私は額の汗を拭った。この坂を登るのにあれから5年の月日が必要だった。彼女を忘れる事をやめ、人生の一部と考えられるようになるまで。あんなに恐れていた場所にこれほど胸躍る気持ちで登っているのが不思議だ。ユリとはこの地方都市で出会った。
 駅前できょろきょろしているあからさまな獲物だった。白いつば広帽子とワンピースにバッグ一つ。お上りさんには見えない。むしろ洗練された容姿は逆にお下りさんといった風情だった。声をかけると電車で一人で来たのだと自慢げに言っていた。
 彼女の口癖は教えてください。その言葉通り彼女はおよそ常識というものを身につけていなかった。実は家出をしてきて今夜泊まる所もないのだという。守備よく部屋に連れ込んだものの何か幼い少女のような雰囲気に手を出せずにいた。お金は持ってないが
通帳ならある、とはいえ使い方を知らないと言うので銀行にに付いていってやった。通帳の残高をちらりと見て驚いた。カンマが4つも見えたのだ。とりあえず10万ほど下ろすように言うと、出てきた札を見て大はしゃぎした。こんなに沢山の1万円札は
初めて見たと。普段使っているのはカードだが、使うと居場所がばれるとスパイ映画で見たそうだ。俺の中の黒いものが頭をもたげた。お礼にご飯を作ると買い物に出たはいいが、メロンに目が移り、購入しようとして財布が無い事に気づいたと。これは
筋金入りのお嬢だと思った。教えてください。その言葉に乗せられ掃除や洗濯や料理、買い物を教えているうちに、要領の悪いユりにめんどうになり全て俺がしてやった。これも少しの我慢だと。ところが、何でも知っている剛士さんが好き。そう言って
無防備に縋ってくるユリに妙な感情が芽生えてきたのは1ヶ月ほど経った頃だ。初めての夜、ガチガチの体に目を堅く瞑って俺に身をゆだねるユリ。案の定シーツは赤く染まった。私は剛士さんのものだよね?。そう頻繁に聞いてくるユリに自然に
そうだよ、と答えるようになるまでそう時間はかからなかった。そうして半年ほど経ったある日、嬉しそうに買ってきてたのは百合の球根だった。ユリが百合を買ってきた!と高らかに宣言する彼女にくだらなすぎて吹き出した。俺が教えてやった海の見える
この神社とその前に広がる草原。なだらかな下り坂が海に続くように見えるここはユリのお気に入りだった。だからここに2人で植えた。しかしそんな幸せは長くは続かなかった。ある日突然ユリは倒れた。運ばれた病院から実家に連絡が行き、家族が
強引に連れ帰ってしまった。彼女は家族の態度から不治の病を予感して、最後に籠の鳥のような人生から逃げ出したかったのだ。それで俺のようなロクデナシに掴まったという顛末だ。俺はユリに会う事は許されなかった。家族は俺の事を調べ上げていた。
 さぞ顔を顰めた事だろう。俺は失意の中であの百合を見に行こうとしたが、草原を見て愕然とした。腰ほどまでに伸びきった草に覆われそれを氏子達が除草作業中だった。このあたりに百合が生えているはずとの訴えに氏子は顔を顰め、わかるわけねえべと
ニベもなかった。しかし後日再度昇ってみると、綺麗に刈られた広大な草原の端っこに5本ほど泡立草のような草が生えている。それは数日後見事な白い百合の花を咲かせていた。それからすぐだった。ユリから遺書が届いたのは。それには俺との生活の中で
発見したとりとめのない事がつらつらと書き記してあった。そして最後に騙してごめんなさい最後のバカンスにつき合わせてごめんなさい。愛してる。なんという事だ。世間知らずの女を騙すつもりが俺が騙されていたなんて。それ以来俺は生きる気力を
失った。もう彼女の事は忘れたかったがそれができなくて灰色の人生を淡々とこなしていた。しかしよく考えるとユリに出会うまでは自堕落だった生活は規則正しかった。運送業につき、虚無感を仕事にぶつけているうちに生きる気力も蘇ってきた。そして
見つけた小さな幸せ。新しく入った天然ボケの事務員は仕事が出来なかった。激高する先輩事務員にまあまあと庇っているうちに惚れられたようだ。仕事ができる進藤さんが羨ましい。その目で思い出した。俺が変わるきっかけをくれた女。忘れなくても
いいんだ。彼女は俺の人生の一部だ。俺は頂上について草原を見下ろして驚いた。白い百合の絨毯が海へと続いている。「ユリ、祝福してくれてるんだよな」と涙が滲んだ。すると背後で声がした。「剛士さん?」聞き覚えのある声に驚いて振り返ると
白いつば広帽子にワンピース。愕然とした。「探したのよ、どこにいたの!?」「ユ……リ」「私病気に勝ったよ!」こんな日が来るとは思わなかった。そして現在、俺の部屋で火花を散らす女2人に挟まれて頭を抱え、のたうちまわっている。