【日本的スノビズムの】蓮實重彦5【法王】
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730 吾輩は名無しである[] 2021/01/31(日) 21:07:44.89 ID:drGtoE/r
日本的スノビズムの法王
733 吾輩は名無しである[] 2021/01/31(日) 22:29:05.18 ID:P159AI3e
≫日本的スノビズムの法王
これは、否定的評価でありながら、どうじに、なにかしら敬意も感じさせて、たいへんよい。
前スレ
【日本的スノビズムの】蓮實重彦4【法王】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1616747515/
過去スレ
【ばふりばふり】蓮實重彦 X+3【120度】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1562762562/
【翳りの歴史のために】蓮實重彦2【仮死の祭典】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1611357116/ >>256
「洋行帰り」に大きな意味を持たせた恥ずかしい時代があったということだね しかし、制作サイドに「通人」が全然いなくなったせいで、
日本では、まともな「コスチュームプレイ」が、まず作れない状態になっている。
かといって、アメリカ的にやろうとしても、陳腐なだけだ。
結局、マンガ的にやるしかやりようがなくなっている。
これは問題です。
文学では、昭和初期が舞台とはいえいちおう「コスチュームプレイ」ではある
「伯爵夫人」、それが唯一の近年のまともな作品ですよ。 「意は似せやすく、姿は似せ難し」から一歩も踏み出していない認識を披露なさっていて、蓮實の「凡庸」とはこういうことを言うのだなと思った。 日本ではウルトラマンや仮面ライダー
海の向こうではディズニーがセックス・ピストルズ
世界的にそういう時代なんだろう
Pistol | Official Trailer | FX
https://youtube.com/watch?v=9KhxwG0eCiE 脱構築も弁証法も
日本の組織人の手にかかると
大抵は足して2で割るになっちゃう 今の歌は歌の本意にあらずとて
古来質朴に体に読まむとするは
却て歌の本意を失ふなり
本居宣長にしても、歌体すなわち「姿」を
時代に合わせて変ることを否定しているものではない。 「姿ハ似セガタク意ハ似セ易シ、然レバ姿詞ノ髣髴タルマデ似センニハ、モトヨリ意ヲ似セン事ハ何ゾカタカラン、コレラノ難易ヲモエワキマヘヌ人ノ、イカデカ似ルト似ヌトヲワキマヘン、試ニ予ガヨメル万葉風ノ歌ヲ万葉歌ノ中へ、ヒソカニマジヘテ見センニ、此再評者決シテ弁ズル事アタハジ、是ヲ名ヲ顕ハシテ、コレハ予ガ歌コレハ万葉歌ナリト云テ見セタラバ、必予ガ歌似セ物ナリト云ベシ」(宣長全集・2-512) 来月『ジョン・フォード論』刊行
『「暗夜行路」論』も書いてほしいな ここ数年でパタパタッと出た各シン装版と
視るレッスン、ショットとは何か、フォード論の印税で
老後の資金も安泰だろ
もう勘弁してやれ 荷風は明治大正ではちょっとばかし時代遅れ気味だった吉原遊郭より当時最先端の待合での芸者遊び
昭和に入ると銀座のカフェー、玉の井の銘酒屋、浅草のレビュー館通いと昭和モダニズムを満喫している
花柳界が伝統芸能化を意識するのは昭和モダニズムに押されて
戦後は浅草ストリップ通いと風俗に関しては新し物好きなんだよな
最先端に若くて魅力的な女が集まるってこともあるんだろうがw
長生きしてたらキャバクラやブルセラ援交やメイドカフェに興味持ったに決まってる
そんな荷風を敬慕した谷崎は素人の健康的な女が好きだったのでどこか不潔な性風俗の女には惑溺しなかった
蓮實先生には想像の戦前より実地に体験した戦後の性を描いてほしかった 永井荷風の場合は、とくに新しもの好きなのではなく、
だんだん経済的に余裕がなくなってきて、
あまり金のかからない遊び方に移行しただけだろう。 荷風に限らず明治大正の作家が昭和初期に円本で多大な印税を手にしたのを知らないのか? 「断腸亭」の経済学―荷風文学の収支決算
吉野俊彦
これには、大正末には、経済的にいき詰っていた書いてあるそうだ。 余裕がしょうじたのは、昭和9年ころからではないの。 「断腸亭」の経済学―荷風文学の収支決算
吉野俊彦
↑についてのアマゾンの書評から
「荷風の家の収支状況を丹念にまとめてあります。文学・荷風・戦前の経済の研究者には参考になる内容です。荷風の作品論は一切無く、あくまで彼の日記から読み取れる社会経済、彼自身の台所事情、そして彼の人となりの話です。」 同じ遊ぶのでも、待合とカフェーでは、金のかかり方が、一桁近く違う。 新橋の芸妓・八重次(のちの藤蔭静枝)を入籍
この八重次をひかせたのだとしたら、莫大な金がかかっただろうから、
高い女には懲りた、ということだと思う。 おいおい荷風が昭和の初めに芸者のお歌さんを身請けして囲って待合まで持たせてやってたのも知らないのか?
そんなマニアックな情報でもねーぞw 永井荷風の場合、財閥の親類や1000町歩地主の家の人というのではないのだから、
親の残した財産なんか知れているだろう。
それが、放蕩し浪費をつづければ、相続財産は、すぐにつかいきってしまうだろう。
大正末ごろに経済的にいき詰っていたというのは、そういうことではないの。
何年かのちには、そこそこ印税が入るようになって、経済的に一息ついたんではないの、
荷風の日記を読んだことがないので、あくまでも推測だが。
また、八重次とお歌では、芸者としてのランクがまるで違うだろう。ピンキリなんですから。
ならば金のかかり方も当然違う。
それから、カフェ―の女給にカフェーをださせてやったというのではないのだろうから、
とくに新しもの好きというわけでもないのではないの。
好みが変わったのではなく、たんに、女のランクが下がっただけだろう。 [荷風は生れながらにして生家の多少の名誉と小金を持つてゐた人であつた。]
坂口安吾によれば、荷風の家は、多少の名誉と小金があるということにすぎないのだから、
それが正しいとすれば、お大尽みたいな遊蕩生活は長く続けられるわけがない。 もとより権力者ではないし、また、大金持ちには程遠くても、
そこそこ坊ちゃんの若くてインテリの文士なら(ことに歌舞伎座の座付き作家だし)、それなりの女といい仲になることもできただろうが、
おっさんになればなるほど、どんどんモテなくなるから、そういうわけにもいかなくなる。
結局、分相応に、高級なところから中級のところへ、そして、さらに低級なところへと、女漁りの漁場をかえただけのことだろう。 断腸亭日乗
大正十四年
正月十五日。午前兜町片岡といふ仲買の店を訪ひ、主人に面会して東京電燈会社の株百株ほどを買ふ。去年三菱銀行の貯金壱万円を越へたれば利殖のため株を買ふことになしたるなり。仲買片岡は磊落なる相場師肌の男にて、余の小説を愛読せり。かつて築地僑居のころ相識りしなり。夜木曜会新年句会。
大正末の一万円は現在価格で幾らでしょ?
そもそも荷風はランティエで金銭感覚はまとも
働いたり文筆で稼がないと生活出来ない境遇になることを最も恐れたから遊ぶにしても谷崎みたいに無計画な使い方はしない
しかも昭和初期には円本ブームで巨額の印税収入で最も羽振りがいい頃
詳しいことは知らんが現在価格で数千万円らしい
谷崎は豪邸新築したり散財しまくるわ所得税滞納するわであっという間に使い切ったらしいが荷風はそんな馬鹿なことはしない ▼大正10年頃の1円は現在の何円に相当するのか。また、この当時の10万円はどのくらいの金額になるか知りたい。
回答
国立国会図書館のリサーチナビ「過去の貨幣価値の調べ方」についての記事を参照。
企業物価指数、消費者物価指数を使って比較するのが一般的であるが、このうち企業物価指数を元に算出した。
●企業物価指数(戦前基準指数)
大正10年→1.296
平成29年(2017年)→687.8
687.8÷1.296=約530.7倍となる。
これを10万円に当てはめると、約5,307万円となる。
また、『値段史年表 明治・大正・昭和』(朝日新聞社 1985)のうち、大正10年に近い年代の値段が掲載されているものを抽出した。
●金
大正14年→1円73銭
平成30年→4,827円(いずれも年間最高価格)
1円≒約2,790円
これを10万円に当てはめると、約2億7,900万円となる。
●公務員初任給(国家公務員 大学卒 総合職)
大正7年→70円
平成30年→181,200円
1円≒約2,589円
これを10万円に当てはめると、約2億5,890万円となる。
●航空旅客運賃(日本航空 東京-大阪間 大人普通片道運賃)
大正13年→35円
平成31年→27,600円
1円≒約789円
これを10万円に当てはめると、約7,890万円となる。
「物やサービスの種類によって価格の上昇率がまちまちなので、お金の価値を単純に比較することは困難(日本銀行HPより)」とあるように、比較するものによって計算結果が異なり、一概にいくらとは答えられないため、あくまでも参考値とした上で回答した。 ≫現在価格で数千万円
現在、数千万円で、どのくらいお茶屋遊びができるんです。
よくて1〜2年でしょう。 さあ今は一回行くと最低20万はみないといけないらしいがあれだけ東京中に待合があった時代はピンキリじゃね? 八重次クラスはピンだろう。
それに昔のほうが(貨幣価値の違いを考慮すれば)高いんですよ。
いまは、キャバクラとか安いところとの競争があるし、
観光客のたぐいも客にしなければならないので、
安くなっているのです。 永井荷風は、ただ行くだけでなく、
付き合うところまで求めているのでしょう。
その手の女に、大金をつかわないでもモテるのは、若いうちだけですよ。 蓮實は以前、1950年代映画作家論の本を書いてるとか言ってなかったっけ? 遂にボヴァリー夫人論に続きジョン・フォード論を完成させたから次はブヴァールとペキュシェ論書くか秘本・草枕を撮って水野晴郎化するか シェディングの影響か、左の金玉が痛むので、
ゴダールの「左側に気をつけろ」と思ったら、
タイトルは「右側に気をつけろ」だった!、役に立たん。
痛いよ!!! フォード論の次はもしかしたら大江健三郎論かもしれない もう映画論はいらない
日本文学を論じてくれ
古井由吉論でも構わない 蓮實は志賀直哉や谷崎潤一郎や大江健三郎みたいな愚鈍な作家が好きなんだろうけど本人はあえてどちらかというと聡明な永井荷風タイプなんだから荷風論でも書けばいいのでは
おかめ笹なんていいんでないの >>296
その3人とも蓮實同様東大出身
お前は高卒かFランク大卒だろ
愚鈍呼ばわりする資格はないぞ 愚鈍
夏目漱石、志賀直哉、谷崎潤一郎、中野重治、大江健三郎、柄谷行人
凡庸
森鴎外、永井荷風、芥川龍之介、小林秀雄、三島由紀夫、中上健次、村上春樹、蓮實重彦、浅田彰 愚鈍って笠智衆のような在り方っていう褒め言葉か
で、それは漱石の「牛になる事はどうしても必要です。われわれはとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです。」とどう違うの? 蓮實スレにデカデカと表示される
エヴァンゲリオンの配信の広告…
これぞホストモダン的状況といえよう 初期はデリダの知性よりバタイユのほうが凄いって言ってたね
志賀直哉は気違いで凄いとか 蓮実先生の言うショットの撮れる監督に、山田尚子は入らないのかな? まあアニメは見ないだろうけど。 bugs grooove
@BugsGroove
· Feb 2, 2018
蓮實重彦とアニメといえば、カリオストロかナウシカのどっちかを年間ベストテンに入れてたよね。
長谷正人
@mtokijirou
·
Feb 3, 2018
Replying to
@BugsGroove
朝日新聞の今年のベスト5でナウシカを入れてました。当時はアニメは映画とさえ見なされてなかったので私は衝撃でした。
bugs grooove
@BugsGroove
·
Feb 3, 2018
当時はまだ宮崎駿ブランドなんて無かったですからね。蓮實重彦がナウシカを評価したのはエコロジー思想などではなく、活劇としての水準の高さとキャラクター造形にあったのだろうとは想像できます。クロトワとか、いかにも気に入りそうですし。 クリント・イーストウッドに対する異常な評価の高さはなんなんだろう。どう見てもショットが撮れる監督ではないし、トム・スターンのキャメラも凡庸だと思うのたが。きっと凡人の私には気づかない何かがあるのでしょう(映画板行くか)。 俺は
ミスティックリバー
ブロンコビリー
ブラッドワーク
かなあ 306だけど、
ダーティーハリー4
ペイルライダー
ミリオンダラー・ベイビー なるほど!ダーティーハリー4は見たことないけど(>_<) 『ミスティック・リバー』は力と気合いの入った演出なんだが、いかんせんお話が。映画はマキノが言うように、スジ・ヌケ・ドウサだと思っている私には、蓮實の言うシナリオなんてどうでもいい、ショットが全てというのは同意できないのよ。それに繰り返しになるけど、イーストウッドがショット撮れる監督とは思えないし。 >>295
『新潮』での二人の対談は読んだ? ウェブマガジン『考える人』に転載されていて、私はそっちで読んだけど、蓮實の古井論は是非読んでみたいね。 50年代までの古き良きハリウッドの正統な後継者にして最後の者であり本人の古典的スター性も含め郷愁を誘う存在故に・・・
センチメンタルアドベンチャーやペイルライダーは好きだしガントレットなんかも好きだなあw >>313
読んだよ
確かあの対談で古井論を用意していると蓮實は言っていた
『仮往生伝試文』がやたら高く評価されているが、さほどの出来ではないとのこと
『辻』を高く評価していることと合わせ、同感だ 俳優、監督のキャリアを通じて
ハリウッド映画の歴史を体現しているのが
イーストウッドの固有性でしょう
監督作にしても
ミュージカルやスプラッタのようなホラーを除けば
ほぼジャンルを網羅してる
これは中条省平が著書で指摘してることですが
スピルバーグと組んだのは
製作と監督・主演としてジョイントした
マディソン郡の橋くらいでしたかね
これも意外といえば意外です
自分はホワイトハンター・ブラックハートと
真夜中のサバナが好きですねえ >>316
あんたの選んだのは最悪の2本w
イーストウッドの才能は「センチメンタル・アドベンチャー」で燃え尽きましたわ
もともとアカデミー賞とかいうガラじゃないんだよね >>316
中条のその本は私も読んだけど、彼はイーストウッドの映画自体はそんなに好きでは
ないような気がしたが。アメリカ映画史に彼が果たした功績は評価してはいるが、映
映画監督としては決して彼の好みではないと思う。
何回も書いて悪いが、蓮實のいうショットが取れる監督と、イーストウッドは
どうしても結びつかない。 >>317
すいません、ちょうどホワイトハンター…の頃から
イーストウッド監督作を見始めた若輩なものでw
ミスティック・リバーが高評ですが
自分はソープオペラだと思ってしまったんですね
それだったらハイソサエティの退廃を描写した
サバナも立派な一作じゃないかとw
イーストウッド版ツイン・ピークスですよね
>>318
中条氏の著作からはイーストウッド作品の分裂
自助努力の精神とゆきすぎた自警団主義との間で
揺れ動いているという指摘に刺激を受けました
アベンジャーズって西部劇の代行なんですね
コスプレ、暴力による問題の解決、
「ひょっとして自分たちって嫌われてるんじゃないか?」
というアメリカ人の内省…等々
駄文失礼いたしました 世評に高い『許されざる者』も、『ミスティック・リバー』も私はダメなんですね。特に『許されざる者』については、蓮實は語る事も憚られ傑作とか、反復する顔があるとか、最大級の3時だがよく分からない。私は基本蓮實信者だが、イーストウッドについての見方にはシンパシーを感じることが出来ない。 英語ネイティブの友達に「許されざる者」の話をしたら「Unforgiven!? タイトルがダサすぎる😂」って言ってたな。 まあ、イーストウッドはそういういなたい感じを狙ったんだろうけれども。 戦後における初代ジョン・ウエイン、二代目チャールトン・ヘストン、三代目クリント・イーストウッド、
時代を代表する大スターの共和党員でリバタリアン+プロガンのシンボル。
アメリカ生まれの白人のプロテスタントで身長190センチ以上、演じた役柄の多くはタフな人物、
こういう共通点がある。
外国生まれのシュワルツェネッガーやイタリア系+ユダヤ系のスタローンは、
四代目にはなりえない。 ジャネットさんはそう言うけれども、対面で鑑賞量でマウント取られたら瞬殺されるよ😂 イーストウッド監督主演作品は、ほとんどいいでしょうが、
やたらと評価が高い「許されざる者」は、むしろ凡作の部類だと思うよ。
同じ時代が舞台のものでは、「アウトロー」のほうがずっといいと思う。
「許されざる者」よりは、割と最近の「運び屋」のほうがいいだろう。 許されざる者は
ハリウッドという業界内では事件だったのでしょう
男根主義の権化のようだったイーストウッドが
飼育する豚を制御できなかったり
馬にまたがるのに息をゼーゼーいわせたり…
スクリーンに老醜をさらす姿が賞賛を浴び
アカデミー賞の名誉につながったのでしょう
その後30年も現役を続けるとは
だれも予想できなかったかもしれないですね 「許されざる者」といえば、翻案され日本映画としてリメイクされたわけですが、
わたしとしては、どういうことでそういう無謀な企画が通ってしまうのか、
それはまったく理解しかねるものです。
だいたい、元作よりも良いものになるはずがない、
どころか、陳腐になるに決まっているのです。企画の段階で、
おかしいんではないか、という人が誰かいないのでしょうか。
西部劇の翻案ということならば、どうせなら映画化されていないアメリカの小説でよさそうなのを探して、
それを日本を舞台にしてやろうというようにならないものでしょうか。
むかしならば、そういう発想の仕方をしただろうと思います。
たとえば、「天国と地獄」は、(現代ものですが)原作はアメリカの小説でした。 >>328
イーストウッドが黒澤明のリメイクをやってるから逆をやりたかったのでは? 逆をやっても、映画制作力の水準が違っていて、それは逆転しないんだから、
しょうがないでしょう。
宝塚の「風と共に去りぬ」みたいな「マンガ」的翻案にしかなりようがないでしょう。 蓮實は日本版『許されざる者』については、何か言っているの? そもそも監督の李については、どういう評価なの? 「こんな映画を好きになる奴は下品で馬鹿!? 許せない!」(町山)
https://wezz-y.com/archives/52352/3/amp
ある意味映画ファンとして健全だよな
蓮實もエリック・ロメールがベッケルより中平康を評価してこいつ殺すって思ったみたいだし
映画ファンにとって好きな映画褒める評論家は良い評論家で腐す奴はぶっ殺すみたいな
蓮實信者は好きな映画を蓮實が批判したら自己批判だもの 蓮實なんて結局いろいろ屁理屈言っても政治や社会とか面倒くさいこと全部カッコに入れて美に耽りましょってことにしかならないもの >>335
生臭い仕事をしている人ほど美に耽りたくなるんだよ
石原慎太郎が芥川賞の選考で作品を真剣に読むというのはそういうことでしょ >>334
数十年前、ベッケルの「肉体の冠」を日仏学院に見に行ったら、
蓮實がいたけど、巨体だったな 「L.A. Times」
「今こそ、オレンジ郡の空港からジョン・ウェインの名を消すべきだ」 「本当に情けない時代だ。みんな過剰に慎重になってる。俺が育った時代なら、トランプの発言が人種差別的だなんて言われなかっただろう」
(クリント・イーストウッド談) 反人種差別で「ジョン・ウェイン空港」も改称か、トランプ氏が反撃
2020年6月30日 15:00 発信地:ロサンゼルス/米国 各国の公立のフィルムライブラリーの類は、
ウェイン、ヘストン、イーストウッドらの主演映画を保存すべきではない。 ジョン・ウェインは蓮實が一番好きな俳優だろ
それはともかくちくまの連載でつまんないこと書くんだったら日本映画界のハラスメントの問題について発言すりゃいいのに
もちろん蓮實の責任でもなんでもないがあえて日本映画界の重鎮としてなんか書けばいいのにね 「ジョン・フォードと『投げること』完結編」
蓮實重彦
【21世紀に入り、映画の歴史が110年ほど過ぎたところで、何が明らかになってきたかと言うと、人類は「運動」が好きではないということにほかなりません。当然のことながら、モーション・ピクチャー、すなわち「運動する映像」である映画を人類が好きであるはずがない。では、なぜ人類が好きであるはずもない映画をあきずに見に行くかと言うと、映画を、そのモーションではなく、「運動」とは異なる何か動かないものとして語ることが好きだからということになります。実際、人類社会において、運動はいたるところで動かぬものに置き換えられしまう。そうすることが、映画に対する人類の優位だと勘違いされているのです。
たとえば、ジョン・フォードの場合、その作品を語るとき、「反動的」あるいは「保守的」という言葉がしばしば使われ、さまざまなイデオロギーに彼の作家的な活動の総体が組み入れられてしまう。客観性を装った「ハリウッドの古典的な映画作家」という呼び方さえ、「運動」を好まない人類の嗜好にふさわしいものなのです。そこで私は、もっとも単純な運動の一つ、物を手に取って投げるという身ぶりをジョン・フォードがどのように描いているのか逐一見てみたいと思ったわけです。】 【「反動的」あるいは「保守的」という言葉がしばしば使われ、さまざまなイデオロギーに彼の作家的な活動の総体が組み入れられてしまう。】
わたしとしては、「国民の創生」「風と共に去りぬ」でも、むろん「駅馬車」でも、
反動主義的、人種差別主義的などという一言でもって、葬ってしまうということには反対だが、
直観主義的な鑑賞のみをよしとして、そういう面をまるで気にしないのも問題だと思う。 [物体が現象として意識されるのは、運動感覚[キネステーゼ]としてで、
作動している身体性、あるいはここでは固有の活動性と習慣性において作
動している自我とともにである。身体はまったく無比な仕方で、たえずま
ったく直接的に知覚野のうちにある」
(フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)
蓮實重彦の思考の下地は「知覚の現象学」あたりを経由したフッサール哲学なのではないか、
と思った(もしかして、お前今頃やっとわかったのか、といわれるようなことなのかもしれないが) 蓮實はヘーゲル嫌いだよね。
ヘーゲル的な世界精神を否定する芸術哲学といえばショーペンハウアー。
「意志と表象としての世界」と「魂の唯物論的な擁護」には何か関係ありそうな気がするんだよなあ。
意志=魂、表象=作品、と単純化すればの話だが。 蓮實重彦にとって、映画をみることは、「運動」なのではないか。
それは体を動かさない「運動」だから(運動しているつもりになっているだけかもしれないが)、
いたって省エネ的でものぐさな知識人向けだといえる。 >>348
嫌いというのは無視できない、馬鹿にできない、ということ 【「ヘーゲルに従えば、事物は自己との差異を生ずるが、それはまず自己ではない一切のものとの間に差異を生ずるからであり、かくて差異は矛盾にまで行く。・・『具体的な現実であって2つの反対の見方を取り得ず、従って2つの対立概念に包摂され得ないようなものはほとんど存在しない』(ベルクソン『形而上学入門』)
…ベルクソンが〔ヘーゲルの〕矛盾の弁証法に寄せる異議は、単に抽象的な差異の概念に留まっているということにある。『矛盾する組合せは程度の多様性も形態の様々なことも示し得ない。それは存在するかしないかのどちらかだ。』(同)程度もニュアンスも伴わぬものは抽象でしかなく、それゆえ、ヘーゲルの矛盾の弁証法は差異そのものを欠いている】
(ドゥルーズ「ベルクソンにおける差異の概念」) ↑のヘーゲル哲学への批判が、本当のところ当たっているのかはずれているのかわからないが、
蓮實先生としては、時流に合わせてこの批判の線でいこう、ということだったのではないでしょうか。 イーストウッドの映画はムダに長い。90分の美学を語る蓮實は、どう思っているのだろう。 そんな長いっけ?青山真治のユリイカはどうなるのだろうか? >>354
『ユリイカ』は長さを感じさせなかったが、イーストウッドは物理的な時間より長く感じる。その分、映画的な密度が落ちる時がある。例えば『スペース・カーボーイ』。 映画としての出来は別として、『マディソン郡の橋』を挙げておく。稚拙だが心象風景と心理状態を映像化しようと頑張ったところ。それでも単純なカットバックの繰り返しには疲れたが。フランスの監督なら100倍うまくやる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています