『枯木灘』以後『異族』へといたる彼の文学が「交通」とそれを抑圧する「物語」との葛藤に進んで身をさらし、
ともすれば形式の誘惑に屈しがちな感性へと傾きつつも、
その優位だけは容認しまいとする困難な試みを不断に生き続けていることはいうまでもない。
『小説から遠く離れて』

記憶違いでなければ、ぼくが『小説から遠く離れて』を書き始めたとき、『異族』の連載はすでに始まっていて、
「黒幕」「双子」「宝探し」といった要素はもちろん出ていたわけです。
ぼくがなぜ『小説から遠く離れて』を書こうかと思ったかというと、
中上に『異族』を書くのを止めさせたかった(笑)。

『小説から遠く離れて』では、あえて『異族』には言及しなかったけど、あれはあえて中上論として書かれたものです。

中上とその周囲との関係、同時代と言ってもいいかもしれないし、
同じ時期にスタートした作家たちとの間のライヴァル関係が悪く働いたな、という感じがしていた。

『枯木灘』も実に図式的なものになるところまでほとんどいきかねなかったわけでしょう。
それを言葉の力で押し切ってしまっていると思うんだけれども、
実はそこに彼が考えていた以上に、大きな図式の危険というものがひそんでいたんじゃないかという気がする。
ことによると『枯木灘』がもうポストモダン的なものになり始めていたんじゃないか。
「中上健次をめぐって ―双系性とエクリチュール」『シンポジウムU』