに行った)、
大学の先生やってる人だから「市川先生」でいいかなくらいの気持ちでいたら
「僕は君の先生じゃないからその呼び方はやめなさい」とばっさり切られたのを思い出す。
市川さんには色々教わってるなあ…
2019年3月4日 大学の先生の、先生と呼ぶな話ってウザいよなあ
結構経験あるわ
先生的プライドの最たるものw 朝日新聞の選ぶ平成の30冊 。その中に村上春樹が2冊入っている。 渡部直己に 感想を聞いてみたい。 世間一般の評価が間違っているのか それとも渡部が批評家として無能なのか? もちろん俺は渡部が無能だと思っているが。 「あかちん小僧」というのが渡部の春樹評で
かすり傷ていどの傷口に大げさに"あかちん”を塗って同情をかうという作風だそうだ
たしかにその通りなんだけど文学作品なんてほとんどそんなものだし
じゃあ、ソルジェニーツィンやヴィーゼルのような極限状態に置かれた人間の作品が
その題材ゆえにすぐれているかというとそうでもない(もちろんこの二氏の作品は傑作ですが)
たとえ夫婦の不和や兄弟間のいがみ合いていどのよくある不幸であっても
そこから人間存在の核心のようなものをくみ上げられるかどうかであって
ほんとうに批判が表面的なものなんだよね 「中上健次が村上春樹よりずっと優れている」という評価の定着に失敗したよね
それだけで渡部直己は挫折した批評家といえる >>260 渡部よりスガに より強くあるが 連中は68年の学生運動を神聖化している。『 ノルウェイの森』 その他で 学生運動を批判した村上が許せないだけだ。
だがさすがにそれだけだと格好がつかないから後から他の理由 適当に並べてるだけ。 ついでに言うと呉智英も 村上のことを学生の読み物と書いてる。 学生運動に熱中したやつは 批判的な村上が 許せないのだろう。 渡部がやめた途端に村上春樹が資料を早稲田に寄贈したように見えるんだけど、偶然の一致?
そしてその資料を誰が管理するんだろう?
市川真人? >>262
さすがにそこまで幼稚だとは思いたくない。ところで村上春樹ってそんなにいいか? ヒップホップに問題はあるけど、大人が熱中するようなもんだよ。 >>264 そこまで幼稚だ。 どこか大きな書店 洋書売場覗いてみろ。 英語はもちろんだが その他のほとんどの言語で村上が置いてある。 そんな簡単な事実も認めないでどうする。 批評なんて自分を棚に上げなきゃ出来ないが小説書くためのハウツー本書くのはさすがに厚顔無恥だわなw 何々は幼稚だから研究する価値がない、という発想は呪術的だよ。
歴史家でいうなら、権力者や大宗教のような権威ある対象を扱わないと価値がない、
みたいなしょうもない発想 >>270 渡部やスガは幼稚というよりアブク。 ほっといてもいずれは消えていた。 >>268
いや、少年ジャンプの翻訳だって沢山置いてあるでしょ。 >>272 村上春樹の小説と 少年ジャンプのワンピースが例えば同じだと思っているならお前と話すことはない。 >>273
そんな事は言ってないけど、例として意味がないでしょう、という事を言ってるわけよ。 >>275 月並みな台詞しか浮かばないのか。 少年ジャンプの漫画 だから馬鹿にしたのではない。 諸星大二郎だって少年ジャンプには書いていた。 いくらでも馬鹿にする。 あの絵じゃ馬鹿にされても文句は言えまい。 >>262
>学生運動に熱中したやつは 批判的な村上が 許せないのだろう。
批判的かな?
コロニーやヒッピー文化の盛り上がりを
追憶的に書いていて
その退潮後に台頭し始めた高度消費社会に対して
批判的なのだとは思うけど
そういう意味では中上も似たような問題意識だけど
前近代社会的「路地」を拠点に暴力と聖性による神話的世界を構築している
しかしその暴力性や文章のみに注目して春樹的ストーリーテリングを
退けるのに「あかちん小僧」というのは無いね
村上はもちろん贔屓の中上に対する評価も皮相的なんだな
中上の神話的世界と文章も路地の崩壊と都市経済への移行に伴って
どんどん文章も劣化して劇画的描写に堕していく
この変転は渡部たちの批評方法ではうまくまとめられないよ
仮に現代社会批判と見た場合、春樹の方が中上より批評性が高くなるし
エクリチュールと見た場合もパワーダウンと言わざるを得ない
実際、柄谷は資本主義的差異への移行に伴う変容と言い
その転換点である「奇蹟」に対して高評価を与えている
しかしそうなると「奇蹟」後の作品は評価出来ないわけだね
まあ、そんなことはないんだけどね
しょせん批評家のいいそうなことだけどさ 例えば明治時代の文芸評論家で 夏目漱石は森鴎外をまるで認めなかった奴がいたら そいつは無能だ。 平成は 村上春樹の時代だった。 それを認めない渡部やスガは 論ずるに値しないクズの批評家と言っていいと思うが。 理論武装以前に村上春樹が嫌いなのはリアルタイムで
バカにしていたのに世界的な大作家になったからだろう
パティスミスのような日本人には雲の上のような
文化人がファンだからな
妬みだよ フローベールのボヴァリー夫人も物語というか内容は馬鹿女のくっだらない話じゃないの
ウルフの灯台へだってある意味たわいもないことを延々と 作家が描く女性の無駄なおしゃべりは文学史上重要
オースティンとか荒地も
テクニックの見せ所だろう >>279 村上は デビュー以来概ね批評家の評価は高かった。 もちろん批判的な批評家もいただろうが渡部やスガみたいに 全く認めないというのは嫉妬を 通り越して狂気すら感じる。 60半ばで20代の女子大生に「 俺の女になれ」 いうのと似ている感じ。 レヴィナス倫理学が専門の内田樹によると
教育現場とは無知の知という知に対する飽くなき探求心を媒介として
教師と生徒が知的「欲望」によってつながるエロティックな場だそうだ
かかる意味あいでは教師と生徒はつねに教師と危険な状態にあるのだが
こういう事情に鈍感で威張り散らす人間ほどアカハラの当事者になりやすいそうだ
渡部に関してこの分析が見事にあてはまるような気がする
なお、内田によると教師とは知的である必要はなく
「知的である」と見られたいと切望しているだけでも良いらしい まあ内田もちょっとした批判をした弟子を
一方的に破門したりパワハラ体質だけどね 春樹は英訳で主要作は全部持っているけど
ジャンル小説ではないにも関わらず
かなりのページターナーだと思う
その様式は巨匠の自己模倣もうべなるかな
今も好きな作家ではないが
均整重視のイシグロよりも評価している 『 鈍感で威張り散らす体質』スガと渡部のバカコンビにぴったりのセリフ。 中上健次にも当てはまるな。 これが文学者渡部直己の最後の言葉になっちゃうの?
――「おれの女になれ」と発言したのか。
「そのような言い方ではなかったと思う。過度な愛着の証明をしたと思います。私はつい、その才能を感じると、目の前にいるのが学生であること忘れてしまう、ということだと思います」
――そうした発言は本当にないのか。
「過度な求愛を……。その時は卒業したらといったと思いますが、『おれの女に』といったとは覚えていませんが……」
――彼女に対して恋愛感情があったのか。
「(だまってうなずく)」
――発言は、男女関係になってほしい、という意図だったのか。
「そうではない。付き合ってくれという意味じゃないでしょうか。付き合うというか、卒業してもこうやって指導できたらいいということ」
――付き合うと指導は別のことでは。
「教師として不適格かもしれないが、相手が生徒であることをすぐ忘れてしまう。過去にそういう事例があったかは学校に説明します」
――今回の行為を問題だと考えているのか。
「教師としての資格はない。学校の処分をまって、身を処したい」
――具体的には辞めることも考えているのか。
「はい」 たとえば川上未映子は教える/教えられる
という関係の非対称性が権力関係に発展して
そこに「性」が絡んだと説明しているが
内田樹の説明の方がよっぽど納得できる
渡部の方に罪の意識がないことからもそれは明らかで
仮に渡部が男色家で男子生徒が相手だったのなら
件の女性に対しておこなったことでも
うるわしき師弟愛としてスルーされたことだろう
セクハラ防止ということで
この種のエロティックな関係性を全面的に禁止した場合
内田が指摘するように教育という営為が機能しなくなる可能性が高い
であるのなら教育のエロス的本質を自覚した上で慎重に行動した方が良い
さすれば内田のように卒業後数十年経過ののち
教え子を妻に迎え入れても世間からは非難されない
むしろ美談にすらなる
内田と渡部の違いは何かと言うと
慎重で自覚的であったかどうかということと
あとは知性の問題だろう
内田が言うように教師とは知的虚栄心さえあればおkというわけでもない >>289
俺の女になれ、はダメですよという規範順守
は楽だし教育も機能する
頭デッカチに考えるなよ
女が悩んでセクハラ相談に駆け込むようなことは
するなというだけだ
今も男女の教育的師弟愛は世界中の大学で機能している
全面的禁止なんて抽象論で語っても無意味
現実の学校企業のセクハラ対策を見てみろよ スガ秀実のように 悪いのはポリティカルコレクトネス CIA と KGB の陰謀。 堂々とツイートしてるバカもいるんだから。 pabulum
サークル員が様々なかたちで関わった『蒼生2019』が完成しました!!
https://pbs.twimg.com/media/D1d0ZPhVsAEtVPX.jpg
小池みき
早稲田の学生が発行した機関紙『蒼生2019』、
笙野頼子さんとトミヤマユキコさんが書いている「文学とハラスメント」特集読みたい。
渡部直己のセクハラ事件からだいぶ経つけど、忘れてないぞ。
早大名物教授「過度な求愛」セクハラ疑惑 別の教授は「口外するな」と要望か
モモチ
早稲田大学の学生誌『蒼生2019』の特集「文学とハラスメント」に、
笙野頼子「これ?二〇一九年蒼生の解説です」が掲載されています。
これ渡部直己セクハラ問題だよね?学生自ら特集するとはすごい。将来有望。
誰の記事かわからんけど「ハラスメント紋切型辞典」もキレキレらしい。読みたい!
2019年3月12日 へえ面白そうだね
機関紙か、通販とかでも買えんの? こういうのは非営利だから金取れないはず
早稲田の学生にツテがあればもらえるのでは 「『文学とハラスメント』、この特集を通して私たち自身も新たなハラスメント被害者となりました。特集の成立過程そのものが、ハラスメントとの戦いでした」。
要は、この特集(もちろん学生発案)を機関紙に載せさせないように、担当教員があの手この手で制作を妨害したんだと。恥知らずすぎるわ。
この教員ってのは、笙野頼子氏がはっきり書いているしいろんな人が至る所で言及しているから私も遠慮なく書くけど市川真人氏のことね。
学生がハラスメント特集をしたいと提案したのを無視し、機関紙の内容を一方的に教員から通達、謎の休講……驚いた、文ジャの先生がそんなことするのかと。 この特集を組もうとしたところ、一部からすごい勢いで止められたという話が衝撃的。 それを乗り越えての刊行に心からの賛辞を贈ります! …市川真人氏については、もはや憤りを通り越して唖然。
要するに、ハラスメントを批判する特集を組もうとした学生さんたち(男女)が、教授(男女)からそれを妨害されるというハラスメントに遭った、という話。
ハラスメントが、個人間だけの問題ではなく、とことんまで社会的、構造的、力関係的なものでもあることを図らずも浮き彫りにした事案でもある。
この教授(男女)の女って誰だろ 1/6 市川真人「拝復 笙野頼子様」(拝復 笙野頼子様 このたびは)
それからもうひとつ、これもとても大事なことですが、渡部直己氏によるハラスメント案件については、
ぼくも、きわめて強い失望と憤りを持っています。ぼくは今日までその件について公には何も言いませんでしたが、
特定のネット記事が疑ったような「口止め」や「授業中のセクハラの容認発言」などは、
一切するはずがありませんし、していません。教え子でもあった被害学生の心配も変わらずしています。
教員は、学生に与える構造的な影響力を自覚し、そのことを前提にできるかぎり公正に振る舞わないといけない
――渡部氏はじめ他の教員の振る舞いにまでは責任は負えませんが、ぼく個人は、つねづね学生にそう言い、
そうあろうとしてきました。この話は別稿にまわしますが、そのような前提のもと、以下のお返事をいたします。 『蒼生2019』、興味深いですなあ。
非営利ならばウェブで一部でも読めるような態勢になってほしいな。
大事な問題を広く知ってほしいという学生の気持ちに教員が応えないでどうするの?
市川さんも問題をより多くの人に知ってほしいですよね?w 早稲田大学文学学術院文ジャの演習で制作された機関紙、『蒼生2019』読了。通信機器を置いてカフェに行って集中して読んだ。
「文学とハラスメント」特集は読みながら怒りに震えた。まずはこれを出し切った学生さんたちに惜しみない賛辞を。
教員たちの工夫の甲斐あり、特集に使えるページはわずか10ページほどに。「それでも僕は市川批判なしにはこの特集を出しません。
市川批判なしには、卒業しません」と企画発案者の学生さんは笙野頼子氏に伝え、徹底抗戦を宣言。
それに対して笙野氏「よく言った」。これこそ文学の希望だね。
小池みき@monokirk 「文学とハラスメント」特集掲載の文ジャ『蒼生 2019』は例年どおりであれば早稲田大学中央図書館に
所蔵されるはずなので後日拝読いたしますが、かつて学生時代に蒼生の授業に参加して編集した者として、
市川氏のnoteの一方的な授業観・雑誌観による主張と"誤解"という言葉遣いにもやもやしています。
鳳梨紫月@PineDrop_wonder
早稲田大学の学内誌「蒼生2019」が、「文学とハラスメント」という特集を組み、
笙野頼子が寄稿しているとのこと。市川真人を名指しで批判しているらしいのですが。
永遠@awzotp
早稲田大学の学生たちがつくった『蒼生 2019』の「文学とハラスメント」特集。巻頭言は
〈雑誌を作り上げていく過程で、私たち自身も担当教員からハラスメントを受けました〉から始まる。
担当教員の妨害に耐えて、この特集を世に出した学生(と彼らを応援したであろう人や書き手)にお礼が言いたい。
竹田純(編集)@TJ_paki 罪無
@tuminashi
この件に関しては知り合いから、正義感に酔った学生が暴走してるとの話を聞いたから静観してます。
おおよそ聞いてた話とnoteの記載が一致してるんだよなぁ。雑誌読んでないからフェアに判断できないし
市川真人の肩持つつもりまったくないけれど僕は雑誌の方がどうかしていると思うよ。
渡部直巳擁護とかじゃなくてね。
2019年3月15日
食
文ジャコース誌の『蒼生』をいただき、「文学とハラスメント特集」を拝読しました。
前文と笙野頼子さんの文にあるように、ハラスメントについて考える場として企画を組んだら、
担当教員から妨害と二次加害が行われたとのことで、とても腹立たしく悲しいことだと思いました。
https://pbs.twimg.com/media/D1sKmRjUcAAwCb4.jpg
教師としての立場から生徒へ妨害行為を行うことは、権力の高低差を利用したハラスメントだと思います。
当該教員市川は6月の訓戒に対し、教室内で「藪の中」を引用して
「認識は個々人のものだから」と発言をしてましたが、教員という立場とその構造は紛れもなく存在してます。
たとえ個人が認識の差を持っていたとしても、権力の立場にある人間が、
権力差を利用した抑圧行動をとったとすれば、被害者・加害者の認識如何に関わらずパワハラです。
前回も今回も認識のすれ違いでことを語れないと思います。
(実務的にも関係的にも教師の優越があり、それを利用して抑圧してるので)
2019年3月15日 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています