【日本的スノビズムの】蓮實重彦5【法王】
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730 吾輩は名無しである[] 2021/01/31(日) 21:07:44.89 ID:drGtoE/r
日本的スノビズムの法王
733 吾輩は名無しである[] 2021/01/31(日) 22:29:05.18 ID:P159AI3e
≫日本的スノビズムの法王
これは、否定的評価でありながら、どうじに、なにかしら敬意も感じさせて、たいへんよい。
前スレ
【日本的スノビズムの】蓮實重彦4【法王】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1616747515/
過去スレ
【ばふりばふり】蓮實重彦 X+3【120度】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1562762562/
【翳りの歴史のために】蓮實重彦2【仮死の祭典】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1611357116/ スレッドが立ってよかった。
ありがとうございます。 「日本的スノビズムの法王」と評したのは、浅田彰?
それは知らなかった。 確か対談で言ってたと思います面と向かって「スノビズムの法王」と浅田彰が蓮實重彦に😂 「スノビズム」というのは、否定的な意味合いがある。
しかし、それでも「法王」という言葉をつかっても、さほどおおげさに思えない知識人は、
蓮實重彦のあとは、もう出ないんではないですか。 ちくまの連載些細なことでいちいちイライラしてる荒んだ生活してる老人みたいな感じで心配だっ! 「新潮」に載った青山真治追悼文がよかった
VHSのデッキが壊れるくだりにはユーモアが漂う
早世した子息重臣と青山、その妻とよた真帆の麗しい関係にしんみりする
そして、86歳になってしまった自らの高齢を嘆く なんだあ?
見てない間にコテが棲みついてる雑談スレになってるのか お前ら俺は煽ってたのにこいつとは馴れ合うのか
エコ贔屓してんじゃねえ 引用、お前俺のことは煽り倒してコピペの絨毯爆撃で俺を追い出したのにコイツとはよだれ垂らして目をキラキラさせながらゴロニャンと馴れ合うのか 今日からこのスレは俺が仕切る
Pとかいうクソコテは消えろ
俺が立て続けて育てたスレを美味しいとこだけ掠め盗ろうとしてんじゃねえよ
引用、お前も消えろ
何一つわかってない馬鹿なんだからよ >>7
お前なあ
俺の前では散々御前〈ムスィユー〉のこと馬鹿にし倒してた奴が何が「蓮實重彦のあとは、もう出ないんではないですか。」だよ馬鹿野郎 Pとかいう奴はHIPHOP板板でも自分の雑談スレ回しててこっちでも人気者とかムカつくわ
俺は嫌われて煽られて追い出されたのに
俺はHIPHOP板でも嫌われてるんだぜ
人気者になるコツ教えろや Young Stoner Lifeがエライことになってるからそれどころじゃないんだぜ さっきも言ったが、今日からこのスレは俺の “何でもあり” スレにするからな
河出文庫
ディフェンス
ウラジーミル・ナボコフ(著/文)若島 正(翻訳)
発行:河出書房新社
文庫判 336ページ
定価 1,120円+税
発売予定日 2022年7月6日
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784309467559 >>1
俺はスレ立てる時はコテ外してた/外すけどキッチリ名前入れるところに本性のいやらしさが出てるな 御前〈ムスィユー〉の新しい作物『ショットとは何か』ドロップされたな
扱ってるのがグリフィス、フォード、シーゲル、小津、コッポラ、トニスコ、デイヴィッド・ローリー(誰やねんこいつ)らへんで
あまり興味を惹かれないからパス 引用、たけしおじさん死んじゃったみたいだぞ
映画板のたけしスレにも姿を現さなくなった このスレもたけしおじさんがいないんじゃ面白くもなんともない コテやってると名無しから「クソコテクソコテ」と煽られる──前スレで引用その他の名無しに散々ターゲットにされた──のに名無しに媚びて仲良くやる秘訣を教えて貰いたいものだ ブッシュの時かな、蓮実はアメリカを擁護しなければいけない、
なぜなら、アメリカはいい映画作品をつくるから、と言っていたけど、
ハリウッドとかかなりヤバい感じでつくるんだろ。
犯罪やってレイプとかで反応した仕草を見るとか。 アメリカはウクライナには武力干渉できないよ
核戦争になるからな
プーチン、あれ頭おかしそうだから簡単に核ミサイルのスイッチ押すよ
せいぜい外堀を埋めるぐらいしかできん >>17
どこまで本気で書いてんの?俺は頼まれてスレ立てただけじゃん 全部 “冗談〈ジョーク〉” で全部 “マブ(本気)” や
ま、自分の個人/雑談スレならともかく、不特定多数が書き込む御前〈ムスィユー〉がテーマのスレは普通コテ外してスレ立てるやろ、常識的に考えて
「これは俺のスレですから」って “刻印” 押すのイヤラシわあ >>30
俺はコテを外さない事を自分に課してるから仕方ないんだよ。外したら二度とつけないと決めてるからね。 >>32
だから刻印刻んでるんじゃないんだって。わからないかな? アトランタ連銀総裁、「さらなる行動」を支持−インフレ高止まりなら
アトランタで起こっていることは↑です。 >>34
それどころじゃねえって自分から絡んで来ておいてどんだけ自分勝手なの?何様なんだよ? 「絡んで」w
お前なんかに「絡んで」ねえよw
「アホ扱い」してるんだがw すーさん
@pQbmhDczVnKjwnE
·
56m
ある意味、庵野秀明や樋口真嗣は蓮實重彦なんかに言わせれば全てフレームの選択が間違っているということになるのだろう。だが、私にいわせれば庵野の場合はそのフレームの変さも含めた才能だからね…。
すーさん
@pQbmhDczVnKjwnE
·
51m
1950年代から映画を見てきた蓮實重彦にとってはそれは生理的に受け付けないアングル、フレーム、リズムであり、それはわかる。庵野秀明のアングルなんか邪道しか入ってないもん。だけど、それが妙な圧迫感、心理状態を表現していて、その気分はある意味自分にもしっくりくるところもある。
すーさん
@pQbmhDczVnKjwnE
·
48m
ゴダールはアングル、フレーム、リズム全部ぶっ壊しているように見えて実は本当に綺麗。もともとちゃんとしたもの見て壊しているのがわかる。庵野や樋口真嗣はTVとかも含めた雑食から入ってるからねえ。私も人のこと言えないが…。 話が通じない馬鹿だって解ったしな
完全に「刻印刻んで」て「刻印刻んでるんじゃない」とか言ってることが意味不明だからな
そういうのは「お前の意志」がどうこうではなく「傍(はた)からどう見えるか」だ
お前の行為は120%「刻印刻んで」るんだよ
それすら意識することなく “鈍感さ” に基づいてやってるなら「意識的に」やるより更に “質(タチ)” が悪いわ 引用さあ
お前自分の考え書くとけっこう面白いんだから他人の文章なんかに頼らず自分でレスしなよ 蓮實スレッドの住民は、だいたい知的水準が高く、
知識が豊富なので、
説明不要のことが多い。
しかし、全員がすべての話題に対し予備知識があるわけでもない。
だから、自分の意見を述べるさいに、
引用した文を読んもらうことで
前提的な知識の不足を補っていただくことは必要である。
ましてや、文学板全体では、
蓮實スレッドの住民のように
みなの知的水準が高いじゃいわけではなく、トンチンカンな人も多いのだ。 蓮實スレッドと三島由紀夫スレッドでは、
住民の知的レベルが,院生と高校生くらいちがう。 まあ、右傾化する人間、右翼的価値観に疑問を抱かない人間は脳に何らかの欠陥があるからな
御本尊の三島にしても、勉強は恐ろしく出来て迸るような文学の才能があったが脳に致命的な欠陥があった つかさ
「予備知識」「前提的な知識」ナシで丁々発止で遣り合うから面白いんじゃん
“説明過多” な映画ほどつまんねえものはねえべ ま、そういうことなら別にいいけどね
納得した
ただしほどほどにしておけよ
見づれえし煩雑だから と、俺と引用の会話のレヴェルに連いてこれず置いていかれるコテハンくんとID:PKgOY6ngくん >>49
蓮實スレッドの住民は、批評が意味から離れることのいきすぎには
現時点で疑問を持っている人が多いけれども、
批評が「意味の詮索」ばかりしていた頃には、
それも意義があっただろうということは認めている。
三島スレッドの住民は、批評理論について何も知らない人が多く、
そもそもそういうことを考えたことがない。
そういうわけで、三島作品について三島事件とのかかわりで、
「意味の詮索」をするということに終始する。
これは、右傾化云々ということとは、また別の話だ。 >>50
そうはいっても、ポストモダニズム的なエスプリやユーモアなんて、
たとえ東大で文学をやったような連中にだって、
ロスジェネよりも下の世代には、ぜんせん伝わらないですよ。
冗談なのに、「本気」で言っていると思われますから。 >>54
わかるわー
思ってる以上に全く通用しないよね
若い世代では本当に知的だなってやつほどきちんとスルーしてる
もう中年同士の狭小な内輪以外ではやめたほうがいい 蓮實重彦の青山監督追悼文から
[ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1960年)以降、映画はどう撮ってもよいという愚かな思いこみが世界に行きわたった。
だが、優れた映画作家は、誰もが被写体に向けるキャメラの位置、距離、アングル、そのショットの長さなどを、これしかないという絶対的なものとして映画を撮っている。
しかも、その技術的な厳格さは、彼らが世界に向ける瞳のしなやかさを損なうものではない。]
追悼文なのでしょうがないということはあるにしても、
それでもなお、アート・フィルムのイデオロギー、素朴な作家主義そのものの書き出しにうんざりして、
続きを読む気がしなかった。 [瞳のしなやかさ]
相も変わらぬ、ということだ。
しなやか、柔らか、軽やか、
つまり、新体操みたいなのはよくて、
ハンマー投げみたいなのはよくないということだろう。
新体操の女王カバエワを愛人にしていたプーチン大統領と好みがちかいのではないですか。
あるいは、本居宣長とどう違うのか、という風にも思う。 Olympic Games Athens 2004 - Alina Kabaeva RUS Ball final
侵略しているほう。 侵略されているほう。
ウラジミール・クリチコ VS ジャン・マルク・モルメク Part 2 KOラウンド せめて最後まで読もうや
最後まで読んでないのに批判するのは “貧し過ぎ” るし “哀し過ぎ” る
「しなやかさ」という言葉じりを見当違いに捉えることこそ「「ポストモダニズム的なエスプリやユーモアなんて」「ぜんせん伝わらない」」の最たるものでしかない そもそも、短い文章すら冒頭の一節より先には読み進められないほど、──「虫唾が走るほど」、言っても善いのだろう──嫌いならなぜその人物のスレに巣食っているのか謎である
私淑する人物のスレで思いの丈を述べればいいのではないか
スレがないなら立ててあげますよ
御前〈ムスィユー〉のスレでは御前〈ムスィユー〉に対する見当違いで的を射てない批判は邪魔でしかないし不快なので
まあ、5ちゃんねるで云うところの「荒らし」に完全に該当する行為です ですから、「荒らされた」僕は前スレから「出て行った」訳です
不快なので 市田良彦×浅田彰トークショー「反乱・主体化・階級闘争」
割と最近でも、こんなことをやっている。
蓮實重彦と柄谷行人の対談本は、「闘争のエチカ」だ。
わたしとしては、「闘争のエチカ」のほうの蓮實重彦のことはけなしませんよ。 常識的には、否定的な意見を書き込むことは「荒らし」でもなんでもなく、
住民を誹謗中傷するほうが「荒らし」なのです。 市田良彦「ルイ・アルチュセール―行方不明者の哲学」
帯文
「「哲学とは理論における階級闘争だ」とアルチュセールは喝破した。退屈な秀才どもの口先だけの哲学ごっこを忘れ,闘争を続行するために,まずはこのアルチュセール論を読まねばならない。—浅田彰」
こういう威勢の良い雄たけびにしても2年ほど前のことである。 「闘争のエチカ」
「われわれの闘争は、「天使」になろうとする「人間」たちに対するものです。つまり、外部を消去しようとする者たちです。彼らは天使ではありえないし、天使の無力も知らない、たんに人間を支配しようとする人間(魔女)でしかありません。」(柄谷行人)
「小説を擁護したい」、という言葉で二人が指し示そうとしていたものは、闘争そのものの擁護である。すなわち、本来が闘争としてあったはずの小説が、闘争とは別の何かに変質しはじめていることへの反省、苛立ちであった。(蓮實重彦) 「思想の言葉」あるいは言説なるもの
市田良彦
なにか書いてくれませんかと依頼され、とまどう。「思想の言葉」、なんと大仰な。私にあらためて口にすべきどんな思想があるというのか。思想なんてものはもうSNSでのつぶやきに任せておけばよいではないか。人類の集合的知性が勝手に生産し、勝手に淘汰してくれるではないか。
そんなふうに思ってしまったのは、ここ数年共同研究の一環で私としては何十年かぶりにフーコーの著作に耽溺してきたからである。共同研究の成果はこれも単刀直入さによって大仰に響くかもしれない名前―『フーコー研究』―を冠した大著として、岩波書店から刊行されたばかりである。その分厚さ、執筆者の多さが私にはSNS空間のパロディのようにも感じられてしまう―よってたかって少しずつ。けっして同僚たちを貶めているのではない。「誰が語ろうとよいではないか」、フーコーが有名にしたと言っていいベケットのこの言葉のせいである。SNSはおろか共同研究にさえ、もはや「作者」はいないのかもしれない。しかし、これがフーコーの予見した「人間の死」のありようだったのか。 いまや、「作者」の存在がゆるぎないのは、
逆説的に、集団によって製作される商業映画だけなのではないか。 あるいは、5ちゃんねるにも、固定ハンドル田中淳さんのような
場を仕切っている(と自らは宣言している)「作家」はいるのかもしれないが。 ロシア・ウクライナ作戦の司令官を交代(2022年4月10日)
「映画は戦争」(サミュエル・フラー)だそうだから、
上はいわば、社長命令で製作途中の映画の監督が交代させられたようなものだろう。 蓮實重彦によるドゥルーズ初の邦訳『マゾッホとサド』における誤訳ーープラトンの『パイドン』が『饗宴』になっているーーというのは、あれは「カサブランカはプロパガンダ映画である」よりも格段にひどい恥ずかしさではないだろうか・・・できればプラトンなど読まずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう「はしたなさ」ではないだろうか。
(蚊居肢) 『ショットとは何か』蓮實重彦
下北沢で立ち見した『東京物語』、青年の心を掻き乱した『殺し屋ネルソン』『大砂塵』にはじまり、西部劇、ミュージカル、「演出」の映画と「撮影」の映画を論じ、ドゥルーズを叱る。リュミエール兄弟から濱口竜介まで、映画の歴史と魅力を縦横無尽に語り尽くした比類なき映画論!
目次 : 1 『殺し屋ネルソン』に導かれて/ 2 物語を超えて/ 3 映画崩壊前夜とショットの誕生/ 4 「理論」的な問題について/ 5 ショットを解放する >>926
それ憶測の域出てないじゃん
やっぱあんたキチガイ統合失調症だろ?
なんで統合失調症って証拠なしに決めつけるのか
ちゃんと薬飲んでる?
あなた絶対統合失調症だよ
しかも治す努力たりてない甘え統合失調症
絶対に文章の癖と構成の癖が出る
これは確実にしょうがない事。
その個性の証拠に
俺が気が付かないと思う事が無能かなと。
証拠なしに妄想で人を決めつける時点で
人間としては終わっている手遅れ統合失調症だなと
それは俺ではなく、万人の評価だよ。
カエルも鳴くから居場所がバレるわけで、鳴かなければ居場所は解らん
しかしカエルが鳴くは本能。
病人も害するはキチガイ統合失調症としての本能か、悲しいね。 「闘争のエチカ」から
さっき僕は、情報空間とコミュニケーション空間を区別したんだけど、その情報空間というのが共同体としての日本にあたるわけです。それは、また文学対言語にあたるものです。そして、前に挙げた区別をまた使えば、情報空間はイメージを介した物語の領域だといってもよい。その意味で、他の書物で「説話論的磁場」と呼んだものに相当しています。それに対して文学というのは、イメージを欠いた差異の世界であり、文壇といった共同体のことではなく、作品という表層のことです。だから、ここでの階級闘争は、言語対文学だというべきかもしれない。言語は、作品を自分の中に閉じ込めようとする。作品はその外に出ようとする。そして、批評が、その外に出ようとする力を活気づけるとき、コミュニケーションが起こる。つまり、そこで初めてインターテクストの問題が語りうるわけです。(蓮實) ジャック=アラン・ミレール
『明るい部屋』のプンクトゥムpunctumは、ストゥディウムstudiumに染みを作るfait tache dans le studiumものである。私は断言する、これはラカンのセミネールXIにダイレクトに啓示を受けていると。ロラン・バルトの天才 le génie propre de Roland Barthes が、正当的なスタイルでそれを導き出した。…そしてこれは現実界の効果l'Effet de réelと呼ばれるものである。 共同体に闘争を挑んでいた人が
東大学長そして三島由紀夫賞とは
これいかに この人は充実した人生を送れたけどこの人のフォロワーは人生ぶち壊されたってことでいい? 「われわれの闘争は、「天使」になろうとする「蓮實重彦」に対するものです。つまり、外部を消去しようとする者たちです。蓮實重彦は天使ではありえないし、天使の無力も知らない、たんにハスミ虫を支配しようとする人間(魔女)でしかありません。」 小説などだったら、青空文庫もある。
外国の古典作品ならば、海外のサイトで読めるところがいくらでもある。
自動翻訳サイトも、いまは文学や思想の言葉でもある程度ちゃんと訳すようなものがある。
電子辞書を引いて変なところを補って自分で訳しなおせば、
いくらでも「タダ」で読めます。
ニーチェでもプルーストでもそうやって読めます。 【体調不良】 広瀬アリス、渡辺裕之 【ワクチン】
://egg.5ch.net/test/read.cgi/geino/1651722535/l50】
>>54
ジョークが受けないのはジョークを言った側に100%問題がある。
この鉄則から逃れようとしても無駄 日本映画界の海原雄山とも言われる蓮實重彦を完全無視して庵野秀明が邦画の玉座に着いた
村上春樹の君臨なら冷笑してやり過ごせるがこと映画に関しては黙って肩をすくめて通り過ぎるわけにはいかないだろう
かつては黒澤明や山田洋次等数多の映画監督を鶴の一声で殺してきた蓮實重彦の影響力の低下を鑑みても『見るレッスン』、『ショットとは何か』、『ジョン・フォード論』の出版がこの趨勢を止めることを期待するのは難しい
最晩年に至った蓮實重彦の最後の/最大の戦いが始まる いや、もう十分やろw
庵野なんぞ東か四方田に任しておけばええ
結局オタクの範疇から出らんないんだから 蓮實は皆が薄々感じてることしか指摘しないよ
80過ぎの老人が庵野に関して言えるようなことは、もうネットに溢れている。 蓮實派の映画監督は蓮實的映画史的記憶、庵野はアニメや特撮の記憶からの引用を元に映画を作るわけで方法論的には同じオタク
しかし庵野もそれなりに映画を見てるはずなのに好きなのは岡本喜八や実相寺昭雄で蓮實的な映画には全く反応しないのは感性の違いに過ぎないんだろうけど蓮實派からしたら鈍感な奴ってことになるんだろうな
違いはストーリーやテーマやメッセージを映画だからとりあえずまとめて「脚本」と呼ぶとすると脚本に対する熱量の違いかな
庵野の脚本は賛否両論あるけどまあとことんこだわってるのは分かる
蓮實派は脚本なんて映画を撮るためのとりあえずの口実というか適当な脚本でも映画として優れてれば蓮實が誉めてくれるという甘えがあるんじゃないか?
庵野は脚本と形式相まって熱狂を生み出すが日本国内的には蓮實派の映画は脚本の波及力の無さゆえか地味な存在になってしまう
そんな日本国内の熱狂なんて下らない、形式が優れてれば「世界」に届くんだと蓮實重彦は思ってるだろうけどそれ自体閉じたサークル感が否めないんだけどね >>90
それは庵野の脚本がエンタメベースってだけだろ いまは映画に限らず分かりやすい記号を畳み掛ける方がウケるってのはあるかもね
マニュアル世代がマニュアルに反発せずにむしろ複数のマニュアルをとことん使いこなすようになっている
そこがマニュアル嫌いの30代以上とそれ以下を決定的に分け隔てている 「独自」と称するありきたりを徹底的に蔑視する蓮實は正しかったと思う。 蓮實が廣松だったかを評してアカデミズム化して他の領域に波及しないとか言ってたけど蓮實が評価するゴダールや大江健三郎は映画や文学の閉域に留まらず他の領域に波及する力があるわけ
でも蓮實の影響受けた作家たちは映画の内部に閉じ込められるような閉塞感が否めないんだよなあ 閉塞感?よく見たらそうでもなくない?そもそも誰のことを指してるのかさえも分からん
また映画の閉域にあるというのが良いことか悪いことかも一概に言えないよね?50年代のアメリカ映画なんて閉域にあるっちゃあるようにも見えるし
ちょっと浅いね >>96
推しについて否定的なことを言われたときのオタの典型的な反応で笑える >>97
否定にすらなっていないからよく分からんのよ、感覚的な言い方してるだけで薄い 映画『空に住む』予告編 10月23日(金)公開
たとえば、、こんなものは、予告編をみただけで、
少女漫画のできそこないみたいで、たくさんですわ…
となるのが普通ではないか。
わたしなども、日本映画チャンネルで放映されれば、我慢して3分くらいは見ても、
それでもう、たくさんですわ…
となって、すぐほかのチャンネルに切り替えて、
ニューズや、あるいは、たとえば
これまで100回はみたかもしれない「ゴッドファーザー」や「眠狂四郎」など(たまたま放映していれば)
をみること必定である。
そんなものが、「波及する」もなにもないだろう。 >>99
その映画、蓮實臭ゼロ
つまんないのは確かだが、こじつけるにしても、せめて見てから言ったほうがいい 食べ物屋で、一口食べて、不味そうに吐き出した人に対し
文句があるならば一皿全部食べてから言え、というようなものだ。
映画は苦行するようなおもいをして鑑賞するものではない。 全然違うな
食べ物屋で、一口食べて、不味そうに吐き出した人が
実質ほぼ関係ない場所に来てその文句を言っていたので、
なんでここでやるの?明らかに場所を間違えているけど
どうしてもやりたけりゃそのやり方が正当かまず確かめたら?と言ってるわけ
そしたら「俺に全部食えと言うのか」と逆ギレし始めているのがお前な >>100
あれはどういう映画なの?見たけど思い出せない😂 ≫推しについて否定的なことを言われたときのオタの典型的な反応で笑える
↑の方が言った通りだ。 わたしとしては、コンビニ弁当一口食べて吐き出した後は、
↓のような老舗中の老舗の冷凍懐石料理を解凍して口直しします。
Yukinojo's Transformation(1935) >>104
お前が否定したの青山じゃん
俺も一緒に否定してるけど?
>>97
>>107
自分の意見について否定的なことを言われたときのバカの典型的な反応で笑える
これじゃね? pさんは、「雪之丞変化」をみたことはあるんですか。
見たことがないならば、Yukinojo's Transformation(1935)で検索すれば、
出てきますから、見ることをすすめます。
戦後のリメイクは、長谷川一夫が年を取りすぎていて、
美しくないので、すすめません。
なお、原作も青空文庫で読めます。 ある映画監督を貶すのにオタクとかエンタメとか言うのは反蓮實的ではあるまいか?w
フォードもホークスも小津もエンタメ映画ッスよw そうか?その基準で言えば、現代世界最高峰の映画はマーベル作品ということになる
それはそれで結構ですが、くだらないと思う人もいて当然でしょう
オタクだからエンタメだからダメってことはなく、
大多数に評価される理由としてはそこが際だってるから他に言うことがない
庵野のシン・ウルトラマンについてなら
ウルトラQに始まる長年のウルトラマンオタクに語らせた方が絶対に面白い
また、ウルトラマンやゴジラは当たってキューティハニーはこけた
新エヴァは旧劇より遥かに多くの観客を得た
おそらく仮面ライダーはウルトラマンよりはやや集客を落とすことになるだろう
これがなぜかなんてのは考えなくても誰にでも分かることであって、
そちらを持ち上げるからには蓮實的な映画史観は無効だ、とはならないのよね 蓮實のゼミ生の中田秀夫や、講義を受けていた塩田明彦、周防正行、
蓮實の影響を受けたことを公言してもいる濱口竜介にしろ
ヒット作を出してはいるし
彼らを蓮實派などという曖昧な言い方で一括りできないのも明らか
青山真治は好意的に見れば、蓮實よりも許容量が大きく、手広かったし
黒沢清にはオタクであることを逸脱していく特有の不気味さがある
蓮實が近場では黒沢清について最も書きやすそうなのはそこもあるんじゃないか
とっかかりが見つけやすいんだわ
なんにしても彼らはさほど(自分たちでリップサービスで言うほどには)
蓮實の抑圧を受けていないだろう
当たり前すぎることだが、制作の現場と批評はどこまでいっても別物よ
いくらか接近するとしたら編集作業において、くらいでしょうかね 蓮實の映画批評を読むことを案外純粋に楽しんでいる人がいたんですよ
映画そのものとは無関係に
中にはそれを絶対視する信者みたいな人もいなくはなかったでしょうが
そういう人は実のところ、無理して読んでたんでしょう 蓮實氏は批評家としてもだが、古今東西の映画の紹介者として商業的成功とは異なる価値観を示してくれる人ではあったね。今ではその役割をネットが負っているはずで、多くの人は訳知り顔の専門家による紹介を必要としていないが、結局自発的に選べと言われたら、好きだと分かりきっているものに浸り続けるか、流行っているものに飛びつく。こういう人たちはなぜか自分の勘や感性を信用しきっている。
啓蒙というと鬱陶しいが、審美的で批評的な選別ができる紹介者がいたというのは、振り返ってみれば、それなりに有難かったんじゃないですか。偏愛が過ぎたし、数ある流派の一つでしかなかったとしてもね。今や商業的成功を映画への熱狂だと称えるのが関の山というのではさすがに寂しいものがありますね。 小津は松竹のお正月映画だったんでしょ?
寅さんやトラック野郎や釣りバカ日誌みたいなもん
だから馬鹿にされてたんでしょ?w Yukinojo's Transformation(1935)
https://youtu.be/lC9lWxbMxA8
これか!ありがとう。右側の音が出てないからダウンロードして編集しようかな出来る気がする >>112
俺は黒沢清の本を何冊か読んだけど死ぬほど蓮實重彦の影響受けてるよ少なくとも彼の主観的には マキノ雅弘の映画3つくらいYouTubeで見つけた今度観てみるか >>117
影響は受けてるんじゃない?そこは否定してないよ
蓮實との対談でも「どこそこのカットで○○の映画を思い出した」
「はいその通りです、さすが先生」みたいな会話をしょっちゅうしてるし
しかしそれによって閉塞感がもたらされるほどの抑圧を受けているとは感じない まあ、映画見て
わざわざ答え合わせしなきゃならないっていうのは
悲しいですな 蓮實ゼミの影響力などといっても
受験勉強を映画鑑賞の場にまで
広めたという程度のものなんでしょう ユーチューブでハナ子さんを見て、ドリフの大爆笑の歌が替え歌であった事を知った 確かに面白い。本人は完全にシャブ中で打ちまくりながら撮ってたんだって。 蓮實が最も好きな監督はラオール・ウォルシュとマキノ雅弘のような気がする マキノ雅弘の甥の津川雅彦は、
蓮實スクールの監督さんたちのようなぽっと出が嫌いなのではないか。
あるいは、嫌いというよりは、バカにしているのではないか。 言葉が方向を変えるとは、 文脈を踏みはずし、 無方向に拡散しながら、 物語的な根拠を喪失させることを意味するが、 補足的な付加が根拠の強調であるなら、 言葉の方向転換とは横断的な 「変換」 にほかなるまい。
必ずしも充分な成果をあげているとはいいがたいにせよ、大江健三郎の『懐かしい年への手紙』が目ざしているのは、断じて自作に対する補足的な付加の試みではなく、みずから「交通」 (柄谷行人)の装置となることで、
言葉に文脈の踏みはずしを惹起せしめようとする秀れて小説的ないとなみなのだ。 そして文脈とは共同体が容認する規則にほかならず、 決ってコミュニケーションを抑圧するものなのである。 反物語って要するにマスメディアに対するユーチューバーみたいなことだよね マスメディアは比較的フェイクニュースは少ないのでは?(池上彰を除く) ジャック=アラン・ミレール
(『明るい部屋』のプンクトゥムpunctumは、ストゥディウムstudiumに染みを作るfait tache dans le studiumものである。私は断言する、これはラカンのセミネールXIにダイレクトに啓示を受けていると。ロラン・バルトの天才 le génie propre de Roland Barthes が、正当的なスタイルでそれを導き出した。…そしてこれは現実界の効果l'Effet de réelと呼ばれるものである。〉
プンクトゥムというのは、いわば読み取りのコードの陥没点で、
「陥没地帯」は、このバルトの考えの影響を受けてつけた題名だろう。
蓮實重彦は、ラカンを散々けなしているが、バルトはどうやら、
そのラカンからそのアイデアを頂戴したようだ。 「文脈の踏み外し」というのは、バルトの「明るい部屋」の「プンクトゥム」と
ほとんど同じ意味なのはあきらかだ。 そこで蓮實の場合テマティスムだったり物語の形式の自然な進行を阻害する過剰な描写に注目するって話になるんだろうけどそれが共同体の文脈を踏み外したコミュニケーションとか言われると違和感あるんだよなあ 陥没地帯なんてのは文脈まみれの時間を担保として夢見られる一種のエアポケットでしょう
蓮實やバルトのようなエリートだから許されるもので、最初からそこを目指してしまうと、惚け顔の阿呆にしかならん
若いうちからこういうものに触れるとダメなやつになるんじゃないか こころ裏腹、本音と建前、
言ってることとやってることが
違うところに陥没乳首があって
その構造の裂け目にこそ
可能性の中心があるって
ことでしょう 無方向に拡散する反物語的な小説を称揚しつつベタベタに構造的な物語の映画も称揚する矛盾を蓮實はどう内部で処理してるんですかね
映画にとって脚本が何なのかよく分からないとアッサリと逃げ打ってましたが さすがにピント外れすぎているというか映画を観まくったことも蓮實をまともに読んだこともなさそうな感想文 バルトは、写真にひそむ「第三の意味」(言語化不可能なもの )が、
「反物語そのもの」なのだと言っていたようである。
われらが蓮實重彦にとっては、映画の映像における「第三の意味」が、
「反物語そのもの」ということなのだろう。
その場合、映画における音声は問題にされず、ことにセリフなどはもちろん度外視、
ということなのではないか。 闘争の本気度
9.11テロ実行犯たち 10点
山口二矢 9点
一人一殺という右翼美学にとらわれていたぶん、1点減点。
重信房子 8点
実行犯ではなく、共同正犯であるから、そのぶん減点。
アメリカによるベトナム戦争へ反対の意思表示として焼身自殺した僧侶 7点
売名等の打算が一切ない,無私の行動であること評価。
三島由紀夫 6点
芝居がかった大向こう受け狙い、
かつ、自分は死んでも自衛隊幹部を傷つけるような意思がなかったことにみられるように、
死後にタダのテロリスト犯罪者扱いをされることを避けた「ごっこ」だということで、
5点減点。
柄谷行人 3点
NAMのデタラメ理論にもとづく「ごっこ」ではあるが、
それでも何もやらないよりはましということでこの点数。
大江健三郎 1点
ひたすら口先だけではあるが、お上からのお扶持をもらっていないことは評価。
蓮實重彦 0点
口先だけのうえに、宮仕えを最高レベルまで全う。
ほんとうはマイナスにしたいところ。 高い点数をつけた連中は、犯罪者だからな。
世間的には、普通の人よりもカスなわけだ。 有名人だから闘争―、闘争ーと口先で唱えるだけで、
現実には真剣に取り組めないのではないの。
「金持ち喧嘩せず」で、ラディカリストまたは左派の建前だけれどシャチョー扱いをしてもらいたい、
というようなことだろう。
そして、「サバルタン」のようなものが、闘争の担い手になる、
というのが「現代思想」の本筋だ。 ≫カスが有名人の点数つけてもカスのままだよ
5ちゃんねるというのは、
かならずこういう人が「場を仕切」りたがって、出てくる。
しかし、左翼的な主張をしたい人やその利害関係者が、こういうことを書き込んだら、
おしまいなんですね。 ≫カスが有名人の点数つけてもカスのままだよ
だいたいこんなのは、頭がたかい下郎、みたいなものだろう。
プーチン大統領の悪口をいった日本の作家に、
三文文士ふぜいが大国の大統領についてあれこれいうとは、
身の程知らす、みたいなものではないの。 なんか色々言ってるけどわけわからんカテゴリーで
恣意的に有名人列挙して点数つけて喜んでたカスだよね?
何の役にも立たないリスト作りたがる暇人っているよね〜
ガチガチのニートだろお前?無能丸出しだもん >>153
聞くまでもないかもしれませんが、
これって10点満点での評価で合ってますか? >>149
これ読み返してみ?
なんこれ?
カードバトルか何か?
知能指数いくつ?
こんなお人形遊び許されるの正味4歳児まででしょ 浅田彰は、ぼくはバイデンにつける点数があまかったんだけど…、
と田中康夫との憂国呆談において言った。
わたしと三島由紀夫は、浅田彰とバイデン大統領ほど縁遠くないので、
たとえ点数をつけたとしても、浅田ほど身の程知らずではないことになる。 >>157
9点が1点減点なんだからそうじゃね?
点数自体はイミフすぎて逆にツッコミどころもないけど 149は、闘争の本気度の評価だから。
点数の高い人たちは、「闘争のエチカ」なんていう題名の本は出さないけれど、
口先だけでなく、本気で闘争をしていただろう、ということですよ。 >>160
カスのお前のは闘争というお題目でその薄っぺらい頭に浮かんだ有名人をごった煮で並べただけのお人形遊びな
浅田の知識人気取りの場つなぎトークと一緒にしたらあきませんわ、空疎でも浅田の方が需要があるだけ100倍マシ 浅田は、別に冗談でいったのではなく、
わたしのは冗談だから、
浅田のほうが、自分の身の丈がわかっていないといえるのではないか。 1972年以降気分だけでもラディカルでいたい層に蓮實と柄谷の批評は絶妙にフィットした
柄谷さんは冷戦崩壊以降さすがに保たないと思ったのかNAMに飛躍したけど蓮實は変わることなくスノッブな白痴的動物路線を全うしそうだけど >>149
これは冗談だが、
>>148
こちらは、いちおうまじめな書き込みです。 と言いつつ柄谷さんは探究T・Uは今も重要な仕事だと思ってますけど蓮實はシネフィルサークルに入る気もない人間にとっては・・・ 文芸評論については、蓮實重彦のほうが、柄谷行人よりも
はるかに優れたものを書いてきたと、私は思います。
「マルクスその可能性の中心」以降の柄谷行人の評論は、
その影響で、哲学思想、社会科学、数学基礎論、科学論などの本をちゃんと読んでみよう、
と思った少数の読者にとっては、そのきっかけとしてよかったかもしれないが、
柄谷の書くこと言うことを鵜吞みにしてしまうような人にとっては、
有害無益なものだったと思います。 わたしは、20歳のころから、
柄谷行人の書いたことを真に受けたことはない。
アントニオ猪木の格闘技戦を、UFCのような格闘技の試合だと思って
見たことがないのと似ています。
しかし、わたしはずっと、柄谷行人とアントニオ猪木のファンではあったのです。 蓮實重彦の書くことには、柄谷行人とは違って、
つねに「真に受けるなよ」というメタメッセージがあるように
思っています。 柄谷はプロレスなら蓮實は空手の組手でしょうな
蓮實のがより型を重視
柄谷は可視化されないシナリオを読み取って
ニヤニヤする わたしのかんじでは、
柄谷行人の批評が、アントニオ猪木格闘技路線プロレスで、
蓮實重彦のほうはジャイアント馬場王道プロレス。
なお、ジャイアント馬場も格闘技戦をやったことがある。 「表層批評宣言」の刊行が1979年11月なのだが
この年に大ヒットしたさだまさしの「関白宣言」に便乗してやろうという意識がなかったとはいえないだろう 浅田彰の評価では68年の切断を柄谷と蓮實が敢行したけど80年代後半に柄谷は探究で更なる切断を敢行したけど蓮實は消費社会に身を添わせる選択をしたとか言ってたね
柄谷は更にNAMに飛躍しちゃってちょっと極端過ぎてついて行けなかったけどw
蓮實は一貫して基本的には変わらない 蓮實重彦は秘めたマルクス主義者、
浅田彰については、ネオ・マルクス主義者だと思うけれど、
柄谷行人は、実際は資本主義者だろう。 段ボール箱を開けたら現代思想の笙野頼子特集(2001・3)が出てきた。
ちらちらと読み返すに、
笙野先生の柄谷批判は、まったく正しかったと思う。 ネグリ=ハートの「帝国」について、
ジジェクは「現代の共産党宣言」と評したが、
それが揶揄含みだということは、意外と知られていないのではないか。
ジジェクは、ネグリについて、資本主義者に過ぎない、ともいっていたはずだ。
柄谷についても、本音では、ただの資本主義者だと思っていたのではないだろうか。 宇野→柄谷→その他の説の問題点は、
資本主義と市場経済の同一視(又は意図的な混同)
これだと思う。 まあ蓮実は中学生くらいならつぶらな瞳でかぶれるのはしょうがないけど一度徹底的に相対化して手の内全部見透かした上でやはり映画を見る審美眼は優れてるとクールに付き合うか浅田彰のようにクールに馬鹿にするかのどっちかでしょ 学歴においても経歴においても著作数においても蓮實以下の実績しか残せていないできそこないの学術かぶれがクールに見ようとしても周りが白けるわな
自分のことを何も分かっていないバカの妬みにしか見えないんだし >>180
「徹底的に相対化」なんてする必要ある? ≫映画を見る審美眼は優れてる
料理の味がわかる、みたいなもんじゃないの。
食通みたいなものなんだから、たいしてありがたくないだろう。
ごちそうしてくれるならば、ありがたいけれども、
食い物の講釈本にお金を払って買ってやっったら、
むしろ逆にお礼の一つも言われたいんではないの。 売文をしている人が読者に批評されるのは当たり前だし、
ましてや蓮實重彦は公人だったのだから、
そのぶん少々悪口をいわれてもしょうがないんですよ。
その道理が通用しない人がいるのが問題だね。 有名税について語りたがる典型的な匿名の人ですね。典型的な匿名の人が悪口と言ったり批判と言い直したりするのも典型的すぎて香ばしいですよね。典型的な匿名の人の論理が滲み付いてしまっているんですね。典型的な匿名の人の発言は暇つぶしでイジられる対象以外にはならないんですよね。世の中に何の影響力もないことから、いわゆるレスバ厨以上でも以下でもないのですが、本人は何か議論でもしているつもりというのが典型的な匿名の人ならではですね。 典型的な匿名の人は何を言ってもコソコソとしてじめっとしたところがあるんですね。典型的な匿名の人は典型的な匿名を長くやりすぎて典型的な匿名であることが恥ずかしいことであるということを忘れてしまっているんですね。子供の頃からコソコソと生きてきたんでしょうね。そういう人の発言って傍目から一発で分かっちゃうんですよね。だから誰からも相手にされないのです。本人はなぜなのか分からないまま死んでいくんですね。恥もすっかり忘れ去った頃に、まるで自分がそのみじめな人生を望んでいたかのような錯覚を抱きながらね。もはや我が身を可愛がるのは自分しか残されていませんからね。 コソコソ生きるしかなかったんでしょうね。自己評価と周りからの評価が常にかけ離れ過ぎていて、自己評価に自己愛をふんだんに塗布している間に、気がつけば周りの足並みから脱落して、コソコソ生きるハメに陥っていたんでしょうね。あまりにも典型的すぎてわざわざ言語化する必要もないことですね。典型的な匿名の人は、昔からある言葉にピッタリ当てはまるのですが、ただの「身の程知らず」なんですね。周りからはそう見られています。まだ見てくれている人がいれば、の話ですが。 所詮、誰にも文章を買ってもらえない、東大総長にもなれない、東大を卒業すらできない人の妬みですね 東大総長の年収は2300万
その他雑所得も加えれば3000万超かな
よく働いてそれだけでもご立派です >>189
私も同感です。
>>186-188
の人は、どうも自分のような危なそうな人がいるので、
突然自宅に刃物を持って侵入されたりしないように、
5ちゃんねるのようなところでは、
匿名にせざるをえない、ということがわからないらしい。 旧帝大の総長というのは、
いまはどういうことになっているのか知らないが、
かつては、公的な地位としてはいちおう、閣僚級の扱い、ということだった。
最高裁判事などとほぼ同じだったと思う。
偉い人の批判をして、そのたびに精神異常者みたいなのに誹謗中傷されていたら、
たいへんですよ。 蓮實の「青山真治をみだりに追悼せずにおくために」を新潮6月号で読んだが、青山真治を巡る人の出会いと蓮實の個人的感傷を書いただけの、年老いても盛んな蓮實の権力欲と淫らな感傷に過ぎた代物だった。 何でも他人のせいにして逃げるニート乙
誰もお前個人を襲うどころか興味の対象にもしません 興味の対象にしないわりに、
それなりに手間をかけて誹謗中傷をしているわけだから、
かわっていますね。
書き込みの雰囲気から、
いかにも一歩間違えば通り魔殺人などをやらかしそうな人に思えるので、
恐ろしがってもふしぎはないでしょう。 自分がニートだから、暇な人はみなニートだと思うのかもしれないけれど、
世の中には無職という人もいるのですよ。 おっ、ニート乙
俺はニートじゃない、無職なだけだー!
ニート乙w 平日の早朝と夕方に5ちゃんねるに書き込んでいるのは、
たぶんニートが多いんでしょう。 普通は自分の日頃の活動に照らし合わせて逆の想像をします
早朝に少し余裕を持って仕事に出かけ帰ってきてからまたゆっくりする
日中から夜中にかけてずっと5chに張り付いてるニートはさすがに言うことが違いますね
口先だけのニートの生態がよく分かります ≫普通は自分の日頃の活動に照らし合わせて逆の想像をします
朝の4時〜8時、
夕方の6時
その時間帯に5ちゃんねるに誹謗中傷の書き込みを続けざまにする人を
普通だと思う人はいないと思いますよ。 出た出た、ニートの謎論法
4時〜8時は嘘じゃんwwww
5時前~5時過ぎと8時台にちょろっとじゃん
お前と一緒にしちゃいかんよw ニートの生活はこれだからw
2022/06/01(水) 00:34:45.28ID:6ZG81Nhf
2022/06/01(水) 01:43:52.92ID:6ZG81Nhf
2022/06/01(水) 02:05:42.00ID:6ZG81Nhf
2022/06/01(水) 02:11:38.08ID:6ZG81Nhf
飯〜就寝w
2022/06/01(水) 14:56:24.99ID:6ZG81Nhf
2022/06/01(水) 15:06:29.37ID:6ZG81Nhf
2022/06/01(水) 15:11:56.62ID:6ZG81Nhf
2022/06/01(水) 15:21:29.67ID:6ZG81Nhf
飯〜ゴロゴロw
2022/06/01(水) 17:42:28.31ID:6ZG81Nhf
2022/06/01(水) 18:08:09.64ID:6ZG81Nhf
2022/06/01(水) 18:17:34.71ID:6ZG81Nhf
2022/06/01(水) 18:34:41.43ID:6ZG81Nhf
2022/06/01(水) 18:47:41.36ID:6ZG81Nhf
2022/06/01(水) 18:48:45.03ID:6ZG81Nhf
2022/06/01(水) 18:54:19.38ID:6ZG81Nhf
飯〜ゴロゴロw
23時過ぎからまたニートの5chタイム始まります、乞うご期待w ≫5時前~5時過ぎと8時台にちょろっとじゃん
では下記のように訂正します。
朝の5時前~5時過ぎと8時台
夕方の6時〜7時
その時間帯に5ちゃんねるに誹謗中傷の書き込みを続けざまにする人を
普通だと思う人はいないと思いますよ。 >>208
え?誹謗中傷?蓮實のフォローがメインだよ、蓮實のスレだし
あとはニート丸出しのお前個人をイジって遊んでるだけなw
老人ニートのお前を狙い撃ちでなw あなたのいうように、
老人なんだから、扶養してくれる人なんか死んでいませんよ。 >>186-188
蓮實重彦のことは、一言も出てこないけれどね。 もちろんそうでしょう、だから元ニートですね
でも元なんかつけなくてもいいっしょ
そのときの名残が文章の隅々に表われているから あらゆる面で明らかに蓮實より劣っている人間が匿名をいいことに好き放題を言ってふんぞり返っている
それを露骨にバカにしたところ、言い方は毎回異なるが要するに「そういうもんだろ」の一点張り
誰からも必要とされていない、納得もしてもらえない無駄な知識をこねくり回すことしかできない無能でありながら
話し相手をひたすら5chで探している老人ニート
完全に人生詰んでいる事実上の廃人
こんなに面白いものはない ちくまの連載を読むたび
長生きはするもんじゃないなと
瀬川昌久との対談も情弱老人のおしゃべりをわざわざ本にするなよと ≫蓮實のフォロー
一歩間違えば、介護施設で連続殺人とかやらかしかねないような心性ではないか
と思ってしまうような人が、
平日の朝の5時前~5時過ぎと8時台、夕方の6時〜7時過ぎの長時間、
「蓮實のフォロー」を主旨とするといって
5ちゃんねるに恐ろし気な書き込みをしている。
蓮實先生も、自分のフオロワーがこれでは、
それに関しては、おそらく何も言いようがないでしょう。 「身の程知らず」の老人ニートの陳腐な妄想乙w
もうツッコミどころもない
まともな人間が蓮實の発言と匿名のカスの自己主張を天秤に掛けてどっちを取るかなんて分かり切っている
あれこれ考えたところで誰からも聞き入れてもらえない匿名のカス同士の慰め合いと罵り合いが続くだけ >>偉い人の批判をする
一歩間違えば、介護施設で連続殺人とかやらかしかねないような心性ではないか
と思ってしまうような老人ニートが、
平日の昼間の14時~20時台と夜中は深夜2時過ぎまでの長時間、
「悪口をいわれてもしょうがない」といって
5ちゃんねるに恐ろし気な書き込みをしている。
蓮實先生も、自分の批判者がこれでは、
それに関しては、おそらく何も言いようがないでしょう。
典型的な匿名の人にピッタリの、陳腐なフォーマットよなw 純粋他者(なんじゃそりゃだけど)を受け入れないのをなんで田舎者って言葉でわざわざ言うのかなあ?
戦前の谷崎や荷風ならともかく戦後の東京で育った者の都会性なんて屁みたいなもんて蓮實先生なら痛いほど分かってるはずなのになあ 少なくともwebちくまの最新の記事で言われている田舎者の対義語は「戦後の東京で育った者の都会性」ではないでしょう、記事内で出て来る言葉でいうと「国際性」のほうでしょう、私ごときには蓮實氏の国際性がいかほどのものかを査定することはできかねますが 蓮實の抑圧って「そんなんじゃ世界市場で戦えない」しかないんだよ
哀しいくらい 世界の映画市場を囲い込むことに躍起な米アカデミー賞を批判しているので
それは端的に誤りでしょう それは市場を荒らす成金を批判しているのであって、市場を根拠とした作品批評であることを誤りとする理由にはならない。 米アカデミー賞批判は「市場を荒らす成金」批判ではありませんが?そもそも蓮實が世界的な商業的成功を称揚している批評など見た覚えがない だから抑圧って書いたんだ。
誉めるときには使わないが貶すときには使う、というかそれしか使わない。 わしと趣味の感性を共有しない者は田舎者じゃと言ってるだけでしょ
そんな蓮實に幻惑される奴は田舎者と浅田彰が言ってたりややこしいねw でも蓮實信者には田舎者って言葉が有効に響くなという嫌らしい計算が垣間見えるのがなんとも >>225
言葉尻だけ捕まえて単純化して喜ぶのはまさしく田舎者かもしれませんな シネマの煽動者
なお、映画館のスクリーンは目視できても
映画作品〈フィルム〉も映画〈シネマ〉も目視できない 御前〈ムスィユー〉の新しい作物『ジョン・フォード論』
7月21日ドロップ
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ジョン・フォード論
蓮實重彦
定価:3,410円(税込)
発売日:2022年07月21日
ジャンル:ノンフィクション
作品紹介
「古典的な西部劇の巨匠」というレッテルからジョン・フォードを解き放ち、画面そのものを見つめる快楽へとひたすら誘う――『監督 小津安二郎』と双璧をなす著者集大成。主要監督作の詳細なフィルモグラフィや貴重なスチール写真を多数収録。
『ジョン・フォード論』蓮實重彦 | 単行本
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163915746 >>231
田中淳さん 東京大空襲に着想を得たCGアニメ映画を撮った
ご本人ですか。 「田舎者」だったら、日本人なんか皆そうだという感じもあるから、
いいけれども、このスレッドのの蓮實信者は精神異常だからね。
ちなみに、私の祖父は、「悪魔の手毬唄」のモデルになった土地の人で、
生まれつきは、田舎も田舎、ド田舎ものなんだけれども、
大正時代に8年間アメリカ留学していたものだから、
日本人を全部田舎者だと思っていましたね。 浅田が蓮實信者を田舎者呼ばわりしたのは、まあ所詮、蓮實は北関東の出だからしょうがないねw
彼の熱烈なグルーピーの金井美恵子も同じ北関東の栃木の出だから。
関西人が栃木や群馬を馬鹿にするのは昔から。
北関東人の東京人への媚びへつらいが気持ち悪かったんだろうね。 それだと神戸生まれの浅田自身も田舎者になっちゃうよ?土地柄の問題じゃあない >>235
お前は馬鹿だな、神戸は横浜は無論、東京より都会だ。 「お前は馬鹿だな、神戸は横浜は無論、東京より都会だ。」だってさ
キチガイLv1ってところだな 普通の意味での都会人は土地柄と結びついた美意識、美学に裏打ちされた立ち居振る舞いや洗練された趣味や衣服のセンスのはずなんだけどね
江戸の通人みたいなのは戦後消滅して本当の東京原住民は衣服も地味でオシャレしてるのは田舎者とか言い出す谷崎や荷風が聞いたら落胆しそうな代物に変貌したけど
京都や金沢みたいな街だとまだ嫌味な通人的な旦那衆の世界が生きてるんだろうけどさ
もちろんこんな程度のものは坂口安吾的に下らないと否定して構わないもんだけどね 昔の人を有難がって通ぶる田舎者ですな、ちょい悪オヤジとかと同レベルのダンディズム ただ三島なんかだと幼少期から歌舞伎なんかを浴びるように見て地方人には及び難い都会人ならではの教養があったけど蓮實以降福田和也とかまで東京の知識人は複製芸術一本槍で都会的というよりオタク的で田舎者でも模倣可能 まあ蓮實も浅田も田舎者なんて言葉使う必要も無いところであえて田舎者なんて言葉を使ってるわけで幻惑されちゃ駄目だよ田舎者諸君w 三島歌舞伎は、じっさいは擬古文新劇だ。
本格的な部分は、ほぼすべて題材にした古典からの引用で、
三島本人の文ではない。 >>240
ベンヤミン「複製技術時代の芸術」
「世界史において初めて、機械的な複製は芸術作品を儀式への寄生的な依存から解き放った」 蓮實重彦の書くものに原因があるのかも知れないが、
蓮實映画批評に影響された人たちは、映画を鑑賞するということに
儀式性を求めているように思える。
やはり多くは、まるで「土人」のように、美的・趣味的対象の
「儀式への寄生的な依存」を必要としているのでしょうか。 現代では、大量生産された消費財に
呪物性があるということとおなじでしょうかね。 元々荷風といふ人は、凡そ文学者たるの内省をもたぬ人で、江戸前のたゞのいなせな老爺と同じく極めて幼稚に我のみ高しと信じわが趣味に非ざるものを低しと見る甚だ厭味な通人だ。
彼は「ぼく東綺譚」に於て現代人を罵倒して自己の優越を争ふことを悪徳と見、人よりも先じて名を売り、富をつくらうとする努力を罵り、人を押しのけて我を通さうとする行ひを憎み呪つてゐるのである。
荷風は生れながらにして生家の多少の名誉と小金を持つてゐた人であつた。そしてその彼の境遇が他によつて脅かされることを憎む心情が彼のモラルの最後のものを決定してをり、人間とは如何なるものか、人間は何を求め何を愛すか、さういふ誠実な思考に身をさゝげたことはない。
それどころか、自分の境遇の外にも色々の境遇がありその境遇からの思考があつてそれが彼自らの境遇とその思考に対立してゐるといふ単純な事実に就てすらも考へてゐないのだ。
荷風に於ては人間の歴史的な考察すらもない。即ち彼にとつては「生れ」が全てゞあつて、生れに附随した地位や富を絶対とみ、歴史の流れから現在のみを切り離して万事自分一個の都合本位に正義を組み立てゝゐる人である。
「ぼく東綺譚」を一貫するこの驚くべき幼稚な思考がたゞその頑固一徹な江戸前の通人式なポーズによつて誤り買はれ恰あたかも高度の文学の如く通用するに至つては日本読書家の眼識の低さ、嗟嘆あるのみである。
文学者は趣味家ではない。趣味で人生をいぢくつてゐるのではない。然し、人各々好みあり、趣味はあげつらふべきものではないから、懐古趣味も結構であるが、荷風の如くに亡びたるものを良しとし新たなるものを、亡びたるものに似ざるが故に悪しといふのは、根本的に作家精神の欠如を物語る理由でもある。 >>230
売れたら週刊文春で阿川佐和子と対談するんじゃないだろなw
せめて草笛光子と もっと格調高く文學界でと
言ってくれないか?(震え声 文化庁やNHKなどに、かつては僅かならばいた「通人」が、
いまやぜんぜんいなくなった時勢に、
「通人」をくさしたって、それは瀕死の相手を殴るようなものです。
坂口安吾の場合は、そもそも「通人文化」の息の根を止めようとしているのだろうから
それでいいのでしょうけれど。 >>251
日本文化の駄目を押すのを嫌う面は潰されるべきだと思う 東京下町や京都の洛中に生まれたとかただそれだけで問答無用に他所者を田舎者呼ばわりする幼稚というか無邪気な感じがいいんでないの
井上章一みたいに妙に傷つく奴もいるが
蓮實みたいに妙チクリンな屁理屈つけるのは野暮だねえ 東京下町や京都の洛中に生まれたとかただそれだけで問答無用に他所者を田舎者呼ばわりする幼稚というか無邪気な感じがいいんでないの
井上章一みたいに妙に傷つく奴もいるが
蓮實みたいに妙チクリンな屁理屈つけるのは野暮だねえ >>254
そういうのは、鈴木清順のような「江戸土人」には当てはまるかもしれないが、
永井荷風と蓮實重彦は、洋行帰りですから、「文明開化」の側の人なので、
当てはまらないでしょう。
ちなみに、江戸時代の京都では、町民を「地百姓」といったそうです。
ヒャクショウなわけです。 話はそれるが、
月形龍之介の映画のほうの「水戸黄門」では、
水戸黄門は、百姓の隠居光右衛門と称する場合がおおい。
劇中では、隠居した百姓が、それなりに立派な身なりをしていて、ともを二人連れて
宿の上等な部屋に宿泊している、
ということに不審の念を抱く者は誰もいない。
これが本来のあり方なのです。
それがテレビの東野黄門になるとちりめん問屋の隠居になる。
百姓の隠居では、すでに視聴者が不自然に思うようになっていた、ということから、
変更されたのでしょう。 >>256
「洋行帰り」に大きな意味を持たせた恥ずかしい時代があったということだね しかし、制作サイドに「通人」が全然いなくなったせいで、
日本では、まともな「コスチュームプレイ」が、まず作れない状態になっている。
かといって、アメリカ的にやろうとしても、陳腐なだけだ。
結局、マンガ的にやるしかやりようがなくなっている。
これは問題です。
文学では、昭和初期が舞台とはいえいちおう「コスチュームプレイ」ではある
「伯爵夫人」、それが唯一の近年のまともな作品ですよ。 「意は似せやすく、姿は似せ難し」から一歩も踏み出していない認識を披露なさっていて、蓮實の「凡庸」とはこういうことを言うのだなと思った。 日本ではウルトラマンや仮面ライダー
海の向こうではディズニーがセックス・ピストルズ
世界的にそういう時代なんだろう
Pistol | Official Trailer | FX
https://youtube.com/watch?v=9KhxwG0eCiE 脱構築も弁証法も
日本の組織人の手にかかると
大抵は足して2で割るになっちゃう 今の歌は歌の本意にあらずとて
古来質朴に体に読まむとするは
却て歌の本意を失ふなり
本居宣長にしても、歌体すなわち「姿」を
時代に合わせて変ることを否定しているものではない。 「姿ハ似セガタク意ハ似セ易シ、然レバ姿詞ノ髣髴タルマデ似センニハ、モトヨリ意ヲ似セン事ハ何ゾカタカラン、コレラノ難易ヲモエワキマヘヌ人ノ、イカデカ似ルト似ヌトヲワキマヘン、試ニ予ガヨメル万葉風ノ歌ヲ万葉歌ノ中へ、ヒソカニマジヘテ見センニ、此再評者決シテ弁ズル事アタハジ、是ヲ名ヲ顕ハシテ、コレハ予ガ歌コレハ万葉歌ナリト云テ見セタラバ、必予ガ歌似セ物ナリト云ベシ」(宣長全集・2-512) 来月『ジョン・フォード論』刊行
『「暗夜行路」論』も書いてほしいな ここ数年でパタパタッと出た各シン装版と
視るレッスン、ショットとは何か、フォード論の印税で
老後の資金も安泰だろ
もう勘弁してやれ 荷風は明治大正ではちょっとばかし時代遅れ気味だった吉原遊郭より当時最先端の待合での芸者遊び
昭和に入ると銀座のカフェー、玉の井の銘酒屋、浅草のレビュー館通いと昭和モダニズムを満喫している
花柳界が伝統芸能化を意識するのは昭和モダニズムに押されて
戦後は浅草ストリップ通いと風俗に関しては新し物好きなんだよな
最先端に若くて魅力的な女が集まるってこともあるんだろうがw
長生きしてたらキャバクラやブルセラ援交やメイドカフェに興味持ったに決まってる
そんな荷風を敬慕した谷崎は素人の健康的な女が好きだったのでどこか不潔な性風俗の女には惑溺しなかった
蓮實先生には想像の戦前より実地に体験した戦後の性を描いてほしかった 永井荷風の場合は、とくに新しもの好きなのではなく、
だんだん経済的に余裕がなくなってきて、
あまり金のかからない遊び方に移行しただけだろう。 荷風に限らず明治大正の作家が昭和初期に円本で多大な印税を手にしたのを知らないのか? 「断腸亭」の経済学―荷風文学の収支決算
吉野俊彦
これには、大正末には、経済的にいき詰っていた書いてあるそうだ。 余裕がしょうじたのは、昭和9年ころからではないの。 「断腸亭」の経済学―荷風文学の収支決算
吉野俊彦
↑についてのアマゾンの書評から
「荷風の家の収支状況を丹念にまとめてあります。文学・荷風・戦前の経済の研究者には参考になる内容です。荷風の作品論は一切無く、あくまで彼の日記から読み取れる社会経済、彼自身の台所事情、そして彼の人となりの話です。」 同じ遊ぶのでも、待合とカフェーでは、金のかかり方が、一桁近く違う。 新橋の芸妓・八重次(のちの藤蔭静枝)を入籍
この八重次をひかせたのだとしたら、莫大な金がかかっただろうから、
高い女には懲りた、ということだと思う。 おいおい荷風が昭和の初めに芸者のお歌さんを身請けして囲って待合まで持たせてやってたのも知らないのか?
そんなマニアックな情報でもねーぞw 永井荷風の場合、財閥の親類や1000町歩地主の家の人というのではないのだから、
親の残した財産なんか知れているだろう。
それが、放蕩し浪費をつづければ、相続財産は、すぐにつかいきってしまうだろう。
大正末ごろに経済的にいき詰っていたというのは、そういうことではないの。
何年かのちには、そこそこ印税が入るようになって、経済的に一息ついたんではないの、
荷風の日記を読んだことがないので、あくまでも推測だが。
また、八重次とお歌では、芸者としてのランクがまるで違うだろう。ピンキリなんですから。
ならば金のかかり方も当然違う。
それから、カフェ―の女給にカフェーをださせてやったというのではないのだろうから、
とくに新しもの好きというわけでもないのではないの。
好みが変わったのではなく、たんに、女のランクが下がっただけだろう。 [荷風は生れながらにして生家の多少の名誉と小金を持つてゐた人であつた。]
坂口安吾によれば、荷風の家は、多少の名誉と小金があるということにすぎないのだから、
それが正しいとすれば、お大尽みたいな遊蕩生活は長く続けられるわけがない。 もとより権力者ではないし、また、大金持ちには程遠くても、
そこそこ坊ちゃんの若くてインテリの文士なら(ことに歌舞伎座の座付き作家だし)、それなりの女といい仲になることもできただろうが、
おっさんになればなるほど、どんどんモテなくなるから、そういうわけにもいかなくなる。
結局、分相応に、高級なところから中級のところへ、そして、さらに低級なところへと、女漁りの漁場をかえただけのことだろう。 断腸亭日乗
大正十四年
正月十五日。午前兜町片岡といふ仲買の店を訪ひ、主人に面会して東京電燈会社の株百株ほどを買ふ。去年三菱銀行の貯金壱万円を越へたれば利殖のため株を買ふことになしたるなり。仲買片岡は磊落なる相場師肌の男にて、余の小説を愛読せり。かつて築地僑居のころ相識りしなり。夜木曜会新年句会。
大正末の一万円は現在価格で幾らでしょ?
そもそも荷風はランティエで金銭感覚はまとも
働いたり文筆で稼がないと生活出来ない境遇になることを最も恐れたから遊ぶにしても谷崎みたいに無計画な使い方はしない
しかも昭和初期には円本ブームで巨額の印税収入で最も羽振りがいい頃
詳しいことは知らんが現在価格で数千万円らしい
谷崎は豪邸新築したり散財しまくるわ所得税滞納するわであっという間に使い切ったらしいが荷風はそんな馬鹿なことはしない ▼大正10年頃の1円は現在の何円に相当するのか。また、この当時の10万円はどのくらいの金額になるか知りたい。
回答
国立国会図書館のリサーチナビ「過去の貨幣価値の調べ方」についての記事を参照。
企業物価指数、消費者物価指数を使って比較するのが一般的であるが、このうち企業物価指数を元に算出した。
●企業物価指数(戦前基準指数)
大正10年→1.296
平成29年(2017年)→687.8
687.8÷1.296=約530.7倍となる。
これを10万円に当てはめると、約5,307万円となる。
また、『値段史年表 明治・大正・昭和』(朝日新聞社 1985)のうち、大正10年に近い年代の値段が掲載されているものを抽出した。
●金
大正14年→1円73銭
平成30年→4,827円(いずれも年間最高価格)
1円≒約2,790円
これを10万円に当てはめると、約2億7,900万円となる。
●公務員初任給(国家公務員 大学卒 総合職)
大正7年→70円
平成30年→181,200円
1円≒約2,589円
これを10万円に当てはめると、約2億5,890万円となる。
●航空旅客運賃(日本航空 東京-大阪間 大人普通片道運賃)
大正13年→35円
平成31年→27,600円
1円≒約789円
これを10万円に当てはめると、約7,890万円となる。
「物やサービスの種類によって価格の上昇率がまちまちなので、お金の価値を単純に比較することは困難(日本銀行HPより)」とあるように、比較するものによって計算結果が異なり、一概にいくらとは答えられないため、あくまでも参考値とした上で回答した。 ≫現在価格で数千万円
現在、数千万円で、どのくらいお茶屋遊びができるんです。
よくて1〜2年でしょう。 さあ今は一回行くと最低20万はみないといけないらしいがあれだけ東京中に待合があった時代はピンキリじゃね? 八重次クラスはピンだろう。
それに昔のほうが(貨幣価値の違いを考慮すれば)高いんですよ。
いまは、キャバクラとか安いところとの競争があるし、
観光客のたぐいも客にしなければならないので、
安くなっているのです。 永井荷風は、ただ行くだけでなく、
付き合うところまで求めているのでしょう。
その手の女に、大金をつかわないでもモテるのは、若いうちだけですよ。 蓮實は以前、1950年代映画作家論の本を書いてるとか言ってなかったっけ? 遂にボヴァリー夫人論に続きジョン・フォード論を完成させたから次はブヴァールとペキュシェ論書くか秘本・草枕を撮って水野晴郎化するか シェディングの影響か、左の金玉が痛むので、
ゴダールの「左側に気をつけろ」と思ったら、
タイトルは「右側に気をつけろ」だった!、役に立たん。
痛いよ!!! フォード論の次はもしかしたら大江健三郎論かもしれない もう映画論はいらない
日本文学を論じてくれ
古井由吉論でも構わない 蓮實は志賀直哉や谷崎潤一郎や大江健三郎みたいな愚鈍な作家が好きなんだろうけど本人はあえてどちらかというと聡明な永井荷風タイプなんだから荷風論でも書けばいいのでは
おかめ笹なんていいんでないの >>296
その3人とも蓮實同様東大出身
お前は高卒かFランク大卒だろ
愚鈍呼ばわりする資格はないぞ 愚鈍
夏目漱石、志賀直哉、谷崎潤一郎、中野重治、大江健三郎、柄谷行人
凡庸
森鴎外、永井荷風、芥川龍之介、小林秀雄、三島由紀夫、中上健次、村上春樹、蓮實重彦、浅田彰 愚鈍って笠智衆のような在り方っていう褒め言葉か
で、それは漱石の「牛になる事はどうしても必要です。われわれはとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです。」とどう違うの? 蓮實スレにデカデカと表示される
エヴァンゲリオンの配信の広告…
これぞホストモダン的状況といえよう 初期はデリダの知性よりバタイユのほうが凄いって言ってたね
志賀直哉は気違いで凄いとか 蓮実先生の言うショットの撮れる監督に、山田尚子は入らないのかな? まあアニメは見ないだろうけど。 bugs grooove
@BugsGroove
· Feb 2, 2018
蓮實重彦とアニメといえば、カリオストロかナウシカのどっちかを年間ベストテンに入れてたよね。
長谷正人
@mtokijirou
·
Feb 3, 2018
Replying to
@BugsGroove
朝日新聞の今年のベスト5でナウシカを入れてました。当時はアニメは映画とさえ見なされてなかったので私は衝撃でした。
bugs grooove
@BugsGroove
·
Feb 3, 2018
当時はまだ宮崎駿ブランドなんて無かったですからね。蓮實重彦がナウシカを評価したのはエコロジー思想などではなく、活劇としての水準の高さとキャラクター造形にあったのだろうとは想像できます。クロトワとか、いかにも気に入りそうですし。 クリント・イーストウッドに対する異常な評価の高さはなんなんだろう。どう見てもショットが撮れる監督ではないし、トム・スターンのキャメラも凡庸だと思うのたが。きっと凡人の私には気づかない何かがあるのでしょう(映画板行くか)。 俺は
ミスティックリバー
ブロンコビリー
ブラッドワーク
かなあ 306だけど、
ダーティーハリー4
ペイルライダー
ミリオンダラー・ベイビー なるほど!ダーティーハリー4は見たことないけど(>_<) 『ミスティック・リバー』は力と気合いの入った演出なんだが、いかんせんお話が。映画はマキノが言うように、スジ・ヌケ・ドウサだと思っている私には、蓮實の言うシナリオなんてどうでもいい、ショットが全てというのは同意できないのよ。それに繰り返しになるけど、イーストウッドがショット撮れる監督とは思えないし。 >>295
『新潮』での二人の対談は読んだ? ウェブマガジン『考える人』に転載されていて、私はそっちで読んだけど、蓮實の古井論は是非読んでみたいね。 50年代までの古き良きハリウッドの正統な後継者にして最後の者であり本人の古典的スター性も含め郷愁を誘う存在故に・・・
センチメンタルアドベンチャーやペイルライダーは好きだしガントレットなんかも好きだなあw >>313
読んだよ
確かあの対談で古井論を用意していると蓮實は言っていた
『仮往生伝試文』がやたら高く評価されているが、さほどの出来ではないとのこと
『辻』を高く評価していることと合わせ、同感だ 俳優、監督のキャリアを通じて
ハリウッド映画の歴史を体現しているのが
イーストウッドの固有性でしょう
監督作にしても
ミュージカルやスプラッタのようなホラーを除けば
ほぼジャンルを網羅してる
これは中条省平が著書で指摘してることですが
スピルバーグと組んだのは
製作と監督・主演としてジョイントした
マディソン郡の橋くらいでしたかね
これも意外といえば意外です
自分はホワイトハンター・ブラックハートと
真夜中のサバナが好きですねえ >>316
あんたの選んだのは最悪の2本w
イーストウッドの才能は「センチメンタル・アドベンチャー」で燃え尽きましたわ
もともとアカデミー賞とかいうガラじゃないんだよね >>316
中条のその本は私も読んだけど、彼はイーストウッドの映画自体はそんなに好きでは
ないような気がしたが。アメリカ映画史に彼が果たした功績は評価してはいるが、映
映画監督としては決して彼の好みではないと思う。
何回も書いて悪いが、蓮實のいうショットが取れる監督と、イーストウッドは
どうしても結びつかない。 >>317
すいません、ちょうどホワイトハンター…の頃から
イーストウッド監督作を見始めた若輩なものでw
ミスティック・リバーが高評ですが
自分はソープオペラだと思ってしまったんですね
それだったらハイソサエティの退廃を描写した
サバナも立派な一作じゃないかとw
イーストウッド版ツイン・ピークスですよね
>>318
中条氏の著作からはイーストウッド作品の分裂
自助努力の精神とゆきすぎた自警団主義との間で
揺れ動いているという指摘に刺激を受けました
アベンジャーズって西部劇の代行なんですね
コスプレ、暴力による問題の解決、
「ひょっとして自分たちって嫌われてるんじゃないか?」
というアメリカ人の内省…等々
駄文失礼いたしました 世評に高い『許されざる者』も、『ミスティック・リバー』も私はダメなんですね。特に『許されざる者』については、蓮實は語る事も憚られ傑作とか、反復する顔があるとか、最大級の3時だがよく分からない。私は基本蓮實信者だが、イーストウッドについての見方にはシンパシーを感じることが出来ない。 英語ネイティブの友達に「許されざる者」の話をしたら「Unforgiven!? タイトルがダサすぎる😂」って言ってたな。 まあ、イーストウッドはそういういなたい感じを狙ったんだろうけれども。 戦後における初代ジョン・ウエイン、二代目チャールトン・ヘストン、三代目クリント・イーストウッド、
時代を代表する大スターの共和党員でリバタリアン+プロガンのシンボル。
アメリカ生まれの白人のプロテスタントで身長190センチ以上、演じた役柄の多くはタフな人物、
こういう共通点がある。
外国生まれのシュワルツェネッガーやイタリア系+ユダヤ系のスタローンは、
四代目にはなりえない。 ジャネットさんはそう言うけれども、対面で鑑賞量でマウント取られたら瞬殺されるよ😂 イーストウッド監督主演作品は、ほとんどいいでしょうが、
やたらと評価が高い「許されざる者」は、むしろ凡作の部類だと思うよ。
同じ時代が舞台のものでは、「アウトロー」のほうがずっといいと思う。
「許されざる者」よりは、割と最近の「運び屋」のほうがいいだろう。 許されざる者は
ハリウッドという業界内では事件だったのでしょう
男根主義の権化のようだったイーストウッドが
飼育する豚を制御できなかったり
馬にまたがるのに息をゼーゼーいわせたり…
スクリーンに老醜をさらす姿が賞賛を浴び
アカデミー賞の名誉につながったのでしょう
その後30年も現役を続けるとは
だれも予想できなかったかもしれないですね 「許されざる者」といえば、翻案され日本映画としてリメイクされたわけですが、
わたしとしては、どういうことでそういう無謀な企画が通ってしまうのか、
それはまったく理解しかねるものです。
だいたい、元作よりも良いものになるはずがない、
どころか、陳腐になるに決まっているのです。企画の段階で、
おかしいんではないか、という人が誰かいないのでしょうか。
西部劇の翻案ということならば、どうせなら映画化されていないアメリカの小説でよさそうなのを探して、
それを日本を舞台にしてやろうというようにならないものでしょうか。
むかしならば、そういう発想の仕方をしただろうと思います。
たとえば、「天国と地獄」は、(現代ものですが)原作はアメリカの小説でした。 >>328
イーストウッドが黒澤明のリメイクをやってるから逆をやりたかったのでは? 逆をやっても、映画制作力の水準が違っていて、それは逆転しないんだから、
しょうがないでしょう。
宝塚の「風と共に去りぬ」みたいな「マンガ」的翻案にしかなりようがないでしょう。 蓮實は日本版『許されざる者』については、何か言っているの? そもそも監督の李については、どういう評価なの? 「こんな映画を好きになる奴は下品で馬鹿!? 許せない!」(町山)
https://wezz-y.com/archives/52352/3/amp
ある意味映画ファンとして健全だよな
蓮實もエリック・ロメールがベッケルより中平康を評価してこいつ殺すって思ったみたいだし
映画ファンにとって好きな映画褒める評論家は良い評論家で腐す奴はぶっ殺すみたいな
蓮實信者は好きな映画を蓮實が批判したら自己批判だもの 蓮實なんて結局いろいろ屁理屈言っても政治や社会とか面倒くさいこと全部カッコに入れて美に耽りましょってことにしかならないもの >>335
生臭い仕事をしている人ほど美に耽りたくなるんだよ
石原慎太郎が芥川賞の選考で作品を真剣に読むというのはそういうことでしょ >>334
数十年前、ベッケルの「肉体の冠」を日仏学院に見に行ったら、
蓮實がいたけど、巨体だったな 「L.A. Times」
「今こそ、オレンジ郡の空港からジョン・ウェインの名を消すべきだ」 「本当に情けない時代だ。みんな過剰に慎重になってる。俺が育った時代なら、トランプの発言が人種差別的だなんて言われなかっただろう」
(クリント・イーストウッド談) 反人種差別で「ジョン・ウェイン空港」も改称か、トランプ氏が反撃
2020年6月30日 15:00 発信地:ロサンゼルス/米国 各国の公立のフィルムライブラリーの類は、
ウェイン、ヘストン、イーストウッドらの主演映画を保存すべきではない。 ジョン・ウェインは蓮實が一番好きな俳優だろ
それはともかくちくまの連載でつまんないこと書くんだったら日本映画界のハラスメントの問題について発言すりゃいいのに
もちろん蓮實の責任でもなんでもないがあえて日本映画界の重鎮としてなんか書けばいいのにね 「ジョン・フォードと『投げること』完結編」
蓮實重彦
【21世紀に入り、映画の歴史が110年ほど過ぎたところで、何が明らかになってきたかと言うと、人類は「運動」が好きではないということにほかなりません。当然のことながら、モーション・ピクチャー、すなわち「運動する映像」である映画を人類が好きであるはずがない。では、なぜ人類が好きであるはずもない映画をあきずに見に行くかと言うと、映画を、そのモーションではなく、「運動」とは異なる何か動かないものとして語ることが好きだからということになります。実際、人類社会において、運動はいたるところで動かぬものに置き換えられしまう。そうすることが、映画に対する人類の優位だと勘違いされているのです。
たとえば、ジョン・フォードの場合、その作品を語るとき、「反動的」あるいは「保守的」という言葉がしばしば使われ、さまざまなイデオロギーに彼の作家的な活動の総体が組み入れられてしまう。客観性を装った「ハリウッドの古典的な映画作家」という呼び方さえ、「運動」を好まない人類の嗜好にふさわしいものなのです。そこで私は、もっとも単純な運動の一つ、物を手に取って投げるという身ぶりをジョン・フォードがどのように描いているのか逐一見てみたいと思ったわけです。】 【「反動的」あるいは「保守的」という言葉がしばしば使われ、さまざまなイデオロギーに彼の作家的な活動の総体が組み入れられてしまう。】
わたしとしては、「国民の創生」「風と共に去りぬ」でも、むろん「駅馬車」でも、
反動主義的、人種差別主義的などという一言でもって、葬ってしまうということには反対だが、
直観主義的な鑑賞のみをよしとして、そういう面をまるで気にしないのも問題だと思う。 [物体が現象として意識されるのは、運動感覚[キネステーゼ]としてで、
作動している身体性、あるいはここでは固有の活動性と習慣性において作
動している自我とともにである。身体はまったく無比な仕方で、たえずま
ったく直接的に知覚野のうちにある」
(フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)
蓮實重彦の思考の下地は「知覚の現象学」あたりを経由したフッサール哲学なのではないか、
と思った(もしかして、お前今頃やっとわかったのか、といわれるようなことなのかもしれないが) 蓮實はヘーゲル嫌いだよね。
ヘーゲル的な世界精神を否定する芸術哲学といえばショーペンハウアー。
「意志と表象としての世界」と「魂の唯物論的な擁護」には何か関係ありそうな気がするんだよなあ。
意志=魂、表象=作品、と単純化すればの話だが。 蓮實重彦にとって、映画をみることは、「運動」なのではないか。
それは体を動かさない「運動」だから(運動しているつもりになっているだけかもしれないが)、
いたって省エネ的でものぐさな知識人向けだといえる。 >>348
嫌いというのは無視できない、馬鹿にできない、ということ 【「ヘーゲルに従えば、事物は自己との差異を生ずるが、それはまず自己ではない一切のものとの間に差異を生ずるからであり、かくて差異は矛盾にまで行く。・・『具体的な現実であって2つの反対の見方を取り得ず、従って2つの対立概念に包摂され得ないようなものはほとんど存在しない』(ベルクソン『形而上学入門』)
…ベルクソンが〔ヘーゲルの〕矛盾の弁証法に寄せる異議は、単に抽象的な差異の概念に留まっているということにある。『矛盾する組合せは程度の多様性も形態の様々なことも示し得ない。それは存在するかしないかのどちらかだ。』(同)程度もニュアンスも伴わぬものは抽象でしかなく、それゆえ、ヘーゲルの矛盾の弁証法は差異そのものを欠いている】
(ドゥルーズ「ベルクソンにおける差異の概念」) ↑のヘーゲル哲学への批判が、本当のところ当たっているのかはずれているのかわからないが、
蓮實先生としては、時流に合わせてこの批判の線でいこう、ということだったのではないでしょうか。 イーストウッドの映画はムダに長い。90分の美学を語る蓮實は、どう思っているのだろう。 そんな長いっけ?青山真治のユリイカはどうなるのだろうか? >>354
『ユリイカ』は長さを感じさせなかったが、イーストウッドは物理的な時間より長く感じる。その分、映画的な密度が落ちる時がある。例えば『スペース・カーボーイ』。 映画としての出来は別として、『マディソン郡の橋』を挙げておく。稚拙だが心象風景と心理状態を映像化しようと頑張ったところ。それでも単純なカットバックの繰り返しには疲れたが。フランスの監督なら100倍うまくやる。 古い人を挙げてもなんですの、ジャック・オーディアールでいかがですか。 >>357
映画を沢山観ているというだけで、ここまで思い上がった事が言えるのか。
仲間うちの会話に留めておくべき放言だな。 >>360
ということは、私と同意見なんだろう(笑)? そうか。貴殿の蓮實のイーストウッドに対する見方についての意見を是非おうかがいしたい。 林 蓮實氏ははじめ『海』に書いていたのか、ドゥルーズとか向こうのいろんな人の、山口君の『世界』の対談(後に『二十世紀の知的冒険』として岩波書店から刊行)のようにはいかないけれども、いちおうはやはり相手の本質をつかんでいると思って……。
いろんなものを書いていて、総なで斬りを一度やってみたいんだろうけどもね。
大江 ぼくはそれをやったほうがいいと思いますけれどもね。
山口 しかし、彼の知のディスプレイが、支配のための知というふうなところがあるでしょう。批判するものを活かすような批判の仕方が彼はできないの。
林 藤枝[静男]君とか、大岡[昇平]君の褒め方でもあれじゃ納得しないな。ぼくはいい気になって、小林秀雄からずっとやられてきて、高橋英夫にいたって、君やられているじゃないかといったら、その次の号を見たらぼくがやられている。人の好い人らしいね。
文体というよりも、なんかちょっとこなれが悪いようなところがありますね。ぼくはわりにあの人のものを読むんだけれども、しんどいな。
非常にムラがある人なの。そしていろいろ非常によく読んで批評しているかと思うと、なんか断簡零墨か、ちょっとしたものを読んですぐ反射的にやっつけるとかね。
大江 わが国の作家というもの、ぼくなんかもそうですけれどもね、だいたいそういうふうにやっていますよ(笑)。
林 作家はむしろいいんですよ、いいけれども、彼なんかやはり批評家だからな、それはやっぱり。相手の立場とか、考えをグローバルに批評している中に、ヒョッとそういうものが出たりするところがありますね。あれがいけないな。それならその調子で相手に取っ組んでものを言わなくちゃ、そういう軽いところがあるな。
でも頭はいいな、一種のよさを持っていますね。あの難しい『テル・ケル』とか、ああいうのを読みこなすんだからもうかなわないよ(笑)。 しばらく前に『オールド・ファッション』読んだ。信条が異なる二人が、バチバチに論戦するかと思ってたら、ジャブの出し合いくらいにで拍子抜け。蓮實、意外と如才ないと思った。二人とも夏目漱石の本出しているし、漱石論とか聞きたかったが。第二幕を期待したいが、江藤淳は亡くなったし、蓮實にはうんと長生きして欲しいもんだ。 蓮實批評の罪深いところは、
イーストウッドと青山を並置するような奇怪なことを、
変だとも思わないでやるような映画ファンを生み出してしまったことだ。
蓮實先生が、かけ離れたものを平気で並べて論じるから、こういうことになる。 津川雅彦だったら、大学生と小学生くらい違う、
というようなものを、同等あつかいするのだから、
お話にならない。 >>364
文壇の嫌なとこを嫌という程寄せ集めたね。
蓮實のバックにも文壇が付いていたから、蓮實は好き放題言えた。
それだけ。
大体が鼎談という形式が、文壇の下卑た馴れ合いの代表なんだ。
蓮實、柄谷、浅田らも多くの鼎談に参加していた。 >>368
鼎談と文壇については同意するが、発言自体は良いところを突いていると思う。
蓮実の渡部昇一的とんちんかん発言の指摘など。 渡部昇一的とんちんかんとは?
田中真紀子総理待望論は凄かったけどw
蓮實さんはその域には達してないでしょ back
あなたに映画を愛しているとは言わせない
>>
hasmilk hall
「現実的」という罠について
蓮實重彦
20世紀の初めにフランスの哲学者アンリ・ベルクソンによって指摘されたことですが、質の問題と量の問題との混同は、知性にとってもっとも恥ずべき錯誤の一つであります。ところが、その錯誤は、ほとんど思考の宿命であるかのように、21世紀に持ち越されてしまいました。あらゆるものを量の問題として考えておいた方がより「現実的」だという理由で、質の問題が思考の地平から遠ざけられてしまいがちなのです。わたくしは、そうした現象を「近代のペシミズム」と呼んでいますが、それは、いま、大学の機能をも着実に蝕んでいます。 [もし普遍のより広い外延ということが,普通が特殊と個別よりもよ
り多いもの,あるいはより大きい定量だと見られるとすれば,それは概念
の本性が全く見誤られる.概念、は絶対的根拠としての量の可能性であり,
同程度に質の可能性でもある.言い換えると,概念の諸規定は同様にまた,
互いに質的にも相違しているのである.したがって,概念の諸規定がまだ
量の形式のもとにのみ置かれるときには,概念の規定はすでにそれらの真
理に反した仕方で考察されている.](ヘーゲル「大論理学」) 蓮實重彦のいう[質の問題と量の問題との混同]というのは、
もっともらしくベルクソンを持ち出しているが、そのくせ哲学的な含意など全然なく、
[人類は「運動」が好きではない]こちらのほうも、
なにやら哲学的な含みがあるようで、実はない、というものだ。
そうしたことは「蓮實節」といわれるものの特徴の一つであろう。 http://dontoverlookharassment.tokyo/2022/06/13/1-2/
世間に向かって好き勝手言うのはともかく教育の場に持ち込むと物凄くグロテスクなことになるな
蓮實先生は村上春樹と河井隼雄の愛読者や映画はシナリオが大事好きな監督は黒澤明とワイルダーみたいな学生わざわざ取らないだろうけど 蓮實先生も修論でヌーベルクリティックの真似事みたいの書いて仏文の教授連から総スカン食らい本場フランスに留学してヌーベルクリティック御法度のソルボンヌでは大人しくアカデミズムの作法に則った博論書いたみたいだが大学に職を得るまでの我慢だそしたら好きなこと書いてやるって自分に言い聞かせてたのだろうな [(イマージュ)は、この世界の土台の上にのみ,且つ,この土台との結びつきにおいてのみ,あらわれることが出来
るJ(サルトル「想像力の問題」) [マルクス主義のすぐれたところは、歴史の理解の仕方とそれにもとづいた未来の予言にあるのではなく、
人間の経済的諸関係が知的、倫理的、芸術的な考え方に及ぼす避けがたい影響を、
切れ味鋭く立証したところにある](フロイト「続精神分析入門」) 「権力諸関係の中にありうるもっとも隠されたものを探し求めていくこと。権力諸関係
を経済的な下部構造の中でまで捉え直すこと。国家という形式にあらわれた権力諸関係を
追及するだけでなく、国家の下位にあったり、国家をこえでたりする形式においても追及
すること。権力諸関係をそれらの物質的作用の中で再発見することです。」(新評論『ミシェル・フ
ーコー』61〜2 ページ) 蓮實)僕にとってのフーコーの偉大さは、彼が知識人でありながら、生涯を通じて、何ひとつ指針らしいものを残さなかったことに尽きています。共同体に受け容れられるような行動の方針は一つも示さなかった。ただし、一貫して一つの闘争を戦いぬいていたのであり、そのことが指針といえばいえるかもしれない。それは何かというと、彼の戦いが、不快なものをめぐって、ただその一点をめぐって展開されたという点です。彼は、社会的な不正に対して正義の立場から戦ったのではない。ましてや、社会的な不正に対して戦う義務感など持っていなかった。僕の驚きは、正しくないことに対して批判を加えるべきだという知識人的な郷愁の徹底した不在です。たとえば、それをサルトルと比較してみれば明らかでしょう。サルトルの倫理は、彼の正義の理念と切り離しえない。
(「闘争のエチカ」) [芸術は自然においては醜く不快であるはずのものを美しく(みごとに)描き
だすというまさにその点で優れている。復讐、病、戦禍などは(現実には)災厄であ
りながら、きわめて美しく描写することができるのであり、それどころか絵画で美し
く表象されることさえある](『判断力批判』第 48 節)
[ただ醜さ… のある種のものだけは、自然のままに表象されればすべての美的な悦びを消
滅させてしまい、したがって芸術美を消滅させてしまう。それは、吐き気 を
催させるような醜さである(『判断力批判』第 48 節 )。 >>379
依怙贔屓の正当化にも繋がる危険な論理だ。 サルトル「嘔吐」では、主人公のロカンタンは、何でもかんでも吐き気を催す。
世界のあらゆるものが、カントがけして芸術的な美=「快」に転換されないとした
「吐き気 を催させるように醜いもの」、不快なものということだろうか。
「不快なものをめぐって」の戦いということならば、
するとサルトル=ロカンタンは、フーコーよりも戦闘的で、
世界のすべてにたいし戦いを挑んでいた、といえなくもない。 サルトル「カント先生、ぼくはなにをみても吐き気を催すのです。
この間は、先生の肖像画を見ていて吐き気を催しました」
カント 「…、サルトル君、そういうことは、
わたしでなく消化器系の医者に相談したまえ」 ゴダールは『JLG/自画像』で、二度、ネガに言及している。一度目は、湖畔でヘーゲルの言葉をノートに書きつけながら、「否定的なもの(le négatif)」を見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうると口にするときである。二度目は、風景(paysage)の中には祖国(pays)があるという議論を始めるゴダールが、そこで生まれただけの祖国と自分でかちとった祖国があるというときである。そこに、いきなり少年の肖像写真が挿入され、ポジ(le positif)とは生まれながらに獲得されたものだから、ネガ(le négatif)こそ創造されねばならないというカフカの言葉を引用するゴダールの言葉が響く。とするなら、描かれるべき「自画像」は、あくまでネガでなければならないだろう。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』) 確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」) >>379
蓮實が言いたいのはフーコーが自然にはっきりとiconolatry偶像崇拝から距離を置いていたということだろ。
蓮實はもったいぶるから、文学や芸術に疎い人には理解しにくいんだよ。
蓮實の「文章を書くには運動神経が必要」にしても、文章を書くことの全般に当てはまるimprovisation即興
性の必要を説いてるだけ。
俺も蓮實の言を言い換えてるだけだが、それで蓮實の言が分かりやすくなる人もいるだろう。
379で蓮實が言ったことや、蓮實の小津誉めも大昔に石川淳が「諸国奇人伝」でやったのと同じこと。
蓮實の稚拙な勿体ぶりのことをスノビズムとか、蓮實に甘過ぎだろ。
iconolatry偶像崇拝と偶像破壊や偶像忌避はコインの裏表に過ぎないが、日本の文学界隈が偶像崇拝に汚染され
過ぎてることは自覚しておいた方が良い。 >>379
「偶像崇拝」がこの場合にどういうことを指すのか、
よくわからない。
「即興」のほうはわかる。 >>386
蓮實の言う通り、ショットはいい。映画としてもまあまあ面白かった。ルーニー・マーラ好き。蓮實はあんまり女優については、言及しないけど。 ボヴァリー論、フォード論を書き終えてもぬけの殻にならないか心配だ
特にこれからやること無いならボケ防止のために蓮實重彦自伝を書いてほしいなあ
戦前の東京に生まれて、疎開先でのイジメ、戦後焼け野原での青春、東大仏文、フランス留学の思い出、シャンタルとの結婚、新帰朝者として、念願の文壇デビュー、老いの日々・・・ 家の馬鹿息子 ギュスターヴ・フローベール論(1821−1857)
蓮實重彦は↑の訳者の一人なわけだが、
同書について何か批評を書いていますか。 海老坂武
「この第3巻で、原書全体の約3分の2を日本語訳にしたことになる。原書が刊行されてから35年、第2巻が翻訳されてから17年の間隔があいている。(そしてその間に、15年前に訳稿を提出されていた平井啓之氏が亡くなられた)。
訳者たちの、とりわけその一人の怠慢のために刊行が遅れてしまったことを、著者ならびにこの本の刊行を待たれていた読者の方々に心からお詫び申しあげたい。
また、この遅れのために、この巻に続くべき2冊(4巻、5巻)が出版されなかったとなると、訳者としてはますますその責任を感じざるをえない。
他方、出版社の責任もまた重大である。3名の訳文がほぼ15年前に出来上がり、1名だけが未提出という長期にわたる異常な事態を放置せず、積極的に解決へ向けての努力をすべきではなかっただろうか。
サルトルは『嘔吐』をはじめとしてその生涯に何回か〈全体化〉を試みている。『家の馬鹿息子』はその最後のもので、しかももっとも大がかりな〈全体化〉の試みである。
その意味で、〈サルトル思想〉とされるもののすべてがこの作品の中に詰め込まれていると言ってよいであろう。『家の馬鹿息子』にふれない〈サルトル思想〉の解説はほとんど意味をもたない、と私は考えている。
そうであるだけに出版の中断となるとこれは大変残念なことであり、大きな知的損失である。若い研究者たちがなんらかの形で後を引きついで完訳にこぎつけることを願わずにはいられない。」 この訳者解題は異様である。1名の訳者が17年出版を遅らせたのだとしたら、その訳者の責任は重大である。ただ、私には海老坂武氏がどうしてその訳者の名前を明らかにしないのかが異様に映る。 平井 啓之、海老坂 武、 鈴木 道彦、蓮實 重彦の4人のうち、蓮實 重彦氏だとなぜ名指ししないのか私には理解できない。17年も出版を遅らせておきながら、シャーシャーとして『「ボヴァリー夫人」論』などという単行本を 2014年に出しているのだから何をか言わんやだ。その間、サルトルの翻訳を滞らせて自分の原稿を書いていたのだとしたらその罪は深い。しかも、まだ第5分冊は未刊のままである。 訳出を待ってるあいだに
語学を学んだほうが
手っ取り早そうですなw とっとと訳者を変えた方が早い
蓮實は86歳と高齢だからもう無理だ
『ボヴァリー夫人』の新訳を出した芳川泰久あたりはどうか
かつてガルシア・マルケス『コレラの時代の愛』の翻訳が
野谷文昭の怠慢で10年以上できなかったのに、
木村榮一に変えたらすぐ刊行されたことがある いま調べたら、昨年12月にすで第5分冊完結編が刊行されていた
当然、蓮實は外し、他の数人によって翻訳されている
人文書院は動くのが遅い [3名の訳文がほぼ15年前に出来上がり、1名だけが未提出]
これは並の神経ではできない、大先輩と先輩を十五年(その間に大先輩のほうは亡くなってしまった)も待たせたのだから。
さすがは蓮實重彦だといわざるをえない。 翻訳は一種の読解に過ぎないが、あるレベル以上のスピードで読まないと読解できないものがあるんだよ。
翻訳の遅れにちゃんとした対処をしなかった出版社の責任も大きい。
やはり、出版業界全体に東大や東大学長経験者の蓮實に対する遠慮があることは否定できないだろ。
スピードの感覚を失えば、出版事業は意味を失いかねない、というか、家の馬鹿息子 ギュスターヴ・フロー
ベール論の翻訳の質に疑問を抱かざるを得ないのが普通の心情ではないか?
ちなみに、何十年も牛のよだれのように連載が継続される漫画も同様の欠点を抱えている。 国分によると蓮實が訳したドゥルーズの『マゾッホとサド』は誤訳だらけらしいし『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』を訳したら読んだ無名の学生だった浅田彰から数十箇所に及ぶ誤訳訂正リスト送り付けられたりして
サルトルの『家の馬鹿息子』に関しては専門のフローベールだし「フランス文学者」として愚かな失態は許されないと万難を廃して完璧な翻訳を目指して15年の歳月を捧げたのかもしれないじゃあないか・・・
んなこたないか٩( ᐛ )و 蓮實は翻訳が得意じゃないんだろう
専門のフローベールの小説の翻訳も『三つの物語』と『十一月』だけだし
もともとサルトルも興味ないから、翻訳したくなかったけど、
出版社から押しつけられたと想像する 久しぶりに来てみれば
ずいぶん伸びてるな
なんかややこしい話してるし暗いな、スレの雰囲気が
俺みたいなヒューモアのセンスに溢れたネタレス出来る人がいなくてみんな真顔
つか、下のほうの10個ぐらいのレス読んだだけだけど、出てくる名前がサルトルとかフローベールとか古いな
翻訳とっとと出せっつうならせっつくべきはデリダの『Glas』だろ
じゃ、また何ヶ月後かに覗きに来ます! それに引用さんは引用するなら元の著者、典拠を併記するのが最低限のルールだろ
相変わらずやってないし
なんか人の文章を自分のにしてるみたいでかっこ悪いし、興味を持った人に対しても不親切だな ≫相変わらずやってないし
著者、典拠は、引用したときには、全部書いてあるだろう。
この異常者は、一体なんなんだろうな。 ≫久しぶりに来てみれば
常に張り付いているのが、「久しぶり」とか、なんなんだろうね。 ≫じゃ、また何ヶ月後かに覗きに来ます!
この異常者は、いろいろなスレッドで名無しで
「じゃ、また何ヶ月後かに覗きに来ます!」
こう書いて、毎日毎日一日中書き込んでいるようだからな。 >>402
それ対談で蓮實重彦が浅田彰の紹介で言ってて浅田は「若気の至りです」とか言ってたよ😂 自筆年譜の改訂版では誤訳指摘の記述が削除されている 國分浩一郎が指摘した「マゾッホとサド」の誤訳というのは、
どういうものがあるの? 蓮實の誤訳の中での大物は何と言っても、「表象文化」という言い方だろう。
「文化的表象」という言い方はありだが、表象文化はあってはならない。
蓮實の「「5月革命」というフランス語は無い」と同様。
この蓮實の誤訳は日本中に、あるいは世界中に?迷惑をかけたろ。
蓮實の場合は実は誤訳じゃなくて、蓮實の誤認識の問題があるだろ。 the Association for Studies of Culture and Representation
表象文化論学会は、対外的には↑のように名乗っている。 Mai 68: une révolte ou une révolution qui a changé la France
フランスでも↑のように言っているようなので、
「五月革命」というのは、68年五月の革命、を短くしたのだと思えば、
間違いというほどではないのではないか。
≫蓮實の「「5月革命」というフランス語は無い」と同様。
蓮實重彦は、どういう意味で↑を言ったの。 KoichiroKOKUBUN國分功一郎
@lethal_notion
·
Feb 28, 2012
蓮實重彦の『マゾッホとサド』の翻訳が間違いだらけで、たとえば『パイドン』が『饗宴』と翻訳されているけれども、それでもいいんだ。なぜなら日本語として読める
KoichiroKOKUBUN國分功一郎
@lethal_notion
·
Jul 5, 2013
ちなみに蓮實重彦の『マゾッホ紹介』の翻訳は間違いが多いことで有名ですけど(プラトンの書名が間違ってるとか笑)、ガリツィアという土地の重要性はもうキチンと分かって訳されていて、短いけれど重要な啓発的訳注が付されてます。さすがです。
Hermit Of Hibarigaoka
@ilytokiwa
·
Apr 27
國分功一郎のVimeoで知ったのだが、蓮實重彦による『マゾッホとサド』の翻訳は誤訳だらけらしい。本当に「だらけ」なのだとか。これは意外だった。
イワシ
@seko_champloo
·
Mar 24
國分功一郎の動画を再見。蓮實重彦「大先生」という皮肉の混じった尊称に笑う(「蓮實先生の素晴らしい、まあ誤訳だらけの翻訳」)が、訳註を読んだ時の感動を話すときの語り口はまあ感動的。そして、蓮實重彦は『ハリウッド映画史講義:翳りの歴史のために』の著者だったと訳註の態度からはたと気づく。
北村匡平|Kyohhei Kitamura
@Kyohhei99
·
Dec 3, 2020
蓮實重彦の『表層批評宣言』(1985年、ちくま文庫)の巻末に「自筆年譜」がついていて、昭和50年=1975年に『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』(翻訳)を出版、「まだ無名の浅田彰より多くの誤訳を指摘された」って書いてるけど、浅田彰は1957年生まれでこの時まだ18歳なんだが(笑)天才すぎる!
浅田彰
「そういう苛立ちが、フーコーのジル・ドゥルーズ論『劇場としての哲学』(七〇年)の誤訳リストを蓮實重彦に送りつけるという悪趣味なふるまいへとつながりもする」 ≫蓮實重彦の『マゾッホとサド』の翻訳が間違いだらけで、
≫たとえば『パイドン』が『饗宴』と翻訳されている
これについては知っていた。
わたしもだいぶ↑のほうで、このことを書き込んだ。 ≫國分功一郎のVimeoで知ったのだが、
≫蓮實重彦による『マゾッホとサド』の翻訳は誤訳だらけらしい
しかし、「だらけ」というほど、誤訳がたくさんあるのかどうか。 『マゾッホとサド』ジル・ドゥルーズ 晶文社、1973
昭和48年ですよ。この時代にこの本をあのレベルで訳せる人が
蓮實重彦のほかにいたとは思えない。
いまの時代にあの程度のレベルの國分功一郎が、
もしもこの時代の人だったら、チンプンカンプンでお手上げ、ではないですか。 ↓をお書きになったのは、ローレンツ云々のところから察するに、
おそらく京大の力学系理論の先生だと思われる。
Amazon レビュー
小泉義之「ドゥルーズの哲学」
2000年
「この書で題材に取り上げられている、複雑系の問題は、私の専門ではありませんが、関わり合いはあり、多分私も日本では最初に着目した人たちの中に入ります。ほとんどローレンツと同じ時期に、同様な性質を持つ現象に着目して論文を書いたこともあります。それもあり、かつは何年か前にソーカルの批判を面白く読んだこと、もう実験に携われなくなったので、もっぱら科学哲学の書を読み始めたことなどもあって、この書を通読しました。
レビューを見て、なるほどと思いました。見事に、評価が分かれています。私も少し、厳密というほどでなくても、いくらかは詳細に分析してみようと思いましたが、断念しました。理由は他の方のご意見でもお分かりになると思います。とても分析にかかるような代物ではありません。確かに、単なるドゥルーズの解説書ではなく、著者が彼を下敷きにして自分の書きたいことを書いたという書なのですが、ソーカルの意見は、この書にも当てはまります。数学的概念の使い方など、変に初歩的なこと、いきなり「哲学」的な意味をくっつけるところ、全く「教祖のご託宣」調の、批判を許さない断定、等々、解説者の調子がこれに輪をかけて、まるで「哲学村」の同人紙みたいですね。
こうした「議論」に全く価値を認めないのではありません。宗教に無視できない価値と効用があるのと同じことです。」 2000年の時点で、お仲間がこういう恥ずかしい本を書いている。
國分さんにしても、こういう先輩の失敗がなかったら、
同じようなことをやっていたかもしれないのではないですか。 国分は、Twitter上で、小泉義之によるドゥルーズ 『意味の論理学』も間違いだらけと批判していた。 千葉雅也『現代思想入門』発売
@masayachiba
·
Jul 14, 2010
ところで『マゾッホ紹介』の新訳は、博論が終わって時間ができたらぜひともやりたいですね。蓮實先生の偉業があるわけですが、後半の精神分析的な文脈などいささか理解がユルいところがあるし、文体にちょっと古風なクセがあるので、各概念の輪郭をキリッとさせてフラットな訳に変えたいですね。
キュアロランバルト/幸村燕
@welcome_to_neet
·
Apr 25
Replying to
@megamiminarai
蓮實訳はプラトンの「国家」からの引用じゃないやつが「国家」になってたりするから結構間違いも多いって別の先生が堀先生から聞いたって言ってた。
相当な蓮實好きじゃない限りマゾッホ紹介が良いと思います
二進
@kaoide
·
Mar 18
わざわざそういう説明をつける蓮實は分かってるね、誤訳がすごいけど、と。國分さんの話はこういうところがおもしろいな。。
いまは堀千晶訳『ザッヘル=マゾッホ紹介 』河出文庫が出てるから正確な翻訳はこちらで、とのこと。 「マゾッホとサド」の精神分析にかかわるところを
いまさら「正確」に訳して、
それでどうするの、と私などは思う。元がテキトーな本なんだから、
テキトーさを正確に訳すというだけのことにしかならないのではないか。
だったら、その前に、柄谷行人と座談会などで顔を合わせた際に、
「世界史の構造」「帝国の構造」などの精神分析にかかわるところのいい加減さについて
きちっと批判すべきなのではないか。
ちなみに、柄谷行人は、ドゥルーズのサディズム・マゾヒズムについての論考は、
完全に無視しているだろう。 [フーコーは,
新自由主義がその支配的言説を確立する前の早い段階
で,新自由主義における「自由市場」と「国家介入」の
ジレンマを的確に把握しつつ,さらにそれに対して理
論的説明を与えた。非自然的な競争を導入することこ
そが,新自由主義にとって最も重要な課題であるゆえ
に,新自由主義は決して「自由放任」を尊重するので
はない。さらに厳密にいえば,新自由主義における自
由市場のレトリックは,実際には,新自由主義の市場
秩序,経済政策によって支えられており,市場におけ
る秩序の維持は,国家による介入もしくは法律の保護
によってはじめて可能となる。加えて競争原理を最大
限に働かせるために,インフラの維持管理や,市場の
活性化,あるいは今まで経済とはほど遠い領域を「市
場」として整備していくことも国家の政策に依存して
いる。「国家介入」というテーマは最初から新自由主
義的統治において存在しており,問題はいかにしてそ
れを正当化していき,それによる介入を通じて経済的
利益を生み出していくのかである。] ↑
新自由主義的統治に関する批判的考察
―フーコーの統治性理論を手がかりに―
*
張 林倩 ネオリベ(国家による個人や市場への介入を縮小し、個人の自由や市場経済を重視する思想)
千葉雅也
↑なんか、フーコーの論説どころかwikiほどの理解度にも至っていないのではないか。 林達夫
非常にムラがある人なの。そしていろいろ非常によく読んで批評しているかと思うと、なんか断簡零墨か、ちょっとしたものを読んですぐ反射的にやっつけるとかね。
興味ある小説や映画なら何十年も驚くべき粘り腰で何もそんな細かいことまでと偏執狂のごとく拘る細部の人・蓮實重彦は
専門外の哲学とかイマイチ興味の薄いことだと本質を掴めばええねん細けえことはいいんだよ!
プラトンの著作?翻訳するなら辞書を引け?知らんがなそんなもん!ヽ(*`Д´)ノ
みたいな人なのかもよ(^_-) リーマンショック後のアメリカのTARP反対の運動やフランスの黄色いベスト運動などは、
國分さんのお仲間うちでは、反新自由主義運動だということになっているようだ。
すると、この場合の新自由主義というのは、金融機関救済のための政策と増税政策ということになって、
ゆえに反新自由主義運動は、「大きな政府」に反対していることになるでしょう。
50歳以上の人ならば、何とか主義とつくものには、建前と本音があるのは当たり前、
いつだってそうだ、というような世間知は、
たとえ、ものを知らない文学部の大学人であっても、よほどでなければもっていた。
ところが、50歳以下になると、辞典に書いてあることとニュースで見聞きすることの食い違いに気づかないのか、
辞典に書いてあるようなことを疑いもしないで、前提に持ってくる。 ≫専門外の哲学とかイマイチ興味の薄いことだと
≫本質を掴めばええねん細けえことはいいんだよ!
これは核心だろう。 「マゾッホとサド」蓮實重彦訳者あとがき
「ある二つの概念なり要素なりが対置されるとき、人は、それが対置されうる条件そのものを凝視することなく、そこに融合とか、否定とか、超克とかいった手続きを読みとらずにはいられない」 「もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動ーー原サディズムーーはマゾヒズムと一致するといってさしかえない。〔・・・〕ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動が、ふたたび取り入れられて内部に向け換えられ、以前の状況へと退行する。こうして二次マゾヒズムが生み出される。」
(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年) [死の欲動とは、有機体(生命)が無機質に戻ろうとする欲動です。《生命実体
を保存しこれを次第に大きな単位へ統合しようとする欲動のほかに、それと対
立して、これらの単位を溶解させ、原初の無機的状態に連れ戻そうと努めるも
う一つの別の欲動が存在するにちがいない》(『文化の中の居心地悪さ』、フロイ
ト全集 20、岩波書店、p30)。私は、これは個人よりもむしろ社会構成体に関
してあてはまることだと思います。人類は遊動的であったとき、「無機的状態」
にあった。定住後に生じたのが、「有機的状態」です。そこに、不平等や葛藤が
発生する。
そのとき、「無機的状態」を取り戻そうとするのが死の欲動であり、それは先
ず攻撃性として外に向けられる。が、フロイト的にいえば、それが内に向けら
れるとき、超自我として自らの攻撃性を規制するものとなる。贈与の互酬交換
はそのようなものとしてあらわれた、といえます。]
(柄谷行人「交換様式論入門」) 〈マゾヒズムの場合、法のすべては母へ投入される。そして母は象徴的空間から父を排除してしまう。〉
〈ドゥルーズ著 蓮實重彦訳「マゾッホとサド」〉 なお、柄谷行人は、フロイトの「原父殺し」の説は否定しているのだから、
フロイトの「集団心理学と自我の分析」における原始群族の「集団心理」についての説も、
どうじに退けていることになる。 蓮實は昔啓蒙の弁証法の翻訳で映画に関する部分にケチつけてなかったか?
哲学プロパーが映画の細かい部分で間違えるよりもドゥルーズの翻訳でプラトンの著作間違えるほうが相当恥ずかしいと思うんだが
ドンシーゲルやアルドリッチやフライシャーに言及してないからとシネマのドゥルーズを叱ったりして自分は文芸評論家なのに神聖喜劇読んでなかったり
このデタラメさというか図々しさというか厚顔無恥振りは蓮實の美点なの?欠点なの?w 美点とはいえないので、やはり欠点ではあるだろうが、
しかし、その欠点が魅力でもある。 蓮實重彦は、厚顔無恥なのではなく、傍若無人なのだ。 アレを見ずに映画を語るつもりかみたいなヲタク的な煽りを始めたのは蓮實でしょ?
でも他の分野だといきなりテキトーというw それらすべてを彼の芸として楽しく拝見していればよろしい 蓮實って人は直接知るとやっぱりかなりアレというか変な人なの?
私は生蓮實は大昔に新ドイツ零年観に行った時に前説やったのを見たことあるだけなんだが
今は無き渋谷のシネセゾンで何喋ったか全然覚えてないけどフランソワ・トリュフォーと言った時おフランスな発音したのだけは覚えてるw なかやまきんに君のアーノルドシュワルツネガーみたいなノリか (マゾヒズムの)[否認は超自我を忌避し、純粋で、自律的で、
超自我から独立した「理想自我」を生む権利を母に委託する。]
(「マゾッホとサド」) サディズムは茨城の別荘でのSNSモデル監禁殺人事件で今ホットな話題だから。
文壇でも蓮實、渡部、渋沢龍彦、津原、千野帽子らは無論、彼等の対立相手の見城や百田、
らは概ね。サドの子だろ。渋沢が典型だが、彼等は全部、公家や武家の系統ではなく全て
百姓かそれ以下という成り上がり主義の側面を持っている。誰か浅田彰の差別性を唱えてる
人がいたが、成り上がり主義と差別性はコインの裏表であり、ネトウヨや日本的ネオリベラ
リズムとも関係してる。 >>82
「百年の孤独」なのでは?読んだことないけど >>450
サドは代々の貴族だろう。その「サドの子」がなんで「成り上がり」なのだ。 なお、ザッハー=マゾッホも、オーストリア帝国の伯爵家出の貴族だ。 >>454
俺が挙げた日本のサドのファンには百姓以下の系統の者が多いということを言った。
例えば、渋沢龍彦の家は百姓の出。他ではそれ以下も多い。 >>457
賤しい生れの人間ほど貴族に憧れるのは普通。
書くものは物質的なものから遠ざかり、表象に
変更する傾向が強いが、中上健次は例外だった。 >>458
百姓=賎しい生まれと言いながら中上健次を例に挙げる頭の悪さ ひいじいさんやじいさんに歴史の本に名前が出てくるような人物がいる者を
ふつうだと「成り上がり」とはいわないのではないか。
性格が「成り上がり」っぽいというのならわかるけれど。 >>461
百姓以下と言った。
>>462
歴史の本にはエタ非人も登場する。 とにかくサディズムは茨城のSNSモデル監禁事件でホットな話題なんだが、北村沙衣と呉座勇一の取り巻き同士の
争いもやはり、サドの子同士のいがみ合いと言って良い。
これもやはり身分的には百姓以下の臭いがする。 東浩紀、國分巧一郎あたりから下は、いまどきの平均的家庭出身の「成り上がり主義者」が多いというかんじがするけれども、
浅田彰、福田和也くらいまでは、むしろぼっちゃん気質が多いのではないか。 中上健次は、昔々の言葉では「潤屋の賤民」で、
これには、〈マゾヒズムの場合、法のすべては母へ投入される。そして母は象徴的空間から父を排除してしまう。〉
〈ドゥルーズ著 蓮實重彦訳「マゾッホとサド」〉こういうような、
いわば「文化貴族的」な気質がそなわることがあるわけだ。
それだから、ブルジュワ出知識人の柄谷行人などが、
なんとなく傅いてしまうということがあったと思う。 想像力の子供が読む神経症としての文学
対談=澤田直・菅谷憲興
サルトル『家の馬鹿息子 ギュスターヴ・フローベール論』(全五巻、人文書院)邦訳完結を機に
https://dokushojin.com/reading.html?id=8697
このたび人文書院より、ジャン‐ポール・サルトル『家の馬鹿息子 5 ギュスターヴ・フローベール論 (1821年より1857年まで)』(鈴木道彦・海老坂武監訳、黒川学・坂井由加里・澤田直訳)が刊行された(邦訳全五巻が完結)。
「《現代》小説の創始者、フローベールは今日のすべての文学的諸問題の四つ辻にいる」(「はじめに」)として、フローベールの個人史から第二帝政にいたるまで多様な主題が重層的に論じられている。刊行を機に、訳者を務められた澤田直さんと、菅谷憲興さんに対談してもらった。(編集部)
≪週刊読書人2022年3月4日号掲載≫
足掛け四〇年の壮大な企画、作家の個人史から第二帝政へ
菅谷 サルトル『家の馬鹿息子』の全訳が完結しました。原著が刊行されたのが一九七一年と七二年で、全体で三千頁。その一〇年後に邦訳が始まり、一九八二年に第一巻、一九八八年に第二巻、二〇〇六年には第三巻が刊行されました。
そこで翻訳チームが入れ替わり、澤田さんも新たに加わって、二〇一五年に第四巻が、そして今回、第五巻が完成しました。足掛け四〇年の壮大な企画で、一つの達成だと思います。まず全訳を終えられた感慨と、翻訳事情についてお聞かせいただけますか。
澤田 おっしゃる通りで、原著が出てから五〇年、翻訳自体も四〇年かかったというのは、昨今の出版界の事情において稀有の出来事だと思います。第一巻刊行時、すでにサルトルのブームは終わっていた感じがありましたが、二段組みで七四〇頁強、威圧感もあって、一般読者の手はなかなか伸びませんでした。
原著の出版後すぐに平井啓之先生が是非翻訳するべきだとおっしゃって、鈴木道彦先生、海老坂武先生と蓮實重彥さんにお声がけして翻訳チームを作られました。鈴木先生は当時プルーストの翻訳があったので、乗り気ではなかったそうです(笑)。邦訳第一巻と第二巻は一九八〇年代に出ましたが、第三巻は遅れに遅れ、刊行されたときはちょっと呆れられた感じでした。 菅谷 邦訳第二巻と第三巻の間は二〇年ですよね。
澤田 いろんな噂が飛び交っていましたね。原著の難解さが遅れの一つの原因ですが、それに諸般の事情が重なりました。第三巻で打ち切りという話もあったようですが、人文書院の森和さんという名物編集者が、それはもったいないと社を説得し、僕らの世代の研究者も加わって第四巻以降続けることになったんです。
第四巻は四五〇頁弱なので、他の巻よりは薄いですが、それでも訳すのに七年かかりました。なかなか大変な作業でしたね。第五巻は七六〇頁もあって、僕の担当部分も長くて、苦労しました。
一九世紀のことを勉強し直さないといけないということもありました。鈴木、海老坂両先生は幅広い教養をお持ちなので、お二人に助けられてなんとか終えることができました。
途中で投げ出したくなる気持ちもありましたが、今は感無量です。 >>395
蓮實の怠慢だったのか
思うに「家の馬鹿息子」というタイトルが不快だったのでは フローベールよりジャン・ルノワール
プルーストよりゴダール
漱石より小津 >>395
翻訳がビジネスであることを蓮實は忘却してる。
サッサカサッサカ翻訳できる作品でなければ、自分が引き受ける作品ではないということを
早々に判断して、翻訳を断らなければいけない。
そうでないと、皆に迷惑をかけるし、未来の読者を失ってしまい、その読者らにも大きな迷
惑を及ぼす。
何故、さっさと蓮實は「僕には出来ません」と、言わなかったのか。
色々と理由はあるのかもしれないけど、まず無責任だ。
だが、作品の内容はサルトルによるフローベール論であり、これは日本におけるフローベール
の研究者である蓮實にとっては利害関係がある問題なのだ。ひょっとして、家の馬鹿息子の翻
訳の遅れが蓮實の著作執筆に有利に作用した可能性すらある。
しかも、蓮實は2014年にフローベール論の一種である大著?「ボヴァリー夫人論」を出版してる。
それからしても、サルトルによるフローベール論である「家の馬鹿息子」の翻訳を断るのが、筋だっ
たと思うが。周囲から色々と疑いが生じることもあるだろうし。
蓮實「僕ぐらい偉くなれば、何でもやり放題なんですよwww皆さんも偉くなりなさい楽しいよww」 翻訳を引き受けた時、蓮實重彦はまだ助教授でしょう。
たんにその時には、断りきれなかったのではないか。 >>476
途中で断るチャンスはいくらでもあったろ。 >>477
自己レスだが、蓮實を擁護するとすれば、翻訳進行の途中で翻訳を断るには
一種の運動神経が必要であって、それが蓮實には欠けていたのかも。 蓮實重彦は、「家の馬鹿息子」の翻訳を引き受けた時、さほど忙しくなかっただろう。
それがポストモダニズムのブームで、とたんに売れっ子になったものだから、
すごく忙しくなって、それに加えて、地位も上がったために雑事に追い立てられるようになり、
そうしたことで、ついつい日延べしているうちに、気づくと15年たっていた、
ということなのではないだろうか。 ていうか、コントロールできる編集者がいなそうだよね。 蓮實重彦には内心で、
いまさらサルトルでもない、ということもあったのではないのか。
長いこと、つまらない思想家の第一番目にくるのがサルトル、みたいな状況があった。 ブランショよりサルトルのほうが偉いって言ってたね
家の馬鹿息子については否定的に言及してたけど
だから15年も翻訳遅らせていいってことには全くならんが 蓮實重彦は、ブランショのことは、バカだと言っていたのではないか(ただし記憶が不確か)。
サルトルでも、それよりは偉いということではないの。 蓮實のブランショ下げは、ハイデガー下げと一緒で
蓮實には珍しいルサンチマンの一つだろう 蓮實重彦
2005年5月ソウル「世界文学フォーラム」の講演から
【「葛藤」や「無秩序」への私の執着は、言語をめぐるごく単純な原則に由来している。
それは、ある定義しがたい概念について、大多数の人間があらかじめ同じ解釈を共有しあってはならないという原則にほかならない。
とりわけ、文学においては、多様な解釈を誘発することで一時の混乱を惹起する概念こそ、真に創造的なものだと私は考えている。
そうした創造的な不一致を通過することがないかぎり、「平和」の概念もまた、抽象的なものにとどまるしかあるまい】 ≫蓮實には珍しいルサンチマンの一つだろう
たしか、ドゥルーズにいわせれば、誰それはダメ、みたいな頭ごなしの否定は、
ルサンチマンのなせる業だということだった。
すると、蓮實重彦の言うことには、ルサンチマンが充満していることになる。 [いまや、無意識を持っているのは「特権階級」なのかもしれない。無意識というのは余りであり、動物的にただ生き残るために生きていたら、無意識は要らない。邪魔です。(中略)
僕としては、その状況は、グローバル資本主義によって、「無意識が奪われていっている」状況なのだ、とネガティブに捉えています。]
(『欲望会議』2018年 千葉雅也の発言)千葉雅也『現代思想入門』発売
【@masayachiba
·
Jul 14, 2010
ところで『マゾッホ紹介』の新訳は、博論が終わって時間ができたらぜひともやりたいですね。蓮實先生の偉業があるわけですが、後半の精神分析的な文脈などいささか理解がユルいところがあるし】
千葉雅也のほうが、どうみても、「理解がゆるい」(というかトンチンカン)としか思えないですな。 「憲法の無意識」で、柄谷行人は、
憲法九条が改正されないのは、(強迫神経症的な)「無意識の罪悪感」があるからだ、
としていた。
これを488の「千葉的精神分析理論」にあてはめれば、
「特権階級」だけが憲法第9条を護持したがっているということになるだろう。
すると、安倍晋三前総理よりも、どこぞの私大の護憲派準教授なんかのほうが、
「特権階級」というわけか。 蓮實重彦 宮川淳の不幸は、モーリス・ブランショを戦前から戦後へというコンテクストなしに、マラルメの二〇世紀版みたいに読んだことだと思う。しかも、ブランショが本当に好きみたいだ。
浅田彰 そもそもブランショの『文学空間』に文学趣味をかきたてられた人はみんな馬鹿なんですよ。
蓮實重彦 はじめてブランショ批判の同志を得て感動しております(笑)。
柄谷行人 ブランショのやっているのは、文学の自律性みたいなところに近い。
浅田彰 そこで吉本隆明的な文学自律論と感覚的に結びついたりもするんですね。それから、瀧口修造的にやると、フロイトじゃなくてユングになる。 「彼(ブランショ)はむしろわれわれにとって、この(外の)思考そのものなのだ」
(フーコー「外の思考」)
>>491
フーコーも、どうも馬鹿の一員になりそうだ。 こんなのもあった。
[ 國分功一郎「抽象性と超越論性――ドゥルーズ哲学の中のブランショ」『思想』2007 年 7 月号
「〔ブランショは〕死の二重性という重要な概念を提示した。だが、彼はその二つの要素の異質性をただひ
たすら主張して終わった。」「抽象性のなかを極限まで滑り切った」ブランショに対して、ドゥルーズはブ
ランショの議論を精神分析や出来事の概念へと外挿することで、超越論的なものの生成まで思考した。】 ブヴァールとぺキュシェ
翻訳も、解説も、訳注もほぼ完璧である。この作品を読まずに、もはや文学は語れない。自信をもってそう断言できることの至福の悦び……。──蓮實重彦
本当こういう空疎な物言い好きだよね
これで田舎者は幻惑出来るって感じなんかな? >>470
澤田氏は平井先生、鈴木先生、海老坂先生、蓮實さんてとこに軽蔑を込めたんだろうね
菅谷氏は同じフローベール学者としていろいろ蓮實には含むところがありそう 蓮實と柄谷の全集を出さないことを今、出版界が決断すれば、俺的には凄く評価する。 どう考えても売れないから全然あり得るでしょ。俺は出して欲しいけど。 柄谷は岩波書店がヤケクソで出すかも
憲法改正→世界最終戦争→世界共和国へ
こういうスケジュールらしいから 実録のスプラッタービデオを必要とするのが蓮實重彦の思想。
世界中の全てのスプラッタービデオは蓮實監修だとか? インタビュアー「第二次世界大戦では原子爆弾が兵器として利用されましたが、
第三次世界大戦が起こったら、どのような兵器が使われると思いますか?」
アインシュタイン「第三次世界大戦についてはわかりませんが、第四次大戦ならわかります。
石と棍棒でしょう」
柄谷行人は「世界史の構造」などで、交換様式Aの互酬交換経済においてもすでに「抑圧されたもの」である
「原遊動」の「歴史的段階」における交換様式Uが、世界共和国において
「強迫的」に回帰する、としている。
「世界共和国」の文明は、アインシュタインの説によれば、どうやら旧石器時代のようなものらしい。
するとたしかに「原遊動」的な社会の状態が再現されるかもしれないから、
柄谷先生の予言通り、「抑圧された」交換様式Uの「回帰」としての
交換様式Dが生じるということこともあるかもしれない。
そのときの全世界の人口は、10万〜30万人くらいだろうか。 The Fourth War (1990) ORIGINAL TRAILER [HD 1080p] >>501
「悪の教典」の作者は蓮實重彦が好きなのか?嫌いなのか? メジャーカルトだった庵野がシンゴジラ以降国民的映画監督になっちまったな 蓮實さん、
つい今しがた近所のセブンイレブンで買い物してたよ
精算機にお金入れてたよ ポリティカル・コレクトネスと「嫡出子」性
私は阿部和重の良い読者ではない。私も蓮實の批評が好きだったので、蓮實にあからさまに影響を受けた阿部の小説を好意をもって読もうとしたが、だんだん付き合いきれなくなって行った。その小説から受ける印象は、ちょうど黒沢清の映画から受ける印象に似ていた。
つまり、何かすごいものが出て来そうだったのに、批評的自意識(黒沢も阿部も、蓮實重彦の批評に単に影響という以上のレベルで発想を受け取っている)から妙にチマチマした小市民的細部に拘泥し中途半端に終わってしまう。
冗談で変な姿勢で歩いていたら、気がついたらその姿勢でしか歩けなくなっていたというような不自由さがそこにある。そしてこのあえてB級映画的なものに自分を縛る不自由さは、「平成」という時代に対応していたとも言える。
作品の最後、チャーチズの「グラフィティ」がBGMに流れる古書店の地下室で蔵書整理の仕事をする横口は、北朝鮮の動画の中に横口とハナコを並べた相合傘を発見してハナコの無事を確信する。ただし単行本に付された写真では、相合傘は確認できるが、名前は良く分からない。
蓮實はこの写真に「雄弁なイメージ」を読み取っているが、いずれにしても、このラストシーンが示すのは、『ブラック・チェンバー・ミュージック』は、チャーチズの「グラフィティ」(そこには恋人たちがバスルームの壁にハートマークで名前を落書きしたことが歌われている)という紛れもない「抒情詩」=「西欧の正統的、かつ伝統的なジャンル」によって補完され「救われて」いるということである。
これはこの作品が「私生児」的ではないということを示しており、同時に阿部氏の文学が蓮實氏の批評という「親」からなかなか自立できない(「グラフィティ」では「私たちは大人にならない」という意味のリフレインも出てくる)「嫡出子」性を帯びていることを示している。 脈打つダンカン a.k.a. 田中淳の名言「意味がわかる文章ほどつまらないものはない」を忘れるなよ、小僧ども 5ちゃんねるなんかにアルトーみたいに天才と狂気を炸裂させた文章を書く才能のある奴はいないんだよ
どいつもこいつも簡単に意味の取れる文章ばかり書きやがって
それか本当にイッちゃってはいるんだけど才能がないからただ意味不明なだけの凡庸な文章を書く奴しかいない 蓮實先生自宅界隈をウォーキングしてたりするんかな? あのいかにも井の頭線の各停駅的環境によく満足出来るなあ 引用氏は百歩譲ってコピペするのはいいとして、──それもかなり間抜けだが──同じのを何回も貼るなよ
「こいつ莫迦なんじゃなかろうか」と想ってしまうよ
それも五流処の文章を典拠も示さず
オツム毀れちゃったか? そんなことは引用元に全面降伏してるのと同じだよ
お前宮台?とかに平伏して尊敬してるの? 引用男という気狂い荒らしが居附いているせいでこのスレは開く気にもならん とっとと神聖なる御前〈ムスィユー〉のスレから出て往けよ気狂い たけしおじさんが居てコピペ男が発狂する前まだまともだった頃は愉しかったのに 薄味軽彦
今年は勧善懲悪時代劇の人気が再燃すると予言せねばなるまい 東大に怨みを持つちょっと頭おかしい奴が最も有名な元東大総長を狙うなんてまずありえんが警視庁は蓮實邸を警護せよ!! >>480
それは蓮實重彦の私事に過ぎない。
出版社や他の翻訳者や世間への言い訳にならないんだよ。 >>533
世田谷区は広すぎる
大江と古井も世田谷区だが、とても近所とはいえない >>534
羽根、とだけ言っておこう
そして両邸宅は徒歩3分の距離 蓮實さんまたセブンでお買い物中
淡い青のシャツにベージュのカーゴパンツ
かごの中には水とカップチャーハンらしき物も >>538
常連みたいだよ
それよりも先日の救急車が蓮實邸前で止まっていた騒ぎは奥様の具合によるものではないかと シャンタル夫人が病床に伏せているから、蓮實がコンビニで食料を買うのか
近くにスーパーはないのかね? >>541
その昔よくシャンタル夫人をスーパーパ◯◯で見かけたよ 親がハスミンて大変そうだなあ
重臣氏は自分よりちょい年上の同世代だが我々の幼少期は特撮やアニメの全盛期だったがウルトラマンや仮面ライダーやマジンガーZをテレヴィで見せてもらえたのだろうか >>543
もう亡くなった息子の幼少期を推測しても仕方がないね 娘さんもいるんだっけ?
むかし予備校の現国の講師が
ハスミンのお嬢さんが学校でいじめにあったとき
相手を「このキャピタリストめ!」って
なじったと言ってた 音楽に関しては我々は中学時代にちょっと背伸びしてパンク/ニューウェイヴやテクノを聴いてたわけだがそこに重臣氏と同世代を感じるけどね
重臣氏は映画や文学はあえて避けてたんだろうか?それならに見たり読んだりしてたのかな? 蓮實は自らが頻繁に使用した用語「ショット」について明確な説明を出来ないままだろ。
蓮實が浅田彰、柄谷行人らを交えた座談会でブランショとブランショについての宮川淳の
言説を馬鹿にしたのは何時のことだったか分からないが、あれは醜悪な出来事としか言え
ない。 俺は蓮實の本を通して読んだことが一回もないのだが、僅かな「蓮實のショット」の用例を見たところで、
敢えて言えば、「ショット」とはtableau vivantやtableau shotと言われてるものとそっくりな気がするが。
サックリ言えば、紙芝居や、寺の住職が仏教説話絵を指し棒を使いながら説明していく「絵解き」のような構
図が蓮實好みの映画の中に存在するとして、蓮實は映画を高速紙芝居のように観ているということではないか?
蓮實の金髪女房が蓮實の超人的視野角の広い動体視力を賞賛してたのをどっかで見た記憶があるが、これも
高速芝居説を肯定してるような。
紙芝居や絵解きの絵の構図はストーリーの中のモニュメンタルな出来事を捉えてる訳だが、「蓮實のショット」
に拘れば、当然ながら映画のダイナミズムから離れてしまう。tableau vivantを日本語では活人画と訳している
場合が多いようだが、あまり信用しない方が良い。
まあ、タブロー・ヴィヴァンやタブロー・ショットと言わずに「ショット」で曖昧にぼかして、読者を煙に巻く
のは如何にも蓮實らしい姑息さだろう。 ≫紙芝居や、寺の住職が仏教説話絵を指し棒を使いながら説明していく「絵解き」
これは核心をついていると思う。 たけしがよく言ってるね
映画は写真に音を付けたもの
テレビドラマはラジオドラマに絵を付けたもの
ドラマは本当に紙芝居の延長だが映画はそうかな? 映画とドラマは似て非なるやな
ドラマの映画が寒いのはクオリティ云々以前の話かもしれん >>491
蓮實が文脈を主張してる途中で申し訳ないが
この座談の切り取りの前後が分からなくてはどうしようもないが。
それは多分、蓮實、柄谷、浅田の人間性の醜悪さを際立たせること
にしかならないか。
ブランショも宮川もハンサムだから、ノッポのブサメン蓮實がジェラシーを覚えたことは想像に難くないが。 蓮實重彦の映画観には、
映画をあえて非ドラマ(非芝居)としてみるということがあるのではないか。
それが550の方の言う蓮實的な「紙芝居や絵解き」をみるように映画をみる、
という態度に表れているように思う。
つまり蓮實的には、テレビドラマのほうが複製演劇(芝居)的で、
むしろ映画のほうが紙芝居的なのではないだろうか。 実際に映画見てる時はドラマとしても見てるでしょ
批評を書く時はドラマでない「かのように」抽象するわけで >>557
だから、「あえて」そうしているということなのですよ。
自覚的な先生本人よりも、その「あえて」であることを忘れてしまった蓮實主義者が問題でしょう。 フーコードゥルーズデリダよりヌーヴォーフィロゾフのほうが美男揃いだよねw ソープランドのサウナ装置のみを評論するようなものか 蓮實は日本の映画批評の沈滞や、日本の失われた30年の代表だろ。こんな奴を早く潰さないから、
日本は駄目になった。 「ドライブ・マイ・カー」を二十分ほどみた。
とにかくつまらないし、くだらない。見るのをやめた。 蓮實氏が安倍晋三暗殺事件を批評するとやはり事件の意味論的な背景は無視していくつか出回っているスマホ動画の醜さにケチをつけつつ山上氏の迷いのない優雅ですらある銃撃の動きと安倍氏の崩れ倒れる動きに焦点を合わせるんだろうね しかし井の頭沿線に小学生の甥の男子二人いるんだが乱暴そのもので鄭重な身振りなど想像出来ない
ちなみに羽根木公園で鬼ごっこして遊んだことありまするw それは無視には当たらないでしょうね、その意味すらも映像に包含されているように読み解いてみせるでしょう、単純化の誹りは常に免れえませんが(これまでも免れえたとは思いませんが、それもまた記号の必然です) 現実の山上の射撃ショットは蓮實好みの良く作り込まれたショットではないだろ。 いやあれはショットとしては溝口やロッセリーニを思わせるところがなくもない、むしろぜんぜん悪くない
だから醜悪なのだと言うこともできるけど 蓮實に何を期待してるんだよ、馬鹿馬鹿しい。
少しでもそう思うなら、自分で蓮實風をやってみれば良い。
まともな批評家はこのスレに散見するような信者を作らない。 ところでフォード論は面白いの?
最近のハスミン読んでないから切れ味が鈍ってないか心配 俺は映画を殆ど全く見ないので、映画批評にも関心が無かったんだが、このスレでの蓮實の悪評を見て、
世界の最近の映画批評の流行をちょっと見てみたが、いわゆるクィアー映画批評家に凄い論客が多いよう
な。Elizabeth Freemanエリザベス・フリーマンとか、凄い。要するに、蓮實の映画批評の時代はとっく
に終わってなければいけないのに、蓮實を延々と引っ張ろうとしてる奴らは日本の失われた40年を待って
るのかね。 >>576
そのエリザベス・フリーマンが書いたものは読んだことがない。
彼女の書いたもので、「凄い」と思ったところを引用貼り付けしてちょうだい。 映画を観ない人がスゴイと思う映画批評が気になるかね?ヘンなの まあでも蓮實の表層批評がオワコンなのは間違いない
それでも俺は読み続けるが 蓮實氏の物言いのマインドコントロール
ある人はまた例によって大袈裟なことをと苦笑しある人には真理を握っている存在と写り脱け出すのが難しい >>576
是非とも、貼ってくれ。あとは誰が凄いの? 読んだのは、英語だけ? >>577
論文サイトで探して読んでくれ。
そのくらいの能力が最低限ないと読解は無理だろ。 てらさわホーク的な映画批評も重要だよね
インテリ気取りの学生が蓮実的な価値観に染まるのはありがちだけど
その外には別の価値観があるということは知っておいた方がいい
どっちが上とか比較してもしょうがない
文学でも同じ In Beside You in Time Elizabeth Freeman expands biopolitical and queer theory by outlining a temporal view of the long nineteenth century.
Drawing on Foucauldian notions of discipline as a regime that yoked the human body to time,
Freeman shows how time became a social and sensory means by which people assembled into groups in ways that resisted disciplinary forces.
She tracks temporalized bodies across many entangled regimes&;religion, secularity, race, historiography, health,
and sexuality&;and examines how those bodies act in relation to those regimes.
In analyses of the use of rhythmic dance by the Shakers; African American slave narratives;
literature by Mark Twain, Pauline Hopkins, Herman Melville, and others; and how Catholic sacraments conjoined people across historical boundaries,
Freeman makes the case for the body as an instrument of what she calls queer hypersociality.
As a mode of being in which bodies are connected to others and their histories across
and throughout time, queer hypersociality, Freeman contends, provides the means for subjugated bodies to escape disciplinary regimes of time and to create new social worlds. Beside You in Time: Sense Methods and Queer Sociabilities in the American Nineteenth Century, Duke University Press 2019
↑についての書評 ↓1990年代にたくさんあったような切り口、ありがちな感じで、
おおげさに「凄い」というほどでもなさそうだけれど…。
NTRODUCTION (pp. 1-26)
In his study of the rise of the modern penal system, Discipline and Punish (1979, 6–7), Michel Foucault juxtaposes two modes of punishment: a spectacular and grisly execution from 1757, and a prison timetable from 1837. During this relatively short period, to rehearse his well-known argument, the predominating power modes of an emerging liberalism shifted away from public torture, with its focus on the visibly suffering body, and toward self-regulation. In the latter mode of power, subjects (of whom the prisoner was paradigmatic) were supposed to internalize a sense of constantly being supervised, such that they managed their own... ×NTRODUCTION
〇INTRODUCTION “feeling history with, on, and even as the body is a powerful alternative to disciplinary histories
“whose bodies are understood as the basis of their inferiority”
“mobilize stigma into a world-historical imagination” クイア+ポスコロ、カルスタ的なので、私個人としては好みなのだけれど、
では新しいか、と言えば、そうでもないだろう。
蓮實先生的には、フリーマンの映画評論は、
アメリカのフィルムスタディーズ的で、ありふれていてつまらない、
ということになりそうである。 蓮實重彦インタビュー「リアルタイム批評のすすめ」2005
「アメリカのフィルム・スタディーズは、そこに形づくられる言説が社会に広く触れようなどとははなから思っていない。アメリカの大学特有のこのシニシズムを世界が模倣する理由はまったくありません」 エラ・ショハット・ロバート・スタム著、早尾貴紀監訳、内田(蓼沼)
理絵子・片岡恵美訳
『支配と抵抗の映像文化 西洋中心主義と他者を考える』
法政大学出版局、2019 年1 月
1994年に出た本で、アメリカではフィルム・スタディーズをするうえでの必読書だと評価する人が多いそうだが、
蓮實重彦的には、そういうこともまた「シニシズム」なのでしょう。 >>590
>>では新しいか、と言えば、そうでもないだろう。
何に対して新しいのか基準を示さないと駄目だろ。
蓮實はクィアには一切関係ない。
591も蓮實の古い発言だな。 >>589
つまんなそう
映画史使った表象文化論じゃないの? ≫蓮實はクィアには一切関係ない。
クイア理論は、30年以上前からアメリカのフィルムスタディーズにとりいれられている。
そしいぇ蓮實重彦はむかしから、アメリカのフィルムスタディーズが嫌いなのだ。
ちなみに、先生はカルスタ全般が嫌いである。
≫何に対して新しいのか基準を示さないと駄目だろ。
フリーマンの書いたものは、数行ぶんしか読んでいないのでわからないが、
ただ目次などもみたうえで思うのは、むかしよくあったようなかんじではないかということだ。
わたしとしては、その種の批評は好きな部類なので、リバイバルはけっこうなことである。 ≫映画史使った表象文化論じゃないの?
585の引用文中にあるように、映画よりも文学を論じている部分が多いようだ。
それから、いまのフリーマンのスタイルは、
(あるころからの)表象文化論学会的かもしれないが、蓮實表象文化論的ではないだろう。 In Elizabeth Freeman’s Beside You in Time: Sense Methods and Queer Sociabilities in the American Nineteenth Century, time organizes individuals into selves and bodies into workforces. Temporalities discipline bodies and constitute subjectivity, or so Freeman argues—to construct the modern self, individuals need organizing principles such as timetables and temporalities of control, but also rhythm and turn-taking in concert with other bodies in space and time.
時間は、個々を自我(自己)に、 身体を労働力に編成する、
というのだから、切り口が、カルスタ、ポスコロ的でしょう。 wiki
[資本主義が世界を覆いつつある(いわゆるグローバリゼーション)今日ではカルチュラル・スタディーズは、西洋世界のヘゲモニーに対してローカルないしグローバルな様々な形式で行われている抵抗について批評をおこなっている]
蓮實重彦は↑のようなことに批判的だった。
カルチュラル・スタディーズをやっている人の書いたもので読むべきものなんかあるんですか(「知的放蕩のすすめ」)、
とか、ことにスチュアート・ホールについてなどは、イギリスの放送大学みたいなところ(オープン大学)
を乗っ取った人(否定的な意味である)だと言っていた。 >>591
表象文化論そのものじゃないか
>社会に広く触れようなどとははなから思っていない しかし世界でまだヌーヴェル・クリティック的方法論に拘ってるのって日本だけなんじゃなかろうか?
蓮實さんってことなんだけど世界及び仏国本国から見ても奇異に見えたりして コトバンク
【「ヌーベル・クリティック」という呼び名は、共通の理念のもとに形成された特定の流派をさすわけではなく、言語論、マルクス主義、構造主義、精神分析、現象学などの成果を取り入れた多彩な批評活動の総称にすぎない。】
通常の理解はこうだから、現在の批評にしても
おおくはヌーベル・クリテック的なのではないの。 スチュアート・ホール
生誕 1932年2月3日
キングストン, 英領ジャマイカ
死没 2014年2月10日(82歳)
ロンドン, イギリス
研究分野 カルチュラル・スタディーズ, 社会学
研究機関 バーミンガム大学
オープン大学
影響を
受けた人物 カール・マルクス • アントニオ・グラムシ • レイモンド・ウィリアムズ • リチャード・ホガート • ルイ・アルチュセール • ミシェル・フーコー いまのカルチュラル・スタディーズも、
ホールのころととくに違いはない。エリザベス・フリーマンもそういうかんじだ。
カルスタやフェミニズムは、ポスト・マルクス主義だといわれることがおおい。
上で名前の出た宮台さんも何かの対談でそんなことをいっていた。 蓮實重彦インタビュー「リアルタイム批評のすすめ」3 2005
蓮實:私自身は十分やらなかったんですけれど、映画といわゆる「社会」とのあるべき関係の分析も、若い方に是非やってほしい。20世紀は、その前半においては、社会主義レアリスムなどといういい加減な言葉が出てきた結果、また、後半においては、「カルチュラル・スタディーズ」などという無意識の転向者の回収装置が大学で機能してしまった結果、「社会と文化」という概念がまったく信頼を失ってしまった。とはいえ、「社会」の問題はやはり映画と切り離せない。 >>607
構造主義はいまだ本流でしょう
役に立たないのはともかくとして美学的見地からは依然として構造に留まるしかない
動画が媒体でありながらコミュニケーションツールになっているような現在の映像論が一過的に消費されるほかにないメディア論たらざるをえないかというと、そればっかでもないだろうし >>585さんが引用してくれた部分を読んだが、映画批評家としての凄さは、よく分からなかった。>>576さんは何を読んでそんなに凄いと思ったんだろう。論文名を是非教えて欲しいものだ。 >>612
エリザベス・フリーマンがIsaac Julienアイザック・ジュリアン監督のThe Attendant(1993)について論じた論文「Turn the Beat Around: Sadomasochism, Temporality, History」
(本文32ページ)が、academia eduで読める。 Turn the Beat Around: Sadomasochism, Temporality, History
↑についての書評
Through a close analysis of Isaac Julien's short film The Attendant,
this essay argues that sadomasochistic sex practice ought to be understood in temporal terms,
as a play of pause against surprise, suspension against shock.
In The Attendant, Freeman contends,
Julien rethinks S/M precisely this way, thereby linking it with the possibilities of film as a particularly indexical,
intercorporeal medium for shocking and reorganizing the senses.
This rethinking of screen as a kind of skin in turn enables Julien to confront sadomasochistic role playing,
in which players take up the signs and tools of historically specific injustices such as the Inquisition,
the Holocaust, and especially the transatlantic slave trade. Rather than condemning this kind of role playing--especially
as it takes place between black and white men--Julien offers sadomasochism as an embodied way to feel historical or to engage viscerally with the past.
He thereby opens up new registers for taking in and taking account of the historical, registers that refuse to concede pleasure in the name of trauma,
which has been treated as the more properly political affect by most criticism. フリーマンは、レオ・ベルサーニに似ている感じがする。
あるいは、クィア批評はたいてい似ているのか。
ただ、彼女はベルサーニの諸説について批判もしているようである。 しかし、「sadomasochistic」というふうにいうのが主流だということは、
(いうまでもなく、わが国ではわれらが蓮實重彦が訳した)
ドゥルーズ「マゾッホとサド」の効力はたいしてなかったのだろうか。 「マゾヒズムとサディズムは、異質なもの、 非対称的なもの」
(蓮實重彦) ×「sadomasochistic」
〇「Sadomasochism」 68年のパラダイムチェンジを文学で担ったのは柄谷行人と蓮實重彦だが柄谷はともかく蓮實が影響力を誇ったのは日本にとっては不幸だったわ
なんでテマティスムなんてしょーもないものに 映画批評には必要な存在だったでしょう
文学の方面で本当の意味で影響下にある人は誰もいないように思うんだけど >>620
あなたの言ったことが、全てを集約している。文学は好きみたいだが、(『オールド・ファッション』で江藤淳に聞かれて、しどろもどろになりながら、それでも誠実に答えているのが微笑ましい)影響力はほとんどないのではないか。 蓮實重彦の文芸批評の日本の文学界への影響ということならば、
柄谷行人と同じくらいはあったのではないか。
蓮實の物語批判と柄谷の「近代文学の起源」論は同じくらいは影響したと思う。 大杉重男は蓮實の物語批判から影響されたと明言している 黒澤明と伊丹十三を貶したために山崎努を論じられなくなったのは大失敗。 阿部和重なりを通して間接的に、というのはあるのでは? 蓮實の師匠的な中村光夫は三島の金閣寺を妙に評価したり芥川賞候補だった中上をさして評価しなかったり小説の評価ほどてんで分からないもんはないね
蓮實の映画批評は一見難解に見えて評価の整然とした分かりやすさが影響力の肝だったんじゃないかな? ヴァージニア・ウルフはいかにもだな
ジョイスやフォークナーを避けるのも >>623
未読だから、いま読んでいる『虞美人草』終わったら、『物語批判序説』読んでみるよ。 ウルフの良さがわからん
つまらん作品ばかりじゃないか >>634
日本文学的にはそれじゃない
『小説から遠く離れて』と補論として『文学批判序説』
余裕があれば『夏目漱石論』ついでに『「赤」の誘惑』
これで充分 黒沢と阿部の駄目たとこは結局ゴダールより蓮實のほうが好きなこと 志賀直哉の小林多喜二宛書簡
私の気持から云へば、プロレタリア運動の意識の出て来る所が気になりました。小説が主人持ちである点好みません。プロレタリア運動にたづさはる人として止むを得ぬことのやうに思はれますが、作品として不純になり、不純になるが為めに効果も弱くなると思ひました。
大衆を教へると云ふ事が多少でも目的になってゐる所は芸術としては弱身になってゐるやうに思へます。さういふ所は矢張り一種の小児病のやうに思はれました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
フイリップにしろ、マイケル・ゴールドにしろ、かなり主観的な所はあっても誰れでもがその境遇に置かれればさう感じるだらうと思はれる主観なので素直にうけいれられます。つまり作者はどういう傾向にしろ兎に角純粋に作者である事が第一条件だと思ひます。
絵の方でいへばキュビズムは兎に角純粋の絵の上の運動なるが故に生命があり、未来派は不純な要素が多く、その為め、更に物が生ずる事なしに亡んだやうに思ひます。
トルストイは芸術家であると同時に思想家であるとして、然し作品を見れば完全に芸術家が思想家の頭をおさへて仕事されてある点、矢張り大きい感じがして偉いと思ひます。トルストイの作品でトルストイの思想家が若しもっとのさばってゐたら作品はもっと薄っぺらになり弱くなると思ひます。 ハスミンがヴァージニア・ウルフや藤枝静男や古井由吉や後藤明生やロブ=グリエやシモンが好むなのはよく分かるけど小説がこんなんばっかじゃ困るな
やはりピンチョンやウエルベックや大江健三郎みたいな世界や社会や現代を描こうと苦闘する作家がいてくれないとつまらないね ま〜たピンチョン、ウエルベック、大江おじさんか
傍から見りゃどっちも偏った趣味でしかねえな
批評やってるだけ蓮實の方が1億倍エラいってだけで 文藝春秋の映画特集
蓮實重彦より小林信彦の方が遙かに扱いが大きくて
もうアホかと そりゃ
『文藝春秋』なら小林信彦だろう
シネフィルおじさんの感覚がどこでも通用すると思っちゃいかんよw オヨヨ信彦の映画ベスト100がアホ丸出し
文春はジョン・フォード論刊行の意義がわかってないし
ちくま学芸文庫が出たら買おうかな フォード論ももうディープは蓮實ヲタ以外には興味持たれないんじゃないかな?
昔ちょろっと齧った人もフォードと投げることなんて聞いたらああ相変わらずまだそんなことやってんのかとウンザリするか苦笑して手を伸ばさないだろうし ぜひ英訳すべきだ!
ポリコレ公害でジョン・フォードの恩を忘れたアメリカに一石を投げてもらいたい! 大体ジョン・フォードの映画をどれほどの人が見ているのか
還暦の自分でさえ「駅馬車」と「荒野の決闘」しか見ていない 蓮實の新刊に合わせたのか
NHK-BSPがフォード作品を
頻繁に放送してますな >>648
とりあえず映画好きなら、フォードと小津はある程度の本数は観るのではないか。配信でも結構上がっているし。 蓮實に忖度する人達は、日本の失われた40年を待っているww >>652
現在が失われた30年余りで、後10年未満で
失われた40年を我が日本にw fudino_ya_mai
@gagaga21480621
蓮實重彦のコーヒーの飲み方怖すぎる(それがご長寿のヒケツ…ですか?)
pic.twitter.com/UmKOWVXex8
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) モチーフやカット内容(芝居やカメラワーク、小道具の扱いなどの演出)の
反復に興奮してるのでは? タランティーノがジョン・フォード大嫌いなのは
意外と感じたか
さもありなんと感じたか フォードの「投げる」にしてもフォード本人はまったく意識してない可能性もあるよな
まあそれが「批評」ってものではあるけどさ
インテリの言葉遊びといえば言葉遊びだよな 丸いもの、にしても何ら意識されてない可能性ありって事だ 作家本人が意識してるかどうかは蓮實的には全くどうでもいいんじゃないかな
漱石論にしても 大江は蓮實の大江健三郎論が不愉快で掲載誌をゴミ箱にポーンと投げ込んだとか
蓮實はその放物線を思い描いて感動したとか
昭和文学の古き良きエピソード タランティーノはどさくさ紛れに出てきて、時代おくれのゲームソフト映画とか撮って、要らんわ!
ジョン・フォードに失礼だ! しかし昔は古いハリウッド映画のリバイバル上映なんていかにも蓮實読んでそうな若い人いっぱいいたが今はシネマヴェーラなんてたまに行ってもオッサンばっかなんだよな
蓮實の影響力って団塊ジュニア辺りまでで途切れてそう 蓮實は晩年になって、自分が読者達から理解されてないことに慌てて「ショットとは何か」を
今年4月に出した訳だろう。自分の映画批評のキーワードである「ショット」を今頃の瀬戸際に
なって解説するという、慌てぶりが伺えるような気もするが、反面で、蓮實自身が漠然と「シ
ョット」を使ってたという気がしなくもない。というのは、最近の世界の映画を含めた芸術批
評の全般で「タブロー・ヴィヴァン」や「タブロー・ショット」の用語が流行していて、どう
やら蓮實の「ショット」もそれらの用語と同義か類義語ではないかと思われるはずで、その点
で蓮實はキッチリと自ら定義する必要が出てきたという事情があったからではないか?
さらに言えば、日本の映画批評界隈は余りにも、海外の同業の事情に疎いというのもあって、
蓮實の横暴や怠慢を許して来たことも大きいと思う。 >>665
某映画学校にいたけど2/3はハスミンのこと知らなかったわ >>657
横からだが、俺の推測では「主題論的」=共時的
「説話的」ナラティヴ=通時的というアナロジーを念頭に置き、
tableau-vivantタブロー・ヴィヴァンの発現に注意して映画を観ることでは? >>664
「ヘイトフル・エイト」ほど不快で愚劣で頭の悪い西部劇もまたとあるまい 「ヘイトフル・エイト」もくだらなかったけれど、
「ジャンゴ」もそれにまけないくらいくだらなかった。 >>636
BOOKOFFで『赤の誘惑』しかなかったんで、とりあえずそれ買ったけど、やはり推奨の順番で読むべき? >>672
漱石論と赤の誘惑はテマティスム批評が中心であって
どちらかというと理論的な2冊で、
他の2冊は実践的であり、70〜80年代日本文学の時評的な趣が強い
個人的にはその中では赤の誘惑が1番面白かった記憶がある 蓮實の文学的主著であるはずのボヴァリー夫人論は誰も読んでないのか? >>673
ありがと。『赤の誘惑』読むよ。でもその前に『ハリウッド映画史講義』を片付けなければならない。 柄谷行人『柄谷行人インタヴューズ1977-2001』
http://d.hatena.ne.jp/Yashio/20170122/1485096072
「蓮實風のテクスト論的な批評が映画を文学にしてしまい、ダメにしてしまった」と語っていて、
文学ももともと創作主体なんてなかったけど著作権ができてから出てきた、
映画は建築みたいにみんなで作るから「誰それの作品」と断言するのが難しかったはずだけど、
監督に著作権ができて、さらに作家主義的な批評も成立したから作家性への異議申し立ての側面が消えた、といった話で、
たぶん蓮實本人は作家性の否定もしててもっと多面的に映画を語ってるけど、
そこを捨てて作家主義的な批評の面しか見ずに真似した人たちが悪かった、って話なんだと思う。9
(やしお) 御前〈ムスィユー〉はそんなにヴァージニア・ウルフが好きだったのか
時代遅れの作家かと想い全然読んだことないや
読まないと このスレのスレタイは己(おれ)が考えたんだから己のスレだ
「吉本、江藤のあとは蓮實、柄谷であるが、蓮實、柄谷のあとは絓、渡部である。世の人これを称して文芸批評の六傑と云ふ」
──田中淳『皇国批評六傑伝』(民明書房刊)より
>>679
ミッキーマウスみたいな笑い方しやがってこの野郎! 中上を引き継いで文壇を制した阿部も高卒
文壇の “覇者” が二代続いて高卒だったことには留意すべき
金井も含めて「高卒作家の系譜」
日本の文学空間は歴代東大出身者しか認められない(京大・一橋・慶応・早稲田は論外) 蓮實先生シネマヴェーラでのトークショーの写真見たらちゃんとマスクして喋ってんだな
醜さよりも実を取った蓮實先生に安堵! >>684
それって何十年も続けてきた通常運転じゃない?
大それた風なことを言ってただの常識人ってやつ 結局フォード論は面白いの?
感想の書き込みがないけど誰も読んでないのか? 映画に興味はないから読まない
蓮實が日本近代小説論を書いたら読むけど 蓮實と同い年の山崎努の「私の履歴書」が滅法面白い。山崎の「俳優のノート」は若い役者にバイブル扱いされている。
草野進が野村克也によって駆逐されたように、蓮實の批評も「面白い話が出来る作り手」に駆逐されるものでしかない。
蓮實が映画監督を語るのは、蓮實より面白い話が出来る映画監督がいないからではないかと邪推する。 君の言う「面白い」って、「通俗的な大衆冒険小説な面白さ」だよね
『週刊少年ジャンプ』的な 映画に興味が人が御前〈ムスィユー〉の文芸批評を読む意味はないと思うな >>691
映画に興味がない人が御前〈ムスィユー〉の文芸批評を読む意味はないと思うな 映画史上ありえんぐらい救いがなく陰鬱で悲劇的な、なおかつ美しい『チャイナタウン』のラスト
最近気づいたんだけど、このラストって『勝手にしやがれ』のラストを意識してるんだな
アメリカ文化のリリシズムとメランコリーとサッドネスの達成と言えよう
狂気すら漂わせるほどニヒルなジャック・ニコルソンもこの作品が一番かっこいい
今だからこそ、再評価したい一作である 相変わらずこのスレは “タレント/有名人” 蓮實重彥に夢中な人ばかりで(御前〈ムスィユー〉の)「立ち位置」しか語られんなー
(御前〈ムスィユー〉以外のものも含めて)実際のテクストや映画の画面に向き合った議論が何一つない
今回も、“ラヴェル” の 向上が一切見られなかったのでまた来ますノシ >>696
>>相変わらずこのスレは “タレント/有名人” 蓮實重彥に夢中な人ばかりで(御前〈ムスィユー〉の)「立ち位置」しか語られんなー
蓮實ファンの具体的な蓮實擁護があってしかるべきなんだが、蓮實ファンは女性が多いので内向するんだろう。 四天王
ロバート・デ・ニーロ
アル・パチーノ
ジャック・ニコルソン
ダスティン・ホフマン
が揃い踏みした映画見たくないですか?
4人とも生きてる間に あんまり。英雄並び立たず。二人でもどうかと思うけど、四人だと収拾つかなくなる。『タワーリング・インフェルノ』も成功作とは言いがたい。 ちなみに(観た中で)一番好きな作品。
ロバート・デ・ニーロ 『ディア・ハンター』
アル・パチーノ 『ゴッドファーザーPART1』
ジャック・ニコルソン『シャイニング』
ダスティン・ホフマン(強いてあげれば『マラソンマン』。
蓮実ならどうだろう? アル・パチーノの映画なんて論外? 作家主義を経た批評家は映画を主演俳優の名前で挙げない
けど、まあ別に挙げてもいいなとも思えるな
新鮮だわ >>704
蓮実は基本テクスト論じゃなかったっけ? まあ映画に関しては強烈な作家論者だとは思うけど。 作家主義でググって
映画批評では常識なので知っておいてもいいんじゃないかな >>707
ありがと。蓮実はバルトの本を訳していることもあり、また自分の浅学もあって混乱してました。蓮実は小津や最近のジョン・フォードに関する著作もあり、また多くの監督への言及もあるため、作家主義ですね。浅学ながら少しずつでも勉強して行きます。 映画に関しては決して素朴な作家論でもないと思うが。
キャメラにも美術にも同様に言及するし、女優も偏愛するし。
テマティスムもやってるし。 >>709
そうですね。厚田雄春やアレクサンドル・トローネル、他にも熱く語っていますね。女優は誰がお気に入りでしたっけ。 でもやっぱりそこまで言及するなら一本くらい映画撮ってほしかったわ 「飾り窓の女」のジョーン・ベネットを褒めちぎって、
淀川長治を呆れさせた 映画秘宝のインタビューでインタビュアーがなんかアイドルの名前を頭につけて映画のタイトル言ったら監督の名前で言い換えてたじゃん
あれはダメだね! 今日の山崎努の私の履歴書は、蓮實を意識しているかのような「物語」の連呼であった >>714
『映画千一夜物語』? 読んだの随分前だから覚えてないなあ。読み返してみようかな。 今の若い映画監督は蓮實の名前すら知らない時代になったな >>718
さすがに名前くらいは知っているでしょう。著作は読んでいないかもしれないが。 しかし今時映画史的記憶とか言ってシネフィル村で褒められてもなあ
あの場面はフォードでしょとか仲間褒めして不毛としか言いようがない
山ほど映画見た程度でゴダールになれるわけもなくもうそういうのはヌーヴェルヴァーグと73年の世代で打ち止めでいいかな 実際にすべての映画を見尽くせるという幻想を抱けた時代があったってことだ
今やもう完全に不可能だからな 映画を沢山見てもいい映画監督にはなれないが、いい映画監督は沢山の映画を観ている。同じことは作家にも言える。 蓮實の映画を見る時の特殊な広角的動態視力が問題だ。
それは雪舟の研究家だった父親に連れられて、蓮實が中国の風景庭園を父親の説明を聞きながら、
父親とともに逍遥し、そのあとで風景庭園の中の映画館で映画を見た経験がものを言ってるのでは
ないか?
中国では初期の多くの映画館が風景庭園の中に設置された経緯について今、盛んに議論されてる。 しかし映画も小説も前衛的実験なんて完全に廃れたな
今やゴダールを若者が背伸びして見るなんてほとんどいないんだろうな
もう世界的傾向とは言え日本では特に蓮實が免罪符を与えたカタチだった
美術だけ妥協なしのモダニズムが生きてて凄いね >>723
続けて言えば、日本は明治維新直後の廃仏毀釈で
寺院建築を破壊することで、寺院用地の必要性を
棄損することによって、寺院の庭園を狭め、庭園
デザインを破壊した。それの文化的悪影響は測り
知れなかった。 >>724
ゴダールが存命中にゴダールの映画を観ることが出来るという特権的な体験を、いまの若いひとは自ら捨てているのか。 ダッサ
陳腐な特権意識だな
5ch廃人に語られなくてねえわな、ゴダールも若者も
ゴミじゃんお前 >>726
そういう考え方自体が良くも悪くもシネフィル爺 ゴダールを知らない映画監督志望者
手塚治虫を読んだことがない漫画家志望者
ビートルズを聞いたことがない
ミュージシャン志望者
どれもこの10年内に実際に出会った
時代は確実にめぐっている 興味深いのがゴダールを知ってる監督志望者の作品よりも、ゴダールの名前すら知らない監督志望者の作品の方が面白かったりすることだな もちろんだからと言ってゴダールを見なくてもいい!とは言わないけどな まあ明らかにグリフィス、シュトロハイム、ムルナウ、ラング、フォードはシネフィルというより本能的なセンスで見事なショットを撮ってる
小津、ゴダールはシネフィル的なとこあるけど見事に天才的に変形、変換してるからな
オタク的な引用とどっちが凄いかは藪の中 ≫本能的なセンスで見事なショットを撮ってる
どこがどう見事なショットなのですか。
≫天才的に変形、変換してるからな
どのように変形・変換しているのか。 >>734
・お前がそれらの監督の映画を見ている場合
そんな疑問を抱くということは、どこがどう見事じゃないとお前なら思うのか?
どのように変形・変換しているとお前なら思うのか?
・見ていない場合
そんなこと聞いても無駄だろう
質問がいやらしいよね、大人気ない 全部のショットが見事なわけではないだろう。
書きこんだ人が見事だというショットは、具体的にどれだときいているだけだ。
変形・変換にしても、どういうものを変形・変換してるのか、その元のほうがわからないから
きいているだけである。 ネット上でみることができる動画などを
いくつか例示すればすむだけのことなのだが、
それをしないで食って掛かるから不思議だ。 ドラマ映画はワンパターン
解決困難な問題が発生する
↓
解決しようとして失敗する
↓
工夫し努力する
↓
問題を解決する
このパターンばかりなので頭の良い人はドラマや映画や漫画や文学やアニメをほとんど見ない。
これに超人技を加えれば漫画になるだけ。
物理学者のような頭の良い人が唯一見るのはSFモノ。 ネットフリックス不買運動
ネットフリックスは客への対応が最悪。
ネットフリックスのHPの右横にチャットができるようになっている。
分からないことがあったらそこに書き込んで質問できる。
チャット担当者は気にくわない質問をしてきた客に対して、返信(対話)をしないで、いきなりチャット禁止の措置をしてくる。
私はチャットに意見を書き込んだら返信(対話)がないままチャットが使用禁止にされた。
チャットに書き込みできないようになった。
対話を1回もしないまま使用禁止にされた。
ネットフリックスはこのような嫌がらせ、虐めをしてくる。
ネットフリックス・オリジナルの映画とドラマは糞つまらないし、サービスも最低なので利用しないほうがいい。 >>738
SFもやはり貴殿のおっしゃるパターンにはまっているような気がするが。 蓮實が「去年マリエンバートで」を評価してるって最近知ったんだけど、どのあたりを気に入ったんだ?
それなのにアントニオーニとかは評価しないしイマイチ基準がわからん 母は目の前で撃たれた 満蒙開拓「本当の地獄は戦後」
有料記事戦後75年特集
柳沼広幸2020年9月1日 11時00分
こういうものを読むと下のような女優さんたちについて論じるのが、
ばからしいかんじがしてくる。
1937年 新しき土 - video Dailymotion 原節子
映画「支那の夜」(上海之夜) full version 長谷川一夫・ 李香蘭 1940年/民國29年/昭和15年 >>744
日本のアントニオーニ、吉田喜重を蓮實は高く評価するんだよ 李香蘭と原節子 (岩波現代文庫) 文庫 – 2011/12/17
四方田 犬彦 (著)
対極的なところにいたようでいて実は意外と似たところの多い「ファシストの美少女女優」を、
ジェンダーとナショナリズムの視点から論じるという
フィルムスタディーズ的、ポストコロニアル批評的な本ではあるのだろうが、
それでもしょせんはスター論に過ぎない、という感じになる。
教え子たちと比べると、やはり蓮實重彦には、そういうことはやらない、
というだけの節度があったのかもしれない。 蓮實は谷崎と川端を比較して谷崎の小説は映画化しやすそうに見えて実は映画化しにくいが川端の小説は映画化で得するように出来てるがそれは川端が自堕落に時代と同調してるからだと
同時に蓮實は川端原作の成瀬の山の音を褒めちぎる
これはどう考えればいいんでしょ そもそも映画監督と小説家なんて資質が全く違う別ジャンルなんだから比較など不可能でナンセンス 川端は雪国へ行き蓮實は映画館へ行く
空虚な美を愛でることはどれだけ言い訳しても同じことです 雪国は内国植民地だが、映画館はそうではない。
駒子のモデルの女は川端の意思に身をゆだねてくれたかもしれないが、
原節子のほうは蓮實重彦の意のままになるどころか、
たぶん鼻もひっかけてくれない。
なお、映画は空虚かもしれないが映画館は空虚ではない。
じっさい、むかしは今のようにガラガラでもなかっただろう。
現実の雪国も空虚ではない。主人公の島村の「内面」が
観想的あるいは傍観的で空虚なだけである。 蓮實は原節子が好きなのかね? いや女優としてだけど。 蓮實重彥という男の出現によって日本でも映画が「ハイ・カルチャー」になった。 この男の出現なくば映画は今だに吾が邦(くに)において「サブカルチャー」の座に甘んじていただに。 この功績は疑い得ない。 枕営業は売れない女優が役をもらうためにやる
原節子は最高のギャラを稼ぐトップ女優だから、その必要はない
残した遺産は100億以上だ ちょっと検索すれば10億以下って出てくるのにこういう人はどうして持論を声高に叫ぶために嘘までつくのだろうね
しかも自分と無関係の他人の話なのに
気が狂ってるのかな 蓮實は谷崎ではなく川端の反復である
蓮實の映画は谷崎の女ではなく川端の女である [しかるに旅は本質的に観想的である。 旅において我々はつねに見る人である。
平生の実践的生活から脱け出して純粋に観想的になり得るといふことが旅の特色である。]
(三木清 講義「旅について」から) デルヴォー―あらゆる終りのあと永遠の黄昏の中にたたずむ(浅田彰) >>763
何か言っているようで何も言っていないw 日本近代批評の昭和篇の座談会でも蓮實は川端康成と保田與重郎には随分攻撃的だったよね
浅田や三浦から蓮實と保田は似てるとかからかわれてムキになった部分もあるだろうがw 「雪国」の場合、女というよりは、
風景が、おそらく単に美しいだけの対象であって、
悪い意味で映画的だろう。
その風景の中には女を含む人間もいるので、
雪国で目に映るもののほとんどが、そのような映画だということになる。
蓮實重彦にとっての映画が、そういうただの観察的な鑑賞の対象であるならば、
川端康成の「雪国」における風景と
蓮實重彦における映画とは、似たものかもしれない。 俺も>>763にはなるほどなと思ったわ
だから何?ともなるけどね 川端の雪国にしろ、保田の瑞穂の国にしろ、線路や、田圃のグリッドで表現される、距離と時間の関数関係が明瞭な風景は蓮實的にはつまらない。
もっと線路もつづら折りの山道すらも見えないような中国の山水画のような風景が蓮實の好みだと思う。 好みと当人の仕事の内容は別だからね
好みなんかいくら想像しても仕方がない 雪国(1957) 予告編
岸恵子と池部良が主演のこの映画は、予告編を見る限りでは、
どうも女が主人公の情熱不倫恋愛ものみたいな感じである。
なお、わたしは、この映画をむかしから見たいと思っていたのだが、
まだ見ていないのだ。 伊藤整。竹西寛子、サイデンスティッカー、
これらがいうに、「雪国」は(おしまいまで「観想的」な立場から離れられないということだろうか)島村の「愛の拒絶」の物語なのだそうだ。
1957年の映画のほうは、その裏返しというべきか、
駒子の「情熱不倫恋愛」の物語だとして宣伝しているように思える。
予告編を見た限りでの印象なので、その宣伝についてしかいえない。 近代日本の批評で特に面白いとこは柄谷と蓮實による谷崎と川端の評価だよね
川端は決して好きな小説家ではないけど単に「凡庸」と言って済ませられぬ不気味さがあると思うなあ 「恋愛”においてある個体にこだわることは、その個体を単独性においてではなく、
一般的なもの(イデア的なもの)のあらわれにおいてみることであるからだ、たとえ
ばこの女しかいないと思いつめながら、また次に別の女にこの女こそと思いつめてい
くようなタイプがある。フロイトがいったように、この女への固執は、幼年期におけ
る母への固執の再現(想起)である。次々と相手を変えながら、そのつどこの女と思
い込むようなタイプは、フロイトのいう「反復強迫」である。実は、反復強迫は、キ
ルケゴールのいう反復ではなくて想起であり、同一的なものの再現なのである。ここ
には他者は存在しない。たんに、法則的(構造的)な再現(表象)があるだけだ」
(柄谷行人『探求U』)
島村は、自分がイデア的なものを愛すことしかできないということについて自覚的で、
その「反復強迫」について知ってるがゆえに、その強迫にたいする自我防衛として
「愛の拒絶」の態度をとるのだといえるかもしれない。
駒子のほうは、相手は女ではなくもちろん男なので逆であるが、
その反復強迫について無自覚的なので、イデア的なものをその都度「この男」として愛している、
といえるだろうか。 とはいえ、中央の妻子持ちの知的作家と、
雪国の芸者とでは、男のほうがよほど超俗的でないかぎりは、
とうてい対等者間の関係としての恋愛はありえなかった。 >>772
768では好みが問題になってる。
君の思ってるような程度のことは俺が1か月の赤ちゃんの時に既に分かってた。 直木賞作家の笹倉明が自らの小説をプロデュースして破産した映画「新・雪国」。
文学者が映画に賭ける情熱において、三島賞作家の映画狂人・蓮實重彦を遙かに上回るものがあるといえよう。 >>779
随分とつまらないことしか言えない大人になったものですね づづら折りの山道とかいかにもそこらへんの日本人好きそうじゃん
一見つまらなそうな整然とした一本道のが蓮實っぽい [国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。]
蓮實重彦は、「夜の底が白くなった」
こういう象徴主義的、あるいは、新古今集的(松尾芭蕉の俳句などにもある)
な文をきらうだろう。
そういう文が嫌いというよりは、それを好むような連中が嫌いということかもしれないけれど。 駒子はいろいろ面倒くさいことは言うけど不倫相手としては申し分ない女だよ
普通馴染みを重ねると『濹東奇譚』の雪子のようにお嫁さんになりたいとか仄めかすもんだw ボードレールやマラルメの長年の読者でもある蓮實は当然象徴主義を嫌ってなどいないだろう
テマティスムはいわば構造化した象徴主義でもある ユリイカ 臨時増刊号 総特集蓮實重彦
蓮實重彦は、この冒頭インタビューで、ロンサール、ボードレール、マラルメなどの韻文詩を一所懸命読んでいた時期があった言っている。
ランボーが代表だろうが、新ロマン主義的象徴主義はいやだったらしい。
しばらくして、詩を読むことをやめたということだった。
≫テマティスムはいわば構造化した象徴主義でもある
↑は確かのそういう面があると思う。
リシャールのテマティスムは、マラルメの影響だということはよくいわれるらしい。 しかし、テマティスムは、作品からあるモチーフの反復を取り出す
という分析手法ではあるが、
その反復されるモチーフを何らかのシンボルとしては解さない。
これはロマンチシズムの一種としての象徴主義とは、むしろ逆の立場だといえるだろう。 川端康成、または、三島由紀夫などの一見して象徴主義的な文にしても、
じっさいには、和歌や俳句からきている割とありふれたレトリックだろう。
しかし、川端は微妙であるが、三島はあきらかに、ロマンティックなものだと思ってやっていた、
あるいは、ロマンティックなものと我が国の伝統的な縁語のようなもの(と言っても漢詩が元なので外来であるが)
との区別がついていなかった、といえるのではないか。 >>788
立場が逆なのではない
あなたは根本的に賢くない 映画は基本的にはどう考えてもサブカルでしょ
そんなサブカルな映画を評価するために映画の愚にもつかない通俗性をカッコに入れて批評したからハイカルチャーである「かのように」スノッブ層が鑑賞出来る環境を作ったのがヌーベルヴァーグと日本では蓮實重彦なんだよな
まあストローヴ=ユイレはハイカルチャーだけどゴダールはハイカルチャーなんだかサブカルなんだか訳分からないところが面白いんだよなあ ピエール・マルチノ著木内孝訳「高踏派と象徴主義」
「ロマン主義、高踏派、象徴主義は、多くの紆余曲折があるにもかかわらず、実際は、絶えず拡大される芸術上の一大野心を実現するための同一の詩的伝統であり、同じ努力の連続である」
「美しいフォルムは美しいイデーである。なぜなら、何ものをも表現しないフォルムというようなものは存在しないからだ」
けっきょく、文芸思想としての象徴主義の「象徴」とは、イデー(理念)の象徴ということだろう。
テマティスム批評は、特に蓮實重彦のそれは、やはりテクスト論的なものであって、
表層の背景や基底などに、そのようなイデーにあたるようなものを想定しないだろう。 ジョン・フォードはハリウッド大衆娯楽西部劇の巨匠、小津は松竹のお正月映画、でいいじゃない?
何か問題あるのか?
インテリ(笑)に馬鹿にされるのは嫌ーとか?w ジョン・フォードの映画はジョイス、プルースト、カフカつまり文学=芸術の側ではなく蓮實ヲタが馬鹿にするような探偵小説、SF、漫画、アニメ、ポップスつまり文化の側なんだよ
そこを誤解したらいけませんね
ゴダールは芸術の側だけどね
蓮實は建築は芸術じゃなく文化だと言ってたけど映画もゴダールみたいな例外はいるが文化だよ 映画批評の場では絶対言わないけど川端の小説を批判するのに映画を引き合いに出したり、哲学は映画に負けたそれもゴダールじゃなくルノワール(ごとき)にみたいに言ったり、映画の物語批判なんて絶対やらなかったり所詮映画は馬鹿なものだという前提は蓮實にはある
そんな馬鹿なものが好きで好きで堪らないのが蓮實で蓮實の映画への愛はわたくしも疑いませぬw
馬鹿過ぎる女にハマったシャルルや譲治の悲哀を蓮實の批評に読むべきだw リアルタイムの小津は良くも悪くも世間的にはザ・大衆監督って扱いだったからね
出来の良い山崎貴みたいなもん >>796
芸術/文化の対比とかつまらなすぎる
ただの馬鹿にこんな単純化をされたら蓮實もたまらんだろうな 蓮實重彦は、劇映画ばかり論じるから勘違いされるが、
映画はテクノロジーだという考えだと思う。
哲学は映画に負けた、というのは、哲学は映画技術、すなわち、
ある種のテクノロジーに負けたということだろう。
ノーバート・ウィーナーは、自動制御とフィードバックの発達によって、
通信工学、制御工学、神経生理学、心理学、社会学などの諸学を統合できるとといった。
これがサイバネティックスである。
ハイデガーは戦後のインタビューで、
哲学は歴史的役割を終えた、とし、
サイバネティックスが今は哲学に代わるものになった、
ということを述べた。
このときにハイデガーの念頭にあった「哲学」というのは、
形而上学=論理学としての弁証法で、
哲学の完成(「存在と時間」)と評したヘーゲル哲学のような哲学だろう。
「哲学は映画に負けた」といったときに蓮實重彦の念頭にあった「哲学」は、
ベルクソンの「純粋持続」とかジェイムズの「意識の流れ」とか
そういうものを最重要視するいわば「生の哲学」ではないかと思う。
なににせよ、ハイデガー、蓮實重彦、二人とも、
哲学はテクノロジーによって乗り越えられたと考えていたといえると思う。 「アンリ・ベルクソン 映画について語る」
ミシェル・ジョルジュ=ミシェルにょるインタビュー
ベルクソン 記憶はシネマトグラフのような一連のイマージュなのです。不動なもの,それは中性的状態にあります。運動すること,それは生
命そのものです。それで,生命は運動であると結論づけることができましょうし,あるいはすでにそう結論づけられたのです。光や音の本
質は振動 vibrationではないでしょうか。生きている眼はシネマトグラフではないでしょうか。 「考えたといえると思う」おじさんの妄想、誰に向けて書いてんのこれ
毒電波でしかない つまり映画撮影技術の最先端を駆使するマイケル・ベイは哲学に勝った存在なのか しかし浅田彰は007シリーズまでしっかり見てるっぽくて一体何者なんだ!?
https://gendai.media/articles/-/99123?page=1&imp=0
浅田 クレイグ版第3作『スカイフォール』がすでに、歳をとって体にガタのきた007の話で、黄昏の光に照らされた退役する軍艦を描くターナーの油絵の前で新しい武器係のQと落ち合って機械オタクの少年みたいなんでうんざりするシーンなんかはうまいと思ったな。
最後『ノー・タイム・トゥ・ダイ』の末尾で、日本の北方領土にある敵の基地を破壊するために自らを犠牲にして死ぬところはちょっとやり過ぎだけど。
ちなみに、クレイグ自身は「007」のキャラクターに感情移入できるところは何ひとつないって断言してた。もともと坂本龍一が音楽を担当したジョン・メイブリー監督『愛は悪魔(邦題「愛の悪魔」)』で画家フランシス・ベーコンの同性の愛人を演じたようなやつだから。 ≫クレイグ自身は「007」のキャラクターに感情移入できるところは何ひとつないって断言してた
歴代のボンド俳優で、ボンドに感情移入していた人がいないのではないの。
インタビューなどでは皆、仕事だと思って割り切ってやっていた、
というようなことを語っていたと思う。
ロジャー・ムーアなどは、クリスマスシーズンにイギリスのどこかの映画館の映写技師が、
またボンド映画の時期になってしまった、また一日中あのくだらない映画と付き合うのかと思うと憂鬱だ、
というようなことを言ったというのを聞いて、
私だって主演するたびに憂鬱になるのだ、といったという。 浅田彰がおかしいのは、フランシス・ベーコンの伝記映画に出演したような俳優だから、
ボンドに感情移入できなかったのだろう、というようなことをいうところだ。
ボンド役なんか誰だって素晴らしいと思ってやりませんよ。
たんにお金になるからやっているので。
クレイグだって、べつに途中降板したわけではないだろう。 James Bond and The Queen London 2012 Performance
クレイグは、映画の外でもボンドを演じた唯一のボンド俳優ですよ。
歴代ボンド俳優のなかでは、最も役になり切っていたともいえる。 『トゥームレイダー』(Lara Croft: Tomb Raider)は2001年に制作されたアドベンチャー・アクション映画。同名のコンピュータゲームの映画化。
クレイグは、この映画にもでている。
おバカなゲームの映画化作品に出るような「やつだから」、「007」に出ても何らふしぎはないだろう。 そもそもそのころのクレイグは作品選り好みできる立場じゃねーだろw 蓮實先生はやはり007シリーズもハリーポッターシリーズもゴジラシリーズも男はつらいよシリーズもしっかり全部見てらっしゃるのかな? 結構見てたはず。
駒場のゼミでは最近見た映画の感想を言わせて的確にコメントしてたような。ハリウッドの娯楽映画は前提知識としてある程度見てて当然みたいな感じだった。 蓮實先生トラック野郎や極道の妻たちは当然コンプリートしてるだろうけど釣りバカ日誌やビーバップハイスクールもコンプリートしてるんだろうか?:(;゙゚'ω゚'): 「蓮實 彼(ドゥルーズ)は20世紀の両対戦間からその終わりまでに至って哲学は負けたと思っているのは明らかです。何に負けたかというと、実はゴダールではなくて、ジャン・ルノワールに負けている。ジャン・ルノワールが、風の潜在性からこれを顕在化することをやってしまっている、と。」
(『批評空間』1996U−9 共同討議「ドゥルーズと哲学」
「可能的なもの possible は、リアル réel に対立する。可能なもののプロセスは、「実現化 réalisation」である。
反対に、潜在的なもの virtuel は、リアル réel に対立しない。それ自体で充溢したリアリティpleine réalité を持っている。潜在的なもののプロセスは、「現勢化 actualisation」 である。」
(ドゥルーズ『差異と反復』) [写真の美学的な潜在能力 virtualité は、現実を顕わにする力にある。濡れた歩道の
その照り返しや、とある子供のその身振り、そうしたものを外部世界の布地の中か
ら見分ける作業は私 の影響を受けることがない。レンズの非感情だけが対象か
ら習慣や先入観を、私の知覚がそれによって対象を包み込んでいた垢をまるごと
取り除き、私の注意に、ゆえに私の愛情に対象を穢れなきままに取り戻させてく
れる]
(アンドレ・バザン「映画とは何か」) 何かの時に岸和田少年愚連隊の話をしててびっくりした記憶が。 原作者である木内さんが撮ったビーバップは傑作だったな 浅田はSFやミステリーもよく読むみたいだしえっ!?っていうような映画もいっぱい見てるし人文系の読書から政治ニュースから美術、音楽鑑賞から韓流ポップまでどういう時間の使い方してんだろ
毎日一日フル稼働で何かやってそうだなあ いまだに浅田なんかを有難がってるやついるんだな
昭和に生きてんの? 活動休止を宣言した「BTS」はジャニーズとここが違う《田中康夫・浅田彰》
「憂国呆談」第3回【Part5】
https://gendai.media/articles/-/99125?page=3
映画『ドライブ・マイ・カー』がつまらない理由
浅田 その日本の映画はますます自閉的になってきた感じ。いま言った濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』(2021)がアカデミー国際長編映画賞をとったけど、あの映画を観て本当に面白いと思える人がいるとは信じられない。
振り返ってみれば、前に同じ賞をとったのは滝田洋二郎監督の『おくりびと』(2009年)で、東京のオーケストラをクビになった音楽家が地元で納棺師になる映画。辛気くさくどこか説教臭いところが共通する。
たんにつまんないんだけど、そういう日本映画をあえて観るのが「意識の高い」知的観客だっていうような下らない思い込みをもつ欧米人がけっこういて、そういう映画がモントリオール映画祭で受賞したりするんだな。で、その評価が日本に逆輸入され、これまた「意識高い系」が喜ぶ、と。
原作が村上春樹の短篇(例によってつまんない)ってのもあざといマーケティング戦略だし、広島の演劇祭を主要な舞台にするとか、そこには韓国人スタッフや彼の耳の聞こえない妻もいるとか、キャストがその耳の聞こえない女性を含むアジア諸国出身の多国籍チームであるとか、
「意識高い系」の喜びそうなポリティカリー・コレクトな要素がいっぱいだし……演劇祭に招かれ自分の赤いサーブ900ターボで乗りつけた演出家が、前にゲストが交通事故を起こしたことがあるんでドライヴァー(女性)をつけるから自分では運転しないよう言われるんだけど、
彼女が演出家を海辺のゴミ処理工場(広島市環境局中工場)に連れて行くのはまあいいとして、谷口吉生の設計したその建物を貫く空洞が、平和記念公園の資料館本館(1955年)から原爆ドームを望む師・丹下健三の軸線の延長線上にあるっていうよく知られた事実を、やたらと説明的な台詞で教える、それでもううんざりするわけ。 浅田 資料館ができて数年後に撮られたアラン・レネ監督の名作『ヒロシマ・モナムール(邦題「二十四時間の情事」)』(1959年)で、資料館を日本人建築家とフランス人女優の情事の場となるホテルでもあるかのように見せ、
「私はヒロシマですべてを見た、すべてを」「君は何も見ていない、何も」というやりとり(台本はマルグリット・デュラス)だけですべてを語らせる、映画ってのはそういうものでしょう?
浅田 しかも、退屈で見てられない演劇のリハーサル・シーンがえんえん続いたあげく、ある事情で上演を中止するかどうか2日で決めなきゃいけないって土壇場で演出家が女性ドライヴァーの運転するクルマで広島から北海道に行くんだからね。そんな無茶なことをするやつはいないし、万一いるとしても、そういうやつなら代行運転システムなんか拒否するでしょう。
とにかく、「人は最も近い他者のことも本当には理解できない、そのことを知りながら共に生きていくほかない」って、そんな凡庸きわまる人生論のお説教に3時間も付き合わされるとは!
ぼくは東京藝術大学と韓国国立映画アカデミーの共同製作による『THE DEPTHS』(2010)で濱口を知り、けっこう面白いと思った。韓国人男性カメラマンと日本人男性モデルの話で、羽田と都心を結ぶ高速道路を走るクルマやモノレール(だったかな?)が行き交う描写はとくによかった。
新作でも赤いサーブの走るシーンは素晴らしい。ところが、人間が出てきてドラマが始まると、もう辛気くさくてどうしようもない。実は、濱口作品は『THE DEPTHS』以後だんだんつまんなくなって観るのをやめてたんだけど、とことんつまんなくなりきったところでアカデミー賞をとったってわけだ。
濱口竜介は黒沢清監督の『スパイの妻』(2020)の脚本ですでに注目されてた。戦争時代の話で、当時の新劇によくあるわざとらしい台詞で組み立てられた作り事の世界、つまり悪く言えば歴史的リアリティが全然ないんだけど、黒沢ってのは基本的にパロディの人なんで、むしろ作り事っぽいところがけっこう面白くなってる。
しかし、それでまともな心理劇を撮ろうとしても、悪い意味で作り事っぽくなっちゃうだけなんだよ。短編集『偶然と想像』(2021)で、同窓会帰りの女性が同級生じゃない女性と同級生を演ずることになる短篇なんかは、まあ面白い。でも、それで長篇映画を撮るのは無理。 ダニエル・クレイグの最高傑作はこれだろう。
『カウボーイ & エイリアン』(原題: Cowboys & Aliens)は、2011年のアメリカ映画。2006年発売のグラフィックノベル『カウボーイ & エイリアン』の実写映画化作品 ゾディアック以降のフィンチャーを評価するか否かは大きな問題だよな
もちろん俺は肯定派だけどこのスレのシネフィルおじさま方は古そうだから否定しそう 吉本隆明が他界した際に蓮實が追悼文書いてたのはなんだったんだろ
吉本隆明が生きてる時は柄谷行人らと猛批判してたのに
まあ吉本隆明も埴谷雄高と大ゲンカしておきながら没後は誉めたりしてるけどさ [いまや潜在的なものこそ、絶対に確実な存在様態を定義する。持続とは潜在的なものである。…たしかに潜在的なものは、それ自体としては作用しないものの様態である。なぜならそれは自ら分化することによって、自己の本源の姿を幾分かはとどめながらも、自己そのものであることを止めることによってだけ、作用することになるだろうからである。]
(ベルクソン「意識に直接与えられているものについての試論」〉 唐突にベルクソンの引用コピペって哲学かじり始めたばかりの中学生がこのスレにいるのかな? 「蓮實 彼(ドゥルーズ)は20世紀の両対戦間からその終わりまでに至って哲学は負けたと思っているのは明らかです。何に負けたかというと、実はゴダールではなくて、ジャン・ルノワールに負けている。ジャン・ルノワールが、風の潜在性からこれを顕在化することをやってしまっている、と。」
(『批評空間』1996U−9 共同討議「ドゥルーズと哲学」
「可能的なもの possible は、リアル réel に対立する。可能なもののプロセスは、「実現化 réalisation」である。
反対に、潜在的なもの virtuel は、リアル réel に対立しない。それ自体で充溢したリアリティpleine réalité を持っている。潜在的なもののプロセスは、「現勢化 actualisation」 である。」
(ドゥルーズ『差異と反復』)
「アンリ・ベルクソン 映画について語る」
ミシェル・ジョルジュ=ミシェルにょるインタビュー
ベルクソン 記憶はシネマトグラフのような一連のイマージュなのです。不動なもの,それは中性的状態にあります。運動すること,それは生
命そのものです。それで,生命は運動であると結論づけることができましょうし,あるいはすでにそう結論づけられたのです。光や音の本
質は振動 vibrationではないでしょうか。生きている眼はシネマトグラフではないでしょうか。
[いまや潜在的なものこそ、絶対に確実な存在様態を定義する。持続とは潜在的なものである。…たしかに潜在的なものは、それ自体としては作用しないものの様態である。なぜならそれは自ら分化することによって、自己の本源の姿を幾分かはとどめながらも、自己そのものであることを止めることによってだけ、作用することになるだろうからである。]
(ベルクソン「意識に直接与えられているものについての試論」〉 >>797
≫哲学は映画に負けたそれもゴダールじゃなくルノワール(ごとき)にみたいに言ったり、
≫映画の物語批判なんて絶対やらなかったり所詮映画は馬鹿なものだという前提は蓮實にはある ドゥルーズの「シネマ」では,ベルクソンがその著書において、
映画(をみる)体験に関し、それを「意識に直接与えられているもの」すなわち「運動」だとはせず、
たんなるスナップショットの連続にすぎないといわんばかりだったとが批判されている。
だが、ベルクソンは、上記引用のインタビューでは、映画体験は「運動」であり、
それはみる者にたいし「直接与えられているもの」だとしているようなのだ。 >>825
谷口吉生の広島市環境局中工場のようなゴミ処理工場こそ、彼と同年代の丹下門下建築家のメタボリズムを根底的に捉えていたのではないか?
メタボリズムはむしろ、排泄の問題から始めるということを
谷口は考えていた。工場の長い空洞は消化器や呼吸器の管を思わせる。
浅田が映画「ドライブ・マイ・カー」で気に入らなかったのは、主体性の回避という点で、それが感傷的かフェミニズムへの媚びであることも
去りながら、何よりも浅田の逃走に村上映画がすり寄ったように見えたからでは?
だが、逃走といえば、むしろレヴィナスの逃走が先にあるような。
村上映画のフェミニズムが余り進歩的なフェミニズムでない所が、ネオリベラリズム的フェミニズムの性自認主義など過剰な主体性主張への
批評になってる気もする。 浅田彰「新国立競技場問題をめぐって」
「私は建築の専門家ではありませんが、伯父・浅田孝が1950〜60年代に丹下健三の右腕だったこともあり、(中略)
建築についてはいつも興味をもって見てきました。」
浅田彰は、親族の中でこの伯父にたいする敬愛の念が、もっとも強いように思われる。
もしかすると子供のころ、伯父のように建築家になりたかったいったことがあって、
なにかをを論じるさいに、本筋ではないにもかかわらず、
建築に対する変なこだわりが出て、あれこれ言ってしまうのではないか。 [工場の長い空洞は消化器や呼吸器の管を思わせる]
浅田彰はいつも、建築物の形ばかりを気にして、
その性能をみない。
ゴミ処理工場なんていうのは、とくに性能が重要で、ほんらい形なんてものは二の次なのだ。 実務経験が無いから性能なんか語ったらボロが出てしまう
すぐにわかることを重要なことであるかのように語るのは恥ずかしい 公共建築物をあたかも建築家の「作品」であるかのように勘違いして、
建築家の芸術家意識や
浅田彰のような「フォルム」ばかり気にするような知識人の自己満足のために
余計な金をかけるのは、やめたほうがいいだろう。
そういうことは公益にかかわりのない私企業や個人が自腹をきってやらせればよいだけのことだ。 >>819
アンドレ・バザンは、スナップショットを「潜在的なもの (virtuel )」だと言っているようだ。
これはロラン・バルトの「明るい部屋」などとおなじ見方だだろう。
しかし、ベルクソン、そしてドゥルーズも、ただのスナップショットには「運動」がなく、
それでは「潜在的なもの」だとはいえないと考えていないようである。
蓮實重彦はどちらに近いのだろうか。
蓮實重彦のいう「ショット」というのは、意識に直接与えられるものとしての
運動する画像を指しているのか。 >>843
あなたが書きこんでよいのだろうから、
「書きこまない方がいい」ような人はいないだろう。 ベルクソンやドゥルーズの「潜在的なもの」というのは、
とりあえす自己差異的な静的ではない動的な「構造」と理解すればいいだろう。 >>838
浅田孝も設立メンバーだった「メタボリズムグループ」の提唱するメタボリズム(新陳代謝)というのは、
社会変化や人口増加などに歩調を合わせて有機的に成長する都市や建築物の設計を目指す、ということで、
いわばセミ・ラティス的なものの設計を意図するということだろうから、建物の形を有機体の器官などに似せようとかということは、
本来はその趣旨に関係ないのではないか。
それとも、形だけ有機体津ぽくてそれでおしまい、
みたいなものが多かったというようなことがあったのだろうか。 >>849
両者の「潜在的なもの」が孕む時間の質が異なるから無意味な議論 >>845
全く皮肉になっていない
本当に頭が悪い >>841の指摘を黙殺している時点で君の頭が悪いことは確定している
優位に立とうとしても無駄 いずれにせよ1日に11もレスするような人間にはなりたくないね 病気といえば昔バルダミュ?とかいうキチガイおったよな ジョンフォード見に行ったら館内の加齢臭がヤバかった ゴダールが亡くなったそうで残念でなりません。『右側に気をつけろ』は特に好きな映画でした。 存命してた地上最後の神が死んだ
あとはピンチョンとたけしくらいか あ、御前〈ムスィユー〉も😅
大江、ソレルス、ホウ・シャオ-シェンもいる
まだだ
まだ人類は滅びんよ 名前に「God(神)」が入ってる人だから‥(ポツリ)
小津の「誕生日と命日が同じ」どころじゃないんだよね‥ ゴダールは毛沢東礼讃の過去にケジメをつけたのかな?
この人の映画は、知的な饒舌で政治的錯誤を誤魔化しているとしか思えないのだが。 思いっきし勘違いしてるけど
そういうんじゃないから
君は映画全般、というか芸術全般を鑑賞するのに向いてない
政治学や政治思想史、社会学、統計学、人口学、都市整備学、民族学、民俗学、文化人類学、哲学、文芸批評、精神医学、精神分析などへドゾ
これらから零れ落ちるものが芸術 つか何日か前に、というかいつも「ゴダール死んだらどうすんだべな~」と考えていたから不思議と驚きはない “その齢” で “解って” ないんじゃ学び直すのはもう無理だ
芸術方面は諦めろ ゴダールは共産礼賛の落とし前をつけずに逝ったな
中期ゴダールのせいで何人の若者が死んだんだ ゴダールなんかよりもイーストウッドが死んだときの方が想像するだけど背筋が凍る ≫ゴダールなんかよりもイーストウッドが死んだときの方が想像するだけど背筋が凍る
両方とも無縁な人だろう。
イーストウッドとゴルフ場ですれ違ったことがあるとか、
そんなことすらないだろうに、「背筋が凍る」のはずいぶんかわっている。 蓮實はクリント・イーストウッドが好きというよりも、その向こうにある30〜50年代のハリウッド映画が好きなのではないか? ≫ポーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
ところで、これはどういうことなの。 ゴダール監督の母方祖父はBNPパリバ創業者の一人である。
というわけで、ゴダール監督は、田中淳という固定ハンドルネームの方とは、
おそらく縁遠い人なわけですよ。
エリザベス二世の死を「祖母が亡くなったようだ」と言って嘆いているイギリスの下層民と
似たような心境ということだろう。 >>863-864
なんで柄谷を含めないかというと、柄谷は本質的には理系の人であって、作品から「意味」を抽出することには凄腕を発揮するけど、ゲージュツの人ではないと思ってるので
本人も「芸術」になんか興味ないでしょう
この人にとって「作品」とは自分にとって必要な「意味」を抽出するためのサンプルです >>881
このスレは君も含め政治学にしか興味のない人が多いね
さっきの人もそうだけど
俺は「作品」にしか興味がないんだよ
「作者」の「思想」とか「通ってるゴルフ場」とか「家族と属する階級」とかには関心がない イーストウッドなんてゴダールと較べたらヘタクソ過ぎるウンコ💩だなあ
同じ土俵に上がることすら出来ない
俺は日本でイーストウッドが過大評価されてるのが御前〈ムスィユー〉が犯した最大の誤謬だと思ってるんで 自分とは無縁な有名人の話が好きなのではないの。
では「作品」について何か書きこんでください。 >>880
ポーーーーーーーーー!(マイコー語: このヴィデオはスコセッシ監督だよ)
https://youtu.be/dsUXAEzaC3Q >>884
これは昔からこのスレで僕が言ってるよね
僕は君たちが理解できない「作品」ついての話を君たちの前で披瀝するつもりはないよ
徒労だからね
ポウ! >>883
自己レス
このスレは政治学にしか興味がない人ばかり
作品を感受するセンスがある人がいない
これが改まらない限り僕はこのスレに定住しない
これも昔から僕は言ってるよね >>884
全くもって同感です。イーストウッドに対する蓮實の異常とも言える肩入れは、理解を超えています。 僕はマオイストであろうと、ゴルフ愛好家ではろうと、ブルジョワ階級出身であろうと、被差別部落出身であろうと、その人が本物の才能の持ち主である限り、
「裸の作品」をぶつけてきてくれると信じているロマンティストなもので >>890
このことに関しては日本で意見の一致を見る人が異常に少ないと思われるので、賛同してもらえるのは嬉しいですね じゃ今日はこのへんで!
また数ヶ月後に!
チャオ! 追伸
イーストウッドなら、まだはるかにスピルバーグが上だなあ
スピルバーグは、なめてはいけない映画作家ですよ
とくにカミンスキーと組んで以後は凄みを大幅に増した
イーストウッドももっと良いディレクター・オブ・フォトグラフィに恵まれてれば…、と思わぬことはない
そうすれば「ヘタクソ」なんて誹りは受けないのに(僕が言ってるだけですが) 田中淳という固定ハンドルネームの人物に誰も関心がないだろう。
たんなる異常者が迷惑行為をしているということで嫌悪感を抱いているだけで。
だから「僕は―」「〜でー」とか言われても、しょうがないのだ。
≫また数ヶ月後に!
そのように宣言しても、ちょっ中書きこんでいるようだから、
今度こそは、ほんとうにそうしてちょうだい。 >>898
>ちょっ中書きこんでいるようだから、
???
名無しでは書き込んでないよ
名無しで俺のような切れ味のあるレスがあるのならお得意の引っ張ってくるのをどうぞ
自分のレスの近辺以外のレスも読んでない
5ちゃんねるのような広大な “海” で、「誰それが誰それ認定」なんてそれこそ狂気じみた行為はみっともないからよしたがいい
渋谷の上空から空き缶を投げて当たった人を探すようなものだ おめえはいつまでもその作者がどういう階級の出身でどこのゴルフ場に通ってるか語ってりゃいい 俺はもっと頭のいい人たちと「作品」について語り合う
ここじゃないけど つか俺はお前の言ってることに全部答えるのにお前は何一つ答えず逃げるだけだな
①神は死んだ。残るは大江とピンチョンと御前〈ムスィユー〉とホウ・シャオ-シェンとたけしなど
②ゴダールは小津より上
③芸術作品は思想や諸学問から零れ落ちる
④常日頃からゴダールについて考えていた
⑤芸術を理解する技術を身につけるには年齢制限がある
⑥柄谷にゲージツは理解できないし本人にそのつもりもない
⑦昔から言ってるがこのスレは政治学と派閥とポジションの話ばかり
⑧イーストウッドは過大評価。良い撮影監督と組んでいない
⑨御前〈ムスィユー〉のイーストウッドに対する高評価は疑問
⑨マイコーの曲 "Bad" 。彼が用いるアド-リブ「ポー!」や「ポウ!」などについて
⑩君たちには「作品の話」は理解できないし、君たちは日頃からその訓練をしていない
⑪君たちがもう少し向上してくれないとこのスレは僕が定住するに値しない
⑫思想や出身階級に関わらず真の才能を持つ作者の作品は常に「裸」である
⑬スピルバーグとカミンスキーは素晴らしい。トム・スターンは駄目
⑭5ちゃんねるのレスAとレスBの書き手を同定するのは不可能に近い
ざっと俺のレスからエッセンスを抽出するとほんの数分頭を捻っただけでお前の数十倍の情報量と情報価値がある
が、お前はこれらになんらかの返答をする能力が著しく欠けている >>906
一行ヴォキャ貧レスで抵抗
小学生低学年レヴェル
3/100点 じゃ、あちらこちらの板で “ヤンチャ” してるんでこのスレばかり構ってられないから
またNe! ゴダールとイーストウッドは死なない人の代表に思ってた 蓮實御大からのコメント
映画評論家の蓮實重彦さんは「10回ぐらい会っていて、私が唯一けんかのしがいのある映画人だった。長い時間をかけず、反射的にものを考える人だった。その結果、即興的な『勝手にしやがれ』のような映画ができたのだろう」と評した。 ゴダールなんてスピルバーグの足元にも及ばんよ
一番売れた映画の興収いくつだよ? >>907
なぜジャック・N・グリーンから、トム・スターンに代えたのか。なぜそのあとずっと彼にキャメラを任せたのか。私には謎。トム・スターンが蓮實の言うショットが撮れるとはとても思えない。イーストウッドを過大評価だと思う理由は、それだけではないが。 朝日新聞にゴダール追悼文
三宅唱とジョン・フォードに関する映像作品を作っているそうだ 日本のオタクが世界の映画監督に対して肩を並べるような態度を取るのは変だね
60年前に実際に映画を撮り始めた人とアカデミズムを選んだ人じゃモノが違うでしょ 具体的な映画や小説などの「作品」の話をせず、「作者」を有名人/タレントと見立ててその作者の政治的立場と派閥の話に終始して延々と同じ話をループしてる取り巻き〈グルーピー〉体質の人しかいないこのスレに価値なし
「毛沢東主義ガーー」とか言ってるネトウヨQアノンも居ついちゃってるし
もう終わってるスレ
たけしおじさんと俺がいた頃はもう少しましだった >>916
それこそ、イーストウッドがスピルバーグからカミンスキーを貸してもらえば大幅に良くなるんだけどな >>920
これはほかのレスを一切読まず想像で書いたレスだから気にしないように 『随想』読むとロメールが亡くなった時も相当ショックみたいだったから、ましてゴダールが亡くなったとなると、心中察して余りあります。 >>863-864
柄谷とジジェクもいるか
しかしゴダールが突出していてそれ以外のオリンポスの神々は格落ちと言わざるを得ない
ゴダールが主神ゼウスである
このリストは随時アップデイトしていきたい
よろしくお願いします これ↑を書きに来た
じゃあね by おニャン子クラブ 1970年代からネオリベラリズム映画批評が始まったというが、俺は蓮實をネオリベ映画批評家の
一人ではないかと、少し前から疑っていたんだが。 >>921
画に関しては確かにそうかもしれないが。イーストウッドは根本的に心象風景の映像化が下手(あるいは出来ない)、脚本の表面をただなぞっているような淡白な映像化。最初は頑張るがすぐに平凡、ありきたりになるキャメラワーク(例えば『ブラッド・ワーク』)など映画監督して足りないものが幾つもあると思う。イーストウッドを評価するとしたら中条省平が言うように、アメリカ映画史を自分なりに(かなりひどいものだが)再生しようとしたことだけである。 心象風景の映像化が下手w
誰がアメリカ映画に心象風景の映像化など求めているのか
さすがに的外れだろう 『マディソン郡の橋』でイーストウッド本人が一生懸命にやろうとしてたではないか。全然成功してなかったけど。まあ観る方は少なくても、イーストウッドには求めてないか。 『マディソン郡の橋』て
あれはイーストウッド最大の失敗作
映画としてどうこう以前にジジイとブスの画ヅラが汚すぎる
人物の醜さが風景にまで波及してしまっている
あれを「良」としてしまう人の審美眼はどうしようもない
ブスでもいいんだが、男のほうをもう少し若くしとかないと映画として成立しない イーストウッドが『マディソン郡の橋』で失敗したことが全て成功してるのが『ペイルライダー』
イーストウッドもまだ若くイケメンで相手の女優も見れる面相で画ヅラがきれい
>>932
それら全部含めて成功している数少ない作品が『ペイルライダー』
「心象風景」というのも、牧師さんを幽霊〈ゴースト〉とすることで成功している
理由は不明だがイーストウッド作品としては珍しくショットも撮れている ちなみにだが、ほぼ『ペイルライダー』の焼き直しと言っていい『許されざる者』も悪くはない作品
やはりイーストウッドは本質的に “西部劇の人” なのか?
死ぬ前にもう一作撮ってもらって “三部作” の完結を見たい気持ちはある >>930
>ネオリベラリズム映画批評
>俺は蓮實をネオリベ映画批評家の一人ではないかと、少し前から疑っていた
また政治的派閥の話しかしない人
つまらんな~(「すべらんな~」のイントネイションで) >>935
1行ガヤを入れるだけのクソ雑魚名無し
(かつてヴァラエティ・テレヴィ番組で用いられた)笑い屋のオバサンかよ
つまらんな~(「すべらんな~」のイントネイションで) 最近ちょっとこのスレに興味が復活してきたんでたまに寄るかも
その折りはよろしくお願いします🤲🥺 >>934
あ、ごめんw
下のほうちゃんと読んでなかったw
君もあれは批判的に捉えてるのねw
メンゴメンゴw あと、予(あらかじ)め言っておく
つか、言ったことなかったっけ?
俺はすっかりすでに言ったことだと思ってたんだが某板で周知されてなかった
予(よ)は、統合失調症である(キッパリ)
ニーチェの言う “病者の光学” として余はそれを否定的に捉えてはいない
否(いな)、余は、余をヘルダーリンとニーチェとアルトーの後継者と自認している ゴダールと青山が同じ年に死ぬなんて
映画にとって
なんて年だ! by バイきんぐ小峠英二
だよなあ 井の中で満足しきってる蛙やのう
居心地良さそうで何より 蓮實先生が日本の防衛意識の欠如を嘆いておられますなあ
昔は土井たか子を賞賛していたのにw >>937
『ペイルライダー』は数少ないイーストウッドの監督した中で好きな作品。ただ『許されざる者』は、それほどでもない。不満なところは幾つかあるが、一つ挙げると最後の銃撃戦。ありふれたカットをつないでいるばかりで、映画的なカタルシスを感じない。 蓮實が褒めてたギヨームブラックの女っ気なしを初めて見たけど言うほどか?
ロメールを感じなくもないしつまらなくもないけど絶賛するほどかね~ 言語化も可能だろうけど、見てきた映画によって培われる感覚的な評価もあるでしょうね
俺は初見で傑作だと思ったが、そう思わない君みたいな人もいるというだけのことだ
住む世界が違うということでしかないので、無理に理解しようとすることもない 先に言っておく
次スレを立てる奴、共有の議論スレの>>1にコテ入れるようなキミノワリイ、ダセエ真似すんなよ 今日び精神疾患の一つや二つ抱えてなきゃまともな物書きにはなれねえよ
しかしヘルダーリンとニーチェとアルトーと同等の才能を持つ者は今時の商業ベイスのメディアには受け入れられない
5ちゃんねるに書くか、民明書房から本を出すしかない
それに俺は、十分に狂っていない
俺の文章は、リーダブル過ぎる
俺は待っている
齢を取り、十分に狂い、「錯乱の次元への転位」(セリーヌ)が可能となるのを、待っている
ペイ! >>956
まあ、イーストウッドはかなりアヴェレイジが低い映画作家なので『許されざる者』はかなり頑張った傑作ですけどね
最後の銃撃戦は数的有利を覆して勝利する論理的な根拠も欠いているので賛否あるかと思います
ショットの連鎖によって説得力を獲得しているわけでもないですし
それはたけしの『ソナチネ』の最後の銃撃戦も同じですが、御前〈ムスィユー〉がこの二つを並べて絶讚(?)していたのは印象に残ってます しかもあのイーストウッドは病み上がりでヘロヘロの状態だったし
でもやっぱグワ~~ンとわけもわからなく勝利して脅迫のセリフを吐きながら去っていくところはグッときていまう >>958
『許されざる者』のことを言っているのかい? ハスミってあの傑作スカーフェイスも物体Xも理解できなかった懐古ジジイのスレか?
今や町山のほうが影響力あるしハスミのスレなんていらねーだろ 町山と比較されても。しかもその根拠が、デ・パルマやカーペンターでは。 ちなみに、セリーヌその人はきわめて文節化された人であって、全然錯乱してない(と思う) 病み上がりでヘロヘロな人が撃った弾(たま)が当たってたまるか!
しかもあんなたくさんの的(まと)に ダミアンマニヴェルの若き詩人を見る
これもハスミンが褒めてたけどうーん…
この映画だけの問題ではないが、この手の作品で悩ましいのがどうしても主人公の独り言が多くなること
キャメラはいいだけにホンがもったいない感ある ゴダールを最も勘違いして受容してしまったのが渋谷系の連中 蓮實重彦は淀川長治の死後に淀川はゴダールのことは分かっていなかったと思うとはっきり書いてたな 一方で「薔薇の名前」を「あれは要するに雨月物語だもんね、だったら溝口の方がいいに決まってるよ」 と評した淀川の見方には感服してた ビクトル・エリセが新作を撮るということだ。蓮實の評が楽しみだ。 蓮實は地上波の番組持ってから淀川のことを批判しろ
「負けてる」ぞ 映画の前後に蓮實重彦が解説で現れるなんとか映画劇場見たくねえw
でも来週の予告前の決めゼリフなんなのかは気になる
「ブラウン管の翳りのなかに皆さんは何を見つけましたか?」
みたいな アリだね
地上波ではそういうコーナーが設けられる余地がもうないけど、
WOWOWとか映画チャンネルとかでやれば需要あるんじゃないの?
晩年はマスコット的に愛されてもいいんじゃないか
そこから新たに蓮實の映画批評を読む人たちも出てくるかもしれない いわゆるロードショー映画を蓮實で挟んで語らせるのは見たい 期待するも楽しみにするも似たような意味だろう
英語ならどっちもexpectだ
自分だけの厳密さに固執するアスペならではの返答 >>978
30年ぶりか
最初の「ミツバチのささやき」をロードショーで見たとき
ドライヤーの「奇跡」を想起したな
ヴェンダース「パリ、テキサス」とエリセが1985年のわがベスト2 >>985
全然違うだろう。両方ともexpectで済ませてしまう英語力のなさも致命的だが、その前に日本語の勉強から始める事を強く勧める。 >>987
わっ、ツッコミやすいレス!
じゃあ楽しみにすると期待するの両方を英語で言い表してみて
お前には簡単だろう おっ、みんなに問題出されて幸せ者だなあ
映画のタイトル挙げて素晴らしいと言ってれば自己満に浸れるんだから幸せな人生だよね >>991
お前、本当に馬鹿だな。もう終わろとしているこのスレを汚すな。とっとと消えろ。 ハイ、逃げたーw
気持ちの良い逃げっぷりでしたねw
「終わろとしている」
逃げる前に日本語の勉強から始める事を強く勧める
www >>990
『ジャズシンガー』の話でもしましょうか。無知で馬鹿な>>993は抜きで。 意訳されたものを英語に直してみなと問われているのに
『ジャズシンガー』の話でもしましょうwww
アスペはどこまでいってもアスペすなあwww 映画のタイトルを挙げて私も分かってますよアピールするのが精いっぱい
こんなもんAIと変わらんねw
AIに失礼かw
日本語力も英語力もID:OhvGOTOSよりすでに上だろう
人類の最下層にいるアスペとAIならAIの方が有能なんだね 使い道のない知識だけ溜め込んで、5chに居場所を見つける無能が多いこと
これも時代の被害者なのかな… 小銭をわずかに溜め込んでカツカツの暮らしを送っている人と同様のメンタリティでしょうね
本人は金持ってるつもりでも周りから見たらみすぼらしいだけ 蓮實ブランドの周りをうろついているだけの語学力皆無のアスペ語録
「期待はしないが、楽しみではある。」
「もう終わろとしている」
恥知らずですねwww このスレッドは1000を超えました。
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