林檎の赤のように上気した頬。水中に沈めた黒真珠のように潤んだ瞳。チワワのように震える小さな体躯。
 その思いが真っ直ぐ向けられているのは自分なわけで。
 部内一可愛いと言われるマネージャーが、今まさに想いを告げようとしている。
 思わず生唾を飲み込む。頭の中に沸き起こる思いは一つだけ。――こんな日がくるとは思わなかった。

 洗面所でバシャバシャと顔を洗う。首を一つ振って水滴を飛ばすと、視線を持ち上げて鏡に映る自分の姿を見やる。
 ああ、あらぬ方向に跳ねてるなあ。首の付け根までしか伸びてない襟足を撫でつける。
 これは直さねばなるまいと、皿のようにした手を蛇口から流れる水にさらす。そうして、掬い取った水ごと再び襟足を撫でつける。
 ぼとぼとと零れる水滴。っとと、床を濡らしちゃ不味い。ママンに怒られてしまう。急いでタオルを手に取ると、濡らした襟足に押し当てた。
 うし、他に寝癖は……なしっと! 満足げに頷く。そしてごしごしと顔もタオルで拭いてやると、洗面所での身支度はお終いだ。
 要した時間は一分に満たないと思う。友人たちからは『司の朝の準備早すぎ』とよくからかわれる。
 性分だから仕方ないでしょうが。そうボヤキながら自分の部屋に戻る。カッターに架けられている制服に手を掛ける。
 まずは上から。てきぱきとボタンをしめていく。下も速やかに。ふわっと履く。
 床に転がした学生鞄。それを手に取る前に……机の上のリップクリームを取る。乾燥肌なもので。これはかかせない。
 オシャレらしいオシャレと言えばこれくらいのもの。うーん、それともこれはオシャレに含まれない? どうなのだろう?
 小首を傾げながら鞄を手に取ると、玄関へと足を運ぶ。靴紐を緩めることなく、そのままスニーカーに足を突っ込んでしまう。
「行ってきます」
 そんな挨拶をして、玄関扉を開ける。飛ぶように一歩目を踏み出した。たたたた、とタッパの大きさを活かして、大きなスライドで歩いていく。
 前を歩く小柄な女子をすぐに追い抜いた。下級生かな? なんとも初々しく学校指定の革靴を履いているではないか。
 上級生にもなると、面倒な革靴を履いてくる人種は絶滅危惧種に近い。少なくとも、自分含め運動部に所属する人間の中には皆無だ。
 勢いそのままに校門をくぐり、下駄箱へと一直線。自分の下駄箱を開ける。パタンと閉めた。
 ううん? 二度三度目を瞬く。そうしてもう一度開ける。そこにあったのは上履きと、その上にそっとのせられた可愛らしい便箋だ。
 面食らったのは一瞬。すぐに、ははあと得心する。悪戯だ。我がバレー部には、こんな性もない悪戯をする愛すべきバカどもが多数いる。
 さりげなく周囲を窺う。ドッキリに動揺している様を盗み見ようとしている不届き者がどこにいるか分かったものじゃない。
 ……おかしい。見つからない。はてと、頭に疑問符を浮かべる。そして、もう手掛かりはこのラブレターもどきだけだと、中身に目を通していく。
 すぐにバカどもの悪戯でないと悟る。連中がこんなにも流麗な、それでいてどこか可愛らしい文字を書けるわけない。
 そこに記されたのは、一昔前の少女漫画に出てくるような文面。最後に放課後に体育館裏に来てほしい旨と、差出人の名前が記されていた。
 その名前は、中条愛。バスケ部一の可愛さで知られるマネージャー。小動物系女子である。
 あの子がどうして? 頭がくらくらする心地になる。と、とりあえず、放課後に体育館裏だ。そこで本人に問い質すしか……。

 キンコンカンコーン。定番中の定番の鐘の音が鳴る。鞄をひっ掴むと、ダッと勢い良く駆け出す。
「うぇ!? どったの、司?」
「トイレ!!」
 もっと別の言い訳はなかったのかと我ながら思わなくはないが、そんなことはどうでもいい。今はもっと重要なことがある。
 駆け足で体育館裏へ。ハアハアと息を吐く。……まだいない?
「先輩……」
 鈴を転がしたような声音に、ばっと振り向く。そこには、あのラブレターの差出人である愛の姿があった。
「突然呼び出してごめんなさい! でも、私、私……!」
林檎の赤のように上気した頬。水中に沈めた黒真珠のように潤んだ瞳。チワワのように震える小さな体躯。小さな口から絞り出すような声が出る。
「司先輩のことが好きなんです!!」
「冗談……だよね?」
 そんな往生際の悪い言葉を零れ落としてしまう。でも分かってる。愛が冗談を言っているわけじゃないって。だけど……! 私、女だよ!
 男勝りで、ガサツだけどさ。でも、れっきとした女子なのですよ! 
 まさか、まさか、可愛らしい同性の後輩から告白されるなんて。こんな日がくるとは思わなかった。