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佐野亨 Toru Sano
町山氏の編集による映画秘宝の前身的ムック『映画宝島 発進準備イチかバチか!号』(1990年)には、
(それこそシネマ69創刊時と同じように)キネマ旬報をはじめとする既存の映画雑誌、情報誌への憎悪が渦巻き、
ほとんど同時代の映画ジャーナリズムへの絶縁状のような様相を呈している。

たとえば四方田犬彦と稲川方人と大和晶の座談会「ニッポン映画ジャーナリズムのどこがダメか」では
四方田氏がこんな発言をしている。「蓮實重彦の『リュミエール』の功罪というのは考えねばならない。
僕の知ってた70年代の蓮實さんは、もっと過激で、ラジカルで、快楽原則がはっきりした人だった……

……だけど、80年代というのは選択と排除のシステムに悲観的ながらも批判を続けてきたはずの蓮實が、
例えばエドワード・ヤンは落として侯孝賢をとるとか、
ヘルツォークは落としてヴェンダースをとるという政治的選択を平然と肯定しだした時代なのね」

続けて四方田氏は、そういう時代にあって初めて蓮實重彦は「メジャー」化しえたという主旨の発言をしているが、
これはたしかにその通りであったろう。60年代、70年代の論壇とは切り離されたニューアカデミズムのムーブメント、
あるいはミニシアターの勃興が蓮實(的なるもの)の隆盛を後押しした。

そういう時代の要請のなかで、蓮實氏自身が言うところの「悪いシネフィル」的コミュニティが醸成されていった。
しかし、それはもちろん後世から当時を振り返って初めてそう言える側面が大きく、
80年代東京の映画観客の多くはその特権的状況を優越感とともに謳歌していたこともまた事実であろう。

町山智浩氏が嫌悪していたのはまさにそうしたスノッブな時代の空気であるが、
それを「80年代はスカである」という言葉で斬って捨てたのは呉智英、大月隆寛、浅羽通明ら宝島系の書き手である。
このように考えると、宝島社の編集者であった町山氏が映画宝島を創刊したのも至極当然と思えてくる。
2015年8月17日