【台風】文学板雑談スレ282【銀座】
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『ル・モンド』紙の書評より――「本書は、現在、最も世界的な注目を集めている問題をあつかっている。とくに興味深いのは、それを表層的な経済問題の議論を超えて、 ダイナミックに歴史的に考察を深めていることである。哲学者にして社会学者でもある著者にとって、社会的なもののパラダイムは、象徴的交換ではなくて、“債権者/負債者”の関係にほかならない。 「各個人を、借金を背負った経済的主体に変えること」――これが、我々が現在生きている経済システムである。 “借金人間”(ホモ・デビトル)こそが“経済的人間”(ホモ・エコノミクス)の新たな相貌である、と著者は喝破する。 “借金人間”である我々は、住居を得る権利を持っているのではなく、住宅ローンの権利を持っているだけである。教育を得る権利を持っているのではなく、 学歴を得るために奨学金を組む権利を持っているだけである。現在の経済システムにとって、負債(借金)は、社会的コントロールの願ってもない道具である。 それは“人々の未来を所有する”ことを可能にするからである。つまり“人々の予測不可能な行動”をあらかじめ封じ込めることができる。 そして、“借金は返済するべきだという倫理を製造すること”の背後に、著者は“罪悪感の製造”を見る。 著者は、マルクス、ニーチェ、フーコー、ドゥルーズ/ガタリなどを援用しながら考察を深める。 最も刺激的なのは、現在、われわれは、負債と永遠に手を切ることができないというところだろう。これは、著者のテーゼの中で最も注目すべき指摘であるが、 人類の歴史において“負債(借金)”とは、太古の社会では“有限”なものであったが、近代化の過程で“無限”なものへと移行し、さらに金融資本主義の誕生によって、 けっして完済することのない“借金人間(ホモ・デビトル)”が創り上げられていったというものである。 こうして我々は、借金を背負い返済しつづける“現代のシジフォス”となったのである」。 〈借金人間〉製造工場――“負債”の政治経済学 マウリツィオ・ラッツァラート 「ダイヤモンド」の記事から 昨今、経済論壇でMMT(Modern Monetary Theory/現代金融理論)が話題となっている。MMTとは、自国通貨の発行権を持つ国では自国通貨建てで国家債務のデフォルト(債務不履行)が起こらず、政府は無限に信用を供与できるという主張である。 「人類の歴史において“負債(借金)”とは、太古の社会では“有限”なものであったが、 近代化の過程で“無限”なものへと移行し」 >>356 ワロタwwww >>354 聴くと書くと聴かなさそうだけど_φ(・_・ >>357 前のもレジャネさんかな? 物理的に疲労している頭でなくてもなかなか入ってこないと思うけど、契約の根源について興味深いです。 キリスト教の教えは巧みである。生まれながらにして原罪を持つ人間という弱者の設定に対し、強者の神は債権者として現われる。債務者である人間に信仰を求め、神の子が自ら犠牲を払うことによって、贖罪を与えるというフィクションを構築するのである。つまりこれは一種の偽装的債権放棄のプロセスなのだ。信仰とは、抱えきれない負債の削減を求めて債権者にすがる行為であると言っても良いだろう。 倉都康行 大澤真幸 「資本主義的主体」 【ヴェーバーの像とマルクスの像、つまり資本家を典型とする説明と労働者の方に照準した説明、どちらが資本主義の本質を捉えるのに適しているのか。マルクスのように説明するためには、資本主義の歴史的起源に、いわゆる「本源的蓄積」があった、と考えなくてはならない。本源的蓄積とは、今しがた述べたこと、つまり何らかの意味での生産手段になる財を蓄積している者と、生産手段をまったく持たない者との間の分裂のことである。この分裂自体は、資本主義的なメカニズムによっては説明できない。それは、資本主義に外在する権力や暴力によって生み出された、と考えなくてはならない。資本主義に先立って本源的な蓄積があり、それが、資本主義が持続する全期間において、残響のような痕跡を留めている、というわけだ。 しかし、資本主義が成立する直前に、あるいはその初期に、本源的蓄積のようなことが起きていたとしても、資本主義が展開しているときに常にすでに、それが効果を及ぼしていると解釈するならば、本源的蓄積は、「資本主義」という現象についての説明に一貫性を与えるための、神話的な追補のようなものだと見なさざるをえない。つまり、本源的蓄積は、経験的・歴史的事実というより、説明の空白部分を埋めるための幻想のようなものではないか、との疑いがかかるのだ。】 上は2015年に書かれた論文なのだが、 相も変わらず「力(について考えること)の排除」の線の論考だった。 「資本主義に先立って本源的な蓄積があり、それが、資本主義が持続する全期間において、残響のような痕跡を留めている」 「本源的蓄積のようなことが起きていたとしても、資本主義が展開しているときに常にすでに、それが効果を及ぼしている」 むしろ、本源的蓄積を生じさせるような力(暴力・権力など)の作用というものが、 教科書的マルクス主義のように、 資本制社会のシステムの成立の「起源」に(のみ)あって、 システムの成立後にはその「残響」があるという風に考えるから、 変になるにではないか。 本源的蓄積を生じさせるような力の作用は、多数多様のものであり、 その時々に常にマクロでもミクロでも作用し続けている という風に考えを改めれば、どうということはなく、 説明としても簡単である。 たとえば、プーチン大統領の現在の政治的判断に、 資本主義世界におけるホモ・エコノミクスとしての経済合理性があるとは、 到底思われないわけだが、しかし、その判断の結果が、 現実に作用しているだろう。 桑野弘隆 デヴィッド・ハーヴェイは、この事態を極めて理 論的に論証した。ハーヴェイは、資本の蓄積様 式には、二つのものがあると指摘している。一 つ目は〈拡大再生産による蓄積〉――これは、労 働者の形式的あるいは実質的包摂を通じた蓄積と 言いかえることができよう――、そして二つ目は 〈略奪による蓄積〉accumulation by dispossession である。略奪による蓄積と言えば、『資本論』 の原始的蓄積論が思い出されるが、『資本論』 の原始的蓄積論における「マルクスの想定の弱 点は、略奪と虚偽、暴力に基づく蓄積を、もは 資本主義国家の現在、あるいは資本蓄積におけるレントの前景化 ―― ネオリベラルな国家によって遂行される新たな囲い込み ――や今では関係のない「原初の段階」に追いやっ てしまっていることだ」(2005 146頁)とハー ヴェイは指摘している。『資本論』でマルクス が 用 い た「 原 始 的 」( 英 primitive 独 ursprüngliche)というタームはミスリーディン グである。なぜならば、原始的(あるいは「本 源的」)というのは、「端緒の一回性」を示唆す るからである。 レーニンでさえ、資本制社会の成立後には、 拡大再生産による蓄積だけがあって、 収奪や詐取の類のよる蓄積がないとはいっていなかっただろう。 桑野先生の論文からの引用ににある「ネオリベラルな国家によって遂行される新たな囲い込み」 の「囲い込み」の元の意味は↓である。 共同利用が認められている耕作地・森林や未開墾 (みかいこん) 地などを柵 (さく) ・生垣 (いけがき) などで囲み,他人の利用を認めない私有地であることを表示する行為 中世末期のヨーロッパ,特にイギリスで,領主や地主が牧羊業や集約農業を行うために起こした。英語では「エンクロージャー」と訳され,第1次と第2次がある。 【第1次】15世紀半ばから17世紀にかけて,マニュファクチュアの発達と羊毛価格の高騰がみられたイギリスで非合法的に行われた。中部諸州で盛んで,最盛期にはイギリス全土の2.76%にも達し,この状態をトマス=モアはその著『ユートピア』の中で,「羊が人間を喰う」と描いて批判した。 志木島啓 「柄谷にとって規則の外部は「生活 様式」や「貨幣の謎」である。一方、デリダにとって規則の外部は美、転移、暴力である。 経済モデルで考えている限り、不公正な交換である搾取であっても表向きは等価交換に見 えてしまう。ここには暴力の隠蔽がある」 柄谷行人は、近年は考えを改めたようであるが、 大澤真幸はかわらず、いまだにかつての柄谷節のまねっこのようなところがあるのが ふしぎだ。 コトバンク 新大陸からの莫大(ばくだい)な量に上る銀の流入は、スペインをはじめヨーロッパに価格革命と称する物価騰貴をもたらし エンクロージャーの前に、上のようなことがあって、それで羊毛の価格が高騰した ということがある。 大澤は、 「つまり、本源的蓄積は、経験的・歴史的事実というより、説明の空白部分を埋めるための幻想のようなものではないか」 こういう。 しかしエンクロージャーは、諸説あるにしても、 一応「歴史的事実」ということになっていて、 その前段階には、収奪による新大陸からヨーロッパへの銀の大量流入というのがあるとされていた。 こういうことは、かつて、柄谷や岩井克人にしても、ふまえていた。 大澤は、柄谷や岩井のような知識がないせいなのか、おおむかしに勉強したことなので忘れたのか、 どうなのか知らないが、すっかり無視しているようなので、そこはひじょうにおかしい。 エンクロージャー 16-17世紀に第一次の、18-19世紀に第二次のそれが生じたイギリスにおける「土地囲い込み運動」で、これによって独立自営農民の多くは土地を失い、土地所有の集中が生じた。また、土地を失った農民たちは農業資本家に雇われる農業労働者ないし商工業部門で雇われる労働者に転化せざるを得なくなったということで、「二重の意味で自由な労働者を生み出す過程」としての原始的蓄積の典型的過程として『資本論』第一巻本源的蓄積章で詳しく論じられている。 この二度にわたるエンクロージャーは国家の「本源的蓄積」への関与がまったく異なっているところに特徴がある。第一次エンクロージャーは羊毛価格の高騰により、小麦畑を牧羊場に転換する意図を持った封建領主が耕作農民を追放するということによって生じた民間的なものであったが、第二次エンクロージャーは農産物価格の高騰を背景とした農民からの共有地の収奪(土地清掃)を促進する国家の政策(多くの法律)によって遂行されている。後者は開発独裁という「国家の暴力」と共通するものであるとともに、前者は「民間的な暴力」によって遂行されているからである。いずれも、平均利潤を通じた通常の資本主義的搾取→蓄積ではなく、それとは異なる原因で「資本主義的蓄積の前史」として生じた資本蓄積である。 (大西広) ursprünglicheは、 primitiveでなく、 naturalと英訳してもいいだろうから、 マルクスの言葉を ハーヴェイのように理解しなくてもよいのではないか。 じっさい、アルチュセールでもフーコーでもドゥルーズ⁼ガタリでも、 ナチュラルに近い意味に理解していただろう。 物理学者が物理をやる時に、いちいちニュートンだとかアインシュタインを引用する必要を感じるでしょうか? 彼らはそれを利用するが、自分がどれだけ師の意見に忠実かを示す証しとして引用符や脚注や賛辞を使う必要なんてない。他の物理学者たちだって、アインシュタインが何をやり、何を発見し、何を証明したかぐらいは心得ているから、読んでいきながらなるほどと思うだけです。今の時代に歴史をやるには、直接的であれ間接的であれマルクス思想につながる概念を全く使わないでやるとか、彼が説明を与え定義づけた視野に立たずしてやるなんてことは不可能です。つきつめれば、歴史家であることとマルクス主義者であることの間にどんな違いがあるのかとさえ思えるほどです。(中略) で、議論もマルクスによって定義され体系化されたその全体的視野の内部で初めて始まるわけです。その相手というのが、実際にはマルクス理論ではないのに、ただ共産主義理論のルールを操るという理由でマルクス主義者を自認してはばからない連中です。まあルールと言ったって共産党が決めたもので、党からマルクス主義者だと公認されるためのマルクス利用マニュアルのようなもんですがね。 (ミシェル・フーコー「監獄についての対談−−本とその方法」ちくま学芸文庫、フーコー思考集成IV所収) 池田信夫 著者(大澤真幸)の以前の本については、私のブログで何度か取り上げたことがあるが、その特徴は冗漫で事実誤認が多いことだ。たとえば『<自由>の条件』ではケインズやハイエクを誤読し、その誤解をまるまる1章にわたって展開する。『ふしぎなキリスト教』に至っては、多くのキリスト教徒が怒っているように、正しい部分を探すのがむずかしい。 ポストモダンと農法の転換 小池恒夫 封建農法である三圃式農法は、その後、村落共同体の解体、農民的分割地所有形成の時代において経営内の循環に多年生牧草をとり入れた穀草式農法に転換した。それはさらにエンクロージャーを通じての大農場制の形成、資本制農業の形成下に根菜類、1年生豆科牧草をとり入れ、酪農と結合した有畜経営としての輪栽式農法を形成した。そして、17世紀末から18世紀初頭にかけてヨーロッパで形成されたこの近代農法=輪栽式農法がその後崩れて今日の専門化集約方式に引き継がれる。その移行はアメリカでは1945年以降、イギリスでは60年以降とされ、戦後の日本の農法もこの世界史的な流れに沿ったものと理解される。 「略奪による蓄積」と自律の空間への視角 原口剛 デヴィッド・ハーヴェイは著書『ニュー・インペリアリズ ム』において,新自由主義下における資本主義の蓄積体制を, 「略奪による蓄積」という概念をもって提示した。この概念 は地理学に新たな議論の地平を開き,それにもとづく理論的・ 実証的研究が数多く積み重ねられつつある。いまやこの概念 は,現代世界を考察するうえで,欠かせないものとなっている。 この議論を理解するうえで重要なのが,ローザ・ルクセン ブルクによる資本蓄積論である。その議論の要点としては, 二点が挙げられるだろう。第一に,「資本主義は,完全に成 熟しても,あらゆる点において,非資本主義的な諸階層や諸 社会が自分と同時的に存在することに依存している。……〔資 本蓄積は〕非資本主義的な環境がなくては,いかなる点でも 考えられないのである」(ルクセンブルク 2013: 61)。すなわ ち,資本主義が自身を拡大再生産するうえでは,非資本主義 的な「外部」の存在が必要不可欠であることを論じたのであっ た。第二に,「本源的蓄積」(「原始的蓄積」)論の歴史的位置 づけである。ルクセンブルクにとって,本源的蓄積とは,マ ルクスが論じるように資本主義の前段階のみにみられる一過 性の過程ではなく,資本主義が拡大再生産される歴史のなか でつねに繰り返される過程であった。「今でも継続している プロセスを「原始的」とか「原初的」とか呼ぶのはおかしい ので……この語の代わりに「略奪による蓄積」という用語を 使おうと思う」(ハーヴェイ 2005: 146)。このようにルクセ ンブルクの議論を導きとしつつ,ハーヴェイはこの概念を提 示したのであった。 溝端佐登史「現代ロシア経済論」 近代資本主義の拡大の原動力はなにかという問題は,まずもって資本主義的に利用しうる貨幣が何処から来たかではなくて, むしろ何にもまして資本主義の精神の展開ということなのである」。ロシアの現実は市場の制度を作り出してもすぐに経営者はそれに適した行動をとるわけではないことを示しており, その点ではウェーバーは正しい。しかし,実際に最初に形成される資本家・経営者は必ずしもそのような精神に満ちたものではなく,人間のむき出しの欲望が彼らを突き動かすことを K.マルクスは強調する。マルクスは資本形成の過程を本源的蓄積と呼び,「教会領の横領,国有地の詐欺的な譲渡,共同地の強奪,横領と容赦ない暴行とによって行われた 封建的所有や氏族的所有の近代的所有への転化,これらはみなそれぞれ本源的蓄積の牧歌的な方法であった」という(マルクス[文献詳細略])。 つまり,資本主義は機会平等を強調するが,初発にそのような平等性はなく,国家が[の?]強制力を利用することができる特定の出し抜けた者こそ経営者になりえたのである。 ロシアは封建体制から資本主義になったのではなく,社会主義から資本主義になったのである。マルクスの表現をそのまま用いることはできないが,経営者が輩出される現場は彼の言に近い 最近耳にすることが多いオリガルヒの現代ロシアにおける本源的蓄積について担った役割がよくわかる論考だ。 その当主たちが、今どうやら次々と消されているらしい。 私としては、この種の話は、 雑談スレがあれば足ります。 それよりも蓮實重彦スレッドがなくなったので、たててください。 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のあるような考え方を 別に悪いと思うわけではない。 しかし、日本の場合、そのプロテスタンティズムの代用品として、 新渡戸稲造的な「武士道」みたいなものが出てきやすいというのが、 ひじょうにいやだ。 「資本論」 「アメリカにおける金銀産地の発見,原住民の絶滅と奴隷 化と鉱山への埋没,東インドの征服と略奪の開始,ア フリカの商業的黒人狩猟場への転化,これらが資本制 的生産時代の曙光を特徴づけている.これらの牧歌的 過程は本源的蓄積の主要な契機である.その後に続く のが,地球を舞台とするヨーロッパ諸国民の商業戦争 である.」 大澤真幸 「本源的蓄積は、「資本主義」という現象についての説明に一貫性を与えるための、神話的な追補のようなものだと見なさざるをえない。 つまり、本源的蓄積は、経験的・歴史的事実というより、説明の空白部分を埋めるための幻想のようなものではないか、 との疑いがかかるのだ」 「資本論」からの引用を読めばわかるだろうが、 大澤さんがいまさら、なにゆえ上のようなことを言いたがるのか、ふしぎだろう。 もしかしてネトウヨの読者でも獲得したいのだろうか。 マルクスが死ぬ前に手を入れたという「資本論」のフランス語版では、 本源的蓄積を生じさせるような力の作用が、「起源」におけるものだという ような考え方はとっていませんね。 アルチュセールやフーコーなどが、ルクセンブルクと違わない考え方をしていたのは、 とうぜんフランス語版を読んでいたからでしょう。 「資本主義的生産過程は、それ自身の進行によって、労働力と労働諸条件との分・ ・ 離を再生産する。したがって、それは、労働者の搾取の諸条件を再生産し不朽のものとする。」 マルクス・ガブリエル 我々は自分たちがデジタル・プロレタリアート(無産階級)であることに気づいたほうがいい。一つ、あるいは複数の企業のためにタダ働きしているのですから。人類史上、こんな状況は一度も起こったことがありません。GAFAは「我々はビッグデータを吸い上げる代わりにたいへん便利なサービスを無料で提供している」などと言います。でも、実質無料ではありません。我々は気づかないうちに彼らのために働いているのですから。 本来のイリイチの言った意味での「シャドーワーク」論と 上の「デジタル・プロレタリアート」論をくっつければ、 GAFAMに代表されるような巨大IT会社の レント(超過利潤)発生の仕組みは とりあえず説明できそうではないか。 いうなれば、それは情報化した「略奪による蓄積」といえるだろう。 そういう説はたぶんすでに唱えている人はいるのではないかと思う。 5chもSNSも各種ポータルサイトも情報資本を流通させるためのツールっすからね マルクス・ガブリエルが「我々」と言っているように、 少なくともここにいる我々は自分だけは違うなんてことは言えねえわけっすわ ジャンキーなのか飼い犬なのか知らんけど、 みんな、せっかく何を言ってもよい場所を与えられても、 せいぜい自分の何かしらの解釈を表明し続けるくらいのもんよ 興味あるのは自分のことだけ、世界のことなんて誰も本当には考えられやしない 「IT革命」とはよく言ったもので、リベラルが完膚無きまでに 資本主義社会のイデオロギーを牛耳ることになったのが、この30年でしょう もはや我々が個々に何を考えていようが、システム上リベラルに分類されている 最もこの状況を下支えしているのはマネーゲームだと思いますけどね 弱き者も全力を振り絞って全員で殴り合いしましょうってことでね 脱落者(不戦敗者も含む)は指を咥えて 「デジタル・プロレタリアート」として一生を終えて下さいってことで >>397 そのゲームでは、 ノーシードで一回戦から決勝リーグまで勝ち上がれる人は、 10万人に一人もいませんから。 やはり、最初から予選トーナメントなしで決勝リーグに参加できるような人たちが 上位のほとんどを占めることになるでしょう。 比率は分かりませんが極少には違いないでしょうな しかしそれでもゲームから降りることはできないんです マルクス・ガブリエルが言うように気づいていないとはとても思えませんね 我々の多くは「デジタル・プロレタリアート」であることに逃げ場を見つけ、 なんなら自分一人のための享楽さえも感じてしまっている 当面はこの状況から逃れられることはないでしょう 「略奪による蓄積」というと、 暴力的抑圧によるというイメージに偏るから、 場合によっては、 イデオロギーの機能がかかわらないかのように勘違いされる恐れがある。 そういうわけで、略奪と詐術による蓄積とでも いい方を変えたほうがいいのではないだろうか。 現金で2億円あるならば、 分類上は、富裕層に近いですな。 うらやましいことだ。 イーロン・マスクなんか気づいたら20兆持ってたりするし ここ10年くらいの経済の動きはなんともアホらしいですね もう細々生きていければ十分ですわ 私の場合は、ずっと体調が悪くて、なにもしたくないので、 お金はかからないね。 何も食べたくなくて、食事をとるのもおっくうなくらいで。 家庭菜園をやってみようかと思ったりもして、 一回造園会社にもたのんだのだが、 体力が続かなそうなので、 結局キャンセルしました。 >>412 私もそんな感じで(内訳は違うと思いますが)、生活費を本に回していますが、そろそろ本も読めなくなってますね。飼い殺しされないように生きなきゃ。 俺なんて貯金5桁だぞ どうだまいったか(なんの勝負だよ ジャネットさん昔ディスりまくってごめんだけど貯金を聞かれて即答する人初めて見た。かっけーな。 >>408 使わないならプーチンの首に懸賞金かけようよ >>411 あいつムカつくよな!あいつを基準にしたらあなたも俺も「俺たち」で括れるわ! >>409 俺もブラック労働で体と心を大安売りしてる しかし、ジャネットさんは不動産賃貸とかの収入があるとみた。 >>412 その割にむっちゃ5ちゃん書き込んでますやん 俺も5ちゃんに書き込む以外何もしたくないが >>413 クローゼットで大麻を育てればよいのではないか >>415 俺もいつか確実にそうなるし、そうなってからが勝負だと思う。 >>414 生活費を削って本を買うなんていうことは、 やめたほうがいいですよ。 論文だったら、お金をかけないでネット上でいくらでも読めるんですから、 そういうものを読んだらいいのではないですか。 なんだかんだいっても、 やはり、学術論文のほうが、一般向けの本よりは、ちゃんとしたものが多いし。 >>427 専門卒だから論文読む頭が足りるかわからんけど、うん、そうだね。 (論文からできている専門書は読むわけだから) PDFをうまくKindleに取り込めるといいんだけどエラー吐く。 PCでネットは見ないと視認性悪いね。 本は本でいいところたくさんあるけどさー。 論文を探して読むという癖をつけていなかった。 普通に大卒の人から見るとどびっくりの世間知らずなんだろうなー。 検索に出てくるとクラウドにためこんでたまに読んだりはしたけれど。やはり携帯では限度があるね。 お部屋の片付けである。 >>428 なんか脱獄すると見れるんだっけ?めんどくさいよね。Kindleペーパーホワイトみたいなやつ持ってるけどそれはAndroid入ってる >>430 液晶の画面見ると嫌だよな 見ないと生きていけないが 小説などだったら、青空文庫もある。 外国の古典作品ならば、海外のサイトで読めるところがいくらでもある。 自動翻訳サイトも、いまは文学や思想の言葉でもある程度ちゃんと訳すようなものがある。 電子辞書を引いて変なところを補って自分で訳しなおせば、 いくらでも「タダ」で読めます。 ニーチェでもプルーストでもそうやって読めます。 前にドイツのサイトで全集があったのを、お気に入りに入れていたのだが、 パソコンを変えたもので、前のお気に入りがなくなって、 見つからなくなった。 探せばあるでしょう。 探せば、大思想家と文豪の作品は、原語か英語ではたくさんあるはずだ。 ニーチェの全集 最近つまみ読みしたのは↓ COLOMBA By Prosper Merimee Translated By The Lady Mary Loyd 181年10月初旬、アイルランド出身のイギリス軍将校、トーマス・ネヴィル大佐が、イタリア遠征の帰途、娘とともにマルセイユのホテル・ボーボーに降り立ったときのことである。熱狂的な旅行者の絶え間ない賞賛が一種の反動となり、多くの旅行者が、特異な存在であることを示すために、ホラスの「nil admirari」をモットーにしているのである。大佐の一人娘、リディア嬢はこの不満な層に属していた。彼女にとって「変身」は平凡に見え、ヴェスヴィオ火山の噴火はバーミンガム工場の煙突が作り出す効果に優るとも劣らない。イタリアに対する彼女の大きな不満は、全体として、その土地の色彩や個性が欠けていることだった。読者は、これらの表現の意味を、できる限り理解しなければならない。数年前までは、私自身もよく理解していたが、今は何も分からない。当初、リディア嬢は、アルプスの向こう側で誰も見たことのないものを発見し、それについてジュルダン氏の言うところの "honnetes gens "と会話できると自画自賛していた。 www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。 機械が訳したようには思えないでしょう。 翻訳家とそれほど違わない。 「優るとも劣らない。」 たとえば、こういうのは変だから、「さして変わりばえしない。」 とか、訳しなおせばいいでしょう。 「ホテルに降り立った」こういうのもおかしいので、 「ホテルに投宿した」とでも直せばいい。 [自画自賛していた] これも「得意になっていた」とかでしょうね。 補わなければならないけれど、訳がないよりは、ずっと楽です。 私は長い間、早く寝ることにしていた。ろうそくを消すと、「もう寝よう」と言う間もなく、あっという間に目が閉じてしまうこともあった。そして30分後、もう寝る時間だという思いが私を目覚めさせ、まだ手に持っていた本を片付け、明かりを消そうとする。眠っている間、私はずっと、今読んでいた本のことを考えていたのだが、私の考えは独自の道を進み、私自身が、教会、四重奏、フランソワ1世とシャルル5世の対立といった本の主題になってしまったかのように思われたのだ。この印象は、目が覚めてからもしばらく続き、私の心を乱すことはなかったが、私の目にうろこのようにつき、ろうそくがもう燃えていないという事実を認識するのを妨げていた。私の本の主題は私から離れ、私がその一部を構成するかしないかを自由に選択できるようになる。同時に視力が戻り、私は自分が暗闇の中にいることに気づき、驚くことになる。 英訳のあった「失われた時を求めて」の冒頭を翻訳サイトで和訳したものだ。 そんなにおかしくないだろう。 >>441 改めてまともな日本語すぎて笑う😂DeepLいいよね。でも一日中使ってると通信制限かかるんだよな。金払おうかな。 >>442 うん、最近はDeepLで英訳してから日本語に再翻訳する人がいるらしい。なんなんだろうね。 それも大体意味がわかるからすごいよね。俺の日本語より綺麗だ。 中上健次 フォアグラと松阪牛の違いというのは、こういうことなんです。 フォアグラの場合は肝臓ですよね。 肝臓という存在や機能を考えてみれば、あるものを排除するという思想が出てくるんですよ。 これはまたフォアグラ、つまりフランスいやヨーロッパにあまた存在する思想だと考えていけば非常に怖いことだと思うんです。 つまり、毒を排除する、解毒してしまう。アブジェクション、要するにきたないもの、けがれたものをいつも排除しようとするものが出てくる可能性がある。 ただあのフォアグラそのものは、排除、解毒を強制され続け肥大化し、痛み、疲弊して再生不能の一歩手前の痛々しい美味しさですね。 松阪牛の場合は、それ自体が毒なんですね。 霜降りの脂肪の中に何が入っているか分かったもんじゃない。 もう脂肪と肉がグジャグジャになっちゃってるんだから。 だから共に美味である事は確かですが、中心と周縁という単色に還元できないところがあるんです。単色じゃないんです。 肝臓の細胞だけですと、肝臓はさっきデリダさんの言われた幾つかの周縁んの機能をさせられてしまいますが、ところが、肉と脂が健康、不健康がグジャグジャになっているんですからね。 デリダ いまの話は中上健次の弁証法とレトリックのしくみを知るには、おあつらえむきの見本だと思う。 中上はまたしても最悪のものを最良のものに仕立てあげようとしているじゃないですか。 ガチョウに比べて、人為的にダメにされ、有害になった牛肉の方がましだというのだから。 これは私たちにとっては周知の論理ですね。中上はアブジェクション(おぞましさ)を変換したうえで階層秩序の頂点に据えようというのですから。早い話、最下位のアブジェクションが最高点に移動するわけですから、アブジェクションのアウフヘーブングか止揚かの昇華作用の一類型といえます。” ジャック・デリダ、中上健次 『戯れということ −ジャック・デリダvs中上健次−』 >>451 これ読んだことあるけど、フランス語に訳したわけでしょ?その文章を読みたい。DeepLで。 フランスの図書館に映像残ってたりしないの?ジャネットさん見てきてよ フランスで英語で話すとフランス語で返されるんでしょ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる