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時代に埋もれた作家 野口冨士男を知ろう
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0001吾輩は名無しである
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2021/08/06(金) 23:48:32.41ID:34AbxGIg
野口 冨士男(のぐち ふじお、1911年7月4日 - 1993年11月22日)は、日本の小説家。戸籍名は平井冨士男。日本文芸家協会理事長。

東京市麹町区生まれ。1913年に両親が離婚。慶應義塾幼稚舎では同級生に岡本太郎、藤山一郎がいた。慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学文学部予科に進むが留年し、1930年に中退。1933年、文化学院文学部卒。

卒業後は紀伊国屋出版部で『行動』の編集に当たったが、1935年、紀伊国屋出版部の倒産に伴って都新聞社に入社。昭和十年代、『あらくれ』『現代文学』などの同人雑誌に執筆する。1936年から1937年まで河出書房に勤務。1937年、母方の籍に入って平井姓となる。

第二次世界大戦末期に海軍の下級水兵として召集され、営内で日記を密かに付けた。栄養失調となって復員。1950年ごろから創作上の行き詰まりを感じ、徳田秋声の研究に専念。約10年を費やして秋声の年譜を修正。次いで無収入同然で秋声の伝記を執筆し、「我が家は三人家族だが四人暮らしである。妻と一人息子の他に徳田秋声という同居人がいる」と語った。このころ東京戸塚(現在の東京都新宿区西早稲田)の自宅の一部を改造して学生下宿を営む。

1965年、1500枚の『徳田秋声伝』で毎日芸術賞。このころから創作の道に復帰し、1976年『わが荷風』で、1979年『かくてありけり』で読売文学賞を、1980年、短編「なぎの葉考」で川端康成文学賞を受賞。1982年、日本芸術院賞[1]。1986年、『感触的昭和文壇史』で菊池寛賞。1987年、日本芸術院会員。1984年から日本文藝家協会理事長を務めた。

他の代表作に小説「暗い夜の私」(1969年)などがある。呼吸器不全のため自宅で死去。

膨大な日記が残されているが、息子の平井一麦(1940年生まれ)が『六十一歳の大学生、父野口富士男の遺した一万枚の日記に挑む』(文春新書、2008年)で一端を明らかにした。2011年、野口冨士男生誕百年記念出版として、1945年8月15日から1947年1月12日までの日記(1945年8月15日から同年8月24日までは『海軍日記』から転用)が、越谷市立図書館と野口冨士男文庫運営委員会(会長、松本 徹)の編集により、『越ヶ谷日記』の表題で刊行された。
(以上Wikipediaより引用)

最近生誕110年で八木義徳との往復書簡集や未刊行だった小説「巷の空」が出てる。
知名度は低いけど昭和文壇の底を支えた人としてもっと評価されて良いと思う。
0002吾輩は名無しである
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2021/08/07(土) 18:00:49.41ID:oiInkk8g
誰も関心持ってくれなくて悲しい
0003吾輩は名無しである
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2021/08/14(土) 20:55:18.62ID:KPWVokTc
もう>>1居ないと思うが、持ってほしいならwikiのコピペじゃなくて自分の言葉で野口がどんな作家だったのか
どこが面白いのかなどを語れないと厳しいのでは
0004吾輩は名無しである
垢版 |
2021/08/15(日) 17:31:58.75ID:Uw7peh+W
岩波現代文庫に入った『私の中の東京』は前に読んだ
個人的な体験談と東京の地誌と戦前から昭和までの文壇事情を巧みに織り込んだ秀逸なエッセイ
いわゆる私小説的な作風だけどうじうじした屈託みたいなものを感じさせないからサラッと快適に読めるな
逆にいや人格的なトゲを感じにくい人だから掲示板で語りにくいかも知れないけど
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