バルトは、写真にひそむ「第三の意味」(言語化不可能なもの )が、
「反物語そのもの」なのだと言っていたようである。
われらが蓮實重彦にとっては、映画の映像における「第三の意味」が、
「反物語そのもの」ということなのだろう。
その場合、映画における音声は問題にされず、ことにセリフなどはもちろん度外視、
ということなのではないか。