太宰治と志賀直哉について
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太宰治と志賀直哉についてです。
太宰治と志賀直哉はそれぞれ、どのような考え方や価値観をもってお互いを批判したのですか?
また、『斜陽』(太宰治)は画家のユトリロとどのような関係があるですか? 太宰の心中とかしょうもないとおもうぞ。その辺だろ。時代考証。
スウプってのはいい響きだが。 ノーマルランニングとかもつまらない綺麗でない。文学的に。 光源の色覚異常妄想で滑走とかのほうが。心中も撃ち合いとか。複雑に絡めて。 まあ文学コミュニティーで閉鎖的にやってるのもどうか。 小説家なら小学校中退ぐらいだこの二人。漱石も芥川もそんなもん。 だから文学版としてのそれた話題はリスクヘッジリテラシー。 まあ小学校卒業しか公開しないたかられるしとかじゃない上の。 レクチャーはしますよ年上女性には特に。小説しか書いたことないとか読んだことないとか
でも大丈夫。 文学というからにはテクストに特殊効果がなくちゃいけない。
小説は読み物に過ぎない。 魔術のようなね。そういうのはギルドや学歴などで身に付きます。 遺伝子よりどう生きたかというほうが大事で評価もされます。 ちなみに三島由紀夫もどちらかというと法文書か小説で文学ではありません。 教養がないからといって下のレベル下の値打ちのモノではいけない。 志賀直哉は、生きている文が書けない。彼の書いたものはただの文字の羅列であり、何も伝わってくるものがない。
太宰治、坂口安吾、あたりの随筆の文と比較すると、実によくわかる。 イエスもストリントベリーも自分が私生児であることに悩み苦しんでいた。
志賀直哉はどうか。志賀直哉の出生の詳細は知らぬが、もしイエスやストリントベリーのように私生児であることに悩み果てるような繊細な精神の持ち主であれば、暗夜行路のような図々しい自己肯定感に満ち溢れた作文は書けまい。志賀直哉の幸福は悩みが無かったことであり、そしてその悩みが無かったことが、志賀直哉の限界であり不幸であった。 暗夜行路とか、あきらか漱石の彼岸過迄のパクリってか二番煎じにすらなってない
文章もヘタクソだしキャラもありふれてつまらんし考察は浅いし
褒めるとこがなにひとつない 太宰も愚物だけど志賀よりはまあマシかな
ユーモアもいくらか持ち合わせてたし愚物なりに筋は通ってた
志賀には作品にしても生き様にしても魅力がなにひとつない このスレでは、志賀直哉の評判はさんざんだな
おれは、高校のころ、すごく志賀直哉(あと渡辺淳一の医療物)が好きで読んだんだけどなあ
前に三田誠広が、志賀直哉の面白さが分かるのは中年ぐらいになってから、とかいうようなことを
本で書いてたんだが、そんな認識だから三田は三流の小説家なんだわなと妙に納得した 女中を孕ませて堕胎させたり祖父の遺産で吉原に頻繁に通ったり芸者遊びしたり気に入った女をしつこくストーカーしたり
作家以前にやってることが俗悪すぎる
ただのエロジジイだわな あれだけ糞みそに志賀をこき下ろして、
仮に太宰が死なずに活動してたら気まずくないのかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています